鍵のない部屋
古都ルナリエには、夜が長い。
昼間は石畳の通りを人々が行き交い、花屋の店先には色とりどりの花が並び、広場では子どもたちが走り回っている。
けれど、日が沈むと街は急に静かになる。
街灯に火が灯り、古い建物の窓から暖かな光が漏れ始めるころには、人々はそれぞれの家へ帰っていく。
そして街の北側。
森に近い丘の上には、一軒の大きな屋敷が建っていた。
ベルナール邸。
かつては多くの使用人を抱えていた名家の屋敷だったが、今ではそこに住む者は一人しかいない。
エリシア・ベルナール。
十七歳の少女だった。
「……寒い」
エリシアは暖炉の前で膝を抱えた。
外では風が吹いている。
古い窓ガラスが、ときどき小さく震えていた。
暖炉の炎はぱちぱちと音を立てている。
その音を聞いていると、少しだけ安心する。
この屋敷は広すぎる。
一人で暮らすには、本当に広すぎる。
廊下は長い。
部屋は多い。
使っていない客間も、物置も、書庫もある。
そして二階には――
エリシアが一度も入ったことのない部屋がある。
母が生きていた頃から、そこだけは立ち入りを禁じられていた。
『エリシア。二階の奥には行かないでね』
幼い頃、母はいつもそう言っていた。
理由を尋ねると、決まって同じ答えだった。
『古い人形が置いてあるから』
それだけ。
だからエリシアは、二階の奥には近づかなかった。
母が亡くなった今も。
「……お母さん」
エリシアは暖炉の上に飾られた写真を見た。
そこには、優しく微笑む母が写っている。
もう三週間になる。
母がいなくなってから。
葬儀を終え、親戚との話も終わり、屋敷に戻ってきた。
最初の数日は、誰かが隣の部屋にいるような気がした。
廊下を歩けば母の声が聞こえる気がした。
朝になれば「おはよう」と言ってくれる気がした。
でも、何日経っても母は戻ってこなかった。
「……寂しいな」
小さく呟いた。
返事はない。
当然だった。
エリシアは読んでいた本を閉じた。
時刻は午後十一時半。
「そろそろ寝ようかな」
立ち上がった、そのときだった。
カツン。
「……?」
何かが落ちたような音がした。
エリシアは振り返った。
暖炉の火は変わらず燃えている。
テーブルの上にも、床にも、何も落ちていない。
「気のせい……?」
そう思って歩き出す。
カツン。
今度ははっきり聞こえた。
二階。
エリシアは階段を見上げた。
「……また?」
以前から、ときどき聞こえていた。
夜になると二階から音がする。
誰かが歩いているような音。
物を動かしているような音。
時には、かすかな歌声まで。
母に聞いたことがある。
『夜に二階から音がするんだけど』
そう言ったとき、母は少しだけ困ったような顔をした。
『古い屋敷だから、いろんな音がするのよ』
そのときは、それで納得した。
けれど今は――
「……誰もいないのに」
エリシアは階段を見つめた。
行きたくない。
本当に行きたくない。
でも、気になって仕方がない。
結局。
「見るだけ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
階段を上がる。
ギシ。
ギシ。
足を乗せるたびに、古い木が鳴った。
二階は一階より暗い。
廊下の途中にあるランプへ火を灯す。
ぼんやりとした明かりが、長い廊下を照らした。
絵画。
古い家具。
閉じられた扉。
そして、一番奥。
あの部屋。
エリシアは足を止めた。
「……」
扉はいつもと同じだった。
黒っぽい木製の扉。
装飾もほとんどない。
けれど。
今日は一つだけ違っていた。
扉の前に、白い花びらが落ちている。
一枚。
二枚。
三枚。
エリシアはしゃがみ込んだ。
「……薔薇?」
白い薔薇の花びらだった。
けれど、この屋敷の庭に白い薔薇はない。
そもそも今は、薔薇が咲く季節でもない。
エリシアは花びらを拾った。
「なんで……」
その瞬間。
扉の向こうから音がした。
トン。
「……!」
エリシアは立ち上がった。
もう一度。
トン。
まるで、誰かが内側から扉を叩いている。
「……誰?」
返事はない。
エリシアは扉に耳を近づけた。
静かだった。
さっきの音が嘘だったかのように。
「……」
帰ろう。
そう思った。
けれど。
そのとき。
足元で何かが光った。
エリシアは視線を落とした。
扉の脇。
暗い床の上に、銀色のものが落ちている。
鍵だった。
「鍵……?」
拾い上げる。
ずいぶん古い。
持ち手には薔薇の装飾があり、その中央には小さな赤い石が埋め込まれている。
そして。
その鍵を握った瞬間。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
「……え?」
心臓が一度だけ、大きく跳ねた。
頭の中に、知らない声が響いた。
――待っていた。
エリシアは息を止めた。
「……誰?」
もちろん返事はない。
けれど、鍵を持つ手が微かに震えていた。
扉を見る。
鍵穴など、どこにもない。
「これ……使えないじゃん」
少しだけ笑った。
自分でも変な気分だった。
怖がっていたのに、突然おかしくなってしまった。
鍵をしまおうとした。
その瞬間。
カチッ。
「……え?」
扉に、鍵穴が現れた。
何もなかった木の扉。
そこに突然、銀色の鍵穴が浮かび上がっている。
エリシアは固まった。
「……嘘」
一歩下がる。
鍵を見る。
扉を見る。
もう一度、鍵を見る。
「……これ、開けるの?」
当然、誰も答えない。
それでも。
不思議と、怖くなかった。
むしろ――
開けなければならない。
そんな気がした。
エリシアは鍵を差し込んだ。
カチリ。
簡単に回った。
ギィィィ……。
扉が開く。
中から、冷たい空気が流れ出してきた。
そして。
甘い香りがした。
薔薇。
それも、一輪や二輪ではない。
まるで部屋中が薔薇で満たされているような香り。
エリシアは恐る恐る中へ入った。
蝋燭を灯す。
ぼんやりと部屋が明るくなる。
「……わあ」
思わず声が出た。
そこは、人形の部屋だった。
壁沿いに無数の棚が並び、その一つ一つに人形が置かれている。
小さな人形。
大きな人形。
男の子の姿をしたもの。
女の子の姿をしたもの。
天使のような羽を持つもの。
騎士の格好をしたもの。
どれも精巧だった。
まるで、本当に生きている人間を小さくしたような人形ばかり。
「こんな部屋……あったんだ」
母は一度も見せてくれなかった。
部屋の奥には、さらに大きな扉がある。
その前に、古い机が置かれていた。
机の上には一冊の本。
エリシアは近づいた。
表紙には何も書かれていない。
開いてみる。
最初のページに、たった一行だけ文字があった。
『人形姫の記録』
「……人形姫?」
ページをめくる。
そこには名前が並んでいた。
アデライード。
ミレイユ。
コレット。
ヴィオラ。
リゼット。
クラリス。
ノエル。
ローザ。
セレネ。
フィオナ。
十人。
エリシアは眉を寄せた。
「……十人も?」
けれど、その下には空白があった。
名前を書くためのような、妙な余白。
そこだけ、何度も何度も消された跡がある。
エリシアが指で触れた。
すると。
本の奥から、カタン、と音がした。
「え?」
振り向く。
部屋の中央。
そこには、大きなガラスケースがあった。
エリシアは近づいた。
ケースの中には、一人の少女が眠っていた。
銀色の髪。
白い肌。
深い赤色のドレス。
胸元には、一輪の薔薇。
「……人形?」
近くで見ても、人形には見えなかった。
まつ毛も。
指先も。
唇も。
あまりにも自然だった。
エリシアはガラスケースに手を触れた。
冷たい。
「あなたが……アデライード?」
胸元の薔薇を見る。
けれど。
次の瞬間。
少女の指が動いた。
「……っ」
エリシアは飛び退いた。
見間違い。
そう思った。
けれど。
少女の指が、もう一度動く。
そして。
ゆっくりと目が開いた。
深い紅色の瞳。
少女はエリシアを見つめた。
数秒。
何も言わない。
やがて。
「……遅かったわ」
「え?」
少女は身体を起こした。
銀色の髪が肩から滑り落ちる。
「ずっと待っていたのに」
「……あなた、人形……だよね?」
少女は少しだけ眉を上げた。
「失礼ね」
「ご、ごめん!」
思わず謝る。
少女は小さくため息をついた。
「まあ、いいわ」
ケースから出る。
ドレスの裾を整えながら、エリシアを見る。
「あなたの名前は?」
「エリシア……エリシア・ベルナール」
「ベルナール……」
少女の表情が変わった。
「そう」
「知ってるの?」
「ええ」
少女はエリシアの顔をじっと見つめた。
「あなたのお母様を知っているわ」
「……お母さんを?」
エリシアの胸が跳ねた。
「知ってるって……どういうこと?」
少女は答えなかった。
代わりに、エリシアの胸元を見る。
「見せて」
「え?」
「胸元」
「な、なんで?」
「いいから」
エリシアは困惑しながらも、服の襟元を少しだけ下げた。
そこには、生まれたときからある小さな痣があった。
薔薇の形をしている。
母からは、
「あなたが生まれたときからあるものよ」
とだけ聞いていた。
少女はその痣を見た。
そして。
目を見開いた。
「……そんな」
「何?」
少女は後ずさった。
「ありえない」
「だから、何なの?」
「十一番目……」
少女の声が震えた。
「十一番目の心核が……人間の中に……?」
「心核?」
エリシアには意味が分からない。
少女はしばらく黙っていた。
そして、ようやく顔を上げた。
「あなたは知らないのね」
「何を?」
「自分が何者なのか」
エリシアの背中を、冷たいものが走った。
そのとき。
屋敷中に、大きな鐘の音が響いた。
ゴーン。
一回。
ゴーン。
二回。
時計の針が、午前零時を指す。
その瞬間。
部屋の棚に並んでいた人形たちの胸元が、一斉に光った。
赤。
青。
金。
紫。
緑。
様々な色の光が、暗い部屋を照らす。
エリシアは息を呑んだ。
「な、何……?」
少女は空を見上げた。
「始まったのね」
「何が?」
少女は答えない。
その代わり。
屋敷のどこかから、声がした。
「……ふぁ……」
「……?」
続いて。
「お腹すいたぁ……」
「誰!?」
さらに別の声。
「ちょっと! こんな時間に起こさないでよ!」
「うるさいわね」
「えっ、誰かいるの!?」
「みんな、落ち着いてください!」
「ちょっと待って、ここどこ!?」
「……眠い」
次々と声が響く。
エリシアは目を丸くした。
少女は額に手を当てた。
「……どうやら、全員起きてしまったみたいね」
「全員って……?」
少女はエリシアを見る。
そして、初めて笑った。
「あなたが来たからよ」
「私が……?」
「そう」
少女は手を差し出した。
「ようこそ、エリシア」
月明かりが差し込む。
銀色の髪が輝く。
その姿は、まるで古い絵本から抜け出してきたお姫様のようだった。
「ここは、人形姫たちの屋敷」
エリシアは差し出された手を見つめる。
「そして――」
少女は静かに告げた。
「あなたは、私たちが百年以上探していた十一人目よ」
その言葉と同時に。
屋敷のどこかで、誰かが大声で叫んだ。
「ねえーーーっ! 誰か起こしてーーーっ!!」
別の声が返る。
「うるさい!」
「だってお腹すいたんだもん!」
「まず服を着なさい!」
「人形だから服着てるよ!」
「そういう意味じゃありません!」
「もう寝たい……」
「寝るな!」
エリシアは、ぽかんとした。
さっきまでの神秘的な空気が、ものすごい勢いで崩れていく。
少女は目を閉じた。
「……先が思いやられるわ」
「……あの」
「何?」
「あなたの名前は?」
少女は少しだけ笑った。
「私はアデライード」
そして。
エリシアの手を取った。
「あなたを歓迎するわ。十一番目の少女」
その瞬間。
止まっていたはずの屋敷の時計が、再び動き始めた。
カチ。
カチ。
カチ。
長い眠りから、人形姫たちが目を覚ます。
そして。
エリシアの知らない世界への扉が、今、完全に開いた。




