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 玄関までは調子もよかったのである。ハリボテの勇気を振り絞って、どうにかこうにか持ちこたえることができていた。

 けれど、ぴたりと閉じた扉を前にした途端に、音を立てて崩れ去ってしまった。飛び出すときには頭の片隅にも残らなかったのに、逃げ出したい気持ちで一杯の恵美の瞳に、扉は鋼鉄製の門扉よりも重厚な威圧感を放っているように見えた。

 ドアノブに手を触れては引っ込めて、何もできないままにもう十分が経過しようとしている。

 大きく息を吸い込みながら、恵美は一度胸に手を当てた。

 どう足掻いたって、いつかは通らなければならない道だった。紗枝と顔を合わせないまま生活するなんてことは不可能なのである。うやむやにして気まずさばかりが残るくらいなら、早めに謝ってしまった方が気は楽だった。鉄は熱いうちに打て、ではないが、決心したが適時であるのだ。

 息を吐き出して、恵美は再度ドアノブに手を掛ける。もしかしたらもうピクニックに出かけてしまっているかもしれないと、適当なことを考えて気を紛らわせた。

 音を立てないようにそろりと扉を閉めて、足音に気をつけながらリビングへ向かう。そっと顔を覗かせると、即座に身体が固まってしまった。

 テーブルには紗枝が着いていた。手を組み、眉間に皺を寄せて、難しい顔で一点を睨みつけている。

 恵美はさっと周りの空気が冷たくなったのを感じた。やばい。そう思って、後ろ足を引いたのが裏目に出てしまった。廊下に置かれていた何かを蹴飛ばして、音に反応した紗枝とばちりと目が合ってしまった。

 がたんと椅子が床を叩く。紗枝が勢いよく近づいてくる。

 剣幕に、恵美は頬を叩かれるのを覚悟した。紗枝は言葉よりも先に手が出る人である。ただ、それで済むならばとも思って、ぎゅっと歯を食いしばった。

 けれども、待てども待てども、強烈な一撃が頬に訪れない。どうしたことなのだろうと不思議に思った恵美は、恐る恐る目を開いた。

 目の前に立っていた紗枝の瞳には、様々な感情が入り混じっていた。怒り、悲しみ、苛立ち、諦め。そのどれもが複雑に絡み合ってしまってほどけないから、睨まざるを得なくなっていた。

 きつく結んだ唇が震えているのを目にして、恵美は謝らなければいけないと強く思った。ごめんなさいと、身勝手に怒って家を飛び出して悪かった、と懸命に口に出そうとした。けれど、強張った顔の筋肉は弱々しく動くばかりで一向に言葉を紡ぎださない。やがてまっすぐに紗枝の顔を見ることさえできなくなってしまった。

 俯いた恵美の胸中を恐怖が支配していた。もう何をされてもかまわないから、この状況を変えて欲しかった。ごめんなさい、ごめんなさい、と唇は機械人形のように動いている。なのに、どうしても声にならないのだ。紗枝のことがただひたすらに怖くて全身の自由を奪われてしまっていた。

 やがてじっと後頭部を睨み続けていた視線が外れて、紗枝の気配が遠ざかった。戦々恐々として恵美が顔を上げると、すでにテーブルに着いていた紗枝は無表情にテレビのリモコンを弄り始めていた。

「あれ、恵美も帰ってきたのか」

 背後から暢気な声が響いた。二階から、外出用のカジュアルな服装に着替えた聡が降りてきたところだった。ぽんと、恵美の肩に手を置いてからリビングを覗き、テレビを見ている紗枝に声を掛ける。

「遅くなってすまん。準備出来た」

 聞いて、テレビを消した紗枝はすっと立ち上がる。ずんずんと廊下の方へ歩いてくると、何も言わず、視線を交えることさえすることなく、部屋の入り口に立ち竦んでいた恵美の横を通り過ぎていった。玄関の戸を、家が傾くのではないかというくらいの音を立てて、力一杯閉める。すれ違う瞬間に声をかけようとしていた恵美を誹るかのような荒々しさだった。

 呆然とリビングを見つめる恵美の眼差しには、すぐに謝れなかった後悔が滲み始めていた。

 閉ざされた扉と恵美の背中とを交互に見て、聡はやれやれと頭を掻く。キッチンからサンドウィッチやコーヒーなどが入ったバケットを持ってくると、じっと床に俯いたままの恵美に声をかけた。

「あいつなあ、ずっとお前のこと心配してたんだよ」

 言われて、びくりと小さな肩が飛び上がった。その心境を理解しながらも、聡は静かに言葉を続ける。

「喧嘩したんだってな。起きてきて俺もびっくりしたよ。紗枝のやつ、何度もどうしよう、どうしようって繰り返してさ。そんなつもりはなかったのに、お前を傷つけるようなこと言っちゃったんだって、すごく後悔してた。家の周りまで探しに行ったくらいなんだぜ。まあ、戻ってきてからは理不尽なんだったって、怒ってたけどな。でも、それでもさっきまで椅子に座って、ずっと恵美のこと待ってたんだよ」

 恥ずかしさと情けなさで、全身が崩れていきそうだった。恵美は、ぎゅっと両手が真っ白になるまで拳に力を込める。噛み締めた下唇からは血の味がしたような気がした。小刻みに震える頭に聡は優しく掌を置く。無言のまましばらく撫でると穏やかな声でこう訊ねた。

「なあ、恵美。お前も一緒に行かないか」

 提案に、しかし恵美は首を大きく左右に振って返事をする。行けるわけがなかった。そんな資格はとっくに破棄されてしまっていた。

 反応にため息をひとつ吐いて、そっか、と聡は残念そうに呟く。恵美の横を通り抜けると、玄関へ向かった。

「じゃあ、行ってくるわ。留守番、頼むから」

 手をドアノブにかけて、身体を半分外に出した。扉を閉める前にもう一度だけ恵美に向けた表情は、聡には珍しく厳しいものになっていた。

「余計なお世話だと思うけど、帰ってきたらちゃんと紗枝に謝れよ」

 それきりだった。扉はぴたりと閉じてしまった。

 恵美はしばらくの間その場に立ち尽くしていた。激しく荒波立つ感情に揉まれて、身動きが取れなかった。

 そこに狐が静かに近づいてくる。二人が出て行ったドアを不思議そうに見つめてから、恵美のことも見上げた。

 まっすぐなクリアブルーの瞳に見つめられて、恵美は堪らず視線を逸らす。そのまま足早に二階へ、自室へと引き上げてしまった。

 ひとり階下に残された狐は、途方に暮れた様子で薄暗い二階を見上げていた。それから再び玄関を振り返る。ため息のように鼻を鳴らすと、静々とリビングに移動した。

 紗枝が狐を抱き、恵美が作り上げてくれたベッドの上を少しの間ぐるぐる回る。しばらくうろついてから、どさりと体を落ち着けた。丸まって大きく息をつくと、悲しげに瞼を閉じた。

 家主が誰もいないリビングは痛ましいまでの静けさに包まれている。

 白い狐の寝息が、そっと響き渡っていた。


 順調に快方へと向かう狐の体調は、すこぶる元気になってきていた。少々度が過ぎるほどである。決して家の調度を傷付けたり壊したりするようなことはなかったが、有り余る体力ものをいわせた悪戯の数々に三人は手を焼き始めていた。はしゃぐ狐は今まで動けなかった分を取り戻さんとするかのように、終日活発に動き回るようになった。

 あるとき、狐は唐突に自らの尻尾と追いかけっこをしてその場にぐるぐると回転し、テーブルにぶつかりそうになった。またあるときは、何がしたいのかよくわからないけれど、何もない場所で急に飛び跳ねて、飾ってあった花瓶を倒しかけた。家内探検も専らブームであるらしく、廊下の突き当たりにある風呂場や脱衣所に忍び込んで辺りを物色するのはもちろんのこと、玄関の靴箱を鼻と前足とで器用に開けて中身を確認したり、勝手に二階にある三人の個室に侵入するなんてことも度々起こすようになった。

 現場を目撃される度に、狐は三人から注意を受ける。始めのうちはやんわりと、しかし回が増すごとに三人の注意は過激に、少しずつ攻撃的にもなっていった。

 頭を叩かれながらのお叱りに、狐はしゅんと尻尾を縮こまらせた。そればかりでなく、身体までも小さくさせていた。とても怖そうな、怯えた態度を見せるのである。耳を伏せ、力なく項垂れて、本当に心から反省しているような恰好になって、行儀よく叱られるのである。

 もうしないこと、などと口にした暁には、聞き分けよく頷いているようにさえ見えたくらいだった。怒り心頭となっていたはずの三人も、この態度に際しては無碍に言葉を重ねられなかった。罪悪感にも似た感情を抱いてしまうのだ。狐の反省は猛者と呼ぶに相応しかった。間違いなくプロフェッショナルな仕草であり、仕事というに相応しかった。

 だからなのか、翌日になると悪戯めいた行動が再開さてしまうのである。三人には狐が本当に反省しているのか、それとも演技なのかがわからなくなりかけていた。仮に演技だとするのならば、狐は相当な役者であるに違いなかった。叱る→反省するの関係は、不毛極まりない泥仕合の様相を呈し始めていた。

 加えて板倉家にはもうひとつ厄介な問題が横たわっていた。恵美と紗枝との仲がなかなか元に戻らないのである。家の雰囲気は日増しに冷え込みようを厳しくさせ続けていた。

 あの日、ピクニックから帰ってきた紗枝に、恵美はちゃんと謝った。ごめんなさい、いきなり飛び出して悪かったと口にして、深く頭を下げたのだった。

 成り行きを見守っていた聡は、これで万事解決だと高を括っていた。そこまで根は深くないと思い込んでいたのだった。

 けれど、人の心というものはそんなに簡単なものではない。

 もういいよ、と素気なく言った紗枝の声には、未だに棘が含まれていた。背後に立って聞いていた聡は目を丸くさせてしまった。恵美の横を通り過ぎるらしくない彼女の背中を見て、頭を下げたままの痛ましい妹の姿を見て、急いでリビングへと入りかけていた後姿に歩み寄った。

「もういいじゃない」

 聡は紗枝の肩を掴んで言った。「謝ったんだからさ、もう許してやれよ」と。

 言葉に俄然として振り返った紗枝は、刃物のごときに眦を尖らせて、許してるよと答えた。怒声のような声色だった。踵を返すと、そのままリビングに向かってしまう。聡は向けられた感情の鋭さに気圧されてしまっていた。外にいた間は、そんな素振り欠片ほども見せなかったのに。驚きつつも、やがてふつふつと腹立たしさが沸き立ってきた。恵美は謝ったのだ。どうして未だにへそを曲げているのか釈然としなくて憤っていた。

 勇み鼻息を粗くさせてリビングに向かおうとした兄の足を、恵美が諌めた。肘の辺りを掴まえて、弱々しい笑みを浮かべたまま、小さく首を左右に振る。

「いいの。私が悪いんだから。紗枝さんは悪くないよ。ひとつも悪くない」

 そんな風に言われてしまっては、聡としても立つ瀬がない。腹立たしさ燻らせながらも、しぶしぶ追撃の手を収めることにした。

 見れば、キッチンでは紗枝が夕食の準備を始めている。どうして、の一言を堪えることが難しかった。消化できずに溜まった歯がゆさは、やがて詰問の矛先を恵美へと変える。お前はそれでいいのかと、背後に振り返った。

 聡を見つめ返したのは、ちょこんと床に座っていた狐の眼だけだった。二階から扉の閉まる音が聞こえる。階段の上に広がる薄闇を仰ぎ見てから、狐に視線を戻し、聡は深くため息を吐いた。リビングに向かう。狐はてこてことその後ろに付き従った。

 黙々と作業を続ける紗枝の背後に立つ。

「あんな言い方ないんじゃないか。あれじゃあ許したようには聞こえないよ」

 疲れたように口にすると、素早く紗枝が振り返った。

「言い方なんてどうだっていいじゃない。もういいって、あたしはちゃんと言ったんだからさ。もう全部いいってことなの。気にしてないってことなの。ちゃんと許してるのよ。どうして聡にとやかく言われなきゃなんないのよ」

「少し落ち着けって。何をそんなにイライラしてるんだ」

 そんなの自分自身に対してに決まってる。視界が赤く染まっていた紗枝は、心の中で忌々しく呟いた。格好良く割り切って、もういいよって笑いかけることが出来ていたならどんなによかったことだろうと、大人気ない対応を思い出しながら後悔していた。

 頭ではわかっていたのだ。けれども、どうしても心の方が受け入れられなかった。ぐじぐじとこんがらがったまま整然としない感情の粗に、紗枝は腹を立てていた。冷蔵庫から取り出したキャベツに、もどかしさを思いっきりぶつける。

 荒々しく料理を再開させた紗枝の後姿をぼんやりと見つめながら、聡はどうしたものかと肩を竦めていた。どうしてこうもうまくいかないんだろう。思って、悲しくなってしまった。包丁が勢いよくまな板を叩く音だけが虚しく響いていた。

 その後の夕食は、更に気分の悪いものとなってしまった。陰鬱な空気が重層的に天井近くまで積み上げられていた。

 皿に盛り付けられた回鍋肉をつつきながら、聡は懸命に話を繋ごうと意識した。けれど、会話は聡を中心としてハの字にしか繋がらない。向き合っているにも関わらず、紗枝と恵美の間にはひとつも会話が生まれなかった。

 食後、恵美が自室へ引き上げたあとで再び聡は紗枝に話しかけた。

「どうにかならないのかな」

 流しに向いたまま紗枝は鋭く言い放った。

「出来るならとっくにしてる」

 ごしごしと力の限り押し付けていたスポンジは、中華鍋の頑固な焦げをなかなか落とすことができなかった。会話する相手を失った聡は仕方なく狐に向かって独り言ちた。

「なんでだろうな。家族って難しいなあ」

 盛大なため息と共に項垂れた頭を、狐は不思議そうに見つめていた。


 翌日から秋の長雨が降り始めた。

 板倉家のぎずぎずした毎日は相変わらず続いていた。恵美も紗枝も聡も、少しずつ精神をすり減らしていた。変わりないのは狐だけである。以前にも増して活発に振舞い続けていた。様子はどこか滑稽で、道化のように目立っていた。


 数日間降り続いた雨がようやく上がった夜のことである。

 その日は新月で、濃紺の夜空には一面に星が煌々と瞬いていた。けれども、か細い光では真夜中のリビングまでは届かない。暗闇に沈んだ室内には時を刻む古時計の断続的なリズムが反響していた。しんと張り詰めた沈黙は、まさしく静寂というに相応しかった。

 ただ一箇所だけ、部屋の隅にある狐の寝床だけがほのかに青い光を放っていた。毎夜寝静まるのに併せてほんのり発光を強める白い狐は、いつもなら深い夢の中にいる時刻であるはずなのに、今夜だけは窓の外を眺めていた。

 床に腰を下ろして、窓にかかるカーテンの隙間からじっと夜空を見上げている。濃紺の星空に灯る星の数をひとつひとつ数えているかのようだった。じいっと、時が経つのを忘れたかのように、狐はいつまでも同じ姿勢を崩さなかった。

 けれども、不意に今までピンと立っていた耳をぱたりと閉じてしまった。視線までも落としてしまったその姿は、見様によっては項垂れているようにも見える。しばらく俯いていた狐は、やがて再び夜空に目を向けた。

 新月の闇夜。光を纏った狐の姿は一層妖しく、浮かび上がった純白の毛並みが清廉に映えていた。


 翌朝はよく冷えた。放射冷却が厳しかったらしく、恵美は布団から抜け出すのが億劫でたまらなかった。素足のまま床に触れると、ぞくぞくと背中が粟立っていくのがわかる。肩を抱いたまま急いで階段を降りると、キッチンに立った。温かいミルクを作らねば。恵美の頭の中はそのことだけに埋め尽くされていた。

 ミルクパンで手早く牛乳を温める。マグカップに注いで、スティックシュガーを半分加える。湯気がもあもあと湧き立つ白い液体を、恵美はゆっくりと口に入れた。じんわり身体が温かくなるのに併せて、ほっと心が安らいだ。凝り固まった全身もほぐれていくかのようだった。

 マグカップを包んだ両手にも温もりを感じながら、恵美はまだ狐にあいさつをしていないことを思い出した。目を向けると、窓辺で丸まった狐はぴたりと瞼を閉じている。そっと、睡眠を邪魔しないように近づいて、体を撫でながら声をかけた。いつもどおりの無反応。それでも恵美は満足そうに頷く。立ち上がるとカーテンを開けて、朝食を作ろうと再びキッチンへ戻っていった。

 途中、足がもつれた。上体が傾き、転びそうになる。

 咄嗟に右足を前に踏み出して身体を支えた。振動に、床にミルクが少しだけこぼれる。危なかった。恵美は冷や冷やしながら思った。

 強く踏み込んだせいか、右足のかかとがじんじん痛かった。ひょこひょこと右足をかばいながら、恵美はキッチンへと向かう。その背後ではいつもとは違う朝が始まりを告げていた。

 閉じられていた狐の瞼が細かく痙攣する。髭がひくひくと上下すると、ひとつの線になっていた眼がぱっちりと開かれた。虹彩を収縮させて辺りを確認しているのは空色の瞳である。狐はのそりと上体を起こすと、朝食を作っている恵美に向かって歩き出した。かちゃかちゃと床と当たる爪を鳴らしながら近づいていく。すぐ後ろに腰を下ろすと、背中をじいっと見上げた。

「おはようございます」

「おはよう。今日は早いんだね」

 言って恵美は顔だけ振り返る。聡が起きてきたのだと思っていた。けれど、廊下へと続く扉の前にも、ましてやリビングの中にも、どこにも兄の姿は見受けられない。あれ、と恵美は不思議に思った。唯一見つけられたのは、すぐ後ろに座っていた狐だけなのである。

 まさか、と恵美は思った。そんなはずがないと信じたかった。しかし、聞こえた声はどうにも聡のそれではなかったような気がするのである。極めて中性的な、幼くも老いてもない、なぜか自然と耳に飛び込んでくる声色だったのだ。

 今まで一度も聞いたことのない声だった。おおよそ人間には発声できない、不思議な透明感に溢れた響きだった。

 困惑と共に見下ろされた狐は、ゆっくりと口元を動かす。

「今日もお早いんですね」

 恵美の手からマグカップが滑り落ちた。がたんと盛大な音を響かせて、残っていたミルクが排水溝へと流れていく。

「しゃ、しゃ、しゃ……」

「しゃ?」

「しゃべった!」

 思わず狐から後しざると、腰にステンレスの固さを覚えた。九割以上を驚愕に、残りを好奇心と恐怖とで埋め尽くされて、恵美はその場から動けなくなってしまった。

「な、なに。どうして狐がしゃべってるの」

 上ずりながらも懸命に平常心を取り戻そうとする様子に、狐は少し目を伏せると、済まなさそうに口を開いた。

「実は私、古狐なんです。この間の大風でこの町まで飛ばされてしまいましたが、それまでは山の奥地でひっそりと過ごしていたのです」

「えっと、なに、どういうことなの」

「どうもこうも、今言ったことがすべてです」

「……それはつまり、あんたが妖怪ってことを言ってるの?」

「人の解釈でしたならば、それでほぼ間違いないかと」

 肯定した狐の姿を、恵美は改めて観察してみた。

 白い、大型犬ほどもある大きな体の狐である。冷静になって考えてみれば、その存在がいかに異質なものであるのかは簡単にわかりそうなものだった。事実、出会った瞬間には壮麗な狐の姿を現実離れしているものだと感じていた節があったのだ。いつの間にか当然であるかのように狐の存在を受け入れてしまっていたことが、恵美には奇怪に思えてきた。

「私、妖術も扱えるんですよ」

 思考を読んだかのようなタイミングで狐はそう告げた。

「ですから、貴女方三人にも大風のあった日に暗示を掛けさせてもらいました。この町の上空で何とか嵐の雲間から逃れることには成功したのですが、もう山に帰るだけの力も、体力さえも残っていなかったのです。ただ、恵美さんの姿を捉えてしまった。私も必至だったので、咄嗟に妖術をかけてしまったのです」

 だから、恵美たちがすんなりと受け入れてしまったのもそのためなのだと、狐は説明した。それから、他に方法がなかったとは言え勝手に妖術をかけたことに対して、素直に詫びて頭を下げた。

 恵美は考えることを放棄しかけていた。狐が妖怪だったこと、実は妖術が使えて知らないうちに掛けられていたこと、そして何よりも、狐が人間の言葉を話しているという事実に打ちのめされていた。

「……ひとつだけ訊いていい」

 シンクにもたれかかったまま恵美はぼそりと口を開く。

「どうぞ」

「あの日さ、私が雨の中歩くことになったのも……」

「ご想像の通り、原因は私にあります。嵐からは脱出していましたが、まだ暴風に流されていまして。もう駄目かと諦めかけていたのですが、運よく一際大きな箱の上を飛ばされて、最中に呆然と空を見上げていた恵美さんを見つけてしまったのです。その瞬間、咄嗟に妖術を――」

「掛けたわけなんだね」

「はい。誠に勝手ではございましたが使ってしまいました」

「加えてその後に出会ったときにも、家について紗枝さんと顔を合わせたときも、お兄ちゃんに気が付かれたときも、知らない間に妖術を使っていたんだ」

「……その通りです」

 項垂れた狐を前にして、恵美は大きく息をつく。とんでもない拾いものをしてしまったものだと思っていた。宝くじの一等に当ることの方がよっぽど容易く感じられる。

 どうして私でなければならなかったのだろう。他の誰かでもよかったのではないのか。そう恵美は思わずにいられなかった。もし私じゃなければ、あの傘を失わずに済んだはずなのに。

 狐は頭を垂れたままじっと身動ぎをしない。当初込み上げていたはずの当惑は、いつの間にか霧散してしまっていた。返って憐憫の情を抱き始めてしまったくらいだ。衰弱していた狐と一緒に過ごしてきたことが要因にあるのかもしれない。知らない間に妖術をかけられていたことには少なからず腹が立ったものの、それしか選択肢がなかったのならば仕方がないではないか、と納得しかけていた。

 しかしながら、そう考えてしまうことが、すでに狐の術中に嵌っている証拠なのかもしれない。それくらいの暗示を気づかれずに掛けることなど、狐には朝飯前ではあるに違いなかった。そもそもにおいて、妖術というものがどういったものであるのかがわからないのである。何かしらの悪影響を引き起こすことも大いに考えられるのだった。

 ぐっと拳を作って恵美は狐ににじり寄る。膝を突くと、おもむろに白い小さな頭に手を置いた。びくりと体を震わせて狐が視線を持ち上げる。伏せた耳の下で、クリアブルーの双眸が不安に揺らいでいた。様子を無表情に見つめ返した恵美は素早く両腕を広げる。目を閉じた狐の顔を掌で挟み込んだ。

「それだけなんだよね」

「な、なにがですか?」

「あんたのこと信じてもいいのかって訊いてるの」

 詰問に、狐はびくびくと首肯した。様子に、恵美は厳しい表情をとく。

「なら、もういいよ。そんなに気にしてない。少しは迷ってくれたんでしょう」

 言われて狐は再び大きく頷いた。

「じゃあいいよ。仕方なかったんだもの」

 言葉に狐はそっと目を伏せた。何も口にはしなかったが、全身から深い感謝が滲み出ていた。

 様子に恵美は顔を綻ばせる、それからふと、壁の古時計に目を向けた。

 午前七時二十分。

 さっと頭の天辺からつま先に向かって血が落ちていった。

「あ、あのね、いろいろ訊きたいことはあるんだけど、私これから学校があるから」

 早口に言いながら、今度は背後でぶすぶすと黒い煙を立ち昇らせていたフライパンの存在に気が付く。朝食を用意していたことをすっかり忘れてしまっていた。慌ててコンロを止めて、失敗した目玉焼きを三角コーナーに捨てる。トーストもとっくに焼きあがっていた。ひとつを咥えて、残りを狐に渡し、恵美は椅子に置いてあった鞄を手にして玄関へと急ぐ。

「帰ってきたらいろいろ訊かせてよ」

 言い残して、恵美は玄関の戸を開いた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃいませ」

 狐は慇懃にあいさつを返した。


 それからしばらくして、目を覚ました聡が二階から下りてきた。階段の途中で異臭に気がつき眉間に皺を寄せる。

 何かが焦げたにおいだった。犯人は恵美なのだろうが、換気もしないで学校へ行ってしまったことが気になった。恵美は気の利く妹なのである。やはりまだ、紗枝との軋轢が続いているのだなあと思い、早く仲直りしてくれないかなあと、悲観的なため息をついてしまった。

「おはようございます、聡さん」

「ん。おはよ――う?」

 誰もいないはずのリビングから声を掛けれられて、聡は少し戸惑う。それも、聞きなれない声色ときていた。空耳か何かかと視線を泳がせて見つけたのは、足元で行儀よく座る白い狐の姿であった。

「え。もしかして、今おはようございますって言ったの……」

「私です」

「ほ、ほう……」

 小さく声を出し、聡は一歩後しざる。朝っぱらから狐に話しかけられるなんて、夢にも思っていなかった。白いし光るし変な狐だとは思っていたが、まさか言葉まで操るとは。どっと全身から冷汗が噴き出したような気がした。

「おはよう、聡。あれ。どうしたの」

 二階から寝ぼけ眼で降りてきた紗枝が、廊下で固まっていた背中に声をかける。ぎこちなく振り返った聡はリビングに指を差した。訝しく思いながらも背後に立った紗枝は、指が指し示す先に視線を移動させる。

「おはようございます、紗枝さん」

 狐が喋った。

「え」

 声を紗枝は短く発した。数秒固まると、わなわなと右腕を上げて狐を指差し、隣近所にまで響き渡ることになる絶叫を吐き出した。

「えええええええええええええええ!」

 後に通報を受けたお巡りさんが駆けつけてしまったほどである。紗枝の驚きは三人の中で取り分け顕著で激しいものだった。

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