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 部屋に入るや、恵美は制服姿のままベッドに倒れこんだ。うつ伏せのままじっと枕を抱き締める。ゆっくり寝返って仰向けになると、右腕を天井に向けて伸ばしてみた。薄暗い部屋はいつもよりも大きく見える。

 柚木に言われたことが重く響いていた。消そうとしても、向けられた淋しそうな表情が脳裏に焼きついている。肘を折って、恵美は視界を塞いだ。暗くなった世界の中心で、仕方がないじゃないかと思った。

 恵美は狐の助けになりたいのである。助けそのものとして、最後のときを迎えたいのだ。そのためには、一人きりでやりきること最低条件なのである。誰の手も借りてはならない。狐が受け取る想いが薄れてしまうからだった。恵美が抱いている感情を、ありのまま狐に伝えるために、山探しは絶対に一人だけで完遂しなければならないのである。

 そう、恵美は思い込んでいた。どうしようもなく信じてしまっていたのだ。

 確かに、狐のことだけを思うのならば人数を増やした方がよかった。作業は効率化するはずだし、より早く狐は山に帰ることができるのかもしれない。わかってはいたのだ。わかってはいたけれど、何かが邪魔をしていた。やっぱり嫌だと意地を張る声が恵美の心で叫び続けていたのである。

「どうしてなんだろう」

 声に出して恵美は考えてみる。柚木に対して抱いていた憤りは、もうどこかに消えてしまっていた。代わりに後悔が大きくなり始めていた。柚木は、八方塞になっていた現状に気が付いて助言をしてくれただけなのだ。本当に、純粋な好意だったのだろう。実際、新たな糸口にはなりそうだったのだ。山探しには光明がかすかな光明が差し込み始めていた。

 それなのに、ありがとうの一言が出せなかった。そればかりか、変に反発して悲しい思いをさせてしまった。重たい罪悪感に、恵美はもぞりと身体を横に向ける。

 目の前に部屋の様子が広がった。ぬいぐるみやポスターなどの装飾品が一切ない、殺風景な室内だった。鞄が床に投げ捨ててある。片付けないといけないと頭の片隅で考えながら、恵美は呆然と横になったまま身動きをとらなかった。

 どうして私はいつもこうなんだろう。

 同い年の女の子達と話が合わなくたってよかった。一人でいることには慣れていたし、淋しさなんて感じたこともなかった。関わりが希薄だということは、その分自分の空間と時間を持つことができるということだ。どんどん自分だけでやり遂げる力を身につけていけたし、確かな自信を持つようになっていった。

 けれど、十分に身の回りのことを思うようにできるようになった今になって、急に人との関係が大きく存在感を増し始めた。孤立していたはずなのに。放っておいてくれたらよかったのに。考えながらも、恵美は柚木が話しかけてきてくれたことが嬉しかったことを覚えている。結局、恵美は淋しかったのだ。感じてなかっただけで、ずっと淋しさを抱えていた。だからこそ、こうして柚木との関係に悩んでいるのである。

 だから、もしまた一人になったらと考えて、それが怖いから後悔をしている。たとえ交わしたやりとりが他愛のない一言二言だったとしても、柚木との間には確かな心地よさが潜んでいたのだ。嫌われてしまったらどうしよう。明日からどんな顔をして会えばいいんだろう。わからなくて、また後悔して、自分が嫌いになって、恵美はぎゅっと身体を抱き締めた。

 始めは、単に狐のためになりたかっただけだったのに。いつの間にか終わりのない螺旋階段を下り続ける羽目になっていた。周りは真っ黒。振り返っても、登る足場はもうなくなっている。足はぱんぱんに張っている。脇腹も痛い。もうこれ以上動きたくないのである。なのに、下へ下へと、進み続けなければならない。自動的に歩いてしまうのである。堂々巡りを続ける感情に恵美は随分と消耗してしまっていた。

 ぎゅっと目を瞑る。このまま眠ってしまいたいと、誰にでもなく願った。

「恵美さん。少しよろしいでしょうか」

 廊下から声が聞こえた。身体を起こしてドアに向かう。帰るとの宣言をしてからというもの、前にも増して眠り力を蓄え続けていた狐が、床にちょこんと腰を下ろして見上げてきていた。

「なに?」

 無表情で恵美は訊きかえす。

「山探しの進捗状況がどうなったかと思いまして」

「まあ順調だよ」

 一応はね、と歯切れ悪く付け足した。

「そうですか。いろいろと面倒を見てもらってばかりで、本当に恐縮です」

「いいんだよ、べつに。私が無理にやってるようなものだから」

 部屋の中に戻りながら答えた。そうだ、無理矢理やってあげているのである。不意に恵美は自らが善意の押し売りをしているのではないと思いついた。背後を狐がひょこひょこと付いて部屋に入る。

「こんなことを訊くのは失礼かとは思いますが、どうなのでしょう、いつ頃に山は判別するのでしょうか」

 ベッドを軋ませて、恵美はどうだろうと呟いた。

「もう少しだけかかるかもしれない」

「具体的にどれくらいかわかりますか」

「……どうしてそんなに知りたいの」

 狐は部屋の中央に座ってまっすぐ恵美を見返していた。

「これ以上皆さんに迷惑がかけられないからです」

「私は全然迷惑してないよ」

「そうだとしても、私が辛いのです。それに、山の様子も気になります。離れている間にどうなってしまっているのか、龍脈の状況など、私が管理しなければならないこともあるのです」

「龍脈って?」

「ありとあらゆる事象における、根源的な力の源です。龍脈は滞りなく、また一定の流れを維持しなければなりません。世界の均衡が崩れてしまうからです。現状はまだ安定していますが、これが少しでも崩れたら、もうどうなるかわかりません。土地が腐るかもしれないし、悪鬼が跋扈しだすかもしれない。地殻が揺れ動くことだって考えられます。あるいは酷い飢饉に見舞われるかもしれません」

 恵美は思いがけず狐の重要性を知ることになって目を丸くさせていた。そう易々と信じられるような話ではなかったが、現にしゃべることのできる狐なのである。有り得なくはないと思ってしまった。狐が早く山に帰らなければ天変地異が起きてしまう。

「ですので、私はできるだけ早く山に向かいたいのです。恵美さん、どうなのでしょう。いつ頃に山への足がかりは掴めそうですか」

 言われて恵美は、ぐっと下唇を噛んだ。確かに、いま判明している十前後の山の場所を教えるだけでも、狐にとっては喜ばしいことではあるに違いない。虱潰しにあたる選択肢が制限されるのだ、恵美の手柄はちゃんと生まれていた。

 けれど、それだけでは駄目なのである。狐にとっては十分かもしれないが、恵美にとってはまだ足りないのである。

 それに、柚木とのこともある。喧嘩まがいの別れ方をしてしまったのだ。一両日中に、その原因となったことを手放してしまっては、虚しさばかりが残って悔しかった。

 だんまりを決め込んでしまった恵美を前にして、狐はじっと視線を動かさない。ぴたりと同じ姿勢を保ったまま、恵美の返事を待っていた。

 けれども、どうやらどれほど待ってみたところで満足のいく答えはもらえそうになかった。体から力を抜くとゆっくり俯いて、わかりました、と口にした。

「まだそれほど性急にならねばならないときでもありませんしね」

 一言に、恵美は心臓を抉られたかのような痛みを覚えた。狐のことを思ってのことなのに。いつの間にか、欺瞞にまみれた偽善にすり替わってしまったように感じられた。

「ただ、もう少し周りに頼ってみてもいいのではないですか。紗枝さん、とっくに気がついていますよ。聡さんもです。あんまり無理しないでださいね」

 優しい言葉が辛かった。居心地が悪くなって、恵美はベッドに横になる。狐には背を向けてしまった。あの心の奥底を見つめる眼差しに、これ以上耐えられなかった。膝を抱えるようにして丸くなり、小さな声を出す。

「本当はね、いくらか候補があがってきてるんだ。その中に探してる山があるのかもしれない。それでもう十分なのかもしれない。でも、まだ駄目なんだ。私が満足できないの。我侭だとは思うけれど、納得できる形にしたいの」

「だから、教えられないのですか」

「うん」

「もう少し時間がかかると」

「うん」

「なるほど」

 恵美は気まずそうに寝返りを打つと、ごめんね、と狐に謝った。

「これじゃあ誰のためにやってるのかわかんないよね。自己満足のために本筋を見失ってる」

「でも、結果的には私のためになるのでしょう」

「それは、そうかもしれないけど」

「ならばいいじゃないですか」

 予想もしていなかった返答に恵美は驚いた。身体を起こして狐と真正面に向き合う。

「いいじゃないですかって、それだと遅れることになっちゃうんだよ。早く帰りたいんでしょう」

「けれども、恵美さんは頑張っていらっしゃる。それに、将来的に私の労苦も少なくなるかもしれない。龍脈にしてみても、あの大風のときに影響がでないよう管理し続けていたのです。そう簡単に支障をきたすことはないと思われます」

 あくまでも、できるだけ早く帰りたいのだけなのだと狐は言った。

「恵美さんがこだわりたいのならそうすればいい。それまでちゃんと待ちますから。あんまり長くなるようだと困りますけれども」

 恵美は寛容な狐に感謝していた。地獄に仏、山探しに狐である。知らず知らずの内に張り詰めていた緊張をほどくと、思わずため息を漏らしてしまった。同時に、あと少し、山探しを頑張ろうと心に誓う。

「ですが、ひとつだけ約束してください」

 狐がそう口にした。恵美の頭に疑問符が浮かぶ。

「約束?」

「そうです。どうかこれ以上無理はなさらないでください。私のためを思って、また恵美さん自身のために根をつめるのは結構です。ありがたいくらいです。ですが、それで紗枝さんや聡さんが気を病んでしまっては元も子もないのです。周りの言葉をちゃんと聞いてください。返答は正直に、現状を共有してください。そうでないなら、私は自力で山を探します」

 厳しい口調で断言されて、恵美はたじろいでしまった。

「約束ですよ」

 重ねた狐の尻尾がゆったりと左右に揺れているのを睨みながら恵美は、そんなことできるわけがない、と憤っていた。所詮、独善的な感情だけにまみれている押し付けがましい態度だとしても、それこそが望む最高の形なのである。肯んじてしまっては、恵美の本懐が果たせなくなるのである。狐には悪いが、こんな約束はできぬ、と口を閉ざしたまま無言の抗議を始めることにした。

 しかしながら、どれほど対峙していようが圧倒的な優劣の差に変化は見られなかった。狐が条件を提示してきているのである。恵美には約束を受け入れて山探しを続行するか、拒絶して断念するかの二択しか存在しなかった。二者択一という窮地に追い込まれた瞳には、揺れ続ける長い尾っぽが腹立たしく映った。

 恵美はしばらく粘っていた。けれども、だからといって劇的に状況が好転するわけでもない。呑むか呑まざるかでしか意思決定ができないのである。肺腑に溜まった空気を有らん限り吐き出しながら肩を落とした恵美は、わかった、ととうとう観念してしまった。狐の表情には心なしか意地悪そうな雰囲気が滲んでいる。

「そうですか。よかった。お返事を聞いて、私も安心いたしました」

 それはどうも、と恵美は投げやりに答えた。口惜しいが、もう我侭は言ってられなくなってしまった。

「さて、それでは早速果たしてもらいましょうか」

 言って部屋を出て行こうとした狐は、怪訝そうな眼差しの恵美に振り返った。

「お客さんが見えてますよ」

 重い腰を持ち上げて釈然としないまま部屋を出る。なにやら階下から声が聞こえているのに気がついた。小さすぎて会話の中心が誰だかわからない。おそらくは紗枝と誰かなのだろうが、恵美には思い当たる節がなかった。それに、狐の一言も気になる。釈然としないわだかまりを抱えたまま、恵美はこっそりと階段を下りた。二階に残った狐の体は、いつにも増して力強く発光していた。


 廊下から覗き込むようにしてリビングの中に目を向けるのと同時に、恵美は部屋のテーブルにとんでもない人物を目の当たりにして息を呑んだ。

 柚木がいたのである。

 向き合うように座っているのは、どうやら紗枝である。次々に質問を投げかけているようだった。柚木はそのひとつひとつに対して、困ったような表情を浮かべたまま丁寧に答えている。

 様子を伺いながら、恵美は頭の片隅で、夕食はもう出来たのだろうかとぼんやり思った。そしてできればこれが夢か何かで、気が付くとベッドで目が覚めればいいのにと思った。

 面倒なことになった。もうちょっと心の準備ができてから対策を練りたかったのに。熱を持ち出した頭が痛くなった。

 そんな恵美の姿を、何気なく視線を動かした柚木が捉える。瞬間、ぱっと表情に明るさが戻った。恵美の家にやってきたというのに、見知らぬ女の人の質問攻めに遭う羽目になっていた柚木の心は、少し折れかけていたのだ。

 ようやく落ち着くことができる。

 けれどそう思ったのも束の間で、柚木はすぐに数時間前の嫌な別れを思い出してしまった。吐き捨てた言葉と、向けられた恵美の表情。苦しくなって視線を床に投げつけた。

 紗枝も柚木の視線を追ってリビングの入り口に立ち尽くす恵美の存在に気が付いた。声をかけようとして、寸前で動きが止まる。恵美の表情が石みたいに強張っていたのだ。どうしたものなのかと、紗枝は目の前に座っている柚木のことを見た。するとどうか。こちらも何か居心地が悪そうに下を見つめているではないか。

 なるほど、と紗枝は万事を理解した。勘の鋭い人物なのである。一瞬のうちに、元気がなかった恵美と急に訪問してきた女の子とを一本の線で繋げてしまった。同じくしてこの場に自分が不要であることも悟ると、素早く席を立った。

「なんかこの子が話あるってさ」

 言うと、そのままキッチンに向かった。

 間仕切りがない分、本当は部屋を出た方がよかったのかもしれない。そうした方が二人とも腹を割って話すことができるのではないかとは思っていた。

 けれど、気になるものは気になるのである。誰かから野次馬根性丸出しだと罵られたって構わなかった。紗枝は最低限、何かしらの情報が得られるまでは立ち去るつもりはなかった。二人が全然話せなくて、本格的に邪魔にしかならないようなら、そのときに立ち去ればいい。楽観的に考えながら、流しの前に陣取った。

 そうだ、コーヒーでも出してあげよう。思いながら、観客気分で事態を楽しみ始めていた。

 対照的に当事者の二人は深刻な気まずさの只中にあった。恵美は入り口に立ち尽くしたまま硬直していたし、柚木も俯いたままピクリとも動けなかった。

 ぼうぜんとしたまま、恵美はどうして柚木がここにいるのだろうと考え続けていた。あんな別れ方をしたのに。こう突然に来られてしまっては戸惑うことしかできないのである。

「ちょっと、恵美。いつまでそんなところで立ってんのさ。柚木ちゃん、わざわざ来てくれたんだよ。早くこっち来て座りなよ」

 言いながら、紗枝は温かなコーヒーを注いだマグカップを柚木の前に置く。気が付いた柚木は小さく礼を言うと、まるで粗相をしてしまった子犬のような目をして恵美のことを見上げた。眼差しに驚いてしまった。そんな柚木を見るのは初めてだった。

 どういうことなのだろう。混乱を一層深めながらも、紗枝に促されるがまま恵美は機械的に柚木の対面に座った。目の前に湯気が立ち昇るマグカップが置かれる。かなり熱いコーヒーのようである。火傷しなければいいけれど。ぼんやりと柚木のことを心配した。

 ひとり立ったまま静観を続けていた紗枝が唐突に拍手を叩く。

「さてと」

 一声入れると、どうにも俯きがちになっていた二人の表情を交互に眺めた。にやりと浮かべた微笑に、恵美は嫌な予感を覚えないわけにはいかなかった。

「じゃあ、まずは柚木ちゃんにもう一回訊こうかな。もう結構遅いのに、どうして家に来たのかな」

 場を仕切り始めた紗枝を、恵美は煩わしく思った。余計なことをする。できれば黙ったままどこかに立ち去って欲しかった。けれども、一方で柚木と一対一で向き合う準備もまだ整っていなかった。何を言えばいいのかが浮んでこないのである。

 結果として、恵美には紗枝を疎ましく思いながら睨むことしかできなかった。当然のことながら紗枝はそんな視線など露ほども気にしない。若干にやけながら柚木からの返事を待っていた。

 恐縮した小さな声がリビングに響く。

「あの、さっきも話したように、恵美さんに謝ろうと思って。その、学校で少しあったので。お宅にまで向かうのはどうかと思ったんですけど、どうも落ち着かなくて。夜分遅くに申し訳ないです」

「そんなことないよ。大歓迎だよ。これからもいつでも来ていいからね。それにしてもさ、柚木ちゃんって律儀だよね。わざわざ家まで来なくても、連絡取る方法はあるだろうに」

「その、実はあたし、恵美さんの携帯番号もメアドも知らなくて。でも絶対今日謝らなくちゃいけないって思ってて、それでいろんな人に訊いてここまで来たんです」

「訊いたって、誰に」

「近所の人たちに。前に近くの公園で会ったことがあったから、この辺りに住んでるんだろうなとは思ってたんです」

「ふーん。結構行動派なんだ。いいよいいよ。好感持てるよ、そういうの」

 言葉に柚木は恥ずかしそうに俯いた。にししと、マグカップを両手に持って紗枝が笑った。それから質問の矛先を恵美へと変更する。さてと、再び口にした言葉からは、何やら不穏な重みが滲み出ていた。

「恵美。一体何があったのかなあ。わざわざ家まで謝りに来るなんて相当なもんだよ。なのに何でもないなんて言っちゃって。どういうことなのかね」

 少し凄味のある視線だった。恵美はたじろぎ、視線を逸らせる。正面の柚木を見た。いつものはつらつとしたオーラがどこかに飛んでいってしまった柚木は、同じ高さの椅子に座っているのにも関わらず、見上げるように恵美のことを見つめ返してきていた。

 気まずい。非常に気まずい。恵美はすぐにでも椅子から立ち上がりたかった。

 なかなか答えない恵美のことを思ってなのだろう、柚木が意を決したように紗枝に向き直る。それはと、説明しようとしたところで、紗枝の手に制されてしまった。

「ダメだよ、答えちゃ。今あたしは恵美に訊いてるんだから」

 いよいよこれは大変なことになったと、どこか冷静に恵美は考えていた。


 ごとり、と紗枝の置いたマグカップがいやに大きな音を立てる。椅子をひとつ移動させて、向かい合う恵美と柚木のちょうど真ん中、普段は椅子など置かない一辺に紗枝はゆっくり腰を下ろしていた。双方の表情をじっと眺めて、くるくるとティースプーンを回している。頬杖をつくと、恵美から視線を離さなくなった。

「恵美、黙ったままじゃわからないよ。言ってくれなきゃさ。何があったの」

 じりじりと詰め寄ってくる。鋭い視線を頬に感じながら、恵美は再び正面に眼を向けた。柚木は、もう恵美のことを見上げてきてはいなかった。一口も口をつけていないマグカップに両手を添えたまま俯いて、自らの膝を穴が開くほど見詰めている。視線はどこか虚ろなものに変わってきていた。思わずため息が出そうになる。

 どうしてこんなに深刻なことになっちゃったんだろう。

 恵美には、図書室で意固地になったことも、柚木に言われた言葉も、もう遠い昔のことのように思えてきていた。考えてみれば、ちょっとした行き違いだったのである。よくある話のひとつに過ぎなかった。なのに、どこをどう間違えたてしまったというのだろう。柚木はひどく憔悴しているし、関係ないはずの紗枝に本腰を入れられる羽目になってしまった。

 マグカップに口をつける。ちょうど飲みやすい温度になっていたコーヒーは、かなり苦くて恵美の舌には合わなかった。音を立てないようにカップをテーブルに置く。恵美は小さく深呼吸をした。重たい空気が肺の中いっぱいに入り込んでくる。ちっとも気持ちが晴れなかった。

 こんなのはもうたくさんだ。不意にそう思った。全部が全部、小さなプライドを抱えたままひとりで悩むのが原因だった。とても疲れる上に周りに変な気を使わせてしまって、自身も妙に強張ってしまって、なのに運が悪いと関係が悪くなってしまう。そんなのおかしかった。もどかしかった。馬鹿馬鹿しいと気づいてしまった。だから、これで最後にしよう。もうおしまいにするのだ。

 そう決心した恵美は、紗枝の視線をしっかり受け止めた。狐との約束を思い出す。言葉は案外するりと滑り出た。

「学校でね、ちょっともめちゃって。私が頑固だったからなんだけど、そのせいで嫌な別れ方をしちゃったの」

「ほう。それで」

「それだけ」

「え。なにそれ。他にさあ、もっとなんかあるんじゃないの。こう、罵り合って酷い喧嘩したとかさ」

「べつに。ないよ、そんなの。本当にそれだけだったの」

 真面目な顔をして答えた恵美を見て、紗枝は途端に面白くなくなる。

「じゃあなんで、こんなに柚木ちゃんは落ち込んでるのさ」

 言われて恵美も不思議に思った。明るくて少し派手で確かな考えを持っているのが恵美の知っている柚木なのだ。こんな些細なことでここまで落ち込むなんて、イメージに合わなかった。奇抜なパーカーを着ていた柚木ならば、もしくは夕焼けに染まった屋上に訪れた柚木ならば、もっとからっとして大きな笑顔を振り撒いてくれるはずだった。

「ねえ、柚木さん」

 声に柚木の肩はびくりと跳ね上がる。ゆっくりと面を上げると脅えた眼差しが恵美を射抜いた。世界中の全ての人を恐れているような眼である。本当にどうしてしまったのだろう。思って、恵美は戸惑った。こんなに傷ついた人を目にするのは初めてのことだった。

「あの、ね。私もう全然気にしてないよ。というか、私が全面的に悪かったんだし。意地張っちゃってたから。だからね、もう大丈夫だから。そんな顔しないで」

 そう話しかけたら、前触れもなく柚木の瞳が決壊した。ぽろぽろと面白いように涙が落ちてくる。掌で顔を覆うと、とうとう声を上げて泣き始めてしまった。指の間からくぐもった嗚咽が漏れ出してくる。肩が小さく震えている。

 慌てたのは恵美である。また何かやらかしてしまったのかと不安になった。謝罪だけを口にしたつもりだったが、もしかしたら思いもよらないところで傷つけてしまったのかもしれない。可能性が捨て切れなくて怖くなった。言葉はどこに切っ先を隠しているかわからないのである。泣き続ける柚木を前にして、混乱は加速度的に増していった。何をすればいいのか、何をしてはいけないのかがまったくわからない。ただただ呆然と座り続けることしかできなかった。

 次第に、どういうわけか恵美の目にも涙が浮んできた。俯いたままの柚木の輪郭がぼやけてきて、歪んでくしゃくしゃになり始める。どうして柚木が泣くのか、どうして自らも泣いてしまっているのか、何もかも全部がわからなくなっていた。

 一体どうして。どうして泣いてしまうんだろう。悲しいのだろうか。嬉しいのだろうか。悔しいのだろうか。当てはまりそうな感情を思い描き、そのどれもが違うということに気が付く。それならばどうして涙が止まらないのかを考え、繰り返し繰り返し自問を続けてみても、一向に答えは見えてこない。むしろどんどん深みにはまっていくかのようだ。

 止まらない涙を拭う。柚木と向かい合いながら、恵美はただじっと座り続けている。その内、呼吸までおかしくなってきた。ぶつりぶつりと断続的に横隔膜が痙攣する。しゃっくりのせいで息をするのも困難になってしまった。

 どこから出てきたのかも、どこに流れ着くのかもわからないままに、涙はただ溢れ出し続ける。溺れているみたいだ。ふとそう思った恵美は、しかし、いい加減不安になり始めていた。どうにかして涙を止めなくちゃと、強く念じる。目頭に力を込めて、止まれ止まれと念じるほどに、返ってしゃっくりが酷くなる。

 実に腹立たしい。

 思うと、涙の勢いが強くなった。

 止まれと念じる。

 一層呼吸が苦しくなった。

 苛立ちが募る。涙は次々に押し寄せてくる。

 もう訳がわからなかった。最終的に鼻水まで垂らして、恵美はしくしくと泣いていた。

 反対側では、こちらも柚木が似たような惨状を呈しながら泣き続けている。

 ひとり泣き続ける二人に挟まれることになった紗枝は、ここにきてようやく安易な考えで首を突っ込んだことを後悔し始めていた。湿っぽい空気に辟易しながらも、ぐっとため息が出るのを堪える。二人ができるだけ早く泣き止むことを切に願っていた。


「落ち着いた?」

 柚木の前にあったかいミルクを出しながら紗枝が声をかける。そっと手を添えてミルクを飲んだ柚木は、はいと小さく返事をした。紗枝はにこやかにキッチンへ戻っていく。恵美と柚木は向かい合いながら、どこか気恥ずかしいものを感じていた。

「ごめんね。いきなり押しかけた上に泣き出しちゃって」

 言う柚木の表情には、もう先ほどまでの儚さは浮んでいない。瞳はまだ赤く充血しているものの、皮膚の下にはいつもの力強さが漲っているようだった。柚木は手元のマグカップの中身をじっと見つめる。実はね、と顔を上げると、はにかみながら話し始めた。

「あたしさ、久しぶりだったんだ。久しぶりに友達って呼べる人に出逢えたの」

 柚木はへへへと頬を掻くと、静かに視線を落とす。

「そのね、昔はちゃんといたんだけどさ。父さんがアルコール中毒になって、外で暴力沙汰を起こして連行されちゃったんだよね。母さんもいろいろ頑張ったんだけど、DVで精神を病んじゃって実家に帰っちゃってさ。そのときにお前たちもこっちにこないかって言われたけど、父さんいるし、学校も変わりたくなかったし、だから妹とあたしとでどうにかできるって、言い聞かせて生活し始めたんだけどさ。気が付いちゃったんだ。みんなはあたしたちとは違うって。確かに一概には言えないのかもしれないけれど、それでもみんなには普通の生活が保障されているんだって。僻んじゃったんだ。あ、ごめんね。急にこんな重い話しちゃってさ。あたし、謝ってばっかだ」

 柚木は驚いた様子の恵美に苦笑してから目を伏せた。言わなければよかったかな、と少し後悔する。けれども伝えなければならないと思う気持ちの方が強かった。ぽつりぽつりと告白は続いていく。

「あたしが悪かったんだけどね。普通が羨ましくて、現状が理不尽思えて仕方がなくて、悔しくて腹が立ってみんなを突っぱねちゃったんだ。そんなことしても、意味ないのにね。事実、噂が立ってさ、値踏みするような目で見られるようになってしまった。一番されたくなかったことだったのに。だから、それからは貼り付けられたレッテルに負けないように、なんでも自分でできるようにならないといけないって、急きたてるように思い始めたの。お前らとは違うんだぞって。あんたたちとつるまない方が楽なんだって言い聞かせてた」

 そこまで言うと、顔を上げてまっすぐ対面を見つめた。

「でも、恵美を見つけちゃった。こいつなら話しかけても大丈夫だって思っちゃった。びびびってきたんだもの。どうしようもなかった。だからね、その繋がりが切れてしまうのがすごく怖くて。またいろんな視線を突っぱねながら生活するのかと思ったら怖くてさ。避けられたくなくて、嫌われたくなくて、猪みたいにまっすぐここまできちゃったんだ」

 ホント馬鹿だよね、と言って柚木は笑った。とても寂しい笑い声だった。澄み切った青色の寂しさが恵美の胸に突き刺さる。無意識のうちに身を乗り出して、柚木の掌を両手で包んでいた。

「ありがとう」

 一言だけしか言葉にならなかった。

 本当はもっと伝えたい気持ちがあるのである。辛かったんだねとか、独りよがりで悪かったとか、我侭ばかりでごめんねだとか。けれども、恵美にはありがとうと言うしかなかった。そして、その言葉だけで全てを伝えられたのである。

「これで一件落着なのかな」

 静観していた紗枝がそう口を挟んだ。

「あと、鬱陶しいからあんまり顔寄せてないでよ」

 追い払うように手のひらを振るわれて、恵美は慌てて身体を元に戻した。間近にあった柚木の睫毛の長さを思い出す。鼻先は触れそうだったのではないだろうか。唇は。吐息が暖かかったような気がしないでもなかった。

 見る見るうちに赤くなってしまった恵美を尻目に、紗枝は柚木に声をかける。

「夕食、食べていくでしょう」

「あ、え、夕食ですか」

「うん。結構量あってさ。あたしたちじゃ食べきれそうにないんだよね」

「はあ。でも家でも妹が夕食作ってると思いますし」

「電話しちゃえばいいじゃない。減るもんじゃないし。折角なんだしさ、食べていきなさいよ」

「でも……」

「でも、は言わない」

 キッチンに立って振り返った紗枝は、お玉をびしっと柚木に向けた。

「好意はね、素直に受け取っておくべきなんだよ」

 内心どきりとした。恵美は善意を無理矢理押し通そうとしていた一方で、自己中心的に拒絶していたのである。

「もしあれなら、タッパにでも詰めるし。とにかくさ、柚木ちゃんも食べていってよ」

 言い切ってしまえる紗枝が羨ましかった。自分とはなにが違うのだろう。考えても、恵美はすぐに答えを見つけられなかった。

 しばらく考えていた、柚木は妹と話してみます、と口にした。

「あの、電話を貸していただけないでしょうか。慌てていたせいで、携帯を家に置いてきてしまって」

 恥ずかしそうな表情に、紗枝と恵美は互いに顔を見合わせるとくすりと笑い合った。


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