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〈 三 山の捜索 〉
テーブルにはたくさんの食器が並べられていた。
まず真ん中になみなみと注がれたシチューの入った鍋があり、左右にはスライスしたフランスパンとナゲットが、また各々の目の前にはサラダとパスタとが準備してあった。その隣にはシチューを取るための器が用意してある。今日が何かの記念日なのかと勘違いしてしまいそうな、ちょっぴり豪華な食卓だった。
辺りには、きのこがたっぷり入ったホワイトシチューの柔らかな匂いと、クリームチーズのソースを和えたパスタの芳しい香りが充満している。四人掛けのテーブルには、恵美、紗枝、聡、獣の姿のままの狐がそれぞれ腰かけていた。
ごほんと、ひとつ咳払いをして紗枝が恥ずかしそうに三方を確認する。この期に及んで何を言い出そうとしているのかと、意図がよくわからない聡は不思議そうな目を浮かべた。恵美はどこか気恥ずかしそうに瞳を俯けている。狐はじっと机の上の料理を見つめ続けていた。
紗枝は大きく息をついた。
「今まで随分とご迷惑をおかけいたしました。意地を張り続けててごめんなさい」
言って頭を下げると、素早く集まった視線から避難した。しばらく卓上の料理を彷徨ったあとで、ゆっくりと顔を上げる。向かいの恵美と見詰め合うと、くすりとお互いに噴き出してしまった。自らの隣にいた聡に目を向けると、言葉を続ける。
「もう恵美ともばっちり仲直りしたの」
「ずっと居心地を悪くさせちゃってたこと、私からも謝る。ごめんね」
恵美も口にした。様子に聡がやれやれと呆れるように首を振る。安堵の鼻息は、一際大きいものになってしまった。朗らかな雰囲気に、狐の尾がゆったりと揺れていた。
紗枝が恵美に目配せをする。頷きを得て、ぱんと両手を叩いた。
「じゃあ、仲直りの記念に。乾杯」
カチリとグラスがぶつかり合った。
しばらくしてから、恵美は隣の狐がまだひとつも料理に手をつけていないことに気が付いた。様子を横目でひっそり観察する。もしかして獣の姿のままだから食べにくいのではないだろうかと思い至った。
そもそも今夜のメニューは、狐に食べにくい物ばかりだった。シチューは熱いし、サラダやパスタは器が小さい。テーブル中央のパンやナゲットなどは自力で取れるはずがなく、窮屈そうに椅子に座った姿は、少し気の毒に映った。恵美は身を寄せて狐に声をかける。
「もしあれなら、人間の姿で食べたらいいんじゃないかな」
きょとんとして振り返った狐にそっと頷くと、続いて眼光を鋭くさせてこう言った。
「でも、あれだよ。あの姿にだけはなったら駄目だよ。お兄ちゃんはきっとまだ根に持っているから。どうなるかわかったものじゃないから」
そして姿勢を元に戻す。向けられた紗枝と聡の不思議そうな眼差しに気が付いた。口に含んだスプーンを取り出してから恵美は二人に説明する。
「狐の姿じゃあ食べにくいだろうと思って。変身したらって言ったの」
「なに、こいつ変身できるの?」
聡が驚きの声を上げた。紗枝と恵美が頷き、経緯を紗枝が説明する。
「へえ。どうせならしたらいいのに。そのままじゃ何かと不便だろう」
声をかけられて、狐が少し困ったように目を伏せた。
「今は無理です」
「どうして?」
「昼に一度変化しましたから。もう必要な力が残っていないのです」
「あ、そうなの。悪いことしちゃったね」
「いえ。居候させてもらっている身ですし、お役に立てたのですから」
穏やかに言った狐に、紗枝はもう一度だけごめんねと言葉を重ねた。折角の力作を十分食べさせてあげられないのがもどかしかったし、感想が聞けないのが歯がゆかった。紗枝は料理を褒められるのが何よりも嬉しいのである。狐の口が利けるようになった今、聞きなれた恵美や聡からじゃなく、第三者の意見を聞いてみたいと願っていたのだった。
後で器に分けてあげようと決心して、くるくるとパスタに突き刺したフォークを回した。
「皆さん、今までお世話になりました」
唐突に狐が口にした。フォークを含んだところだった紗枝はそのまま目を見張り、話に華を咲かせていた恵美と聡は何事かと狐に顔を向ける。三つの視線をまっすぐに見返して、狐は再び口を開いた。
「長い間雨露を凌がせてもらった挙句、こうして温かな食事まで用意していただいたこのご恩は、易々と報いきれるようなものないものにございます。あの雨の日、恵美さんを見つけることができた私は本当に果報者でした。この想いはどれほど感謝の言葉を尽くしたところで、伝わるものではございません。本当にありがとうございました」
「どうしたんだよ、突然」
言った聡の方を向いて、狐は何かを口にしようとして少し言い澱んだ。耳を伏せ、目を細めて、一呼吸置いてから、ずっと心の奥に留めていたことを呟いた。
「もうそろそろ山に帰ろうかと思いまして」
「えっ」
驚いた恵美が声を上げた。狐は無礼を詫びるかのように小さく頭を垂れた。
「皆さんに介抱していただいたお陰で、体力も妖力も十分戻ってきたのです。お世話をしていただくまでもないのです。それに、このままこの場所に留まっていても、皆さんに迷惑ばかりかけてしまう。所詮古狐でしかない私には、してあげられることがほとんどないのです。ならばと、少しでも早くに出るべきだろうと思いまして。こういうことは、思い立ったが吉日ともいますから」
「……具体的にはいつ出るつもりなんだ?」
「数日中には、と思ってます」
訊ねてきた聡に、狐ははっきりと答えを口にする。聞いていた恵美は内心、そういう考えがあるのならば仕方がないと思っていた。恵美には長居を強要する資格も道理もないのである。
少し物悲しいが、わかった、気をつけて帰ってくれと、送り出してやるのが筋だろうと理化していた。実際、頭の中ではシミュレーションが成功していたのだ。このままずっと一緒に居られるはずもないのである。仕方がないことなのだ。別れはいつか必ず訪れるものなのだ。
けれども、恵美はどうしても納得することができなかった。驚いて固まってしまった身体はぴくりとも動こうとしなかった。まるで全身の筋肉が一斉にストライキに入ってしまったかのようである。そんなの嫌だと、どこかから叫び声が聞こえ続けていた。
様子を、紗枝が心配そうに見つめていた。
「……山の場所はわかってるのか?」
再び聡が口を開く。狐は黙ったまま答えなかった。台風に煽られて目を回していたせいで、どこをどう飛んで来たのかは正確に把握できていなかった。
「それだと大変じゃないか。帰り方がわからないんだしさ」
「覚悟の上です。それに、山に近づけば何とかなります。住み慣れた土地ですから」
「でも、それにしたって山の場所がわからないとどうしようもないじゃないか。当もなく歩き回るつもりなのか」
訊ねると、狐は頷いてみせた。
「どうなるかは未知数ですが、帰らなければならないのです」
向けられた固い決意に、思わず聡は口を噤んでしまった。共に生活してきた相手の門出であるのだから、少しでも手助けになってやりたかった。当て所も無く放り出すことは避けてやりたかった。けれども、それが枷になるのだとしたらもう手出しはできないのである。何もできないのかもしれない、淋しく思い始めていた。
重たい沈黙が場を支配する中、不意に恵美の目に光が走った。様子に紗枝は嫌な予感を覚える。狐を留まらせるために、無茶を言い出すんじゃないかと思った。
「私が探す」
しかしながら、一言は予想していたものとは正反対だった。紗枝は意表を突かれて少し拍子抜けしてしまう。俄然と眼差しを強くし始めた恵美は、意気揚々と狐に考えを伝え始めた。
「私の学校さ、結構図書館が充実してるんだ。地理のこととか地図とか郷土史とか、資料はたくさんあるの。調べればもしかしたら山の場所だってわかるかもしれないし、そうすれば道もわからないまま出て行くなんてことをしなくても済む」
「いえ、しかし――」
「私がしたいの」
口を挟もうとした狐を、恵美は遮った。
「そんな急にバイバイだなんてできるわけないじゃない。いい。「けれど」も、「でも」も、「だって」もないの」
段々と大きな声になっていった。恵美は落ち着くためにひとつ息をつく。険しくなった表情を崩すと、狐に向かって優しく話しかけた。
「少しの間だったかもしれないけれどさ、一緒にこの家に住んでたんだよ。同じものを食べて、同じ空気を吸って、眠ってさ。同じ屋根の下で生活してたんだ。ようやく馴染み始めてた頃だったんだよ。なのに、急に出て行くとか言っちゃってさ。行く当てもわかんないのに。突然すぎるし、無計画すぎるよ。黙って、はいそうですかって見ていられるわけないじゃない」
狐は何も言わない。反応に、恵美は少し気を良くする。
「それにさ、図書館は他にもいろいろあるし。大きなところ行けば、もっとわかる可能性だって増えると思うんだ。だからさ、少しの間でもいいから、ちょっと私に任せてみてよ。きっと役に立つと思うから。楽に帰らしてあげるからさ」
「……迷惑ではないのですか?」
「もちろん。そんなわけないじゃん。当たり前だよ」
言って大きな笑顔を浮かべた恵美を、狐は不思議そうに見つめていた。人とはよくわからないものだ、との認識を新たにしながらも、頭を下げてありがとうと呟いた。
「よし。じゃあ、食べよう食べよう。まだあるんだしさ。冷めちゃったらもったいないよ」
明るく恵美が口にする。おいしそうにシチューを食べ始めた。釣られるようにして、急な展開と、いつにも増して強く想いを口にした恵美に驚いていた紗枝と聡が手を動かし始める。ぎこちないものの、一瞬にしてもとの空気が戻ってきた。
「ね、食べてみなよ」
言って、恵美はシチューを差し出した。
「とてもおいしいです」
一口食べて、狐はぱたぱたと素早く尻尾を振った。
様子に紗枝がにやりとほくそ笑む。
聡は、これからどうするつもりなんだろうと、恵美を見ながら苦笑していた。
翌日から狐の山探しが始まった。
いつも通りバスに揺られ向かった学校で一通りの退屈な授業を終えた恵美は、早々に図書室へと足を運ぶと、普段は滅多に立ち寄らない地理や地図がまとめられた本棚にひとり向き合っていた。ぶ厚い背表紙の本がずらずらと並んでいる。一体どこから探したものかと、対峙する恵美は頭を悩ませた。
事前に狐からは、もう少しだけ詳しい話を訊くことができていた。いわく、その山はとても深くて人里から離れたところにあり、綺麗な河川が流れていて、それほど標高はなく、秋には紅葉で一面が多い尽くされるような場所であるらしかった。情報を絞り込むにあたって、これほどまでに頼りない条件も珍しいと恵美は思う。似たような山は、津々浦々どこにでも転がっているように思われた。
とは言え、啖呵を切った手前、諦めるわけにもいかない。手始めに恵美は、地図を調べてみようと思った。学校の図書館には郷土史や民話などの資料が少なかったのだ。どうせ調べるなら、郷土史や民話は大きな図書館で調べて、学校では地図を読んでみようと考えていた。
並ぶ背表紙の中から自県の本に手を伸ばす。ぱらぱらと中身を一通り眺めていた。とりわけ、山を中心にした地図を中心に読み込んでみる。最中恵美は、早々に考えが甘かったことを痛感させられ始めていた。
方角や距離、学校や交番などの簡単な地図記号なら確かにわかる。おぼろげながらも、地図を見ればその全体像が掴めるような気はした。けれど、それだけでは不十分だった。要求されているのは地図上の山々に違いを見出し、それぞれを取捨選択しながら場所を特定していくスキルなのだ。一般常識程度の知識を寄せ集めただけの、際立って地図に慣れ親しんでいるわけでもない恵美には、どれもこれも似たような山にしか見えなかった。
そもそも地図とは目的の場所がどのような地形をしているのかを調べる道具なのである。地形から場所を絞り込んでいくこともできないわけではなかったが、初心者には少々難易度が高すぎた。
ページを捲る速度がどんどん早くなっていた。あまりにも判別がつかないせいで、苛立ち始めていたのである。立体構造を無理矢理平面に収めようとするからだと、恵美は心の中で毒気づく。同時に、どうしようと焦りが先行しかけていた。
恵美は地図を読むのを諦めると、がっくりと項垂れて本を閉じた。こうも難しいものなのかと半ば絶望しながら思っていた。初っ端から大きな壁にぶち当たっていた。
地図を使いこなせない。
事実は、始まったばかりの山探しに大きな影を落としていた。
それから一週間、恵美は放課後になると足繁く図書室へ通い詰めた。挫折しかけた地図を長机に広げて、とにかく慣れるしかないと睨み続けた。その甲斐あってか、数日も経つと次第に視界は晴れていった。少しずつ山の形状を絞り込めるようになっていた。
そんな折、恵美は新たな情報を得る。狐がそれほど長く風に飛ばされていなかったと口に舌のだった。馬鹿みたいに大きな台風だったから、もしかすると遠く北陸や東海の辺り、強いては西日本のどこかから飛ばされてきたのかもしれないと心配していた恵美にしてみれば、これ以上なく優良な情報だった。ともすれば、全国の地図を調べなければならないのかと気が遠くなりかけていた頃だったのである。
最終的に、恵美は狐が口にした大体の飛行時間を参考にして山を十前後にまで絞り込んだ。本から顔を上げ大きく仰け反った恵美は目を閉じる。地図を見ただけで地形を鮮明に想像できるようになっていた。目頭を擦りながら、当分地図は見たくないと思った。
しかしながら、そうもいってはいられない。再び姿勢を戻して、恵美は作業に戻ることにした。ここからまた更に厳密に絞り込まなければならなないのである。どれも似たような構造をしている山ばかりだった。東西南北、場所の違いはあれど、なかなか思うように選定できずにいた。それぞれの地図のコピーを見ながら唸り、手詰まりな感を味わいつつも、恵美は懸命に頭を働かせ続けていた。
「なにしてんの。ここんとこ毎日来ているみたいだけど」
がりがりと頭を掻いていたところに声がかかった。俯いていた視線を持ち上げる。机の向かいに立っていたのは柚木だった。ぽかんとしたまま恵美は柚木の姿を見返す。ふにゃりと柔らかく笑うと、穏やかに口を開いた。
「髪、落ち着いてきたね」
「髪?」
「染めてたでしょ。前は明るすぎたけど、今は似合ってる」
「そうかな」
「うん」
言われて、生え変わり、地毛の色が目立つようになっていた髪を触っていた柚木は、ありがとうと返事を言った。
「で、まあそれは置いといて。恵美は何を調べてるのかな」
「えっと、ね。その、山をね」
「地図まで持ち出してさ、結構本格的にやってるよね」
「まあね」
答えながら、恵美は広げていた地図のコピーをしまい始めた。なんとなく嫌な予感がしたのだ。手伝うと、口にされそうで怖かった。立ち上がり、一冊だけ持ってきていた地図を本棚へと戻しにいく。その後あとを柚木はずっとついてきていた。
「こんなところ滅多にこないなあ」
恵美の背後で周りを見渡しながらそんなことを言う。恵美の心臓は大きく脈打っていた。
以前は狐を、そして今回は詳しく山を調べているところを見つかっていた。傍から見れば、珍しいことをしているように映っていたことだろう。訊ねてきたのが他の誰だったとすれば、恵美には誤魔化せる自信があった。けれど、相手が柚木となると話は変わってくる。彼女は本当に鼻が利く人なのだ。何かしら感じ取られている気配に、思わず舌を打ちそうになった。
座っていた机へと戻る。筆記用具をしまって、もう帰ってしまおうと思っていた。いろいろ書き込んだルーズリーフに手を伸ばす。バインダーに挟もうとしたところを、ひょいっと柚木に掠め取られてしまった。
「なになに、川が必要、広葉樹、あんまり高くない、この場所は少し人家に近いかもしれない――って、何これ?」
目を通した柚木が不思議そうに言った。
「返して」
出来るだけ冷静に、それでもいくらか角の立った声で恵美は言った。てこずることを覚悟していた。けれど、呆気なく柚木は返してくれた。机に置かれたルーズリーフを恵美は急いで綴じ鞄にしまう。そのまま立ち去ろうとした。
「何調べてるの」
背後から声がした。誤魔化しは要らない、本当のことを言ってくれなければ納得しないといわんばかりの気迫が伝わってきた。
柚木は間違いなく、狐と山とを結んで、恵美に訊ねてきている。
「ねえ。何を調べているのさ」
柚木の声は意地悪な響きを持って恵美には届く。肩に腕を回された。恵美はどうしようと混乱していた。もう誤魔化しきれない。はぐらかそうにも、言葉が浮かんでこなかった。
「隠し事は良くないと思うなあ」
言われて、恵美はとうとう白旗を上げた。がくりと肩を落とすと、連れられるままに図書館の長机まで戻ってきた。柚木と対座する。
「さあて、正直に話して貰おうかな」
訊ねる柚木の表情は、キラキラと輝く好奇心で鬱陶しいくらいだった。恵美はこれから口にしなければならない不思議な話のことを考えて頭が痛くなった。信じてもらえるだろうか。おかしな奴だと思われはしないだろうか、と不安になってくる。人の気も知らないで催促を繰り返す柚木が疎ましかった。ため息を吐いて、恵美は顔を正面に向ける。嬉々として身を乗り出していた柚木に一応の釘を刺すことにした。
「これだけは約束して。今から話すことは誰にも言わない。そして絶対に信じること。いい?」
「うーん、聞かないことに約束できないなあ」
「じゃあいい。話さない」
「冗談だって。誰にも言わない。全部信じる。約束する」
「本当に?」
「本当に」
「本当に、本当だね?」
柚木は頷いた。それを見て、恵美はひとまず安心した。身を乗り出すと、顔を寄せ合った柚木に狐の存在を打ち明けた。
「今ね、私の家に妖怪がいるの」
「妖怪?」
「そう。白くて青く光る狐の妖怪。変化したり、言葉もしゃべれる」
「まじで?」
恵美は頷いた。
「その狐なんだけど、この前の台風あったじゃない? それでこの町まで飛ばされてきちゃったらしいの。で、帰りたいと思ってるんだけど、帰り方がわからない。どこを飛んできたのかわかんないんだって。そこで私の出番。山を探してあげることにしたんだ」
「変化できるなら、なんかの術で変えればいいのに」
「それが、強力な術は元いた山でしか使えないんだって。土地との関係が深いみたいでさ、その場所じゃないと弱体化しちゃうんだって」
「鈍臭い上に面倒な奴なんだね」
「まあ、ね」
話を終えて上体を元に戻す。沈黙が二人の周囲を包み始めた。
恵美はずっとひやひやしていた。聞いている最中も、今も柚木の表情が変わらなかったのだ。何を考えているのかわからなかった。信じてくれたか心配で堪らなかった。もしかしたら、作り話だと思って、適当に合わせてくれただけなのかもしれない。馬鹿げてるなあと、内心笑っているのかもしれない。思うことは裏切りにも似ていたけれど、一瞬でも思ったら最後、澱のように恵美の心の底に溜まっていった。
窓を締め切った図書室の空気は微動だにせず、こちこちとやけに響く時計の音が恵美の気持ちを一層落ち着かないものにさせている。
「そっかー」
柚木が呟きにも似た声を上げた。目を閉じて数回頷く動作をする。見開かれた眼には、なにやら確固たる意思が宿っているようだった。
「わかった。あたしも手伝う」
恵美には流れるように口にされた言葉の意味が、一瞬よくわからなかった。呆然としたまま柚木の顔を見つめ返す。何とか口が動いてくれた。
「ちょっと待って。何勝手に――」
「いいじゃない。あたしもその狐見たいし」
「いや、でも……」
「ひとりじゃ限界もあるでしょう。それに効率も上がるよ」
間髪いれずに告げられた言葉に、恵美は口を閉ざしてしまう。確かに言うとおりだったのだ。現状は袋小路。精神的疲労も溜まってきていたし、もう一人自分がいたらなとも思ったりしていた。
けれど、恵美は自分だけでやりきりたかった。狐にひとりだけで何かを残したかった。見つけて救ったというプライドがあったし、形だけでも父親を帰らせてくれたことに対する感謝があった。それに報いるために、ひとりで山を探し出す必要があったのだ。
どうやってこの思いを伝えたらいいのだろうと恵美は思案する。目の前で、柚木が勝手に鞄からルーズリーフを取り出していた。しげしげと眺めたあとで恵美に向き直り、躊躇いなく断言する。
「やっぱり。行き詰ってる」
紛れもない事実である。恵美には俯くことしかできなかった。その後頭部を見ながら、柚木は畳み掛けるように言葉をかける。
「これ以上はひとりじゃ無理だよ。もっと多角的に物事を捉えなきゃさ」
「多角的に?」
「そう。例えば台風の軌跡から飛ばされた範囲をもっと特定するとかね」
まったくの盲点だった。柚木はしたり顔を浮かべている。ね、二人の方がいいでしょ、と言わんばかりの表情だった。それが恵美には気に食わない。少し語気を荒げながら柚木に向かって手を伸ばした。
「やっぱ、それ返して」
「だめ」
「返して」
「あたしを仲間に加えてくれないことには返すことはできません」
声に力を込める恵美とは対照的に、柚木はどこまでも飄々としている。まるで人質を取った誘拐犯のようだ。恵美は腹立たしく思った。交渉の場に出されたのは一枚のルーズリーフ、犯人の要求は手伝うことを認めることである。無論、刑事側としては素直に受け入れることのできない申し出である。睨み合ったまま、どちらも決して折れようとはしなかった。
恵美の表情は次第に剣呑になっていく。変化を観察しながら、柚木はだんだん悲しくなってきた。恵美の考えがわからなかったし、自分が拒絶されているのが辛かった。もう諦めなよ、と頭の中では言い聞かせていた。嫌がってるんだから、やめようよ、と。
その声にじっくり耳を傾けかけた途端に、全身の力が抜けてしまった。俯き、大きく息を吐くと、ルーズリーフを恵美に手渡す。椅子から立ち上がると、そのまま帰り始めてしまった。
急変した態度に恵美は驚きを隠せないでいた。手渡されたフーズリーフを片付けることさえ忘れていた。鞄を肩に掛け、柚木は廊下に出ようとしている。立ち止まると、戸惑いながらも後ろをついてきていた恵美に振り返った。
「恵美のことを思ってるつもりなんだけどな。駄目だね。うまく伝わらないや」
言い残すと、立ち去っていった。
声が、恵美の心臓を強く握り締めていた。向けられた表情が感情を掻き乱していった。
何がいけなかったのか、どうしてあんな表情をさせてしまったのか、恵美はちゃんとわかってはいる。けれど、それでも、提案は受け入れられないことだったのだ。ひとりでやらなければ意味がないことだった。絶対にひとりでやりきらなければならないのだ。
思い、荒々しくルーズリーフを鞄にしまって、恵美は早足で図書室をあとにする。なにも考えたくなかった。考えると惨めになってしまうような気がしていた。どうしようもなく何かが悔しくて、屹然と前を睨む両目には涙が滲んでいた。
じくじくと図書館での出来事を引き摺りながら帰宅した恵美を明るい声が出迎えた。何かいいことでもあったのだろうかとリビングの中を覗き込む。ミトンを嵌めた手を腰に当てて、紗枝はじっとオーブンの中を見つめていた。部屋の中は芳しい匂いで溢れかえっている。誘われるようにしてふらふらと背中に近づいた恵美は、肩越しにオーブンを覗き込んだ。
「何作ってるの」
「ん、ローストチキン。挑戦してみようと思って」
見れば、網の上に丸々と膨らんだ鶏が転がっている。周りにはブロッコリーやらゆで卵やらと一緒にたくさんの香草が散りばめられていて、とても豪勢に見えた。紗枝はオーブンを開いて照り映える鶏の表面にスープをまぶしかける。
「なかなか難しくてさ。手間かかるし、どれくらい焼けてるのかもよくわかんないんだよね」
振り返って紗枝は、困ったように頬を掻いた。
「ちょっと香草焼きっぽいんだね」
「うん。味には不安が残るから誤魔化せないかと思って」
「裏目に出なければいいけれど」
まったくだと紗枝は笑った。釣られて恵美も小さく微笑む。内心では、皮肉めいたものを感じていた。柚木と反目してしまった日の夕食に、記念日を祝うかのようなメインディッシュが出てくることになってしまったのだ。嫌がらせか何かと思ってしまった。とびきり悪趣味な冗談なのである。とんだめぐりあわせもあったものだと、虚しくなった。
「……夕食は楽しみだね」
空元気でそう言うと、恵美はその場をあとにしようとした。
「あのさ、もしかして、どっか調子悪かったりする」
紗枝の何気ない一声に、ぴたりと足が止まった。
「ちょっと元気ないみたいじゃない。らしくないっていうかさ。思いつめてることがあるなら、吐き出しちゃった方がずっと楽になるよ。抱え込んだままじゃ良くないよ」
恵美はすぐには答えなかった。答えを、完全無欠な答えを準備するだけの時間が必要だったのだ。背を向けたまま大きく深呼吸をする。振り返ると、満面の笑みを紗枝に向けた。
「そんなに気にしないでよ。ちょっと疲れてるだけだからさ。なんでもない。大丈夫だよ」
言って、足早に二階へと消えていった。
とんとんと軽快なリズムを刻む階段の音を聞きながら、紗枝は不安を覚え始めていた。恵美は何でもひとりで抱え込んでしまう性格をしている。今回も何か隠しているに違いないと、すでに勘付いていた。なにせ、向けられた笑顔にも、素早く立ち去った背中にも、間違いなく暗さが忍び込んでいたのだ。また誰の手も求めてはくれないのだろうか。考えるともどかしさが込み上げてきた。
ぐらりと、音を立てて鍋がふきこぼれる。火にかけていたスープのことをすっかり忘れていた。紗枝は慌ててつまみをしぼる。蒸発するスープの音がいやに大きく響いていた。