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  〈 二 狐の名前 〉


 その日、休日にも関わらずいつものように早くから目が覚めた恵美は、リビングへ向かう途中で小さな鼻声を耳にした。何の曲かはわからない。以前どこかで聞いたような気もしたが、まどろみを残したままの思考ではどうにも思い出せない。

 部屋に入ると一番に窓辺によって狐へのあいさつを済ませた。それから、キッチンに立っていた紗枝に向きなおる。緩やかなハミングを奏でながら朝食を作っている背中がそこにはあった。珍しいこともあるものだと驚き半分に思いながら、恵美は声をかける。

「おはよう。何してるの?」

「ん。おはよう。サンドウィッチ作ってるんだ」

 はにかみながら振り返った紗枝の肩越しにステンレスの台を眺めてみれば、プラスチックのボウルに潰したゆで卵が入っていた。マヨネーズと塩・黒胡椒を適量加えて、慣れた手つきでかき混ぜていく。

「なにこれ」

「だから、サンドウィッチだって。たまごサンド。ほら、今日は天気がいいじゃない。ピクニックなんてどうだろうって思ってね」

 言って紗枝は窓の向こう側に広がる空を指差す。覗き込むようにして見上げた恵美は、伸びやかな晴天に思わず目を細めてしまった。なるほど、確かに外出を計画したくなるような天気ではある。穏やかな日差しを浴びて芝生にでも寝転がれば、それだけで胸がすくような気分になれそうだ。

「ピクニック」

「そう。前々から聡と約束しててさ。そう遠くに行くわけじゃないけど、外でお昼もたまにはいいじゃないかって」

「ふーん」

 ぼんやりとした相槌だった。紗枝は明るい調子で言葉を続ける。

「恵美も一緒にどう?」

 空を見上げながら誘われて恵美は首を傾げた。行きたいとも行きたくないとも思わなかった。ただ、事前に聡と紗枝が二人だけで話し合って決めたことなら、自分は行かない方がいいような気がした。邪魔してしまっては二人に迷惑だ。

「いいや、私は」

 答えて、さっとボウルに指を突っ込んだ。ぺろりとペーストを口に含む。

「ちょっと、やめてよ。まだ出来てないんだから。食べるならテーブルにあるのにして」

 言われて恵美は背後を振り返る。たっぷりのレタスに、ハムとチーズを挟んだサンドウィッチと、ツナマヨとキュウリのサンドウィッチが皿に盛り付けてあった。

 おもむろにハムサンドに手を伸ばす。ぱくりと食いつくと、素朴な味わいが口の中一杯に広がった。続けてツナサンドにも手を伸ばして、素早く平らげる。椅子を引いて腰を据えると、本格的に朝食を取り始めた。

 パンを片手に、リモコンを操作してテレビをつける。映った番組はどれもこれもつまらなくて、ぱちぱちとチャンネルを変え続けた恵美はすぐに電源を切った。リビングに再び静けさが戻ってくる。卵をパンに挟んでいた紗枝が唐突に口を開いた。

「べつに気兼ねしなくていいんだからね。ご飯は大勢で食べたほうが美味しいんだから」

 恵美は返事をしない。黙々とサンドウィッチを食べ続けている。

「……まあ来たくないんならいいけどさ」

 そう言うとため息と共に引き下がった。

 嘆息を複雑な思いで受け止めた恵美は、ふと足元に何かしらの気配を感じた。見れば、昨日まで眠り続けていた狐が擦り寄ってきている。驚きのあまり、恵美は咀嚼を続けていた口の動きを止めた。口だけでなく、全身の神経が伝達活動を止めたかのように固まってしまった。

 白い狐は床に座り込んだまま、じっと恵美のことを見上げてきている。頬張ったサンドウィッチに視線が集中していることに、しばらくしてから気がついた。

 もぐもぐと口の中のものを飲み込んでから、狐に向かって小さく「食べる?」と訊いてみる。左右にゆっくりと尻尾が揺れた。恵美はテーブルの上からサンドウィッチをひとつ手にとると狐に向かって差し出した。

 くんくんと鼻を鳴らしてから、狐は一度恵美を見上げた。食べてもいいんだという意味を込めて頷くと、恐ろしく緩慢な動作で食らいつく。手を離すと、下を向いて豪快に頬張った。むしゃむしゃとおいしそうに口を動かしている。飲み込んでしまうのと同時に、再び顔を持ち上げた。

 尻尾が揺れている。まだ食べたいようである。恵美はもうひとつサンドウィッチを手に取り、狐の鼻先に差し出してみた。

「はい、たまごサンドも出来たよ」

「あ。ありがと」

 恵美はテーブルに皿を置いた紗枝に礼を言った。早速手を伸ばす。半分食べて、半分をテーブルの下にあげた。狐はむしゃむしゃと夢中になってパンを食べている。その見事な食べっぷりを恵美は微笑ましく眺めていた。

「あんた何下向いてにやけ……」

 そこで紗枝も気が付いた。恵美の背後から覗き込むようにして身を乗り出すと、狐がきょとんと視線を返してくる。

「え。え。どうしたのこいつ。昨日まで寝てたんじゃなかったの」

「うん。今朝目が覚めたみたい」

「目が覚めたって、そんな唐突な」

 目を丸くさせる紗枝から視線を外すと、狐は再び目の前のたまごサンドに齧り付いた。

「おいしいって。さっきからばくばく食べてる」

「そういう問題じゃないでしょう」

 言うと、困惑したまま恵美の向かい側に移動して椅子に腰掛けた。サンドウィッチをひとつ食べてからテーブル下を覗き込み、うまそうに口を動かしている狐の姿を確認する。身体を起こすと頬杖をついてぼんやり宙を眺め、それから不意にキッチンに向かった。

 気持ちを落ち着かせると、あつあつのコーヒーを手にテーブルへと戻ってくる。

「はい」

「どうも」

 椅子に戻ると、二人でゆっくりと味わった。じんわりと、内から身体が温かくなっていく感覚が心地よかった。

 ことりとカップをテーブルに置くと、紗枝は改めて狐の様子を眺めてみた。やがてにやりと唇の端を吊り上げると、嬉しそうに声をかける。

「あたしのサンドウィッチの素晴らしさはわかるとはね。いやはや、たまげた」

「なに、サンドウィッチの素晴らしさって」

 恵美が素朴な疑問を投げかけてきた。

「そんなの決まってるじゃない。あたしの料理は人でも狐にでも、そのおいしさがわかるものなのよ」

 言って、紗枝は得意気に微笑んだ。

 恵美にはどうにも腑に落ちなかった。けれど、そう言うものなんだろうかと、納得することにした。と言うのも狐は、例えば恵美が作った料理であっても聡が作った料理であっても同じくおいしそうに食べるような気がしたのだ。確かに紗枝の料理はおいしい。それは恵美自身認めている。けれども、それとこれとでは話が違うのではないだろうか。考えずにはいられなかったのである。

 しかしながら、自信たっぷりに口にした紗枝の言葉を聞いたあとに見た狐の表情は、確かに少しだけ幸せそうだった。紗枝の料理が絶品なのは間違いなく事実なのである。そこいらのファミレスになら決して負けない、専業としても通用する腕前を持ってすれば、たとえ簡単なサンドウィッチであろうと狐にも伝わる何かしらの違いがあるのかもしれない。

「ところでさ、その狐の名前ってなんなの」

 考えていたところに、質問は不意に投げかけられた。

 目の前にいる紗枝を見つめ返して、恵美はぼんやりと、名前、と思った。

 名前。名前。この狐の名前は何と言うのだろう。視線を狐に合わせてそんなことを考えてみる。名前。名前。名前。そもそも名前なんて必要なんだろうか。

 恵美の瞳は濁り始めていた。名前という当たり前のものを付け忘れていた原因について。そして名前をつけるという行為の意義について。拾い草原の真ん中に柵を囲って、その内側に狐を閉じ込めるイメージを思い浮かべていた。

 沈黙してしまった恵美に向かって紗枝が不審そうに口を開く。

「どうかした?」

「……ううん。なんでもない。少し考え事してただけ」

「そう。深刻そうな顔してたから心配しちゃったよ」

 よくあることだと、紗枝はほっと胸を撫で下ろしてしまった。

「それはそうとさ、もしかして名前って考えてなかったりするの。こいつ、とか、お前、とかだと可哀想だからさ、よかったらあたしがつけてあげよっか?」

 だから、そう続けられた提案は純粋な善意に満たされた無邪気な一言にしかすぎなかったのである。誰であっても投げかけてしまいそうな、ごくごく自然な言葉に過ぎなかった。けれど、現状の恵美にだけは鋭い凶器と変わりがなかった。棘のように深く突き刺さった一言は、禍々しい痛みを伴って、一瞬のうちに恵美の心を蹂躙してしまった。

「そんなことしないで」

 叫び声のような口ぶりで反射的に食いかかってしまっていた。目尻は鋭く吊り上がり、瞳には憤怒の色が浮かんでいる。

「な、なに。どうしたの、いきなり大声出して」

 急変した恵美の態度に、紗枝はたじろいでしまった。何気ない一言のはずだった。突然怒鳴られるいわれなど、まったく思い当たらなかった。

 しかしながら、現実問題として恵美は鋭い形相で睨んできている。何がいけなかったのだろう。何かがいけなかったのだろう。でも一体何がいけなかったのだろう。混乱しながらも、紗枝はとにかく謝ろうと思った。

「ごめん。勝手なこと言って悪かったよ。その、本当にごめんなさい」

 おろおろとする紗枝を睨み据えながら、恵美は胸中に吹き荒ぶ怒りが非常に強烈なものであることに気がついていた。原因は瑣末なことだったのに、後から後から強くなる感情をどうしようもできないのである。一体全体何がどうなってしまったというのだろう。思うと、見る見るうちに戸惑いの暗雲が立ち込めてきてしまった。

 確かに紗枝の一言には腹が立った。狐に名前は必要ないのである。けれども一方で、そこまで固執するようなことでもないと思っていた。冷静に考えてみれば、紗枝の提案はありふれたものでしかなかったのである。

 どうして素直に受け止めることができなかったのだろう。どうして許すことがこんなにも難しいのだろう。考えると、恵美には自分が酷く醜悪で不寛容な人間であるように思えてきてしまった。

 感情が揺れ動けば動くほど、胸中には雲が立ち込め、風が強く吹き荒れる。暗雲はより一層分厚くなると、強風に煽られて渦を巻き始めていた。比例してどんどん自己嫌悪が加速していく。主客入り交じった感情の渦は臭気を放つ嵐となって、手がつけられなくなってしまった。

 堪らなくなって、恵美は大きな音と共に勢いよく椅子から立ち上がる。そのまま猛然と廊下へと足を向ける。

 背後に困惑した声がかかった。

「どこ行くの」

「散歩」

 吐き捨てるように口にして外へ逃げ出した。これ以上家にはいられなかった。紗枝と顔を合わせるのが辛かったし、醜い姿を曝け出したくなかった。

 早足になりながら早朝の町中を行く当もなく歩き出した恵美は、何よりも今の自分が大嫌いだった。


 くすんだ瞳に秋の空はどこまでも青く透き通って見える。浮かんだ薄い靄ものびのびとして気持ちよさそうだった。

 対称的に、一段と苛立ちを深めながら、恵美はこつこつと靴を鳴らして人気のない路地を歩いていく。朝も早いせいか、頬には赤みが差しかけていた。息こそ白く濁らなかったものの、秋は日一日と深まっているのである。

 けれども昇り始めた太陽に向かってずんずんと歩き続けていた身体は、すでに火照り始めていた。未練たらしい残暑は、未だに日差しの中に居座り続けているのである。日中は汗が噴き出すような暑さになるのかもしれない。そう考えるだけで恵美は舌を鳴らしたくなった。

 どうしてこんなにもイライラするのだろう。歩きながら恵美はもう何度も同じことを考えていた。しぶとい残暑も紗枝の無配慮も意固地で身勝手な自分自身についても、全部が全部嫌で堪らなかった。具体的にどうこう言うような段階はとっくに通り越してしまっている。今はもう?嫌?の一文字が嵐の中央で明々と歪な輝きを放っているばかりだった。

 全ての思考を放棄し拒絶したくて仕方がないのである。歩調は散歩というより、もはや競歩のそれに近くなってきていた。

 もうわけがわからなくなっていた。どうしてこんなに一生懸命がむしゃらに歩いているのだろう、と何も考えたくないはずなのに考えてしまうほどだ。頭は遅々として働いてくれず、どうしてどうしてと、同じ疑問文ばかりを脳裏に流している。それが知りたいのだと腹立たしさは増長していくものの、答えは最後まで見出せなかった。

 歩くのが辛くなってきた恵美は、やがて目に付いた小さな公園に入ると、木陰に備え付けられた木製のベンチにどさりと腰を下ろした。

 俯き加減に荒い呼吸を繰り返す。首筋にうっすらと汗が滲んでいた。誰もいない公園で、恵美はひとりこもった熱を冷ましていく。

 馬鹿みたいだと思った。

 吹き付けた風にはやっぱり秋の気配が混ざっていて、思わず恵美は身体を震えさせる。

 どうして家を飛び出してきてしまったんだろう。

 しばらく休んでから冷静に考えてみた。

 右手を心臓の上に持ってきて、脈打つ鼓動を感じてみる。いつの間にか嵐はどこかに消え失せてしまっていた。あれほど荒々しく心中に渦巻いていたと言うのに、欠片も痕跡さえも残さず消えてしまったのは見事の一言に尽きた。今はもう穏やかな静寂しか残っていない。嘘のような一時だったと、恵美は他人事のように思い返した。

 空を見上げる。視界の半分を覆うのは色付いたブナの葉っぱである。その向こう側に、わずかに暖色を混ぜ込んだ朝の青空が広がっている。腹立たしかったはずの清々しさが、今は少しだけ羨ましかった。

「あれ。恵美じゃないの?」

 視線を向けた先に犬の散歩をしていたらしい柚木の姿があった。手にしたリードに繋がれているのは、愛嬌溢れる顔をしたフレンチブルドックである。煌びやかなラメに、大きな星のプリントが散りばめられた、デフォルメした髑髏までもが刺繍された真っ赤なパーカーを着て、フードを被った柚木はあっけらかんと微笑んでいる。

 普段目にする制服姿などとは比べ物にならないくらいに目立つ恰好だった。朝の陽射しには少々どぎつすぎて、目を瞬かせてしまいそうな服装だ。お陰で恵美は思わずしげしげと眺めてしまう。ベンチに近づいてきた柚木は小さな苦笑を浮かべるとくるりとその場で回ってみせた。

「どう。似合う?」

「えっ。あー、うん。似合うんじゃないのかな」

 よくわからないけれど、という一言は飲み下すことにした。

 浮かべていた笑みをさっと引くと、柚木はつまらなそうにパーカーの裾を引っ張る。

「この服ね、妹のなんだ。普段は家の壁に掛けてあって、なんか部屋の風景みたくしてるだけで全然着てないからさ、こいつの散歩がてら本来の使い方で使ってあげようと思って着てきちゃった」

 足元を指差すと悪戯っぽく舌を覗かせた。とんでもないことをするものだ、と恵美は強張った笑顔を浮かべながら薄ら寒くなった。

 足下のフレンチブルドックは、荒い呼吸を繰り返している。鼻が詰まって苦しいのか、にやりと開いた口からだらしなく舌が垂れ下がっている。小さな身体をとことこと前後させると、じっと立っていることが面倒になったのか、勢いよく地面に腰を下ろした。

「なんて名前なの?」

 恵美がリードの先を見下ろしながら訊ねた。

「さあ。なんだったっけ」

「忘れるようなものなの?」

「冗談だよ。忘れるわけがないじゃない。本当は、ウィリアムテル・サンドロセス・ヨーゼフィフェニア・トリゼヴィアニス・アナミニアン・サンタバルカオーゼって言うんだ」

 流暢に言い切った柚木を、ぽかんと見上げた。恵美には何を言ったのかがわからなかった。黒魔術の呪文なのだと言われたら信じてしまいそうだ。

 柚木はしれっとした顔をして佇んでいる。開きっぱなしになっていた唇を動かして、恵美はどうにか沈黙を破った。

「……それって、本当にそう言う名前なの?」

「もちろん」

「ええっと、何だったけ。ウィリアムテル・サンドロス……」

「違う違う。サンドロスじゃなくてサンドロセス。ウィリアムテル・サンドロセス・ヨーゼフィフェニア・トリゼニアーニ・イェルマルーク・サンテンベルモ、だよ」

「……なんかさっきと違わない?」

「違わない」

「とても違ってない?」

「違ってない」

「本当に?」

「本当に」

 頑なに言い張られてしまっては、恵美には閉口するしかなかった。柚木はこれ以上ないというくらいに自然な動作で、恵美の隣に腰を下ろした。

「それよりもさ、恵美はどうしたの。なんでこんな時間にここにいるの」

「それはその、いろいろあって」

 答えながらも、恵美には犬の名前が気になって仕方がなかった。奇抜に過ぎる名前だとしか思えなかった。とてもじゃないが犬が可哀想だ。もっと他にもあっただろうに。ひどいことをするものだ、と身を屈めて小さな頭を撫でてやった。短い尻尾が勢いよく左右に振れ始める。反応に、思わず表が緩んでしまった。

「……そいつにはさ、確かにちゃんとした名前があるんだけど、あんまり似合ってないんだよね」

 呟くような声だった。恵美はじっと遠くを見つめた横顔に目を向ける。パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、ぼんやりと柚木は話し始めた。

「なんだったけかな。忘れちゃったなあ。イチゴとかシュガーとか、妙に甘ったるい名前だったと思うけど。雌だからさ、まだあたしも小さかった頃に妹がつけたんだ。張り切ってたんだけどねえ。全然似合わなかった。相応しくないんだよ。まあ家族は納得してたみたいだけど、あたしにはできなかった。どうしてもしっくり来なかったんだ。だって、もっと正しい名前があるはずなんだもの。考えて探してあげなきゃこいつに悪いよ」

「だから名前がないの?」

「そう。本当にないってわけじゃあないんだけどね。でも無理矢理名づけちゃったらさ、それこそ可哀想じゃない。束縛してるみたいでさ。好きじゃないんだ、そういうの。だから今のところ、こいつは単なる犬に過ぎないの。属性としての犬って感じ。変な言い方だけどさ、そうとしか思えないんだよね。間違ってもイチゴだとかシュガーなんて名前じゃないんだもの。どうしようもないんだよ。早く見つけてあげなきゃいけないんだけどさ。これがなかなか難しくて」

 そう言って柚木は、足元に座る?彼女?の頭を撫でた。表情はとても穏やかで、決して嫌っているわけではなさそうだった。結局説明の通りなのだろう。柚木は?彼女?にとって最も相応しい名前が存在していることに気がつきつつも、その姿を見つけられていないだけなのだ。だから、柚木にはまだ呼びかけられる名前がない。真名を口に出せないでいる。

 もどかしさは恵美にも何となくわかるような気がした。白い狐の正しい名前はなんなのだろうと考えながら、正面を向いたままぽつりと呟いてみる。

「名前って大切だよね」

 隣で柚木も頷いた。

「でもまあ、恵美は?恵美?で正しいけどね」

「どういうこと?」

 訊ねると、柚木は感慨深そうに穏やかな微笑を口許に浮かべた。

「初めて屋上で会ったときさ、恵美は自分から名乗ったんじゃない。板倉恵美ですってさ。あたし、あの瞬間にわかったんだ。恵美は恵美なんだって。間違いようもなく?恵美?なんだってさ」

「ふうん」

 相槌を打ちながら、恵美の記憶あの夏の一日にまで遡っていった。山際に浮かんだ大きな夕陽。朱色に染まった世界。背の高い金網に囲まれた屋上を蜩の鳴き声が埋め尽くしていた。蒸し暑くて全身から汗が噴き出していた。

 けれどあの日、恵美の心は静謐の只中にあった。フェンスを握り締めて、じっと遠景を眺め続けて、何かを捜し求めていた。最中に、唐突にスチールの扉が開いて、柚木は姿を現したのだった。

「あたしさ、初めて恵美を見つけたとき、つまりは屋上に飛び込んできたときだけどさ、びびびってきてたんだ」

「びびび?」

「そう。きっとこの子だ。この子となら通じ合えるはずだって。親友になれるって思った」

「直感的に」

「そう。直感的に思った。やっぱりわかってるね、恵美は」

 くしゃりと綻んだ唇から発せられた響きを聞いて、恵美はなんだか居心地が悪くなった。照れくさかったのである。親友だなんて、恥ずかしいことを言うと思っていた。柚木は靴の先で地面を掘り返す。?彼女?が大きなくしゃみをした。 

「恵美はさ、どう思った。あたしが屋上に来たとき、何か感じた?」

 問われ、恵美はゆっくりと隣に顔を向ける。純粋な眼差しに見つめ返されてしまった。その視線に宿ったしたたかな感情に射抜かれて、唐突に親友という言葉の重さを理解する。本心を返さなければならないと、再びあの日の記憶を呼び起こしてみた。

 夕焼け。屋上。蝉の声。遠くの空に真っ黒なカラスが飛んでいたような気がするし、いなかったような気もする。突然開いた背後の扉。振り返って注がれたのは、現在と変わらない真剣な眼差しだった。柚木の姿を目にしたとき、一体何を考えていたのだろう。細い糸を手繰り寄せるようにして、やがて恵美はひとつの感情に突き当たる。

「……たぶん、なにこの人って思ってたような気がする」

 一言に、柚木はあからさまに不満そうな顔になった。

「……そりゃあ、あたしは勘違いして屋上まで駆け上がったわけだけどさあ、それでも少し酷いよ。ちょっとは本気になって心配したんだから」

「でも、ちょっとだったんでしょう?」

「それはそうでしょう。当たり前じゃん。まだそんなに親しくなかったんだからさ、心から本気になるのは難しいよ」

 率直な答えを聞いて、どこかで恵美は安心した。そりゃそうだ。そう簡単に誰もが深くは関わり合えるわけではないのである。面倒ごとからは極力距離を取りたいのが人情なのだ。

 見上げると、もう随分と空の色ははっきりしてきていた。太陽は案外早く移動するものなのである。

「そっかあ。じゃあ、あたしが一方的に惚れちゃったのかなあ」

 隣で俯き加減に柚木が呟いた。

「惚れたって?」

「ん。友達としてだよ」

「あ、ああ。そう。なるほどね」

「どうかした?」

「ううん。なんでもない。気にしないで」

 答えつつも、恵美は内心慌てていた。言葉を変に解釈してしまったことがかなり恥しかった。

 靴の先で地面を掘り続ける柚木はゆったりとした口調で独白を続ける。

「あたしはさ、この人だ、って思える出逢いって、本当に少ないと思うんだよね。その人にとって重要な出来事に発展したり、人生のターニングポイントになったりする、いわゆる運命の出逢いってやつ。人によっては一生のうちに経験しないことも有り得るんじゃないかって気がするんだ。あるいはたくさん経験していたとしても気がつかないまま通り過ぎてしまう。だから結果的に少なくなってると思うんだよね。あたしも、もういくつか通り過ぎてしまった出逢いがあるのかもしれない。普通の生活をしていても案外いろんな人と会っているものだからね。意識しないままここまできてしまっているのかもしれない。でもね、恵美との出逢いは気がつけたんだよ。この人だって、わかったんだ。理屈じゃないんだ」

 面を上げた柚木は、まっすぐ前を見つめていた。視線の先に何を見ているのかはわからない。朝焼けか、町並みか、もしくは何も見ていないのかもしれなかった。足元では名前のない犬が静かに伏せている。車の騒音も、人々の生活音も、小鳥のさえずりさえも聞こえず、世界は停止しているかのような静寂に満ちていた。

 恵美は全身の輪郭が溶けていくかのような錯覚を覚えていた。不思議な感覚だった。神経はどんどん身体の外にまで拡張されていくのに、反応がぼんやりと薄まっていくかのような。ぼうっと魂が抜けてしまったかの表情を浮かべて、じっとベンチに腰を掛けていた。

 不意に柚木が顔を向けた。

「ね、恵美にとってあたしはどんな人かな。初対面の印象はわかったから、今現在どう思っているのかを教えて欲しい」

 問われて、恵美は答えに窮した。今の今まで考えたこともなかった。うーん、と唸って顎に手を当ててしまう。

 柚木は特異な人だった。そもそも変わり者の気があるし、学校でも数少ない恵美の話し相手になってくれている。自ら進んで校則違反をしている姿のわりには、相手を威圧することも、蔑視することもないし、一緒にいて心地いいと思える人物だった。

 でも、じゃあ具体的にどんな人物なのか言葉を当てはめようとすると、たちまち頭の中で整頓した柚木の姿は煙に撒かれてあやふやになってしまうのだった。集めたキーワードを繋ぎ合わせる、適切な枠組みが見つからなかった。

 ただ、どこか似ているという予感だけは、出会ったあの日からずっと引き摺っている。似ているけれど、同じじゃない。むしろ正反対で、けれどもなぜかしっくりきてしまう。

「裏側、なのかな」

 ぱっと浮かんだ一言を、恵美はそのまま口に出した。柚木はいまいち理解できないようで不思議そう首を傾げる。様子に、恵美は慌てて言葉を足した。

「そのね、あんまりよくわかんないんだけどね、その雰囲気とか格好とか、そう言うところは正反対じゃない。でも、まったく違うわけじゃなくて、つまりはコインの裏と表みたいに、間逆だけど実は同じって言うか、その、やっぱりうまく説明できない」

 尻すぼみに言い終えると、静寂がぽっと顔を覗かせた。

「裏と表ねえ」

 しばらくしてから、柚木がそう呟いた。肯定でも否定でもない反応に、恵美はどぎまぎしてしまった。

 それからしばらく、二人は黙っていた。柚木は何かを考えているかのようだったし、恵美はなにを口にしたらいいのかわからなくて?彼女?の額を撫でていた。

 静謐な朝の空気に染み込んだ沈黙は、呼吸のたびに体中を綺麗に洗い流していく。

「悪くないねえ」

 柚木は味わうように口にした。

「悪くないよ、恵美。とってもいい感じだ」

 言って、にこりと綺麗な笑顔になった。様子に恵美も釣られて頬を緩くさせる。

「んー、よし。じゃあ、そろそろあたし帰るね」

 立ち上がった柚木は大きな伸びをした。振り返えって恵美にそう話しかけると、足元でおとなしく伏せていた?彼女?も素早く立ち上がった。

 そうして柚木は、それじゃあ、と手を振って公園をあとにした。

 後姿が見えなくなるまで恵美はゆっくり手を振っていた。ひとり公園の中に取り残されると、これからどうしようかと考え始めた。真っ先に浮んできたのは紗枝の顔である。悪いことをしたと、反省と共に後悔を感じていた。

 謝らなければならない。

 思うと、しかし気分がどんどん滅入ってくる。帰りたくないと思うのも本心だった。うやむやに流れたまま収まれば、それはそれでいいじゃないか。時間が解決してくれるまで待つというのも、手としては残っていた。

 その一方で恵美の胸中には何とかなるという根拠のない自信も芽吹き始めていた。柚木との会話で幾分かリラックスすることができていたからなのかもしれない。あるいは逃げていてはならないという決意がそう思わせているのかもしれない。

 深呼吸をしてから、恵美は勢いよくベンチから立ち上がった。気合をひとつ、心の中で呟いて奮然と公園をあとにする。まっすぐ家までの道を歩いて戻った。

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