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そんな二人のもとに、遠くから車の走行音が近づいてくる。ずっと辺りに覆いかぶさっていた静寂を破る、異物にも似た騒音だった。二人は引っ張られるようにして音が聞こえてくる方向へ目を向ける。空っぽの道路を、一台のワゴン車が疾走していた。
きらんとぼんやりしていた柚木の瞳が鋭く光る。相変わらず、車にしてもぼうっと眺めていた恵美の後ろで勢いよく立ち上がると、道の真ん中に飛び出して両手を大きく広げた。
「ちょっと何やって――」
驚いた拍子に、恵美は持っていたお茶をこぼしてしまった。車はどんどん近づいてくる。思ったよりスピードが出ているようだった。
「ねえ危ないよ。そんな道路の真ん中で止めることないって」
声に、柚木は視線だけ寄こしてにやりと笑った。どうしてそんな風に笑えるのが恵美にはわからなかった。車はすぐそこまで迫って来ている。スピードは依然として衰えていなかった。恵美の脳裏に最悪の光景が浮ぶ。大丈夫、絶対にそんなことにはならない、と言い聞かせてみても、脂汗が滲み、心臓はばくばくと嫌な拍動をし続けていた。
ワゴン車は近づくにつれて次第にスピードを緩め始めた。柚木の十数メートルくらい前方で完全に停止する。うんともすんとも動かなくなった。恵美はほっと胸を撫で下ろす。膝から少し力が抜けてしまったほどである。そんな恵美に振り返った柚木は、力強く親指を突き立てていた。
ばたんと大きな音がして、車から誰かが降りてきた。
「何してんだよ。危ねえじゃねえか」
若い男だった。上下にクリーム色のつなぎを着ていて、頭にはタオルを巻いていた。顎に無精髭が伸びている。目つきは鋭く、一見したところでは威圧的な人にしか思えなかった。
「あたしもそう思う」
けれど柚木は挑戦的に、明るい声で話しかけた。
「どうしても車を止めたかったんだ。ちょっと前にこの集落に来たんだけど、ぜんぜん村人と会わないんだもの。もうここしかない、って思ってね。ついやっちゃった」
ごめんなさい、と謝りながらも気さくに話しかける柚木の後ろにそっと近づいて、恵美は小さく声をかける。
「ちょっと失礼じゃないかな?」
「大丈夫だって。あの人結構あたしたちと歳近いと思うし。それにこうでもしないとさ。もっと時間がかかっちゃうよ」
言われて、恵美は男に視線を投げかけた。少なくとも二十代後半ぐらいの容姿である。確かに若いといえないわけではなかったが、フランクに話しかけられる相手であるようには思えなかった。
けれど、柚木の言うことにも一理ある。ここで車を止め、どうにか協力を得ないことには、更に無為に時間を過ごす羽目になりかねないのだ。山に入って、何かものを拾ってくるだけで目的は達成されるとは言え、その山に至るまでにかなりの距離があるのである。自由にできる日数は三日とないのだし、すでに一日目の半分は過ぎてしまっていた。躊躇している余裕はほとんどなかったのだ。
「こんなことお願いできる立場じゃないかもしれないけど、もしよかったら今日一日休めるところを教えてほしい。もう疲れちゃってさ。くたくたなんだ」
話を聞いていた男は、しばらく何も答えずに立ち続けていたばかりか、結局何も答えずに車へと戻っていってしまった。後姿を見ながら恵美は、気を悪くしてしまったのだろうと思っていた。ため息交じりに俯いた肩を柚木が軽く叩く。
「大丈夫だよ。ほら」
言われて見上げた視線の先で、男はこちらに振り返っていた。
「乗れよ。宿まで乗せてくからさ」
聞いて二人は顔を見合わせた。きょとんと状況が飲み込めていない恵美に向かって、柚木は力強く片目を閉じた。
「あたし前でいいよね」
「うん」
言い合いながら二人は車に近づいていく。お邪魔しますと言いながら乗り込んだ車内には、所狭しと様々な工具が積み込んであった。
柄が長くて先に大きな歯がついた鋏に小型の鋸、鉈や腰に巻くのであろういろいろな付属品のついたベルトや一本しか足のない脚立、チェーンソーまで、ありとあらゆる道具が恵美の乗り込んだ後部座席を圧迫している。柄の部分などは年季を思わせる装いであるのに、刃先は鋭利に尖れていた。
男はどうやら林業に関わる人であるらしい。車内は驚くほど土臭かった。加えて油の臭いや、樹液の濃厚な香りに満たされている。窓を開けて欲しいと恵美は切望しながらも、黙ったままじっと会話をする二人の様子を伺い続けていた。
男は田沼と名乗った。歳は二十一。大学を中退して、この村で林業組合に所属し始めたのだという。恵美の予想は大きく外れてしまった。柚木の言い分の方が正しかった。一体、田沼のどこに自分たちと近しい何かを感じ取ったのだろう。後部座席に座りながら、恵美は助手席で田沼と会話している横頭を見つめて思い悩んだ。
「つまり、あたしたちはこの村に伝わる伝承みたいなのを求めてやって来たわけなの。誰か詳しい人、知らないですかね」
「伝承ねえ」
道路はどこまでも一本道だった。びっくりするくらい対向車とはすれ違わなかった。代わりに、田畑を耕すための大きな歯がいくつもついたトラクターと一回だけすれ違った。乗っていたのはおじいさんで、巨大なタイヤはさも当然そうに道路に土を落としながらとろとろと進んでいた。
「そう、伝承。あと、さっきも言ったけど泊まることのできる場所も。民宿とかこの辺りにないのかな。今日と明日の二日間で、できるだけ調べてみる予定なんです」
「民宿ねえ」
ぼんやりと、柚木の質問を聞いているのかいないのかよくわからない口調で田沼は答えていた。
「どうなんですか。どこかいいところ知ってますか」
柚木が少しイライラした口調でなかなか返事をしない田沼に訊ねた。声に恵美は内心ひやりとする。
柚木はずっと事務的にことを運んでいたのだ。口調は気の知れた相手に話すフランクなものではあったが、訊くべきことだけを端的に選択して声に出していた。それが、ここに来て初めて感情が入り混じったものに変わったのだ。杞憂に過ぎないだろうが、田沼の気分を害さないかが心配だった。
けれど、そんな恵美の心配も柚木のイライラも無視したまま、田沼は適当な返事を繰り返し、車を走らせるばかりだった。塙からこたえる気などないみたいだった。のらりくらりと質問をかわしながら、ただ黙々と運転を続ける。そんなんだから柚木の苛立ちは更に積もっていくばかりだった。この男にどれだけ訊ねても無駄なんだ。悟ると、不機嫌の限度を越えた柚木は、窓の外を流れていく景色に視線を向けてしまった。
途端に、会話が消失してしまった車内には気まずい空気が満ちていく。恵美はさっきとはまったく違う理由で窓を開けて欲しいなと強く思った。
そのまま道路をひた走ること十数分。なんの前触れもなく車が止まった。不機嫌な気持ちをどうにも消せないでいた柚木は、突然窓の外に現れた古風な民家に驚く。しげしげとその全体像を眺めてしまった。背後で田沼がぶっきらぼうに説明する。
「たぶんここなら泊めてくれる。ここいらで唯一の民宿だから」
振り返った柚木は、表情の読みづらい田沼の顔をしげしげと見つめると、居心地が悪そうにもじもじと呟いた。
「ありがとう」
言葉に田沼はぼりぼりと頭を掻いた。恵美はちょっと胸が温かくなった。
二人して車を降りて、恵美と柚木は民宿の戸を叩く。出てきたのは、五十代ぐらいのおばさんだった。適当にかけたパーマがいかにもらしい。まあまあと、大仰な反応を示しながらこれまでの経緯を聞き終えたおばさんは、どうぞどうぞと腰を折りながら、丁寧に二人を中へと上げてくれた。
日焼けした畳が並んだ部屋に持ってきた荷物を置きながら、柚木は少し肩の力を抜く。車内で溜まっていた鬱積が思いのほか重く圧し掛かっていたみたいだった。そこに恵美から声がかかる。
「田沼さんだったっけ、何も答えてくれなかったけれど、結構いい人なのかもしれないね」
「……かもね」
柚木は車内での態度を思い返して、少し幼稚だったかもしれないと反省した。こちらと、わざわざ車に乗せてもらっていた身分だったのだ。執拗に質問した挙句に、答えが返ってこなかったからといって腹を据えかねたのでは、相手もいい気にはならない。善意に対しておんぶに抱っこではいられないなと、考えを改めた。
「早く乗りな。次は結構遠いから」
玄関先から声がする。どうやら田沼はまだどこかに連れて行ってくれるみたいだった。恵美と柚木は手早く荷物を整頓すると、田沼が待つ車の下へと急いでいった。
ワゴン車に手を突きながら立っていた田沼を、柚木はまっすぐ見返せない。恵美の目にはその様子が不思議に映った。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
歯切れが悪い。おかしなこともあるもんだと思った。
やってきた二人を確認して、田沼は早速運転席に移動する。来たときと同じように恵美は後部座席に、柚木には助手席に座ることにした。
イグニッションキーを回して、ワゴン車は再び息を吹き返す。ハンドルを握る田沼は、また無言のまま運転をし始めた。
「今度は、どこに行くのさ。先に言ってもらった方が安心するんですけど」
少しぎこちなく訊ねる柚木に、田沼は職場と端的に答えた。
「じじい連中なら何か知ってると思うから」
アクセルを踏み込む。ワゴン車はゆっくりと走り出した。
車に揺られ辿り着いたのは、緑色のペンキで塗りたくられたトタン屋根がいやに目立つ大きな建物だった。田沼曰く農林所であるらしい。看板代わりに素朴な樹木の一枚板が、入り口の上に取り付けられていた。そのすぐ下の入り口を田沼がくぐってから早十分。ちょっと待ってろとは言われたものの、車に残された恵美と柚木は、そろそろ暇を持て余し始めていた。
柚木がポケットから携帯を取り出す。画面を見ると固まってしまった。電波が届いていないのだ。民宿までなら確かに届いていたのに。町中では飛び交う無数の電波も、深い山々に阻まれては自由にできないようだった。残念そうに画面を恵美に見せた柚木は、盛大にため息をつく。
「本でも持って来たらよかったな」
心から後悔しているようだった。柚木は、移動中はほとんど寝て、現地で元気よく動き回ろうと計画していたのだ。けれど、駅に降り立った瞬間から何かが狂い始めてしまった。すぐに見つかると思っていた村人はどこにも見つからず、ようやく乗り込めた車内では幼稚な態度をとってしまった。結局今に至るまでほとんど何も進展していないのである。詰めの甘かった考えと羞恥とは、時間があればあるほどに増していくばかりだった。
助手席で柚木が悶々としていた一方で、同じく暇を持て余し始めていた恵美の心境は少々違っていた。これでようやく一歩前進できると胸を躍らせていたのである。辺りに鬱蒼と生い茂る木々の本数を数えながら、まだかまだかと田沼の帰りを待っていた。
二人の想いとは裏腹に、田沼はそのあと更に数分間姿を見せなかった。待ちくたびれて柚木はちょっと辺りを見て回ってこようかと思案し始める。恵美も次第に苛立ちを募らせていた。
そんな折ようやく田沼は姿を現した。どういうわけか、入り口からではなく建物の横から出てきた。裏に勝手口があるのかもしれない。中はどんな構造をしているのだろうかと柚木と恵美は話し合った。
「降りな」
田沼はつくづく素っ気ない言い回ししか出来ない人物である。発せられた命令口調に二人の気分は急激に悪くなった。けれど、ここでとやかく言ったところで何がどうなるわけでもない。二人は言われた通りに車から降りた。
先を歩き、入り口の前で振り返った田沼が二人に手招きをする。互いに顔を見合わせてから、肩をすくめて建物へと歩き出した。とにもかくにも、今は言われるままに動くしかないのだ。柚木の諦めたような表情を見て、恵美の気分も沈んでいきそうになった。
建物の中は思った以上にがらんとしていた。物がないのである。目に付くのは壁に立てかけられた梯子や大きな刃物、備え付けのスチール棚に並べられた小物の類ばかりだった。
ぐるりと内観を見た二人は、右手の扉の前で待っている田沼の姿を見つける。近づくと中へと通された。こぢんまりと仕切られたその一角には、六つのデスクが並べられていて、事務の方ともうひとり、恵美や柚木の父親ほどの年齢であろう人物が奥に座っていた。
田沼が二人に椅子を持ってきて、人物のデスクの側に座らせる。本人はその後ろで仁王立ちを決め込むつもりらしかった。
「こんにちは」
言われて二人もこんにちはと会釈をした。
「僕はこの農林所の所長。名前は深山って言うんだ。よろしく」
気さくな物言いに、二人は目を瞬かせる。
「話はさっき田沼から聞いたよ。何でも伝承を辿ってるんだとか」
「は、はい。時間がないんです。予定では二日しかなくて、明日には帰らないといけないんです。できれば山の方にも入ってみたいんですけど」
「ふむ。それは困った」
話し出した深山と柚木の会話を聞きながら、恵美は深山の口調に既視感を覚えていた。なんだか優しくて、懐かしい感じのする口調である。
「うーん、できれば僕たちも手伝って上げたいんだけどねえ。如何せん、今はみんな出払っちゃってるからなあ。話知ってる人も思い出せないし、僕らもこれから仕事があるんだよ。山の方にも連れて行けそうにないねえ」
「そんなあ」
柚木ががっくりと項垂れた。しょげてしまった柚木に目を配らせてから、恵美は深山に振り返った。
「どうしても、駄目なんですか」
「駄目だねえ。林業って、思った以上に危険がつきものだから。たとえば僕たちの仕事が終わったあとに向かうっていう手もあるにはあるけれど、夜の街灯のない、舗装されていない山道を進むっていうのは、想像以上に危ないことなんだ。所によっては、崖の上ぎりぎりを走らなければならないからね。僕たちだけならまだしも、君たちをむざむざ危険に晒すわけにはいかない」
「そうですか」
呟いて、恵美も力なく項垂れた。目前に迫った獲物を、ここぞと言うところで逃してしまったような気分だった。揃って元気をなくしてしまった女の子二人を前にして、深山は急にがははと景気よく笑い出す。痛いくらいに肩を叩くとこう言った。
「なあに、心配することはないよ。明日だってあるんじゃないか。確かに今日は無理だけれど、明日の早朝ならなんとかなる」
「本当ですか」
「ああ。こいつに頼んであるからな。そこまで心配することじゃあないよ」
二人は背後を振り返る。仁王立ちの田沼は、期待に満ちた眼差しに射竦められると居心地が悪そうにそっぽを向いた。堅物なのに恥ずかしがり屋なのかもしれない。思った恵美は、難しい人物だなあと苦笑してしまった。
「お願いします」
そう柚木が声をかけると、田沼は鋭く二人に向き直って口を開いた。
「朝早いからな。遅れるな」
「わかりました」
恵美が答えて、二人は深山の方に向き直った。
「本当にありがとうございます」
「いやはや、いいんだよ。近頃じゃあ君たちみたいな子は珍しいしね。僕としてもちょっと興味があるし」
「興味、と言いますと」
「伝承についてだよ。何でも狐について調べてるんだってね。僕自身は伝承そのものを聞いたわけじゃないんだけどさ、その昔僕は山で変な狐とあってね。ほら、この辺りにいるのってアカギツネばかりなんだよね。にも関わらず、目の前に現れた狐は白かったんだ」
にわかに恵美と柚木の目の色が変わった。気付かず、深山はのらりくらりと話を続ける。
「その時僕は木から落っこちちゃっててねえ。剪定って言って、いい木材にするために余分な枝を伐ってたんだ。木は、それこそ生きるために懸命に枝を伸ばすからね、僕たちも同じくらい一生懸命になってそれを伐り落とさないといけない。こちらと生活がかかっているからね。いい木材を作るためにはそれなりの労力が必要なんだな。植林はかなり斜面の急なところでもやってる。山の奥でもやってる。足腰が鍛えられるからいいのかもしれないけれど、大変なことには変わりないんだよ。重い荷物を背負ってね。えっちらおっちら斜面を登って、孤独に作業をするんだな。僕たちも頑張ってるんだよ。まあそんなことは置いといて、と、何の話だったっけかな。そうそう、剪定をしていたってところだったね。あの日はねえ、妙に暑かったんだ。気温はそれほどじゃあなかったんだけどね、ムシムシと気持ち悪い空気に包まれていた。そのせいなのか、梯子の足場も濡れてしまっていてね。僕はうっかり足を滑らしちゃったんだよ。一気に地面に真っさかさま。それほど高く登っていたわけじゃあなかったんだけどね。それでも大体、二三メートルかな。思いっきり落ちてね。いやあ、まいったもんだったよ」
「で、狐とはなにがあったんですか」
「まあまあ先を急がないで。そこからが一番大変だったんだから。と言うのもね、僕はそのとき山のかなり奥深くで剪定を行っていたんだ。それこそ、見渡しても車を止めた道路はおろか、登ってきた道すらわからないような場所でね。助けなんて呼べるような環境じゃあなかったんだよ。さっきも言ったけど、車の場所もわからなくてね。そもそも運転できるような状態じゃなかったんだな。腰から落っこちちゃったからね。脂汗がだくだく溢れてくるくらいの激痛が、そうだなあ針を突き刺すって言うとわかりやすいのかな、そんな感じでこう腰から脳天にきーんっと突き抜けていて、じんじん痛んで動けなかったんだ。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、あのとき僕は死を覚悟したね。このまま誰にも知られないまま、山奥の中ひとりこっそり死んでいくんだって。すごく怖かった。生まれて初めて僕は本当のひとりぼっちを味わったんだ。いやね、僕はそれまでおばけも怖くなかったし、テロリストにだって負けないって自負はあったんだよ。でも、あれだけは駄目だったな。山の中で、ひとり身動きが取れないまま痛みに耐えると言うのは、ものすごく心を蝕むことだったんだ」
「まだ狐は出てきませんか」
少しイライラした様子で柚木が訊いた。深山はなだめるように右手を前に出す。
「もうちょっとだ、もうちょっとの辛抱だから我慢してくれ。なんたって、ここから死を前にした僕の絶望感と、それでもなお手放さなかった小さな希望との話が続くんだから」
「深山さん、もうそろそろ時間が迫ってきてます」
唐突に背後の田沼が口を開いた。言われた深山は、瞬間こそきょとんとしたものの、すぐに腕時計を確認すると、さも残念そうに宙を仰ぎ左手で視界を覆った。
「ああ、なんてことだ。これから僕の深い人生哲学が始まると言うところなのに」
「もうそんなことはいいですから、狐のことを話してください」
柚木が急かすと、しゅんとしていくらか元気をなくしてしまった深山は、じとりと柚木と恵美を見上げ、それからため息をついて、ぼそぼそと一番聞きたかったところを話してくれた。
「狐は白くてね、青白い光を僕に向けると、いつの間にか僕の身体は回復してたって話」
ものすごく簡潔に終わらせた。むしろそこだけで十分だった。
恵美は柚木の方を向くと、力強く頷いた。間違いない。この土地こそが狐が以前いた土地なのだ。深山の話に考えもつかないような思い違いがなければ、確定したも同然だった。
「あーあ。話したかったのになあ」
小学生のようにごねながら、深山は椅子からゆっくりと立ち上がると身支度を始めた。見た目や声は確かに年相応だったけれど、その内面はまったく未発達のようだった。もしくは、単なる話好きなだけなのかもしれない。正直なところ、恵美と柚木は深山の武勇伝など聞きたくもなかったので、時間が迫っていたことを告げた田沼をありがたく思っていた。
ほっと、ひとまずの安堵をため息と共に味わっていた二人の背後に、とてつもない試練の幕開けを告げる声がかかった。
「おい、お前ら。宿まで遠いんだから乗せてってやるよ」
「あ。いいねえ、それ。そうしよう。そうしなよ、二人とも。ここってさ、かなり集落も外れだから、歩いて帰るとなると大変だよ。時期が時期だし、クマが出るかもしれないしね。うん、そうしよう。ささ、乗った乗った。よーし、じゃあ移動する間僕が死を覚悟した時の心境などを語ってあげようかな」
ワゴン車へと向かいながら、恵美と柚木は沈鬱な気持ちになっていた。何が好きで別段面白いわけでもない話を聞かされないといけないのか。そもそも長ったらしくて聞く前から飽きているのだ。なのに、外に出るやすでに助手席へと乗り込んでいた深山は嬉々として二人を招いている。
「さあさあ、早く乗った乗った。僕たちも仕事が待ってるんだからね。早くするに越したことはないんだよ」
ついさっき滔々と語っていたのは誰だったのか。怒りにも似た感情を抱かずにはいられなかった。けれど、乗らないことには宿へは着けないのである。いやいやながらも二人はワゴン車の後部座席へと乗り込んだ。
「よーしよし。乗ったね。シートベルトは大丈夫かい。ここら辺でもいつどこで事故があるかわからないからね。ほんと、備えあれば憂いなしとはよく言ったもんだよ。あの時もなあ、ちゃんと安全面を確かにしてから取り組めばよかったんだ。それなのに僕は、目先にある仕事を早く終わらせることばかり考えていて、そういった何より大切なことを疎かにしてしまったんだ。だからあんなことが起きた。あの恐ろしい、一番死に近かった時間を、僕は経験しなければならなかったんだ」
ああ、始まってしまったと恵美と柚木は頭が痛くなった。
帰りの十数分間は、行きの時よりもはるかに長く、また濃密なように二人には感じられた。
翌朝はよく冷えた。空気がそれ自体凍りついてしまったかのようにぴんと張りつめていて、吐き出す息は白く、湯気のように空へ昇っていった。
「寒いね」
まっすぐ遠くの山を望みながら柚木が口にした。
「本当に寒い」
マフラーを巻いた柚木の頬は、冷たい朝の空気によってほんのり赤く上気していた。
恵美はそんな柚木の表情をじっと見てから、車ひとつ通らない道路の方へ視線を移した。止まっていた手もみを再開しながら、そうだね、と返事を返す。晴れ渡った空には薄雲がひとつ大きく広がっていたけれど、未だ山の奥に隠れたままの太陽に照らされて、端っこがオレンジ色に染まっていた。
民宿の前には、まだ沼田の乗ったワゴン車は来ていなかった。昨晩のうちに頼んでおいた早めの朝食を、掻き込むようにして食べて急いで準備を整えた恵美と柚木としては、いささか肩透かしを食らったような気分だった。
ちちちと小鳥がどこかで囀っている。静かな朝だった。
民宿のおばさんは、車が来るまで中で待っていたらいいじゃないと言ってくれた。山はもう随分と寒くなってきていて、早朝の温度は氷点下に近くなっていたのだ。昨夜は、小さいながらもわざわざおばさんが出してくれた石油ストーブが、もうもうと温かい空気を送り出してくれた。今も屋内ではストーブが焚かれているはずだった。
それにも関わらず申し出を断り、二人が寒さを全身で感じながら外で車を待っていたのにはわけがあった。朝の空気を感じていたかったのである。その寒さ、静けさ、諸々も雰囲気と言うのは、都市では決して味わえる種類のものではなかった。全てが純粋で、強くその存在感を訴えているにも関わらず、そっと穏やかだった。
「寒いね」
柚木に向かって同じことを口にした。恵美は返事をしなかった。
二人は黙り込んだままそれぞれのことを考え、なかなか来ない車の到着を待っていた。
山際に陽光が滲み始めたころ、ようやく昨日と同じ走行音が辺りに響き始めた。みるみる大きくなったワゴン車が、二人の待つ民宿の前で停止する。ウィンドウを開いた田沼は珍しいものを見るかのような表情で二人のことを見つめた。
「何だ。ずっと外で待ってたのか」
頷く二人に、田沼は呆れたように頭を掻いた。
「馬鹿だなあ。寒かっただろうに。中で待ってたらよかったんだ」
「田沼さんがもっと早く来てくれたら、こんなにも寒い思いをしないで済んだ」
目を三角にして口にした柚木に、田沼は諦めたように首を竦めた。
「早く乗りな。暖房入れてあるから」
言って、田沼はウィンドウを閉じた。
「恵美。今日はあたしが後ろでもいい?」
「どうぞ」
ドアを開くとむわっとした温かい空気と一緒に、変わらず土臭いにおいがあふれてきた。一瞬たじろいだが、空気が逃げてしまってはいけないと思い、恵美は急いで乗り込んだ。ドアを閉めると後部座席の柚木も同時にスライドドアを閉めた音がした。
「じゃ、行くぞ」
呟くように口にして、田沼は車を発進させた。ラジオの電波も届かない土地のせいで、車は沈黙を保ったまま一路山へと進んでいった。
やがて道は舗装していない山道に差し掛かる。がたがたと、石が剥き出したままの道を通る車は、ときたま激しく上下していた。田沼は、確かに丁寧に安全に運転しようと心がけているようだったが、それでも排水のために作られた道を横断する大きな溝とか、落ちてきたのだろう大きな石とかの上を仕方なく通らなければならなかったので、場所によっては座席から腰が浮くこともしばしばだった。
辺りは自然に包まれいた。集中し慎重に運転する田村の右手には剥き出しの崖肌と、その上に立ち並ぶ林が永遠と続いていたし、恵美の左側はまっさかさまの崖になっていた。作られた道ですら、ここでは自然の一部だった。ウィンドウの上に取り付けられた取っ手にしがみつきながら、恵美はじっと広がる景色を眺めていた。
太陽が昇ったので、陽射しが木々の上に射し込んでいた。山の影とくっきりと分離したその光は、本当に温かそうだった。
「何か面白いものでも見えるか」
前を見たままの田沼が声をかけてきた。恵美は田沼の方を振り返り、再び景色に視線を投じる。
「特になにも」
「そうだな。確かに木と山と、それ以外は何にもない」
少し愉快そうに田沼が口にした。口ぶりが少し自嘲気味に聞こえたので、恵美は慌てて言い直した。
「でも、紅葉が綺麗だと思います」
「いいんだ。言う通りなんだから。ここには何にもない。本当に山ばかりだ。紅葉が綺麗だって言ったって、よっぽど京都とか皇居とか、整備されたところの方が綺麗だろうよ。ここいらの紅葉は素朴すぎるからな」
恵美自身、京都の紅葉も皇居の秋も直に見たことはなかったけれど、おそらくここよりも綺麗だろうなとは思った。
「ただ、こんな山中にも有名どころに負けないところはある。ほら、見てみな」
言って、田沼は車を止めた。指の指す崖下に目を向けると、陽光に照らされた紅葉の中に見事な朱色の椛が一本だけ立っていた。少し息を呑むような光景だった。
「あの下には小さい川が流れてるんだ。この前山に入ったときに、その沢を登っていてな。ちょうどあの椛を見つけたんだ。たった一本だけ真っ赤に染まっている」
椛は周りの木々の色付きも手伝って一際目だって見えた。燃え盛っている命その物のようだと思った。
「すごい」
呟いた恵美の後ろで、沼田は少しだけ微笑む。
「じゃあ、行くぞ」
再び車が動き出す。恵美は後ろに流れていく椛をじっと見続けていた。やがて完全に見えなくなってしまうと前に姿勢を直す。
「昔は、もっと綺麗だったんだ」
恵美はそっと覗き込むようにして口にした田沼の方を向く。憮然とした表情だった。
「俺はここの出身だから、山にも小さい頃から何度も入った。春から秋まで、山はいろんなものを与えてくれるから、爺ちゃんとか父ちゃんと一緒に何度も何度も入った。その頃の山はもっとすごかった。もっと綺麗だった。どの季節も木も植物も大きくてずっと生きていて、紅葉なんかも本当に燃えるように見事だった」
話を聞きながら恵美は視線を山の方へと向けた。
「確かに見慣れたせいで俺の感覚が鈍った可能性だってある。なに言ってんだって思うかもしれない。でも、この山は確実にその美しさを失いつつある。年々、色合いが薄くなってきているんだ」
映える紅葉の山肌を見ながら、恵美はそんなものなのだろうかと思った。この山は、確かに観光地とかの紅葉に比べれば見劣りはするだろうが、それでも立派な山のように見えたのだ。だから恵美は知らず知らずの内に口を開いていた。
「でも、この山は十分素敵だと思う」
「そりゃあ、俺たちが手入れしているからな」
「そうなんですか?」
振り返った恵美の視線の先で、田沼は誇らしそうな表情をしていた。
「もちろん。俺たちがいなかったら、もっと山は荒れてる。木材を生産するのもあるけど、山をいつまでも残していくためにも俺たちは働いてるんだ」
聞きながら恵美は感心していた。そのように林業を考えたことがなかったし、なによりも田沼がそんな風に自らの仕事に誇りを持っていることが素晴らしく思えた。格好いいな。口には出さなかったものの、しみじみそう思わされた。この人は格好いい人だ。
「そろそろ結構奥に来たと思うから、いったん車止めるな」
田沼は呟くようにして口にした。恵美は、いよいよかと思い少し緊張した。
「……うえぇ、きもちわるい」
後部座席では、柚木がひとり車に酔っていた。