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 紗枝は家の中で帰りの遅い兄妹のことを心配していた。

 リビングのテーブルに腕を組んで、台風情報を流し続けるテレビをじっと見つめている。

 画面の中では雨合羽を身にまとったリポーターが、無謀にも直撃を受けている港の埠頭から撮影を敢行していた。風が強いらしく、どうやらうまく立つことさえままならないようだ。頭に被ったフードを手で押さえ、怒声にも似た聞き取りづらい発音で、懸命に状況を伝え続けている。

 危ないんじゃないだろうか。そう、紗枝は流れる映像に感想を持つ。早くそんな場所は離れた方がいいのに。思った瞬間に、背後の防波堤で大きな白波が打ち砕けた。飛沫が勢いよくリポーターの頭上に降り注ぐ。紗枝の心配事がまたひとつ増えてしまった。

 壁にかかった古時計がこつこつと振り子を揺らせている。唸る風は家の中にいる紗枝を謗るかのように大きく鳴り響く。

 ちらりと、紗枝は玄関へと続く廊下に視線を投げかけた。静まり返った通路に、この家の主である二人が帰ってきた気配は見られない。大きなため息をついて力なく項垂れながらも、紗枝は未だ帰らぬ兄妹の家路に危険がないことを祈っていた。

 唐突に、玄関の引き戸が開かれた。素早く頭を持ち上げると、紗枝は駆け出さんばかりに廊下へと向かう。

「……ただいま」

 三和土に、白い狐を抱えて、バケツに十杯分ほどの水を頭から被ったように濡れた恵美が立っていた。ぽたぽたと制服から水を滴らせる姿に、紗枝は思わず口を開けてしまう。遅い帰りを非難するために用意していた言葉の数々は、その隙間から呆気なく空気に溶けていった。

 呆然とした眼差しを向けられて、恵美は居心地が悪そうに視線を落とした。玄関にはじんわりと水溜りができ始めている。中心にいるのはもちろん恵美である。水溜りはぽたぽたと落ちる水滴を受け止めて、いくつもの波紋を作り出しながらじんわりと広がっていく。

「あんた、なにしてきたの」

「……歩いてきた」

「歩いてきた?」

 とげとげしく復唱されて、恵美はおっかなびっくり頷く。

「馬鹿じゃないの? どうして歩いて帰ったりするのよ。バスだってあるでしょうに」

 ばっさりと言い切られてしまった。そして、ああ確かにその手もあったなあ、と恵美は感心してしまった。恐る恐る見上げてみれば、紗枝の表情は険しく曇っている。どうやらなかなかに怒っているようだった。しゅんと恵美の気持ちが小さくなる。

「ごめんなさい」

「誰も謝れなんて言ってないわよ。もう。どうして連絡のひとつも入れてくれないの。心配するに決まってんじゃないの。そんなこともわかんないわけ?」

 責め立てられて、恵美はぎゅっと腕の中の狐を抱き締めた。呼応して口はきつく閉ざされてしまう。水滴はぽたぽたとこぼれ落ちている。濡れた捨て猫のような姿だった外見が、また一段と小さく惨めになったてしまっていた。

 縮こまり口を結んでしまった恵美の姿を見て、紗枝の苛立ちは俄然大きくなる。ぎゅうっと拳を握って、脳裏にたくさんの言葉を並べた。

 どうしていつもそうなのだ、と思いっきり叱りつけてやりたくなった。こちらが手を伸ばすとすぐに手を引いて、固い殻にこもってしまう恵美。そのくせいつも哀しそうな瞳をしているから、紗枝は我慢ならないのである。助けて欲しいなら、手を差し伸べて欲しいなら、手を出してくれないと掴めないというのに。いつもひとりで悩んで、行動して、手の届かない遠い場所へ行ってしまう。誰からも取り残されてしまう。

 今日も今日とて、いつもどおりの態度が癪に障っていた。じれったくて悔しかった。けれど、このまま問答を続けたところで、恵美には変化はみられないことも、紗枝は知っている。幾度となくこのような場を繰り返してきていたのだった。半ば同棲のような生活をしている恋人の、たった一人の家族であり妹である恵美との関係は、いつも紗枝が折れることによって、決定的な衝突を引き起こすことなく済んでいた。

 こもっていた肩の力を抜き、紗枝は大きくため息をつく。硬くなっていた表情を崩し、優しく、でも少しだけ哀れみを含んだ声で恵美に話しかけた。

「もういいからさ、早くお風呂入っちゃいなさいよ。一応沸かしてあるから」

 そうして、その場を立ち去ろうとした。びしょ濡れの恵美と対峙するのは、もうごめんだった。

 しかしながら、振り返ったところであることを思い出した。もう一度恵美の方に直り、その腕の中で力なく目を閉じている白い狐に目を向けた。

「ねえ。ところでそれ、何」

 訊ねられて、じっと床を睨んでいた恵美はゆっくりと顔を上げた。腕の中の狐に視線を移す。

 べたべたに濡れ細った獣は、深くゆったりとした呼吸を繰り返していた。恵美は穏やかにその表情を緩めると、小さな声で知らないと答えた。

「帰る途中で見つけたの」

 慈愛に満ちた穏やかな眼差しを注ぎながら、体を撫でてやった。

「見つけたって、狐を?」

「うん」

「町中で?」

「そう」

「連れて帰ってきちゃったと」

 恵美は大きく頷いて見せた。

「……それで、どうするつもりなの?」

 様子を訝しく思いながらも、紗枝はそう訊ねた。嫌な予感をひしひしと覚え始めていたのだ。訊ねずとも答えはとっくに決まっているのだろうが、形式上訊いておかなければちゃんと受け入れられそうになかった。

 恵美が視線を持ち上げる。眼差しには強い感情が宿っている。

「しばらくの間、家に置いてちゃ駄目かな」

「駄目も何も、それ狐でしょ? 犬や猫ならともかく狐なんて……」

「世話はならちゃんとするから」

「そうは言ってもさぁ」

 強靭な主張を前にして、紗枝は少々戸惑っていた。元からこの家の主ではないと自覚している紗枝にとっては、選択肢など泣きに等しいものだったが、そのいささか性急過ぎるとも言えなくはない熱意を目にして、狐の存在に強い興味を持ち始めてしまった。

「あたしがどうこう言えることじゃないよ。聡が戻ってきてから二人で話し合ってよ。決まったことにあたしは従うから。ね、それよりさ、早くお風呂入りなよ。どうせならそいつと一緒にね。随分弱ってるみたいだし、暖かくしてあげた方がいいんじゃないかな」

 紗枝は抱いた感情を面に出さずにそう言った。そのうちわかるような気がしたのだ。

 それよりも、と玄関にたったままの恵美を促すことを選んだ。雨の中をひたすら歩いてきたというのだから、かなり体温は下がっているだろうし体力の消耗も考えられる。その結果風邪でも引かれたら堪ったものではなかった。

「ありがとう」

 口にした恵美は、大きく顔を綻ばせていた。狐を受け入れてもらえたのが嬉しかった。ぐっしょりと濡れた靴を脱ぐと、廊下の突き当たりにある脱衣所まで水滴を滴らせていく。

 背中に脱衣所に向かった恵美の気配を感じながら、紗枝はほんの少しだけ顔を赤らめていた。あんなに晴れ晴れとした笑顔を見たのは久々だったのである。爛漫たる明るさに、同性ながらもちょっぴり惹かれてしまっていた。

 目を閉じて大きく息を吸う。いかんいかん、と心を落ち着かせた。振り向けば廊下に転々と水滴ができている。脱いだ靴も鞄も、残念としか言いようがないほどに濡れてしまっている。

 がりがりと、長い髪の毛の隙間から頭を掻きながら、まずは雑巾、と呟いて紗枝は自らがやるべきことに没頭していった。


 風呂から上がりパジャマに着替えた恵美は、フェイスタオルを頭に乗せながら熱心に白い狐の体を拭き、ドライヤーを使って乾かしていた。熱風を送り出す味気ない音が脱衣所に響いている。戸口には、壁にもたれかかった紗枝が立っていた。

「――で、あんたはその狐を見つけた瞬間に、何かこうびびびっと来るものがあって、それでどうしても見捨てられなくなったと、そう言うことでいいんだね?」

「うまく説明できないけど、見捨てちゃ駄目だって、強く思ったの。それにこの子、とっても淋しそうな目をしてたから」

 言いながら梳いていく狐の毛並みは、おおよそ雨の中で見たものとは別物であるかのように滑らかで美しく、とても綺麗なものになっていた。短い毛が温められ乾かされて、ほんわりと柔らかな温もりを取り戻していく。心地いい肌触りを楽しみながら、恵美はにこにこと狐の毛を乾かしていた。

 様子を、紗枝は呆れるようにして眺めていた。いつの間にか眠ってしまったらしい狐の安らかな顔と恵美とを見比べて、脱力感に包まれていた。

「よし、終わり」

 ドライヤーを止めて恵美が呟く。神々しいほどまでに白い狐の体を優しく撫であげると、少しだけ太陽のにおいが舞い上がった。

「で、どうするのよ?」

 問われて少し思案した恵美は、真新しいバスタオルを何枚も何枚も腕にかけると、唐突に狐を抱きかえた。

「なにするつもり」

「リビングに連れて行ってあげようと思って」

「ああそう」

 満面に浮かんだ幸せそうな様子に、紗枝はもう好きなようにさせることを決意した。


 狐は全身から力を抜いていた。著しい体力の衰えから必要最低限の力しか入らないのかもしれない。眠りに落ちた体は異常なまでにぐったりとしていた。もしその表情に穏やかな安らぎが見て取れなかったなら、二人はこれ以上ないというほどに心乱されていたに違いなかった。

 恵美は、狐をリビングの片隅に横たえることにした。側に大きな窓がある。外の暴風雨がうるさいような気がしないでもないが、これだけ深く眠っているのだ、気にすることはないと思った。

 フローリングにバスタオルを積み重ねるようにして敷き、また囲い込むようにして形を整えて、簡単なベッドを作る。

「この狐も運がいいね。いい人に見つけてもらってさ」

 準備をする恵美の背後で、狐を抱えていた紗枝がそう呟いた。

「じゃあ、ここにお願いします」

「はいはい」

 言って、紗枝は狐をそっと横にする。不自然なほどに重さを感じなかった体を、小さく丸まるようにしてベッドに沈ませた。

「これでいいんだね?」

「うん」

「そっか。じゃあ何か食べよう。聡まだ帰ってきてないけど、もうお腹ペコペコでしょ?」

 何か答える前に、恵美のお腹はくぅと音を立てた。にやりと白い歯を見せた紗枝に向かって、恵美は恥ずかしそうに頷く。じゃあ食べよう、ともう一度口にして、紗枝素早くキッチンへと向かっていった。恵美はじっと狐のことを見つめてから振り返り、紗枝に続いた。

 狐がほんのりと、青い光を纏い始める。

「へえ。本当に光るんだねえ」

 テーブルに夕食を準備しながら紗枝は感心したように口にする。

「うん。見つけた時も光ってた」

「ふーん」

 火にかけたスープを小皿にとって口にし、味と温まり具合を確かめた。

「うん、いい感じ」

 言って、器に移したスープを手に紗枝はテーブルにつく。配膳すると、合掌し大きな声でいただきますとあいさつした。対照的に恵美は、小さくいただきますと言って箸に手をかける。夕食は白身魚のフライと、玉ねぎのスープ、グリーンサラダに、ほかほかの白米だった。

「うんうん、やっぱりおいしいねえ、あたしの料理」

 手作りのタルタルソールをかけたフライを頬張りながら、紗枝が満足そうに自画自賛をした。向かい合う恵美もほのかに微笑んで、静かに食を進めていた。

「ただいまー」

 間延びした声が響いたのはそんな時だった。気が付いて、箸を止めた紗枝は数秒思案した後、再び箸を動かし食事を再開することにした。出迎えは面倒だし、なんだか所帯じみていて不気味な気がしたのだ。同じく帰りが遅かったのだが、聡に関して言えば、恵美ほどの心配は抱いていなかったのも理由にあった。

 疲れた顔をして、聡がリビングに顔を出す。

「ただいまー。って、なんだよ、もう食ってるのか」

「おかえり。帰りが遅いのが悪い」

「おかえり。お兄ちゃん大丈夫だった?」

 恵美と紗枝は同時に別々の内容の言葉を向ける。聡はそのどちらに対しても返事となるよう、ただ肩を竦めるだけで鞄を椅子に置いた。

「それにしても災難だった。傘がさあ、途中で壊れちまって」

「だろうと思った。聡、全身濡れてるもの」

「私もびたびたになったよ」

「こんな台風の時くらい会社も休ませてくれたらいいのに。ほんと人使いが粗いんだからさ」

「馬鹿言ってんじゃないわよ。そんなことしてどこもかしこも人が休んじゃったら一大事じゃない。とにかく、お風呂入ってきなよ。沸いてるからさ」

「暖まるよ」

「うーん。そうだなあ。濡れたままも寒いし。……わかった。入ってくる」

「ご飯はそれからでいいね」

「おう、頼む」

 元気よく言って、振り返った時だった。

「おおおおう?」

 奇声を上げて、聡はようやく狐の存在に気が付いた。指を刺して後ずさりし、口をぱくぱくと動かして二人を振り返る。困惑に染まった視線を受けて、恵美は悪事が見つかった子どものように首をすぼめて、紗枝はため息と共に両手を首の横で上に向けた。

「狐がいる」

「そうね」

 紗枝が答える。

「そうねって、どうしているんだよ」

「私が連れてきたの」

 恵美が答えた。

 テーブルから離れ、廊下へと向かう途中だった聡は、勇んでテーブルへと舞い戻ると、食いつくかのように口を開いた。

「ちょ、ちょっと待てよ。どういうことだよ。どうして恵美が狐を持ち帰ってくるんだよ。どこから見つけてきたんだよ。第一この台風の中どうして狐がいるんだ。山なんてこの辺りにはないはずだぞ。ってか、あいつなんで白いんだよ。白い狐なんて北極狐ぐらいしか知らないぞ。あ、キタキツネも白いのかな。どうなんだろう。いや、それはまあいいんだ。いいんだよ、そんなことは。なあ、なに。なんなの、あの狐。なんで白いんだよ。いや、だから、そうじゃなくて。その、なんていうか……。あ。なあ、いま見たろ。見たよな。ちょっと光ってないかあの狐。なあ、光ってるよな、絶対。そうだよな。なんなんだよ、あいつ!」

「ちょっと黙りなさい」

 立ち上がり、そばに立ち寄った紗枝が聡の脳天に重い手刀を見舞った。鈍い音は恵美にまで聞こえてきて、痛みを想像して思わず目を閉じてしまった。突然の暴力に頭をさすり、涙目のまま更に混乱を深めた聡に向かって、紗枝は短く言い放った。

「とにかくお風呂。入ってきなさい」

「……はい」

 答えた聡は、納得できないものの、すごすごと風呂場へと向かっていった。


 しんと町が静まり返っている早朝。窓を押し開くと、湿り気を帯びた風がびゅうと部屋に吹き込んできた。ぎゅっと目を瞑り、恵美は風の感触を頬に覚える。弱まるのを待ってからもう一度目を開いた。

 見上げた空はずんぐりと重く、隙間なくひしめき合った灰色の雲が勢いよく気流に運ばれていた。空気は湿っぽい上に生臭くて、町中に流れの滞った淀みが生じているかのようだった。

 ぼうっと流れる雲を見つめる恵美に、再び風が吹きつける。身震いがして、慌てて窓を閉めた。近頃はめっきり冷え込む朝晩が増えている。南海で生まれた台風が飛来したとは言え、季節はしたたかに移ろい続けていた。

 着替えを済まして、二階にある自室から一階へ降りていく。できるだけ足音を立てないよう、そろそろと階段を踏んだ。

 まだ誰も起きてきていないリビングは、ひんやりとして少し肌寒い。静かな空間にそっと視線を泳がせて、恵美はまっさきに狐の元へと近づいていった。しゃがみ込み、そっと白い毛並みを撫であげる。

「おはよう」

 声に、狐は反応を示さなかった。安らかに腹部が上下しているだけである。どうやら、かなり深く眠っているらしい。昨晩よりもほんの少しだけ強く光るようになった狐は、着実に体力を回復しているよう見えた。

 雨に打たれながらも自らの手で見つけて救った狐だった。快方に向かってくれることが恵美には嬉しかった。お陰で自然と頬が緩んでしまう。胸の中が、温かな気持ちでいっぱいになった。

 起こさないよう細心の注意を払いながらも、心行くまで狐を撫でた恵美は、立ち上がるとキッチンへと足を向けた。流しの下から鉄製の小さなフライパンを取り出すと、コンロで火にかける。続けてトースターに食パンを二枚セットして電源を入れると、冷蔵庫からはベーコンと卵と牛乳を取り出した。熱したフライパンで手早くベーコンエッグを作ると、皿に移すのに合わせてトーストも焼きあがる。牛乳をコップに注いで、昨日と同じ朝食を作り上げた。

「いただきます」

 かぶりついたトーストの上で、半熟の黄身がとろり溢れ出した。

 恵美はテーブルの上のリモコンを操作してテレビの電源をつける。ちょうど天気予報がやっていた。青色の海と緑色の大陸と白い等圧線が幾つも並ぶ天気図に、指示棒を向けながら天気予報士が言葉を続けている。どうやら昨夜日本列島を襲った猛烈巨大な台風は、その大きさもさることながら速さも異常なものであったらしく、一夜のうちに日本列島を東へ、太平洋へと抜けてしまったらしかった。

 続けて、各地に被害状況が告げられる。瓦が飛び、電線が切れ、大木は倒れて、増水した河川に人が流されてしまっていた。土石流で道が寸断された映像も映し出される。自衛隊が各地に派遣されたということだった。ボランティアの活動も始まっているのらしい。恵美の瞳には様々な情報が飛び込んできていた。

 大きく口を開く。二枚目のトーストを齧り、ごくごくと牛乳を飲み干す。鼻下に白い髭ができてしまった。ぺろりと舌で舐め取る。合掌して朝食を終えた。席を立って洗面所へと移動する。リビングにはテレビの音と依然として強い風の唸りだけが充満するようになる。

 顔を洗い、歯を磨いて、再びリビングへと戻ってきた恵美は、準備し椅子に置いていた鞄を手に取ると、ひっそりと家を後にした。

 むんわりと、湿り気を帯びた生暖かい風に向かいながら、朝の町並みを横目に、水溜りを避けながら路地を進んでいく。道すがら恵美は、学生時代に自らが使っていたローファーを今日まで大事に保存しておいてくれた紗枝の物持ちのよさに感謝していた。

 昨夜残念としか言いようがないほどに濡れてしまった恵美のローファーは、今朝になってもまだ乾いていなかった。じっとりとした水の気配が内側にこもっていたのだ。だから、昨夜の間に、替えを出してもらっていて本当によかった。湿ったローファーを履いて登校することを想像すると、それだけで身震いがした。

 灰色の曇天の下、恵美はバス停に向かっている。いつも通学に使っている、道路際に標識だけがぽつんと立った簡素なバス停だ。

 頭上を小鳥が二羽、さえずりながら飛んでいく。晴れた日ならばどこまでも響いていくはずの澄んだ鳴き声は、心なしか薄い膜に覆われてくぐもっているように聞こえた。見れば、乾き始めたアスファルトやコンクリートの塀、建物の屋根までもが、どこか間の抜けた場違いな風貌を晒して佇んでいるように思える。木々は未だに暴風に脅えているようだし、いつもいる場所に猫の姿も見つけられなかった。

 おそらく、鳥も木々もコンクリートの塀もアスファルトも屋根も猫も空気にしてみても、まだ過ぎ去った台風の影響下から抜け出せていないのだろう。鳥の鳴き声とは対照的に、いつもよりも一層耳障りに響く車の騒音を煩わしく思いながら、バス停でバスが来るのを待っていた恵美はそんなことを考えていた。周りには同じく高校へと向かう学生や会社へと向かうらしいスーツ姿の人たちが立っている。昨日までと変わらず、誰もが約束事のように口を噤んだままだった。

 そういえば、どうして私は昨日バスに乗らなかったのだろう。不意に疑問が頭を過ぎった。昨夜紗枝にも言われ、その通りだと感心した通学の足である。登下校に常用してるのだから、真っ先に思い浮かぶのが当然だったはずなのに。

 恵美は徒歩を選んでしまった。選んでしまっていた。理由など、何もないはずなのに。

 恵美はますます昨日自分がとった行動の真意がわからなくなってしまった。自らが下した判断の元行った行動であるはずなのに、その原因がわからないのである。滑稽な話だったが、本当に見当がつかないのである。

 そもそもちゃんと自らの意思で歩くことを決めたのだろうか。やって来たバスに乗り込み、窓際の席に座って、じっと流れていく代わり映えのない景色を眺めながらそんなことを考えた。あの時、ちょうど差していた傘が大破して飛んでいってしまった時、恵美は歩いて帰ることに対して途方に暮れていた。絶望にも近い途方の暮れ方だった。

 なのに、なぜか歩くことに執着していた。歩いて帰らなければならないと思わされていた。

 一体何に。

 恵美の脳裏には、今もリビングで深い眠りに就いているであろう白い狐の姿が浮んできた。雨の町の中でぐったりしていた、光る狐である。存在そのものが不可解な狐だった。昨夜、風呂から上がってきた聡を納得させることにはどうにか成功したけれど、考えれば考えるほどに異質な存在のように思えて仕方がない。恵美には狐のことを気味悪がった聡の気持ちが少しわかるような気がした。

 あの狐は何か重大な秘密を知っている。

 思うと、少しだけぞくりとした。

「次は八坂高校前、八坂高校前」

 間の抜けたアナウンスの声で、恵美はとっさに我に帰る。思考が深いところまで潜り込んでしまっていた。慌てて降車のための準備をし始める。反動で膝の上に置いていた鞄が、前の座席の下に潜り込んでしまった。

 唐突に慌て始めた恵美の様子は、バスの中で少しだけ目立つことになった。


 恵美は学校をつまらない場所だと思っている。

 一体どこで応用できる日が来るともわからない知識を無理矢理詰め込んで、挙句学力という物差しで測られるのだ。一般常識とか教養とかいった知識を育むことは必要だけれど、学んだことを他者から推し量られなければならないことが、苦痛で苦痛で仕方がなかった。

 教室には朗々とした単調な古文教師の声が響いている。クラスメイトたちは従順に、表面上は真剣に授業を受けている。教師が黒板に板書する文章を猿真似みたいにノートに書き写している。

 そんな閉鎖的な空間に押し込められていると、恵美は衝動的に叫び出したくなる。滑稽なんてもんじゃない。愚行よりも低俗な、卑劣な行いだとしか思えなくなってしまう。臭気が漂っているとさえ感じてしまうのだった。脳を歪めるようなとても嫌な臭いに、鼻が曲がりそうになってしまう。

 だから恵美は、今日も窓の外を眺めている。予習を完璧に済ませた状態で、ものすごいスピードで流れていく雲を見つめている。行く先なんて知らない。知りたくもないし、知らなくても構わなかった。雲は気流に揉まれるまま、どこまでも流れていく。その身が消滅するその時まで流れに流れ、どこかで消える。

 チャイムが鳴ると、やっと居心地の悪い時間が終わりを告げた。

 昼休みになると、俄かに教室は活気付き、声と音によって溢れかえる。購買へ急いで買いに向かう生徒がいれば、机を移動させて集団で食べるための大きなテーブルを作る生徒がいて、だらだらと話をしながら一向に食事をする気配のない生徒がいる。それぞれがそれぞれの個性を発し始めると、すぐに教室には授業中とは正反対の空気が流れ込んでくる。

 恵美は事前に買っておいた惣菜パンを手にしてふわりと立ち上がると、廊下に出て壁にもたれかかって手早く昼食を済ませた。ビニール袋をゴミ箱に投げ捨てると、図書館へ向かって歩き出す。一刻も早く。まるで逃げ出すかのように。

 騒がしいのが苦手だったのだ。その場にいるだけで頭がぎんぎんしてくる。図書館は空調が効いている上に静かな空間が広がっているので、日ごろから恵美が時間を潰す数少ない場所になっていた。

 それに、今は調べたいことがある。

 図書館に着くや否や、迷いなく事典コーナーへと足を向けた。背表紙に記された頭文字を頼りに、目的の巻を手に取った。携帯電話やパソコンを使えばもっと早く調べ物は出来るのだろうけれど、辞典のずしりとした重さを感じながら調べ物をするのが恵美は好きだった。調べているという実感があるからなのかもしれない。索引を舐めるように見つめていた恵美は、やがて目的のキーワードを見つけると更にページをめくった。

 開いたのは狐に関する情報が記されたページだった。例えば狐がどんな生き物なのか、学術的にどう解釈され、またどのような種類がいるのか、自然界ではどう生きているのか、体の構造はどうなっているのか等々、紙面には狐に関するある基本的な情報が列挙されていた。

 恵美はそんな数ある記述の中の一項目、食事についての部分に入念に目を通した。あの元気のない白い狐も、何かしらの食事を取れば多少なりとも元気になるだろうと思っていたのだ。

 確かに狐の存在は少し不気味で、バスの中で覚えた不吉な塊は依然として胸中に居座っている。けれども、だからといって弱っている命を見過ごすことは難しかった。目の前に救えそうな生命が横たわっているのだ、どうして無視することができるのだろう。恵美は強い使命感に支えられて舐めるように活字を追っていく。

 しばらくしてから、事典から目を上げた。どうやら狐は雑食であるらしい。何でも食べる。それならば牛乳も飲むのだろうかと恵美は思った。温かな牛乳なら、少しは狐の体を温めることができるかもしれない。

 恵美は今朝方触れた狐の体温を思い出す。昨夜のお風呂が効いたのか、大分持ち直してものの、それでもまだ純白の毛皮に包まれた体はひんやりとして冷えていたのだった。

 恵美にとって、温かな牛乳は魔法の飲み物である。口にするのと同時にお腹の底がぽかぽかとしてきて、素早く内側から全身を暖めてくれるのである。体調が万全といえない狐も、牛乳を飲めば少し元気にあるのではないかと考えていた。

 けれどもいくら雑食とは言え、人間と同じものを口にさせて大丈夫なのかとも思った。確証がもてないのである。もしかすると、お腹を下してしまうかもしれない。体質的に合わなくて容態が急変してしまったら。悩んで、唸ってしまった。是非とも飲ませたかったけれど、影響が不明瞭すぎていまひとつ踏み出せない。

 善意と悪影響を両天秤に載せて、どうしようもなく身動きが取れなくなった恵美の背後に、ひとつの影が近づいていく。

 掌が、うなじをそうっと包み込んだ。

「ひゃあ!」

 唐突な冷たさに、恵美は小さく悲鳴を上げて飛び上がった。弾みで、事典を手から滑らせてしてしまう。宙を舞ったぶ厚い本は、重力にしたがってフローリングの床と激しく激突した。反射的に足を引っ込めながら恵美はしまったと思った。

「どうしたのさ、そんなに驚いて」

 意地悪く放たれた声に振り返る。伸ばした両手を開閉しながら、彼女はにやりと微笑んでいた。

 昨日、クラスが違うにも関わらず恵美に声をかけてきた女子生徒である。大きな目をより強調させているアイメイクと、蛍光灯を反射するイヤリングとが、変わらず印象的な外見を作り上げていた。その上、今日は髪の毛まで染めてある。明るいブラウンカラー。自己主張の激しい色だと思うのと同時に、昨夜染めたのだという事実に恵美は少なからず驚いていた。着崩された制服も、集団になって終わらないおしゃべりに興じている方がよっぽどしっくりくる。

 校則違反すれすれの彼女の登場に声を失っていた恵美だったが、徐々に腹立たしさが込み上げてきた。

「ひどい」

「なにが?」

「いきなり冷たい手で首筋を触った」

 指摘を受けても彼女は不敵に微笑むだけで、まったく動じることがなかった。恵美にはその態度が悔しいし、やっぱり柚木さんには敵わないのだとも納得してしまう。

「なんか調べ物?」

 反省した色など微塵も見せずに、柚木はごく自然に話を変える。歯がゆく思いながらも問われた恵美は、なんと答えたらいいのか逡巡してしまった。素直に話してもいいのか、どこまで話せばいいのかがわからなかった。

 柚木には天性の嗅覚が備わっている。隠し事は、これまでことごとく見破られてしまっていた。落として事典を拾い上げながら、恵美は必要最低限のことだけ正直に話そうと心に決める。棚に戻すと呟くように口を開いた。

「狐について、ちょっと調べていたの」

「狐? なんでまた」

「いろいろあって」

「へえ。珍しいね」

「うん。まあね」

 このまま立ち去るのもなんだか悪いような気がして、恵美はしばらくじっとしていた。柚木は何か言いたいことがあるのか、それともないのか、表情からだけではよくわからないが、きつと口を噤んだままである。

 二人は向かい合ったまま黙りこくっていた。居心地の悪さに、何とかしようと恵美は明るく訊ねてみた。

「ところで柚木さんはどうして図書館なんかに?」

「ん。理由は特にないけど」

「そう。珍しいね」

「あたしが図書館にいるのは変かな」

「あ、いや、そんなことはないけど」

 言いながら恵美は小さく後悔していた。ちょっと軽率な発言だった。

「けど、かあ。こんな外見だとそう思われても仕方ないかもしれないね」

 案の定、苦笑を浮かべながら髪をいじった柚木に、恵美は慌てて先ほどの言葉を詫び、そんなつもりはなかったんだ、と言葉を重ねた。

 柚木は始めこそきょとんとして、低頭する恵美の様子に呆気に取られていたが、やがて状況が飲み込めたのか、どこか憂いの差した微笑を浮かべた。

「いいよ。気にしてないって。慣れっこだもん」

「でも……」

「ううん。本当にいいの。仕方ないんだから」

 発言に、恵美は今度こそ本気で困ってしまった。どうしたらいいのかわからなくて、あたふたと左右を見渡し、俯き加減に指をいじくり、それから観念してたように視線を上げる。

 様子を見守っていた柚木は、軽く噴き出すと、小さくなってしまった恵美の頭を抱いて、耳元にそっと呟いた。

「大丈夫だよ。ほんとに気にしてないから。ちょっとからかっただけだよ」

 離れた柚木はにいっと大きく魅力的な笑顔を浮かべて、恵美の頭を優しく撫でた。恵美はなんだがとても恥ずかしくて、耳まで赤くなったのがわかるような気がした。

「じゃ。またね」

 言って、柚木は恵美のもとを去っていく。揺れ動いた茶色の髪の毛がとても軽やかだった。恵美はしばらくの間、そのままぼうっと図書館の戸を見つめていた。

 柚木にはいつもしてやられてしまう。昼休みの終了のチャイムが鳴るその時まで、混乱した思考を抱えて立ち尽くしていた。


 町にはしばらく雨が降らなかった。大風が通り抜けてからというもの、空はどこか呆けたように青く染まっていて、太陽も穏やかな輝きを放ち続けていた。天気予報士はこの秋晴れはもう少し続くだろうと言っていた。

「ただ来週からは、場所によっては傘の出番があるかもしれません」

 ニュースの流れるリビングで、狐の瞼がゆっくりと開かれた。

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