5
夕方。家路を辿るバスに乗って、恵美はずっと今朝の出来事を振り返っていた。
窓の外を町並みが滑るようにして後方に流れていく。ぼんやりと様子を見つめながら、これからのことを考えていた。言葉をしゃべって人と意思疎通を図ることができる狐が我が家に待ち構えているのである。どう扱ってどう接すればいいものか、問題は重く両肩に圧し掛かってきていた。
加えて狐は、今日まで恵美たちの好意を貪っていたのだ。妖術などというよくわからない力を用いて、おめおめと家の中に潜り込んでいた。疑うことなく与えていた好意が無理矢理引き出されたものだとするのならば、とてもじゃないが心中を穏やかに保つことは難しい。朝方は受け入れたようなことを口にしてはいたが、正直なところ、恵美には心から狐の行いを許すことはできなかった。
確かに仕方のないことではあったのだろうと思う。切羽詰った状況で、最後の最後まで手を伸ばさなかった、ある種の禁じ手であったのだとは信じている。けれども、いくらなんでも他者を操るなんて行為は、卑怯にも過ぎると感じてしまうのである。本能的な憤りを覚えてしまうのだった。
恵美には狐の判断がみみっちく思えて仕方がなかった。他にもやりようがあったのではないかと、どうしようもなく考えてしまうのだった。
ただ、結果として狐が家にいることに関してはすっかり認めてしまっていた。今更とやかく言ってもその事実は変わらないし、過去を振り返るよりかはこれからのことを考える方が幾分も建設的だと思っていた。恵美は基本的に前向きな思考の持ち主である。唯一の難点は、その思考が自分ひとりだけで完結してしまっていることにあった。
夕暮れに染まった町を見つめながら、恵美の脳裏には、今朝方の心底申し訳なさそうに項垂れていた狐の姿がよみがえる。彼、もしくは彼女に対して、これからなにができるのだろうと、考えて始めていた。繰り返すが、恵美は狐の行いを許したわけではない。しかしそれでも一時を共にした相手のこれからのことを、恵美は真摯に思い悩んでいるのであった。
停止したバスから、恵美はいつものバス停に降り立つ。家のある方角に目を向けると、空に大きな夕陽が燃え盛っていた。眩しさに、思わず目を細めてしまう。立ち並ぶ屋根の間に沈みゆく夕陽は、頭上を橙色に染め上げる一方で、東の山際に濃紺のグラデーションを作り上げていた。天頂付近にはちらほらとピンク色に染まった一帯も見受けられる。綺麗だなと思い、恵美は足を進め始めた。
こつこつと靴音が響く路地には、遠くから響いてくる廃品回収業者の喧伝と、立ち並ぶ家々から漏れ出すかすかな日常の物音が漂っていた。くんと鼻を鳴らせば、秋の澄んだ空気に馴染んだカレーや焼き魚の匂いなどが感じられる。ありふれた素敵な帰り道だった。恵美は今日の夕食はなんだろうと、誘われるようにして考えてしまった。
そうだ、折角しゃべられるようになったのだから、狐からは我が家の料理に対する感想を聞いてみなければなるまい。脳裏に浮かんでいた様々なレシピの間から、そんな考えが顔を覗かせ始めた。きっとすごく褒め称えてくれることだろう。あんなにがっついていたのだ、おいしくないと思っているわけがないのだ。食べてきた料理の中で一番を訊ねてみるのも面白いかもしれない。一緒に意見交換をして、ランキングを作ってみるのも一興かもしれない。
様々な楽しいことを思い浮かべながらも、足並みは徐々に鈍くなっていく。家の屋根が目視できる辺りまでやってきた頃には、重たい気持ちが澱のように溜まって、ぴたりと立ち止まってしまった。
今日も紗枝とはうまく会話できないのだろうか。
考えると陰鬱な感情が音もなく込み上げてくる。恵美としては早く元通りの関係に戻りたいと願っていたのだった。けれども、種を蒔いたのが自分である分、どうしても冷たい紗枝の態度を誹ることができなかった。むしろ、有らん限りの罵声を口にして気が済むのであれば、そうしてくれた方がよかった。膠着してしまった現状に比べれば、ずっと楽なのではないかと考えずにはいられなかったのである。
恵美は徹底的して紗枝から無視され続けていた。声をかけられることも、視線を向けられることもないのである。夕食時など最悪な毎日が続いていた。
なまじ向かい合って座っているせいで、漂う沈黙には突き刺さらんばかりの重圧が含まれていたのである。二人が同じ部屋にいるだけで、夕食は台無しになってしまっていた。料理に味がしない。紗枝のいない朝食や学校での昼食に安堵を覚えてしまうことが、恵美はとても情けなかった。一緒に食卓を囲む聡や狐に対しても申し訳なく思っていた。
扉の前に立った恵美の手は、近頃簡単にドアノブまで伸びない。扉の向こう側に進めば、また気の滅入る時間が待っているのである。仕方がないことだとは思いつつも、どうしても入りづらかった。ここ数日、玄関に入る前に毎日のように抱く感情である。紗枝も聡も、同じ気持ちになっているのかと思うと、恵美は悲しくなった。
ぐっと歯を食いしばってから、大きく息をつく。悲観的になっても、何も進展しないのである。気丈に振舞おうと恵美は思った。そして、もし今夜も変化が見られないとしたら、素早く夕食を食べて部屋に向かおうと決心した。部屋にさえこもっていれば、誰も嫌な気分にはなるまい。言い聞かせて、恵美は玄関の扉を開いた。
「ただいま」
「あ。恵美さん。お帰りなさい」
心持ち暗いあいさつをした恵美は、白い肌の見知らぬ中年男性の姿を玄関に見た。少し気まずそうな表情を浮かべている。つい今しがた家にきたらしく、右手にスーパーの袋をぶら下げていた。どこかで見たことのある服を着ているみたいだったが、どう考えても中身の年齢と一回りほどかけ離れたセンスを放っている。ちぐはぐな人物だった。佇んだまま、恵美はしばらく言葉を失ってしまう。
「どなたでしょうか」
何とか冷静になると、少し警戒しながら訊ねてみた。
「ああ、もしかして親戚か何かですか。一時期はお世話になりましたよね。で、そんなあなた方が今更なんの用でしょうか。もう兄が土地の所有者になっているのだから、とやかく言われる筋合いはないと思うんですけど。それともあれですか、またお金の催促ですか」
家の中には立ち入らず、なにやら思い当たる節があったらしい恵美は、玄関先に立ち尽くしたままじっと鋭く眼光を尖らせている。玄関の中で男性は気圧されてたじろいでしまった。
「恵美さん。私です。私。こんな姿になってますが私なんです。声に聞き覚えがありませんか」
「はあ?」
「えっと、そのですね。私は――」
「あー、恵美。帰ってきたんだね。おかえり」
割り込むようにして、リビングから顔を覗かせた紗枝が声をかけてきた。その軽快な声色に恵美は再び驚いてしまう。あまりの機嫌の良さに、気味が悪くなりそうだった。なにせ、前日までは口も利かない間柄だったのだ。目の前のおじさんに頭を殴られておかしくなってしまったのだろうかと、嫌な想像を思い浮かべてしまった。
いやいやいや、待て待て、落ち着こう、少し冷静になろう。恵美は自らに言い聞かせる。そして、目の前にいる人物をそんなに危険な人じゃないはずだ、と捉えなおした。なにせ、昨日畳んだはずの聡の私服を着ているのだ。昨夜は恵美が洗濯を畳む当番だったから、見間違えようがなかった。
やっぱりそうだ。今一度人物の服装を見直して恵美は確信を深める。そして、きっと紗枝か聡どちらかの知人なのだろう、とおおよその見当をつけた。
でも、だとしてもお前は誰なんだ。どうして声のことなんか口にしたんだ。そして紗枝には何があったのだ。
考える恵美はますます混乱に嵌まっていく。いつの間にか口を開いたまま言葉を失ってしまっていた。疑問符ばかりが浮かんできて、目の前でぼんくらのように困った表情浮かべているおじさんに対する警戒も、紗枝に対する負い目と不安も、とっくに吹き飛んでしまっていた。
忙しなく眼球を動かしていた表情に混乱を見て取った紗枝は、居心地が悪そうに立ち尽くすおじさんの肩を叩くと、恵美に向かって大きく微笑んだ。
「驚かせてごめんね。こいつさ、あの狐なんだよ。今日話してたらさ、なんか変化もできるって言うから、ちょっと買出しを頼んでみたんだ」
説明を受け、恵美は再び視線をおじさんへと向ける。表情は少し精彩を欠いていて、どこか気まずそうにも見えた。印象としては気弱で頼りないからきしダメな人物といったような感じである。恵美は、ほお、と嘆息の声を上げた。
「頼まれた買い物とやらには人の姿じゃないと行けそうにありませんでしたから」
狐は言い訳のように言った。そうして何を思ったのか、突然恵美に対して頭を下げた。
「とは言え、軽率な行動をしてしまい誠に申し訳ありませんでした。お怒りのほどは最もだと思います。何一つ弁明の立つところはございません。この姿は恵美さんには見せるべきではありませんでした」
突然のことに、恵美はもちろんのこと紗枝までもが驚いてしまった。
「どうしたのさ、いきなり」
紗枝が声をかける。頭を上げると、狐は二つの視線を見返しながら少しの間逡巡してみせた。再び俯くと、そっと結んでいた口を開く。
「変化するためには、その姿を強く想像しなければなりません。それこそ、細部に至るまで正確にです。それを怠ると変化はうまく成功しない。人との関わりが乏しい私には、正直難しい術であるのです。確かに、お三方を模すればよかったのかもしれません。これだけ共に生活をさせていただいているのですから、それなりの変化にはなったと思います。ですが、私にはお三方以上に強い思いを持って想像することが可能な人物がいました。より正確な変化をすることが必要だと思いましたので、この姿に変わることを選択したわけなのです」
「それは一体どういうことなのよ」
紗枝が訊ねた。人との関わりが乏しいはずの狐に、どうして生活を共にしている紗枝たちよりも詳しく知っている人物がいるのか理解できなかった。
狐は一層申し訳なさそうに目を伏せた。
「私には相手の考えていることや過去などがわかるのです」
一言に、恵美の瞳孔が大きく広がった。勢いよく狐へと歩み寄ったものの、もう一歩のところでぴたりと立ち止まってしまった。反応に、紗枝が不思議そうな目を向ける。狐は深く頭を下げている。
「なにを言ってるの?」
恵美が震えそうな声で訊いた。
「じっと瞳を見つめているとわかってしまうのです。流れ込んでくるといった方が適切なのかもしれません。――恵美さんの脳裏には、とりわけたくさんの顔が浮かんでいました。視線を合わせては目まぐるしく流れ込んでくる過去の中に、際立ってはっきりと浮かび上がった姿があったのです。抱かれた感情が強いほど、輪郭はありありとしてくる。ですから私は、一番変化しやすい恵美さんのお父上の姿を――」
言い終わる前に、恵美は狐の顔を両手で掴んだ。俯いていた頭を持ち上げると、まじまじと穴が開くかのように見つめ始める。
両頬をがっちりと挟まれた狐は、向けられたまっすぐで強い眼差しからすぐに目を逸らした。恵美の思考を、少しでも流れ込ませないようにするためだった。誰にとっても読まれたくない想いや感情はあることを、恵美の過去を読んでしまうたびに狐は学んでいた。今回こそは同じ轍を踏みまい。目を合わせないよう心がけたのは、純粋な良心からであった。
しかしながら、徐々に顔を挟む両手には力が込められているようである。負い目がある分、迂闊に身を捩ることができなかった。狐はまだ自由な手を動かして、側にいるはずの紗枝に助けを求めた。声が出せたらまだ楽だったのだろうが、目の前にいる恵美からは、発言さえも許さない重圧が突き刺さってきていた。
がさそごと力なく動くレジ袋に気が付いた紗枝は、すぐに狐が助けを求めていることにぴんときた。同時に呆気に取られていた思考も回復して、何かしなければならないと思い立った。けれど、具体的に何をどうすればいいのかがわからない。男手ひとつで兄妹を育てていたはずの父親が突然いなくなった話は聡からも聞いていたが、現状の恵美が何を思って行動しているのかが判別しない以上、いたずらに引き離すことも憚られた。
ただ、恵美が激情に身を任せて暴力にでる可能性も捨てきれなくはない。身勝手な父親に対する憤りや、そんな父親の姿を模した狐に対する怒りが、恵美の胸中を駆け巡っていることも考えられるのである。
仮に恵美が暴れるようなことになれば、何とかして押さえ込まなければならないだろう。それは今この場所に居合わせた紗枝の義務でもある。けれど、そうならないのであれば、できる限り自由にさせてあげるのが優しさなのではないだろうか。静観を続ける紗枝はじっとそんなことを考えていた。
結果として狐の要求には応じられなくなってしまうが、それは因果応報である。悪いが覚悟を決めてもらうしかなかった。ただ、何かあったときはしっかり動けなければならない。だからせめて自分だけは冷静にいようと、紗枝は強く心に誓った。
「……目を……」
かすかな呟きが聞こえたのは直後のことだった。紗枝にはすぐ声の主がわかった。恐る恐る耳を済ました狐も声の端々を理解し始める。両頬を挟んだ掌は、小刻みに震え始めていた。
「どうして……ちゃんと……てよ……」
口にする恵美はぽろぽろと両眼から涙を流していた。ぎゅっと瞼を閉じると、ずるずると力なく両手を下げてしまう。拳が弱々しく狐の胸を殴打した。
「目を逸らさないでよ。ちゃんと私と向き合ってよう」
言って項垂れてしまった小さな肩を見つめながら、狐は戸惑っていた。目を逸らしたのは恵美を思ってだったのに、裏目に出たことがもどかしかった。
様子をいたわしく見つめていた紗枝は、そっと震える肩に手を置く。掛ける言葉は見つからなかった。恵美の気持ちが落ち着くまで、静かに背中を撫でてあげていた。
やがて、恵美はゆっくりと呼吸を整え始める。目尻を拭うと恥ずかしそうに顔を上げて、不器用な笑みを紗枝と狐に向けた。
「目の前にいるのがお父さんなんだって思ったら、もう押さえが利かなくなっちゃって」
ごめん、ごめんなさい、と何も悪くないのに謝り続ける恵美に、紗枝は胸が押し潰されそうになった。どうしてこの子はいつもこうなんだろう。いろいろなことを考えているのに、いつも最後には押し込めてしまう。自分自身を巧みに制御して何事もなかったかのように平静を装う。あまつさえ、感情に揺らぎが生じようものなら頭を下げてしまうのである。拒絶にも似た未完成な自立を装った強がりを目にして、紗枝は思わず小さな頭を抱きしめてしまった。
突然の行動に恵美は驚いた。けれど、続けて打ち寄せてきた大きな感情の波に、呆気なく呑みこまれてしまった。少し背の高い紗枝の腕の中はとても温かくて、安らかな匂いに満たされている。一瞬強張った身体は、しかし次第に緩みほぐれていった。
紗枝はそんな恵美の耳元で静かに語りかける。
「謝らなくていいよ。誰も怒ってないし、気分も悪くしてない。ちょっと驚いちゃっただけなんだから。大丈夫。大丈夫だよ。周りのことなんて考えなくたっていいんだよ。それにさ、よかったじゃない。父さんが戻ってきてくれたんでしょう。奇跡みたいなことじゃないの」
紗枝はガラスのように脆くなっている恵美の身体を更に強く抱きしめた。
「だから泣いたっていいの。好きなだけ泣いていいの。止むまで泣けばいいんだよ。自然と流れる涙なんだからさ、きっといろんなものを洗い流してくれるよ」
言って恵美をゆっくり腕の中から引き出すと、依然として毅然な表情を保とうとしていた恵美に向かってにっこり微笑んであげた。
とうとうぷつんと張り詰めていた糸が途切れてしまった。俄かに表情をくしゃくしゃに歪めると。恵美はようやく声を上げて泣き出し始めた。
震える恵美の背中を、紗枝が穏やかに擦っている。出来事の元凶でありながらもひとり渦中から弾き出されてしまった狐は、大変なことを仕出かしてしまったのだと自覚しながらも、抱擁する二人の姿から朗らかな気持ちを感じ取っていた。
優しさか、慈しみか、はたまた愛情なのか、はっきりとした判別は難しかったが、確かな絆が二人の間を結び付けていた。一時は断裂し、修復が不可能なくらいにこじれていた二人なのである。喜ばしいことだ、と思わず微笑を浮かべていた。
そうして狐は自らが為すべきこと察知する。もうこの場にいる必要はないと理解していた。買い出した材料も冷蔵庫に入れなければならない。誰もいないキッチンの様子も気になるところだった。今晩の夕食は久々に紗枝が腕によりをかけた力作になっているのだ。台無しにしてしまうのだけは避けたいと、狐はそっとリビングへ移動し始めた。
紗枝の腕の中で泣き続ける恵美は、いつの間にかとても安らかな表情を浮かべていた。誰かに抱いてもらうなんていつ以来のことだろう。考える恵美には、紗枝の内面的な大きさがとても心地よかった。
玄関の扉を開いた聡が最初に嗅ぎ取ったのは、濃厚なミルクの香りだった。それからチーズにきのこ、小麦の匂いなどが次々と鼻腔をくすぐり始める。
「ただいま」
ネクタイを緩めながら靴を脱ぐ。温かな室内の空気を纏った恵美が、リビングから顔を覗かせた。
「おかえりなさい」
明るい声に、聡はどうしたのだろうと不思議に思いながら顔を上げる。久々に穏やかな表情の妹を見ることができた。面影には前日まで引き摺っていたはずの暗さが微塵も浮かんでいない。紗枝との関係が元に戻ったのだろうかと考えながら、聡は恵美が顔を引っ込めたリビングに足を向けた。
期待に胸を膨らませながら、そっと中を窺ってみる。二人はキッチンに並んで立っていた。顔を見合わせては、しきりに何かを話している。おそらく手順の確認や、指示を取り合っているのだろう。様子に聡はほっと胸を撫で下ろした。
これでようやくいつもの生活が戻ってくる。これまでの日々を思い返すほどに、喜びは大きくなっていった。
「もしかして、お前が何かしてくれたのか?」
もうどこにも圧力を感じない開放的なリビングの空気を心地よく思いながら、聡はキッチンから離れてひとり静かに床に座している狐に近寄った。
「いいえ。私はなにも」
「嘘を言うなよ。そうじゃなかったらどうしてこうなったんだ」
上機嫌にはしゃぐ聡を内心鬱陶しく思いながらも、狐は紗枝とのことを口にし始める。
「本当に何もしていませんよ。強いてあげるとするならば、紗枝さんに訊いてみただけです」
「訊いてみたって、なにを」
「家族についてです」
「家族?」
「ええ。家族です。聡さんが仰ってたんですよ。家族って難しいなって。私のような存在には無きに等しい概念だったので、お二方が出て行ってしまってから、思い切って紗枝さんに訊ねてみたわけなんです」
「……それで、あいつはなんだって」
「繋がりじゃあないのかって言ってました。好む好まざるに関わらず付いて回る、強靭な糸のようなものなんだと」
「……あいつらしい答えだな」
そっとキッチンに振り返って聡は感慨深そうに呟いた。
「そうなのですか?」
「ん。まあな。紗枝にもいろいろあったから」
目を細めた聡はしばらく沈黙したかと思うと、再び首を傾げていた狐に向かって口を開いた。
「で。もしかして、それだけなのか」
「なにがですか」
「だから、紗枝に訊いたこと。それだけでこんなに大きく変化するものなのか」
「ああ、なるほど。そういうことですか。紗枝さんにはもうひとつ質問しましたよ。まあ、質問というよりも関連した疑問のようなものだったのですが」
「なにを訊いたんだ」
「ならば現状はどうなのか訊ねてみたのです。紗枝さんたち三人は家族なのか、と」
聡は反応に窮した。まさかそんな際どい質問を狐が紗枝に向けるとは思わなかったのだ。何もいわない聡の態度を不審に思って、狐は尚も言葉を続ける。
「これも、聡さんが仰っていたことじゃありませんか。家族って難しいな、という一言は、すなわち聡さんたち三人を指していた言葉であったはずなのでしょう?」
「……まあ、そうだったけどさ。それで、あいつはなんて?」
「少なくともあたしはそうだと思っているって言ってました。もう二年も一緒に暮らしているんだからって。そうじゃなければ悲し過ぎるとでもいいたいような顔をしていました。だからなのか、少なくともということはどういうことなのか、と付け加えたら怒られてしまいましたけれど」
「そりゃあ、お前が悪い」
「やはりそうだったのですかね。訊きにくい気はしたのですが、疑問は解決しなければ気が済まない性質なもので。つい口走ってしまったんです」
聡はため息を吐き出したくなった。目の前にいるのは、しゃべりはするがやはり狐でしかないのである。物事の捉え方に根本的な差異があると認識しないわけにはいかなかった。
一方でどうにも釈然としない狐は更にこう続ける。
「紗枝さん、この頃はとみに苛立っているようではありませんでしたか。特に恵美さんとの雰囲気が悪かったようでしたし。どうにかしたいけれどどうにもできない。二進も三進もいかない袋小路で、ずっと家族のことに悩んでいるのとばかりに思っていたのですが」
「間違ってはいないよ。鋭い観察眼だ」
ただ少々率直に訊ね過ぎたことと、タイムリーであったことが誤算だったんだと、聡は狐の慧眼を褒めながら肩を落とした。野生の勘も働き過ぎては困るのである。視線を上げてぼんやりと小さな頭と向き合うと、おもむろに手を伸ばした。
「何はともあれ、ありがとな。荒治療にはなったみたいだ」
言いながら、聡は狐の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。荒っぽい扱いに思わず目を閉じてしまった狐も、聞こえた声に自ずと尻尾を左右に揺らしていた。
「本当にありがとうな」
手を離すと聡は、にかっと大きな笑みを浮かべた。表情を見上げて、狐は恥ずかしそうに俯いてしまった。
実を言えば、紗枝にはもうひとつだけ訊ねていたことがあったのだ。このままの状況が続いてもいいのか、との遠慮なく放った問い掛けに、紗枝は良い訳がないだろうと声を荒げていた。
「でも、どうしようもないじゃないの。もっと早くに、少なくとも恵美が謝ったときにちゃんと許してあげられたらよかったよ。でもできなかったんだもの。それから今日までずっときっかけがなくて、もう手のつけ方もわからなくて――」
「それでも、紗枝さんから踏み出さねばならないことなのではないのですか。恵美さんはもう謝ったのだし、順当に考えてそうするのが正しいと思いますけれど」
「そんなことあたしだってわかってるよ」
でも、と怒鳴った紗枝は泣いているかのように細い声で続けながら頭を振った。
「でも、どうすればいいかがわからないんだよ。謝ればいいんだよ。そうすることが正しいよ。でもそんなに簡単に口には出せないんだよ。馬鹿みたいに意固地なんだ、あたし。自分でもわかってるけど、変えられないんだもの」
随分と小さくなってしまった紗枝を見上げながら、狐は確かに難しいと思っていた。むしろ面倒だとさえ感じていた。嘆息をぐっと堪えて、そうであるならば、と再度話しかけてみた。
「べつに無理して話さなくてもいいんじゃないのですか。気持ちを伝える方法はひとつに限らないじゃないですか。私がいた山の近くにある山村では、定期的に村人が神社に供物を捧げていました。もちろん、私に対するものではありませんでしたが、ひとつひとつの穀物から伝わってくるものはちゃんとありましたよ。むろん、祈りがこめられているからなのでしょうけれども。言葉を用いない伝達は、確かに難しいと思います。けれども、そうだからこそ伝わる想いというものも、あるのではないのですか」
言い終わったときに、狐は紗枝の瞳に変化の兆しが現われたのを確かに見つけていた。その結果、まさか買い物に遣わされた挙句に、恵美に過去を思い出させる羽目になるとは考えもしていなかったが、現状の雰囲気から察するに、そのどれもがやぶさかでもなかったように狐には思われるのであった。
「よし。じゃあ、これで出来上がりだね」
タイミングよく紗枝の声が響く。見れば、恵美がテーブルに料理を並べ始めている。聡と狐は短く視線を合わせると、腰を上げてテーブルへと近づいていった。
「それにしても、すごい量だよ。ちょっと張り切りすぎだったんじゃないかなあ」
配膳を続ける恵美に言われて、紗枝はぺろりと舌を覗かせた。