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翌日。図書室で恵美と柚木はプリントアウトされた用紙を覗き込んでいた。印刷されているのは、あの台風の情報である。最低気圧は八九○hPa、瞬間最大風速は六○メートルに達し、その大きさは、一時日本全土をすっぽり覆えるほどに成長していた。改めてとてつもない異常な台風だったんだなあと恵美は思う。
「難しいねえ」
柚木が呟いた。
昨夜。電話をしたあと、料理だけもらって帰ることになった柚木は、改めて恵美に協力を申し出て一緒に調べることを約束した。同時に狐も紹介されて、世にも珍しい人語を話すことの出来る白い狐をまじまじと見つめた。
「わあ。本物だあ」
感嘆の声を上げると、おずおずと手を伸ばして頭を撫でた。目を細めて、尻尾を振るい、よろしくお願いしますと頭を下げた狐を目にして、二人は山を見つけ出す決意を新たにしたのだった。
しかしながら、である。範囲を限定できるはずの計算は存外面倒だった。台風は性格にかなり難があったようで、じびじびと列島に近づいてきたと思ったら、急に加速して海洋に向かってしまっていたのだ。最高移動速度は一時期時速九〇キロメートルにまで達しようとしていた。
そんな台風なのである。狐は一時間ほどだと滞空時間を言っていたが、そこからはじき出される距離が果たしてどこまで伸びるのか、考えるだけで恵美と柚木は嫌になった。そもそも、一体台風がどの辺りにあった時点で飛ばされたのかが定かではないのだ。
「こりゃあ絞込みをやり直さないといけないかもしれない」
言いながら恵美はうんざりした。
けれど、やらなくてはならないのである。そう決めたのである。さてと、口にした柚木と視線を交じらせ、恵美は早速行動に移った。目下の役割分担は柚木が狐の飛んできたであろう範囲の算出であり、恵美がやるのは変わらず山探しだった。範囲が広がることを考慮して、もう二周りほど広い視野で地図を当たってみることにした。
作業は三日に渡って行われた。二日目に柚木がある程度の範囲を割り出して、そこから二人で山を絞っていった。最終的に三つの山が残った。どれもこれも似たような、特徴のない山だった。
「どうしようか」
柚木がお手上げと言ったように口にする。対する恵美にしても、そのことに頭を悩ませていた。ここから、どうやって候補を絞ろうか。もう十分に絞り込めてはいたのだが、できるのならば確信の持てるひとつだけを残したかった。
「郷土史を調べてみようかな」
「郷土史?」
「うん。あの狐ってさ、一応妖怪みたいなものじゃない。だから、もしかしたら伝承とかそんなのに書かれているかもしれないなって思って」
提案を柚木は考えてみた。本当にあるのかどうかが一番のネックだった。山はどれも奥地にあるひっそりとした小さなものばかりだ。そんなところに伝承があるのだろうか。
「ダメかな」
「もしかしたら無駄骨になるかもしれないよ」
「でも、何もしないよりはましでしょう」
返す恵美の言葉には力強さが含まれていた。
「これまで以上に大変かもしれない」
「それでもやらなきゃ。言い出したんだもん」
答えた恵美に、柚木は朗らかに微笑んだ。
かくして、休日に二人が向かったのは市の図書館である。ここならば、とやって来た場所だった。
ただし、それぞれの山は全て隣接する県に存在している。何も得られない可能性も少なからず存在していた。一緒に書籍を漁ったところで結果が芳しくない危険性がある。そこで、二人は役割を分担することにした。恵美が書籍を、柚木は自宅から持ってきたノートパソコンを使ってインターネットで情報を収集することにしたのだ。
昼になったら一度落ち合うことを確認して二人は別れる。恵美は本棚の中へと、柚木はひっそりとした、一席一席仕切りの衝立がついた机へと向かった。
本棚は威圧感と言うべきか、長らくその場所に置かれていた荘厳さと言うべきか、厳かな空気を生み出しながらずらりと立ち並んでいた。通路には少しだけ埃っぽい図書館特有の匂いが溢れている。恵美の好きな匂いである。よしと、一声気合を入れなおして、恵美は郷土コーナーへと足を向けた。
ずらりと並ぶ本の中から、とりあえず五冊の本をピックアップしてみる。両手で抱えて机がある場所まで歩いていく。仕切りのないオープンな机に座ると、持ってきた鞄から筆記用具とルーズリーフとを取り出して黙々と読書を始めた。
ぱらぱらと気になる箇所にだけに目を通して一冊を読み終わる。一息ついて顔を上げ、周りの様子を見渡しながら首を回して、二冊目の本を手に取る。また黙々と読書に励み始めた。
所変わって、パソコンでの検索はなかなかに難航していた。インターネットの最大の利点でありながらも最大の弱点であるのは、その情報の多さである。柚木は呆れながら宙を仰いだ。
厳選したキーワードを打ち込んだのは、もはや二時間以上も前のことである。柚木が目を通したページは、延べ五十ページを超えていた。そのほとんどで価値ある情報が手に入らない。軽い頭痛を覚えて、柚木は堪らず目を閉じた。
ネットを使うとき、一番の厄介なのは眼精疲労じゃないかなと柚木は思う。もちろんつまらないガセネタや、関係のないリンクを踏んだりと、有意義な情報が手に入りにくいのもあるにはあるけれど、目の疲れ以上に厄介な問題ではないように感じられた。
ため息をひとつこぼす。目を揉んで、伸びをして、柚木は再び目を開ける。ツールバーのメモ帳には、もうかなりの量の文章がコピーできていた。時計を確認する。まだ時間は残っている。頑張りますかと、心の中で自分を励まして、柚木は再びディスプレイに並ぶ文字列に目を通し始めた。
正午になると、柚木が恵美のところへとやって来た。気配に気が付いて、机に突っ伏していた顔を持ち上げる。柚木の疲れの滲んだ表情を見て、やっぱり調べ物は辛いものだなあと、恵美は改めて思い知らされた。
外に出て、近くのファストフード店で昼食を取ることにした。フライドポテトを摘みながら、午前中の成果を報告し合った。
「一応気になる記述を当たってみたんだけどね、思いのほか狐に関する信仰は少なくてさ。あんまり成果なかった」
「こっちも。オカルトじみたものならじゃんじゃん出てくるんだけどね。肝心の場所とかになると記述が曖昧になるばっかり。ネットの情報だしさ、眉唾物のしか手に入らなかった」
言い合って、互いにため息をつく。なかなか思うようには進んでいなかった。大きく口を開いてハンバーガーに齧り付きながら、恵美は視線を外に向ける。
「私たち何してるんだろうねえ」
楽しそうに歩いていく高校生らしきグループを見つけて、つい口走ってしまった。もぐもぐと咀嚼しながら、後悔の念がじわじわと浮かび上がってくる。形的には受け入れるようになっていたけれど、結果として柚木は巻き込まれてしまっているのだ。どうしてこうも考えず足らずな言葉が出てくるのだろうと恵美は恥ずかしくなった。気まずく思いながらも、そっと向かいの席の様子を見てみる。柚木も同じように外に目を向けていた。
「ね。何してるんだろ、あたしたち」
言って、顔を戻した柚木はくしゃりと笑った。見様によっては自虐的な微笑に見えたかもしれない。けれども、恵美には消えかけていたやる気に再び火を点ける温かな微笑に映った。
柚木は再び外に目を向ける。
「でもさ、こうやって一生懸命やるものいいじゃん。確かに面白可笑しく笑いながら休日を過ごすのもいいよ。でもさ、誰にも見つけられず、じっと頑張り続けるのは格好いい気がする」
「自己満足な格好良さだとしても?」
意地悪な質問にも、柚木はもちろんとはっきり答えた。そのまっすぐな強さに、恵美は柚木と友達であることを誇らしく思った。
「さて、そろそろ午後の調べ物に向かいますかね、恵美さん」
「まだ、食べきってないよ」
苦笑しながら恵美が答えたテーブルの上には、食べかけのハンバーガーとフライドポテトとドリンクとサラダが残っていた。
午後の調べ物も目ぼしい成果は挙げられなかった。疲弊しながら帰った家で、恵美は深々とお風呂に入り、おいしい夕食でお腹をいっぱいにした。
自室にこもった恵美は、ベッドに寝転びながらもう一度調べたことに目を通してみようと思った。図書館では書き写すことばかりに集中していて、細部にまでは注意が届かなかったのだ。読み直すことで新しい発見があるかもしれなかった。
ルーズリーフをめくりながら、恵美は文章に目を走らせていく。けれど、どうにも内容が頭の中に入ってこなかった。しっかりと読もうと思っても、ふわふわと不思議な浮遊感が増すばかりでうまく集中することが出来ない。
思っていた以上に疲れが溜まってしまっていた。夕飯でお腹をいっぱいになるまで食べたのも良くなかった。頑張らなくちゃと思う一方で、瞼は知らず知らずのうちに重くなっていく。しばらくすると深い眠りについてしまっていた。
様子を心配して見に来たのは聡だった。ドアをノックし、返事がないのに首を傾げると、声をかけながらノブを引いた。
「入るぞ」
部屋の中で、恵美は電気を点けたまま健やかな寝息を立てていた。ため息と共に聡の表情に安堵の苦笑が浮んでくる。
「頑張ってるんだなあ」
呟くと、恵美に布団をかけてやった。電気を消して、部屋をあとにする。静かにドアを閉め、隙間からおやすみと声をかけた。その右手にはこっそり拝借してきたルーズリーフが握られている。悪いとは思ったが、ずっと動向が気になっていたのだ。一階に下りた聡は紗枝に声をかけると、二人して今までの成果を読み始めた。
「詳しいなあ。台風の進路と速度から範囲まで絞ってやったのか」
「この伝承とか結構気になるかも」
言い合いながらルーズリーフを読み終えると、二人は黙って微笑んだ。
「どうなのでしょうか。もう少しでわかりそうですか」
そう足元から訊ねてきたのは狐である。ちょこんとお座りをしたまま、返事を待っている。狐の力を持ってすれば進捗状況を把握するのは容易かったが、あえて封じ、恵美の努力を信じ続けていた。
「大丈夫じゃないかな。もうそろそろ見つかると思うよ」
聡が答えた隣で、紗枝は狐の小さな頭を撫でた。
「でも、あんたがいなくなるのも少し淋しいね」
「けれど、あるべき場所、帰るべき場所というものがありますから」
答えた狐に、そうなのかもしれない、と聡は思わされた。みんなそれぞれに、あるべき場所、帰るべき場所があるのかもしれない。
「ね、少しお酒でも飲まない」
「なんかあったっけ?」
「この間ちょっといいのを買ってみたんだ」
言って紗枝は棚の奥から一升瓶を持ってきた。
「お前も飲めるだろう?」
聡が床に座る狐に訊ねる。
「嗜む程度には」
「じゃあ決まりだ。紗枝、コップふたつと皿ひとつ」
「はいはーい」
それからしばらく三人で盛り上がった。屋根の上で、夜は静かに更けていった。
日が改まって、月曜日の放課後。恵美と柚木はまたいつものように図書室に来ていた。土日の間に調べたことを交換して読み直すためである。恵美はネット資料を、柚木は図書資料に目を通していた。かれこれ二十分ほど、二人の間には会話らしい会話が生まれていない。集中して読み込んでいた。
様子に気がついたのは、疲れを覚えて紙面から視線を持ち上げた柚木だった。
「どうかした?」
向かい側にそう声をかけた。恵美が一枚の用紙に視線を投じたまま硬直していたのである。
手にしていた資料を机に広げてから、恵美は逡巡して唸りをあげる。
「あのね、ここが少し気になるんだけど」
言うと、とある記述を指差した。身を乗り出して柚木がその部分に目を移し始める。途中からは手に持って読んでいった。
「これが、どうかしたの?」
紙面から顔を上げて柚木が訊ねる。資料を受け取ると、恵美は思いついたことを説明し始めた。
「ほら、この文には山の神様って書いてあったでしょ。でもって、私が調べた資料のここ。同じ山に関する記述だけど、狐の信仰のことが書いてあるじゃない。出所はそれぞれ違うけれど、関係があるんじゃないのかなあって思って」
「つまりあの狐は、山の神様なのかもしれないってこと?」
「わからないけれど、そうかもしれない。龍脈がどうこう、結構壮大なこと言ってたこともあったし、有り得なくはないんじゃないかなあって」
言いながら恵美は家にいる狐の姿を思い描いてみた。真っ白な毛並みに、ほんのりと青白く光るオーラのようなものを纏った狐。考えてみれば、妖怪と言うよりも神様の方がしっくり来るような気がした。
「じゃあ、この山で証拠が見つかればもう完璧なんだよね」
「うん。証拠って言っても、何でもいいんだけどね」
狐は山のモノである。土地に深く根付いているので、住み着いていた山の一部を持ってきさえすれば、その山が飛ばされる以前にいた山なのどうかがわかるのだと、事前に二人は教えられていた。
「じゃあ枯れ木でも拾ってこようか」
「そうすれば、もう全部わかるね」
達成感に浸りながら溌剌と口にしながらも、恵美は少しだけ淋しさを胸に宿していた。
図書館の窓からは、静かに沈んでいく秋の夕焼けが部屋の奥まで差し込んでいる。
〈 四 森の奥へ 〉
がたんごとんと、車体を振動させながら走行する小さな電車に、恵美と柚木は揺られていた。
はめ込みの大きなガラス窓の向こうには、迫り来る山々の崖がこれでもかと言わんばかりにせり出してきている。動き出してからかれこれ十数分間、ちっとも変わりなく後方へと流れ続けていた。なんともつまらない景色である。電車は山と山との間にできた谷間を縫うように、のろのろと二人を目的地へと運んでいた。
朝早くに起きたせいで、二人は必要以上の眠気に襲われていた。柚木は目を閉じてかすかな息遣いを立てている。隣に座る恵美も瞼が重たくなりかけているのには気がついていたが、どうしても寝付けなかった。緊張しているのかもしれない。ぼんやりとそんなことを思いながら、じっと窓の外を眺めていた。
この日、二人の朝は全力走から始まっていた。
まだ完璧に明けきらない空の下。とりあえず以前も出くわした公園で落ち合った二人は、時刻を確認するや、急ぎ最寄の駅へと走り出すことにした。早く家を出たつもりだったのだが、すでに時間がぎりぎりになっていたのである。プリントアウトした道順を学校で見ながら、出来るだけ早く起きなきないといけない、と柚木は口にしていたが、いくら早く起きたところで切羽詰った計画では同じではないか、と走りながら恵美は思っていた。
それが、もう三時間近くも前のことである。太陽はすでに上空を明るく蒼く照らし出していて、少なからず空腹も覚え始めていた。こんなことなら、もっとたくさんのおにぎりを買っておけばよかった、と恵美は流れる景色を見ながら悔やむ。朝食は、市中央の駅前にあったコンビニで買って早々に食べてしまっていたのだ。お腹を擦ると、切なさが一層増したような気がした。
電車は一定のリズムで振動しながら、目的の無人駅へとひた走る。合計二車両しかない電車には、二人の他に乗客の姿がほとんどなかった。恵美たちと同じ車両に乗っていたのは、杖に両手を載せたおじいさんと、少し離れた場所に座っている小さなハンドバックを大事そうに抱えたおばあさんだけである。もう一車両にしてみても、近隣に住んでいるのであろう老人たちがちらほらと確認できただけだった。
この人たちは一体どこへ向かおうとしているのだろうと、ふと恵美は疑問に思った。やれ勉強やら、やれ部活やら、はたまた溢れる娯楽のためか、限りなく切り詰められた時間を生きている恵美や柚木とは違い、静かに電車に揺られている老人たちには毎日悠久とも言える時間がめぐってきているのである。目の前に突然、ぽんと二十四時間分の自由を与えられたようなものなのだ。そういった生活が、果たしてどのようなものなのか。恵美には想像もつかなかった。
例えば本当に、唐突に自由な時間を与えられたとする。施しを与えてくれた人は、どうぞお好きに、ご自由にお過ごしくださいと、優しく言葉をかけてくれたとする。
そんなとき、一体どのように感じるのであろうか。
考えて恵美は、きっと自分だったら喜んで受け取るのだろうという結論に達した。一日とか二週間とか、それくらいの自由時間を与えられたら素直に嬉しいと感じるだろうし、使い道を考えるだけでもわくわくしてくる。二月くらい自由時間があったとしたら、半分くらい自堕落に生活してもいいような気がした。毎日のように夜は夜更かしを満喫し、朝は朝寝坊を謳歌する。
素晴らしい毎日ではないか。目的のない日々を夢見て、恵美は目を輝かせてしまった。
けれども。
逆接の接続詞を脳裏に浮かべながら、恵美は目の前のおじいさんに目を向けた。白い帽子がちょこんと頭に乗っかっている。杖を掴んだ手が枯れ枝のようにごつごつして見える。きっと、この人たちはそうではないのだろう。しんとそう思ってしまった。
不意におじいさんが視線を上げる。恵美は目が合ってしまった。どんな反応をしたものだろうか。思い少しだけ戸惑った恵美とは裏腹に、おじいさんは穏やかな微笑を湛えて、緩慢な動作で恵美の隣を指差した。
導かれるようにして振り返ると、柚木の頭が大きく船を漕いでいた。正面に向き直る。おじいさんはにかっと黄色い歯を見せて笑った。釣られて恵美も笑顔になってしまった。
「お嬢ちゃんたち、何しにこんな山奥までやって来たんだい」
口の中でくぐもる、少し聞き取りづらい声でおじいさんはそう言った。
「ちょっと調べ物に」
「ほう、調べ物かい。しかし、おまえさん方みたいな若い人が、また何を調べにこんな山奥に来たのかな」
「伝承とか民話を調べてまして。この地について興味深い記述があったので、休日を利用して来てみようってことにしたんです。何かご存知ありませんか」
「はっはっは。それはまた奇特な人たちだねえ。けれども生憎と思い当たる節はないよ」
そう言ってもうひと笑いしたおじいさんは、どこか懐かしむかのような穏やかな眼つきで二人を見つめていた。しばらくすると、そっと目を閉じて満足そうに頷く。恵美にはそれが一体どんな理由からくる動作なのかはわからなかったが、それについて詮索しようとは欠片ほども思わなかった。
がたんごとんと電車は揺れる。車内は静寂に満ちていて、とても心地がいい。恵美はこのまま時間が止まってもいいような気がした。振動は緩やかに体内の鼓動とシンクロしていて、眠りについているような穏やかな感覚を恵美に与えていた。そんな柔らかな時間がしばらく流れて、ふいに目を閉じていたおじいさんがゆっくりと口を開いた。
「昔はここいらにも、あんたらみたいな若いもんがぎょうさんおったもんだ。この電車も、休日となれば騒々しく賑わっとった」
老人が目を開ける。静かに車内を見渡した。
「だが、今はこんなありさまだ。若いもんはみいんな都会に出ていってしもうた。故郷のこの村を捨ててね。まあ、仕方がないんだろうがね。こんな山奥じゃあ仕事がない。ほしい物も買えないし、何かと不便だ。だから、べつにそれが悪いってわけじゃあないんだ。わしが若い頃にはそういったことが出来なかったから羨ましいくらいだよ。でもねえ――」
そこでおじいさんは再び恵美に視線を戻した。小さくため息をつくと諦めたかのように肩を竦めた。
「やっぱり少し心寂しいもんだよ」
呟いた姿はどこか小さく、その身体の中で蝋燭の火を大切に灯しているようだった。
アナウンスが流れる。電車が次第に速度を落としていく。止まった小さな無人駅で、バッグを抱いていたおばあさんと一緒におじいさんも電車を降りていった。最中、帽子を持ち上げた動作や、少しだったが話すことが出来て楽しかったよ、と口にされた言葉が、恵美にはとてもとても温かかった。
音を立てて扉が閉まり、電車は再び動き出す。がたんごとんと、速度を上げていく窓の景色を恵美はじっと見つめていた。
おばあさんがちょこちょこと素早く駅から出て行く。おじいさんは杖を突きながらゆっくりと出口へ向かう最中である。周りには誰もいない。奥に広がる集落には、人通りが皆無である。けれど立ち並ぶ民家から、かつてここにも活気溢れる生活が広がっていたのだと言うことがちゃんと想像できた。ぎゅっと胸を鷲掴みにされたような切なさを感じながら、恵美は流れ後方へ消えていく駅の姿をずっと見続けていた。
それからまたしばらく経って、電車は次なる駅に止まった。恵美と柚木は無人駅のホームに降り立つ。時刻はもう正午近くになっていた。太陽は穏やかな陽射しを放ちながら、上空の真ん中で照っている。周りを見渡す恵美の隣で、柚木が大きな伸びをした。
「んん、おはよう」
「おはよう。ぐっすり寝てたね」
「いやあ、あの電車気持ちよさ過ぎだよ。静かだし、人の気配はあんまりしないし。安らぐって言えばいいのかな。すごく穏やかだった」
目尻に浮かんだ涙を拭う柚木を見ながら恵美は、そうだね、と頷いた。
「そう言えば、おじいさんが寝顔見て笑ってたよ」
「うそ」
「ほんと」
答えると、柚木は額に手を当てて空を仰ぎ、身体全体で後悔をあらわにした。
「どうして起こしてくれなかったの」
「気持ちよさそうに寝てたから」
たとえそうであってもそこは起こすところだよ、と柚木は恨みがましそうに言った。
「大丈夫だよ。そんなに気にするようなことでもないし」
「何その言い方。恵美が言ったんじゃない、笑ってたって」
「ああ、うん。その、笑ってたには笑ってたけど、笑った違いって言うか、微笑ましく思ってたって言うか、そんな感じだったんだよ」
「どっちにしろ笑ってたんじゃない」
言って、柚木は拗ねてしまった。ごめんごめんと謝りながらも、確かに無防備だった寝顔を思い出しておかしくなってきてしまった。
「もういいよ。そんなに気も悪くしてないし。それよりさ、どうしようか」
少し煩わしそうに顔を上げた柚木は、周りを見渡しながらそんなことを言った。駅を出て辺りを見渡しながら、恵美もどうしようと口にする。来るまではよかったが、そこから何をするべきかまでは考えていなかった。立ち尽くしたまま数分間辺りの様子を確認する。やがて柚木が急に歩き出した。
「ちょっと、どうしたの」
「ん。まずは誰かに聞いてみようと思って。民宿かなんかも、探さないといけないでしょ」
なるほど。確かに一理ある。行動的な背中を追いながら、やっぱり柚木はすごいなと恵美は思った。
「誰もいないね」
車の通らない道路を歩きながら、先を進む柚木がぽつりとこぼした。後ろに続く恵美も、うんと頷いたきり他には何も口にしない。飛ぶ鳥の声も、歩いている二人分の靴音も、澄んだ秋の空に吸い込まれるようにして溶け込んでいった。四方を山に囲まれているにも関わらず、辺りにはかすかなせせらぎの水音が響いている。集落は静謐な静寂に包まれていた。
恵美は、何もないところだなあと辺りを窺って思っていた。民家や小さな雑貨屋、食料店などはあることにはある。けれど広大な土地に存在している人工物は、畑や田んぼがほとんどだった。そんな畑や田んぼですら、囲い込む自然と比べるとちっぽけな存在に過ぎない。ここでは自然が圧倒的に多数を占めていて、民主主義の頂点に君臨しているようであった。
どこまで行っても山ばかり。森があり、木々が生い茂っている。道路を歩いているだけでも、その漲る生命力はありありと伝わってくる。生み出された深い影の向こう側には、何かが息を潜めているように思われた。じっと観察するかのような視線が肌に突き刺さる。纏わりついて離れないままである。
少し強く風が吹きつけて、ざわざわと木の葉が音を立てた。紅葉に彩られた山を両側に控えて、かれこれ十数分歩いている。二人はまだひとりとして住人とすれ違っていなかった。遠くに姿を見かけることすらない。もはや時期が過ぎてしまったのだろう田畑には、刈り取られた稲の茎や皺枯れた農作物、そして役目を終えた案山子がぽつんと立っているだけだった。
もしかすると、ここには誰もいないのかもしれない。恵美と柚木は不安を覚え始めていた。住みなれた町なら、少し散歩すればすぐに生活音を聞くことが出来たし、向かえば必ず誰かと出会えることができたのだ。都会暮らしの二人に田舎道は静か過ぎた。その上疲れまで溜まってきていた。肉体的にも精神的にも、少し休憩がほしかった。
「ちょっと休まない」
先を歩く柚木は、背後からの声を聞いた。振り返り恵美と視線を交わしながらしばらく考えて、そうしようかと頷き返した。
道の脇の草地に腰を下ろす。恵美がショルダーバックからお弁当を取り出した。
「どうしたの、これ」
「朝起きたらテーブルの上に準備してあった」
きっと紗枝が作ってくれたんだろうと、恵美は説明した。
「わあ、嬉しいなあ。あたしおにぎりくらいしか準備できなかったら本当に助かるよ」
二人でお礼をしなければならないねと柚木が微笑んだ。その通りだと恵美は思った。
お弁当はとてもおいしかった。こんなにおいしいお弁当を食べたのは久々だった。紗枝の想いがこもっているからなのかもしれないし、恵美と柚木が感謝の念を抱いてお弁当を噛み締めていたからなのかもしれない。大きく広がる青空の下で食べるお弁当は格別だ。そう二人はしみじみと思った。
「おいしいねえ」
「本当に」
答えながら、恵美は水筒のお茶をすすった。温かなお茶は喉を通ってお腹に溜まった瞬間に、じんわりと内から身体を温めてくれた。
ごちそうさま、とあいさつをして二人は昼食を終えた。それからしばらく、呆然と草むらに座っていた。何もしたくなかったのだ。伸びやかな陽射しを浴びて、心地のいい風を受け、ただ目の前にそびえる山々を見ているだけで、どこまでも透明な気持ちになることができたのである。流れる時間はとてもゆっくりだった。現象はどんなときもふつふつと穏やかに感情に作用するものなのだなあと、ぼんやり思った。