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人形姫は月に謳う  作者: 櫻木サヱ


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1/1

鍵のない部屋

古都ルナリエには、夜が長い。


昼間は石畳の通りを人々が行き交い、花屋の店先には色とりどりの花が並び、広場では子どもたちが走り回っている。


けれど、日が沈むと街は急に静かになる。


街灯に火が灯り、古い建物の窓から暖かな光が漏れ始めるころには、人々はそれぞれの家へ帰っていく。


そして街の北側。


森に近い丘の上には、一軒の大きな屋敷が建っていた。


ベルナール邸。


かつては多くの使用人を抱えていた名家の屋敷だったが、今ではそこに住む者は一人しかいない。


エリシア・ベルナール。


十七歳の少女だった。


「……寒い」


エリシアは暖炉の前で膝を抱えた。


外では風が吹いている。


古い窓ガラスが、ときどき小さく震えていた。


暖炉の炎はぱちぱちと音を立てている。


その音を聞いていると、少しだけ安心する。


この屋敷は広すぎる。


一人で暮らすには、本当に広すぎる。


廊下は長い。


部屋は多い。


使っていない客間も、物置も、書庫もある。


そして二階には――


エリシアが一度も入ったことのない部屋がある。


母が生きていた頃から、そこだけは立ち入りを禁じられていた。


『エリシア。二階の奥には行かないでね』


幼い頃、母はいつもそう言っていた。


理由を尋ねると、決まって同じ答えだった。


『古い人形が置いてあるから』


それだけ。


だからエリシアは、二階の奥には近づかなかった。


母が亡くなった今も。


「……お母さん」


エリシアは暖炉の上に飾られた写真を見た。


そこには、優しく微笑む母が写っている。


もう三週間になる。


母がいなくなってから。


葬儀を終え、親戚との話も終わり、屋敷に戻ってきた。


最初の数日は、誰かが隣の部屋にいるような気がした。


廊下を歩けば母の声が聞こえる気がした。


朝になれば「おはよう」と言ってくれる気がした。


でも、何日経っても母は戻ってこなかった。


「……寂しいな」


小さく呟いた。


返事はない。


当然だった。


エリシアは読んでいた本を閉じた。


時刻は午後十一時半。


「そろそろ寝ようかな」


立ち上がった、そのときだった。


カツン。


「……?」


何かが落ちたような音がした。


エリシアは振り返った。


暖炉の火は変わらず燃えている。


テーブルの上にも、床にも、何も落ちていない。


「気のせい……?」


そう思って歩き出す。


カツン。


今度ははっきり聞こえた。


二階。


エリシアは階段を見上げた。


「……また?」


以前から、ときどき聞こえていた。


夜になると二階から音がする。


誰かが歩いているような音。


物を動かしているような音。


時には、かすかな歌声まで。


母に聞いたことがある。


『夜に二階から音がするんだけど』


そう言ったとき、母は少しだけ困ったような顔をした。


『古い屋敷だから、いろんな音がするのよ』


そのときは、それで納得した。


けれど今は――


「……誰もいないのに」


エリシアは階段を見つめた。


行きたくない。


本当に行きたくない。


でも、気になって仕方がない。


結局。


「見るだけ」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


階段を上がる。


ギシ。


ギシ。


足を乗せるたびに、古い木が鳴った。


二階は一階より暗い。


廊下の途中にあるランプへ火を灯す。


ぼんやりとした明かりが、長い廊下を照らした。


絵画。


古い家具。


閉じられた扉。


そして、一番奥。


あの部屋。


エリシアは足を止めた。


「……」


扉はいつもと同じだった。


黒っぽい木製の扉。


装飾もほとんどない。


けれど。


今日は一つだけ違っていた。


扉の前に、白い花びらが落ちている。


一枚。


二枚。


三枚。


エリシアはしゃがみ込んだ。


「……薔薇?」


白い薔薇の花びらだった。


けれど、この屋敷の庭に白い薔薇はない。


そもそも今は、薔薇が咲く季節でもない。


エリシアは花びらを拾った。


「なんで……」


その瞬間。


扉の向こうから音がした。


トン。


「……!」


エリシアは立ち上がった。


もう一度。


トン。


まるで、誰かが内側から扉を叩いている。


「……誰?」


返事はない。


エリシアは扉に耳を近づけた。


静かだった。


さっきの音が嘘だったかのように。


「……」


帰ろう。


そう思った。


けれど。


そのとき。


足元で何かが光った。


エリシアは視線を落とした。


扉の脇。


暗い床の上に、銀色のものが落ちている。


鍵だった。


「鍵……?」


拾い上げる。


ずいぶん古い。


持ち手には薔薇の装飾があり、その中央には小さな赤い石が埋め込まれている。


そして。


その鍵を握った瞬間。


胸の奥が、どくん、と鳴った。


「……え?」


心臓が一度だけ、大きく跳ねた。


頭の中に、知らない声が響いた。


――待っていた。


エリシアは息を止めた。


「……誰?」


もちろん返事はない。


けれど、鍵を持つ手が微かに震えていた。


扉を見る。


鍵穴など、どこにもない。


「これ……使えないじゃん」


少しだけ笑った。


自分でも変な気分だった。


怖がっていたのに、突然おかしくなってしまった。


鍵をしまおうとした。


その瞬間。


カチッ。


「……え?」


扉に、鍵穴が現れた。


何もなかった木の扉。


そこに突然、銀色の鍵穴が浮かび上がっている。


エリシアは固まった。


「……嘘」


一歩下がる。


鍵を見る。


扉を見る。


もう一度、鍵を見る。


「……これ、開けるの?」


当然、誰も答えない。


それでも。


不思議と、怖くなかった。


むしろ――


開けなければならない。


そんな気がした。


エリシアは鍵を差し込んだ。


カチリ。


簡単に回った。


ギィィィ……。


扉が開く。


中から、冷たい空気が流れ出してきた。


そして。


甘い香りがした。


薔薇。


それも、一輪や二輪ではない。


まるで部屋中が薔薇で満たされているような香り。


エリシアは恐る恐る中へ入った。


蝋燭を灯す。


ぼんやりと部屋が明るくなる。


「……わあ」


思わず声が出た。


そこは、人形の部屋だった。


壁沿いに無数の棚が並び、その一つ一つに人形が置かれている。


小さな人形。


大きな人形。


男の子の姿をしたもの。


女の子の姿をしたもの。


天使のような羽を持つもの。


騎士の格好をしたもの。


どれも精巧だった。


まるで、本当に生きている人間を小さくしたような人形ばかり。


「こんな部屋……あったんだ」


母は一度も見せてくれなかった。


部屋の奥には、さらに大きな扉がある。


その前に、古い机が置かれていた。


机の上には一冊の本。


エリシアは近づいた。


表紙には何も書かれていない。


開いてみる。


最初のページに、たった一行だけ文字があった。


『人形姫の記録』


「……人形姫?」


ページをめくる。


そこには名前が並んでいた。


アデライード。


ミレイユ。


コレット。


ヴィオラ。


リゼット。


クラリス。


ノエル。


ローザ。


セレネ。


フィオナ。


十人。


エリシアは眉を寄せた。


「……十人も?」


けれど、その下には空白があった。


名前を書くためのような、妙な余白。


そこだけ、何度も何度も消された跡がある。


エリシアが指で触れた。


すると。


本の奥から、カタン、と音がした。


「え?」


振り向く。


部屋の中央。


そこには、大きなガラスケースがあった。


エリシアは近づいた。


ケースの中には、一人の少女が眠っていた。


銀色の髪。


白い肌。


深い赤色のドレス。


胸元には、一輪の薔薇。


「……人形?」


近くで見ても、人形には見えなかった。


まつ毛も。


指先も。


唇も。


あまりにも自然だった。


エリシアはガラスケースに手を触れた。


冷たい。


「あなたが……アデライード?」


胸元の薔薇を見る。


けれど。


次の瞬間。


少女の指が動いた。


「……っ」


エリシアは飛び退いた。


見間違い。


そう思った。


けれど。


少女の指が、もう一度動く。


そして。


ゆっくりと目が開いた。


深い紅色の瞳。


少女はエリシアを見つめた。


数秒。


何も言わない。


やがて。


「……遅かったわ」


「え?」


少女は身体を起こした。


銀色の髪が肩から滑り落ちる。


「ずっと待っていたのに」


「……あなた、人形……だよね?」


少女は少しだけ眉を上げた。


「失礼ね」


「ご、ごめん!」


思わず謝る。


少女は小さくため息をついた。


「まあ、いいわ」


ケースから出る。


ドレスの裾を整えながら、エリシアを見る。


「あなたの名前は?」


「エリシア……エリシア・ベルナール」


「ベルナール……」


少女の表情が変わった。


「そう」


「知ってるの?」


「ええ」


少女はエリシアの顔をじっと見つめた。


「あなたのお母様を知っているわ」


「……お母さんを?」


エリシアの胸が跳ねた。


「知ってるって……どういうこと?」


少女は答えなかった。


代わりに、エリシアの胸元を見る。


「見せて」


「え?」


「胸元」


「な、なんで?」


「いいから」


エリシアは困惑しながらも、服の襟元を少しだけ下げた。


そこには、生まれたときからある小さな痣があった。


薔薇の形をしている。


母からは、


「あなたが生まれたときからあるものよ」


とだけ聞いていた。


少女はその痣を見た。


そして。


目を見開いた。


「……そんな」


「何?」


少女は後ずさった。


「ありえない」


「だから、何なの?」


「十一番目……」


少女の声が震えた。


「十一番目の心核が……人間の中に……?」


「心核?」


エリシアには意味が分からない。


少女はしばらく黙っていた。


そして、ようやく顔を上げた。


「あなたは知らないのね」


「何を?」


「自分が何者なのか」


エリシアの背中を、冷たいものが走った。


そのとき。


屋敷中に、大きな鐘の音が響いた。


ゴーン。


一回。


ゴーン。


二回。


時計の針が、午前零時を指す。


その瞬間。


部屋の棚に並んでいた人形たちの胸元が、一斉に光った。


赤。


青。


金。


紫。


緑。


様々な色の光が、暗い部屋を照らす。


エリシアは息を呑んだ。


「な、何……?」


少女は空を見上げた。


「始まったのね」


「何が?」


少女は答えない。


その代わり。


屋敷のどこかから、声がした。


「……ふぁ……」


「……?」


続いて。


「お腹すいたぁ……」


「誰!?」


さらに別の声。


「ちょっと! こんな時間に起こさないでよ!」


「うるさいわね」


「えっ、誰かいるの!?」


「みんな、落ち着いてください!」


「ちょっと待って、ここどこ!?」


「……眠い」


次々と声が響く。


エリシアは目を丸くした。


少女は額に手を当てた。


「……どうやら、全員起きてしまったみたいね」


「全員って……?」


少女はエリシアを見る。


そして、初めて笑った。


「あなたが来たからよ」


「私が……?」


「そう」


少女は手を差し出した。


「ようこそ、エリシア」


月明かりが差し込む。


銀色の髪が輝く。


その姿は、まるで古い絵本から抜け出してきたお姫様のようだった。


「ここは、人形姫たちの屋敷」


エリシアは差し出された手を見つめる。


「そして――」


少女は静かに告げた。


「あなたは、私たちが百年以上探していた十一人目よ」


その言葉と同時に。


屋敷のどこかで、誰かが大声で叫んだ。


「ねえーーーっ! 誰か起こしてーーーっ!!」


別の声が返る。


「うるさい!」


「だってお腹すいたんだもん!」


「まず服を着なさい!」


「人形だから服着てるよ!」


「そういう意味じゃありません!」


「もう寝たい……」


「寝るな!」


エリシアは、ぽかんとした。


さっきまでの神秘的な空気が、ものすごい勢いで崩れていく。


少女は目を閉じた。


「……先が思いやられるわ」


「……あの」


「何?」


「あなたの名前は?」


少女は少しだけ笑った。


「私はアデライード」


そして。


エリシアの手を取った。


「あなたを歓迎するわ。十一番目の少女」


その瞬間。


止まっていたはずの屋敷の時計が、再び動き始めた。


カチ。


カチ。


カチ。


長い眠りから、人形姫たちが目を覚ます。


そして。


エリシアの知らない世界への扉が、今、完全に開いた。

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