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   〈 五 白狐の夢 〉


 柚木と共に、恵美は上機嫌で玄関の戸を開けた。

「ただいま」

「おかえり。どうだったの」

 紗枝にそう訊ねられ、手にしていた木の枝を前に差し出す。

「なにこれ。こんなの、二人とも持って帰ってきたの」

「うん」

「考えらんない」

 二人の反応に、紗枝は心底呆れた顔を浮かべてしまった。大仰そうに額に手を当てると、大きなため息をつく。

 その背後から、リビングから出てきた狐がひょっこりと顔を覗かせる。気がついた柚木が素早く手を振った。恵美も朗らかに表情を崩して、少し枝を持ち上げてみる。尻尾がゆったりと左右に揺れた。近づいてきた狐は、くんくんと鼻を鳴らして木の枝に顔を近づける。

「懐かしい気配がしますね」

 一言に、恵美と柚木は思わず手を叩き合わせてしまった。

「じゃあ恵美たちが行った山で合ってたわけだ」

「少なくとも、以前いた場所の近くではありましょう。この枝を拾った場所まで赴けば、あとはもう大丈夫です。自分の力で帰られます」

「なるほど」

 頷いた紗枝は、少しだけ神妙な顔つきをしていた。

「すぐにでも連れて行ってあげるからね」

「もう道順はばっちりだから」

 興奮した様子で続けざまにそう口にした恵美と柚木に、狐は深々と頭を下げる。

「本当にありがとうございます。これで無事に山に帰られます」

「いいよ、そんな畏まらなくたってさ。元はといえば私の意地から始まったようなものだったんだから」

「あたしはそれに無理矢理同乗しただけだしね」

 二人は達成感に満ちた表情をしていた。心から狐の山が見つかったことを喜んでいて、成し遂げた自らの功績に浸りきっていた。

「まあ、何はともあれご苦労様だったよ。お腹減ってるでしょ。もうすぐできるからさ、柚木ちゃんも食べていきなさい」

 紗枝に言われて、二人は声を揃えて返事をした。枝を手に、ひとまず二階に向かう。そんなもの玄関に置いておきなよ、と眉をひそめた紗枝の注意になど耳も貸さず、和気藹々と恵美の部屋へと入ってしまった。ため息をついて、紗枝は内心が複雑そうな渋面を浮かべる。

「わかってるのかな、あの二人」

 狐の山が判別したということは、すなわち別離の時さえもが確定してしまったことに他ならない。紗枝には妙に浮き足立ったような二人の態度が気がかりだった。ちゃんと受け止めることができればいいのだけれど、と複雑な視線を二階に投げかけた。

 しばらくそのまま静止していた紗枝だったが、不意に左右に頭を振ると抱いた考えを改めることにした。あの二人だってもう高校生なのだ、あれやこれやと気を揉んだところで杞憂にしかならないのである。言い聞かせ、紗枝はリビングへと足を向ける。夕食の準備がまだ途中だったのだ。可能な限り今できることを着実にやり遂げていければそれでいい。思い、後ろ手にエプロンの紐をぎゅっと締めなおした。

 その背後。ひとり玄関に残った狐はぼんやりと二階にある恵美の部屋に視線を投じていた。その眼差しが流れるようにして玄関の扉に向けられる。微動だにしないまま、じっと目だけを細めていった。全身からは青い光が燐火のように立ち昇っている。いつの間にか、尻尾が四本になっている。

 精緻な緊張が玄関に集まりつつあった。狐を中心として大気が収束し、気脈が収斂されていく。鋭敏になればなるほど濃密な気配を放つその力を、狐は何度も何度も繰り返し練り合わせていった。

 唐突に、刹那に網膜を焼かんばかりの閃光が玄関を包み込んだ。

「なにごと?」

 驚き声を荒げながら紗枝が顔を覗かせる。狐はくるりと首を捻ると、ご心配なく、と簡潔に口にした。

「些細なことです」

「いや、でも、ものすごい強さの光が」

「少しばかり力を使ったのです。周囲に害はありません」

 あっけらかんとしている狐の態度に、紗枝はどうにも納得がいかない。

「……とにかく、変なことはできるだけ控えてよね。どうしてもってときは、ちゃんと前もって言って。じゃないとびっくりするから」

「申し訳ありませんでした。以後気をつけます」

 そう言って慇懃に頭を下げた狐の尻尾はすでに一本に戻っていた。業火のごとく立ち昇っていた青い光も平時と同じ量にまで減少している。これまでどおりの狐の姿であった。これまでどおりの姿を、狐は装っていた。

「よろしく頼むよ」

「了解です」

 小言を口にしにながら、紗枝は再び顔を引っ込めた。狐は扉に目を戻す。鼻を動かし、瞳孔を細めて、遠くここではないどこかを眺望するように首を伸ばした。そしてそのままぴたりと静止する。耳がぴんと立っていた。

 やがて、腰が持ち上がる。反転すると、一度二人が上っていった二階に目を向けた。鼻を動かす。耳をそばだてる。尻尾をゆったりと左右に振って、狐は視線を元に戻した。そうしてまっすぐリビングに足を向ける。

「紗枝さん。ちょっとよろしいですか」

 玄関には森閑とした清廉な空気が流れ込んできている。


 その夜は素敵な晩餐になった。

 いつにも増して会話が弾んだし、テーブルを囲んだ表情には笑顔が絶えなかった。紗枝の料理は相変わらず絶品で、口にしたら思わず舌鼓を打ってしまうくらいなのである。仕事から帰ってきた聡も加わって、食卓は一層賑やかなものになった。

 素晴らしい時間を過ごしたことを思い出しながら、自室のベッドに横になった恵美は、小さく口許を綻ばせていた。楽しかった。本当に、本当に楽しかったのだった。お腹の底でふくよかな感情が生成されているみたい。過ぎ去った興奮の名残が、幸福となって身体中の細胞を喜ばせていた。

 デジタル時計は音もなく時を刻んでいる。そろそろ日付が変わりそうな時間帯だった。恵美の自室の照明は落とされている。薄いカーテンを通って差し込んでくる月の光が、淡い明かりをもたらしてくれていた。どうやら今宵は望月のようである。銀色の輝きを浮かべた秋夜の一時は、純粋な一切の静寂に包まれていた。

 ようやく、ここまで辿り着いた。

 思い、恵美は天井に手を伸ばす。狐と出会ってからの日々を思い返しながら、ぎゅっと握りこぶしをつくった。豪雨の中の意図的な出会いに始まり、久しい父親との再会を果たし、山探しには三週間近く熱中し続けていたのだった。目を閉じて、ひとつひとつの記憶を呼び起こし、浮かんできて小さな光の粒に手を触れていくのに併せて、自ずと表情が緩んでしまった。

 伸ばしていた肘を折って、腕を額に乗せる。恵美は身体の芯に湧き立った晴れ晴れとした温もりを感じ取っていた。それは嬉しさであり、喜びであり、安らぎであり、達成感であった。抱き続けていた想いが結実したのである。充足した感覚がくすぐったくて、恵美は横になったままじっとしているのが辛かった。

 もぞもぞと動いて、寝返りを打つ。ふんわりとしたシーツの感触が心地よかった。慣れない遠出で、心身ともに疲れが溜まっていたのである。引き寄せた毛布の暖かかさが、まどろみをどんどん加速させていった。込み上げてくる高揚感をそのままにして、恵美は次第に眠りの底へと沈んでいった。


 その空間に立ったとき、恵美は自身が眠っているのだということをちゃんと自覚していた。だから、これはおそらく夢なのだろうともすぐに思い至っていた。

 その証拠に、頬を抓ってみても痛みはなかったのである。五感は模糊として曖昧とした海洋に漂ってしまっていた。暑くもなければ寒くもなく、騒がしい場所でもなければ静寂に包まれているわけでもない。足元はスポンジの上を歩いているかのように覚束なくて、周囲からは一切の視覚情報を得ることができなかった。

 ただ恵美がその場所にいることだけが確かなのである。実体を見ることは叶わなかったが、どうやら四肢の感覚はわずかに残っているようだった。

 ここはどこなのだろう、と恵美は考える。何もない場所。けれども、圧倒的に何かに満たされている場所。恵美は不思議な空間に迷い込んでしまっていた。いや、空間と呼べるほど広がりなどないのかもしれない。その場所に時間は微塵も介在できないのである。そして、そのことを恵美は当然のように知っている。

 ゆったりと前進しながら、恵美は辺りを窺ってみた。一体全体ここはどこなのだろう。繰り返し繰り返し同じ疑問を思い浮かべては、ずっと答えを見つけられないままでいる。限りなく夢に近い何かではあるのだった。けれども、絶対に夢そのものではない。これはどこかで起きている現実なのだという根拠のない実感がしこりのように思考の片隅に蹲っていた。

 いくらか進んだのだろうのちに、恵美は再び立ち止まった。あるいは、ずっとその場に立ち尽くしていたのかもしれない。なにせ、この場には時間が存在しないのである。五感がうまく機能しない以上、そうであろう、という推測の域から認識は決して飛び出していけなかった。

 恵美は途方に暮れていた。どうしたらいいのかがわからない。また、どうしたらいけないのかもわからない。何かを行動を起こした感触を得ることも難しければ、何もしていないという確証さえも持てないのである。何もできないまま、もしくは何かを行いながら、恵美という自我はじっとそこに佇んでいた。漂っていたと形容してもいいのかもしれない。大きな対流に、ゆったりと流されていく小さな自我。

 壮大な想像を働かせていた最中に、変化は唐突に訪れた。

 俄かに周囲が明るくなり始めたのである。何事かと、恵美は視線をさ迷わせた。

「なに、これ」

 どこからともなく浮かび上がってくる青い光の珠を見つめながら、思わずそう呟いていた。

 やがて、ひとつひとつの光は一定の流れに乗って移動を始める。蛇行し、跳ね上がり、合流して、分流しながら、恵美の正面に凝縮していった。

 光の奔流はどんどんどんどん大きくなる。依然として、次から次へと光の珠も浮かんできていて、いつの間にか辺りは目を開けているのも辛いくらいの明るさになってきていた。

 恵美にはなにがなんだかわからない。目を細め、掌で光を遮って、辛うじて立ち続けていた。

 光が一際強く輝きを放つ。

 反射的に短い悲鳴を上げて、恵美はその場にしゃがみ込んでしまった。

「驚かせてしまいましたか。申し訳ありません。恵美さん、もう大丈夫ですよ」

 聞き慣れた声に、恐る恐る目を開いてみる。

 周囲はすっかり平静を取り戻していた。もう光の珠は浮かんできていない。奔流も見えない。ただ、流れが集中していた地点に、狐が座っているだけである。体の周りに燐火のごとく青い光を立ち昇らせた狐は、一層神秘的に、神々しく恵美の瞳に映った。

「恵美さん。よろしいでしょうか」

「ここはどこ?」

「説明するのは困難です。星の深層とでも理解してください」

「星の深層?」

「ええ。ありとあらゆるものの根源が満ち溢れて流れ続けている、生命の秘境です。いつか帰ってくる場所。大いなる潮流。巡り巡って、今なお止まるところを知らない、万物の核です」

 言われ、恵美は周囲の様子をじっくりと観察してみた。暗くて、何があるのか、何が流れているのかがわからない。ただ、狐が言ったように、何かに満ち溢れているという気配だけは、確かに濃密に感じ取ることができた。

 釈然としないのは、どうしてこんな場所に恵美が来ているのかということである。もしくは、どうして来られたのかといってもいいのかもしれない。当惑した、見様によっては怯えとも取れる表情を浮かべて、恵美は狐に質問をする。

「どういうことなの」

 脳裏を過ぎった予感を振り払うためなのか、少し鋭い口調になってしまった。

 狐の瞳に、悲しげな影が差す。深々と頭を下げると、感謝の言葉を口にし始めた。

「今まで大変お世話になりました。恵美さんがいてくれたお陰で、今の私があるのです。この感謝、とてもではありませんが言葉にはし尽くしきれそうにありません。本当にありがとうございました」

「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな、いきなり。どういうことなの。説明してよ」

 声を大にして質した理由には、もちろん言葉通りの混乱も含まれていたが、それ以上に狐の言葉に対する動揺が大きく加味されていた。嫌な予感が現実味を帯びてきてしまったのである。只ならぬ気配だった。まだそのときが来るまでには、もう少しだけ時間があるはずなのに。

 しかしながら、そんな恵美の焦燥を知ってか知らずか、狐はゆっくりと頭を上げると、続けざまに紗枝や聡、柚木に対する謝辞を述べ、寄宿していた最中に仕出かした様々な非礼に対して慇懃に言葉を重ねていった。

「もういいよ。そんなこと言わなくてもいいよ。全然気にしてないんだから。謝らなくたっていいんだよ」

 口にした声が、少しだけ震え始めていた。唇を噛み締める。ぎゅっと両手を握り締める。狐を直視することができなくなってしまっていた。沈黙がふたりの間に染み込んでくる。とても重たくて、冷たい、苦しい静寂。

 気持ちを奮い立たせて顔を上げた、恵美は小さく訊ねた。

「もう、これでおわかれなの?」

「はい。私にはもうこれ以上この家に滞在するだけの理由がなくなりましたから」

「私たちが山を探しちゃったから?」

「お二方に山を見つけ出していただいたからです」

「そんな、そんなのって――」

 ない、と拒絶しきるだけの余裕を失っていた。両目を拭うと、頭は自ずと俯き加減になる。

 随分前からわかっていたことだった。覚悟だってしていた。けれども、少しばかり早すぎた。あと二日くらい、いや一日でも、半日でもよかったのだ。恵美は後もう少しだけ、狐と共に過ごすことができるのだと思っていた。思い込んでしまっていた。そこでちゃんと気持ちを整理しようと思っていたのに。心からお別れを言えるよう準備をするつもりだったのに。

「しかしながら、『けれど』も、『でも』も、『だって』もないのです。『のに』だって、通用しないのではないのですか?」

 顔を上げて恵美は目を怒らせた。涙に潤んだ鋭い眼光に射抜かれて、狐は瞳を細くさせた。

「確かにこの家は居心地がいい。もっと過ごしていたいと思ってしまいます」

「だったら過ごしていたらいいじゃん。今までみたいに、これからもずっと一緒にいようよ」

 狐の尻尾が淋しそうに揺れた。

「私には在るべき場所があるのです。そこにいなければならない。私はそういう存在なのです」

 そうまっすぐに恵美の瞳と対峙しながら口にした。空色の眼には、一分たりとも揺らぎが浮かんでいなかった。宿っているのは大山の如き不動を固持した、完成された決意なのである。たった一人の人間にどうこうできる意思ではなかった。

「でも、でも……」

 それでも、恵美には言い足りない言葉があった。伝え切れていない気持ちが渦巻いて、加速を続けて、ますます言葉にならなくなっていく。

「だってまだ……」

 探しても探しても、口にするべき言葉が決定的に見つからない。

 うわごとのように呟きを漏らす恵美の目頭はどんどん熱くなっていった。しゃっくりまで出てくる。腹部の振動に釣られて、涙の勢いも増していく。嗚咽にまみれて、遂にはしゃべることもできなくなってしまった。辛うじて噎び泣くような状態にはならなかったものの、肩は震えるし、鼻の奥はつんとしている。恵美にはもう終わりの見えない感情の滴を拭い続けることしかできなかった。

 様子に、狐は立たせていた耳を伏せてしばらく逡巡した。覚悟を決めて俯くと、息を整えて、足元から青い光を湧き起こさせる。瞬く間に狐の総身は光に包まれてしまった。意識を輝きに同調させていく。やがて光の塊は、座っていた狐の体格から徐々に変化をし始める。二足歩行で立ち上がると、恵美の前へと近づいていく。

 小さな頭に、伸ばした掌がそっと触れた。びくりと恵美は身体を強張らせる。その艶やかな黒髪を撫でながら、声が優しく恵美の鼓膜を振動させた。

「泣かないで、恵美。貴女がそんなに悲しそうにしていると、とても困ってしまうわ」

 わっと、記憶の蓋が口を開いた。はらはらと涙をこぼしながら目を見張った恵美は、その声色の圧倒的な懐かしさをどうしても信じられなかった。

 戸惑いながらも視線を上げる。目の前に立っている人物を視界の真ん中に確認する。

 恵美には押し上げてきた感情の波を抑えておくことができなかった。そもそも、そんな微々たる抵抗は不可能だったのである。くしゃりと表情をゆがめると、彼女の胸に思いっきり抱きついてしまった。

 確かな感触が恵美の身体を受け止めてくれる。背丈は同じくらい。十数年の歳月のうちに、追いついてしまっていた。

「大きくなったね」

 穏やかに抱き支えられながら優しい声が聞こえてくる。

 顔をぐしゃぐしゃにして押し付けながらも、内心恵美は卑怯だと思っていた。卑怯すぎた。この状況になって、十年以上前のあの日に、雨が降っていたあの日の恵美を庇って車に轢かれてしまった亡き母の姿を見せつけるのはあんまりな行為だった。

 だから恵美は、腕の中で暴れだした。拳を作って、母の身体を殴打した。何度も何度も。母の姿を映した狐は、それでも決して恵美を放そうとはしない。

 やがて力尽きた恵美の動きが鈍るのを確認すると、頬に手を当ててそっと持ち上げた。泣き顔に向かって、眉をひそめた、悲しそうな、ぎこちない微笑を浮かべる。

「ごめんなさい」

 そう声がした。母親の声だった。恵美は下を向いたままじっと固まって、何も口にしようとしない。

「本当にごめんなさい。私は最後まで貴女の気持ちを本当の意味で理解することができませんでした。理解するだけの時間がありませんでした。けれど、短い期間ではあったけれど、貴女からはとても大切なものをたくさんもらいました。もちろん、あなたたち家族からも。いっぱいいっぱい、もらうことができました。感じることができました。決して触れる機会は訪れない思っていたのに。こうして、貴女に出逢えた。その奇跡に、心から感謝しているのです。もう私はいかなければならないけれど、この家での日々は決して忘れません。いつまでもいつまでも、ずっと覚えています。そして、貴女も忘れないでください。私はずっと、遠くからだけれど、貴女たちのことを見守っていますから」

 母の掌が恵美の頭に置かれた。ゆっくりと左右に撫でられる。

「最後に、もう一度だけ笑顔を見せてくれませんか」

 返事はない。反応すら見られない。

「お願いします。恵美さん」

 中性的な狐の声になっていた。けれど、恵美の頭は決して縦には動かなかった。動かすわけにはいかなかったのだ。

 しばらくすると、名残惜しそうに掌が離れていく。温もりが、またどこかへ行ってしまう。悔しいような、嬉しいような、悲しいような、腹立たしいような、込みに込み合った感情に呑み込まれていた恵美は、そっと視線を持ち上げてみる。

 辺りにはもうどこにも狐の姿は見当たらなかった。

 あの眩いばかりに輝いていた青い流れだけが、随分と離れた場所を蛇行している。

「待って」

 思わず叫んでいた。恵美は空間の中を駆け出し始める。腕を振って脚を前に出し、息を切らしながらうねる光の後ろを追っていく。

「待って。待ってよ」

 面を伏せながら歯を食いしばった。呼吸が苦しくなる。肺が萎んで、どんどん脚が重たくなっていく。普段以上に身体の自由が利かなかった。水の中でもがいているような動きづらさが、とてももどかしかった。

 光は徐々に速度を早めていく。比例するように、恵美の身体も動かなくなっていく。

 腕を伸ばした。懸命に。光に手が届くように。置いていかないで、と強く念じながら。

 点のようにしか見えなくなった青い流れを掴もうと、指先は必死になって宙を掻く。

 変化はまたしても一瞬のうちに起こってしまった。

 暴力的な浮力に引き上げられて目覚めた恵美は、見慣れた自室の天井に右手を突き出していた。

 何も掴めていない、空っぽの掌。

 両手で顔を覆った恵美は、そのままさめざめと泣いた。嗚咽は漏らさない。静寂に満たされた真夜中の暗がりで、止めどなく流れる喪失感に沈んでいった。


 何ら変わったことなく、再び朝陽が夜を切り裂いた。

 いつの間にか泥のように眠りついてしまっていた恵美は、窓辺にてさえずった小鳥の鳴き声を耳にして目を覚ます。腫れぼったい瞼を瞬かせながら上体を起こし、しばらくぼうっとしてから洟をすすった。

 ベッドから滑らせた足を床につける。冷たさがじんわりと染み込んでくる。肌寒さから毛布を身体に巻いて、恵美は深閑としたリビングへと足を向けた。

 部屋の入り口でじっと一点を直視する。窓際にバスタオルで作った簡素な寝床は、やっぱり空になってしまっていた。その場所に昨夜まで狐がいた痕跡さえ綺麗さっぱりと消失している。

 不器用なタオルの畳み方だった。積み重ねられたその山を見ているだけで、恵美には本当に狐が帰ってしまったのだということが、もうこの家のどこにも狐がいないのだということがありありとわかったってしまった。

 じんわりと視界が滲んでくる。ぎゅっと目を瞑ると、涙ははたはたとこぼれていった。


「行っちゃったんだってね」

「うん。帰っちゃった」

「随分勝手だったね」

「うん。本当に勝手」

 あれから一週間が経った夕暮れのことである。夜が忍び込み始めた公園のベンチに、恵美と柚木は並んで腰かけていた。足元には相変わらず呼吸が苦しそうなフレンチブルドックがリードに繋がれている。二人はじっと前を向いたまま、言葉少なげに互いの感情を共有しあっていた。

「もう、大丈夫なの?」

「ある程度は」

「そう」

 頑張ったね、も、苦しかったね、も場違いな言葉であるように思えて、柚木はそれ以上何も口にしなかった。

 狐がいなくなってから、恵美は底の見えない喪失感に侵されてしまっていた。何もしたくない。何も食べたくない。呆然と自室に引きこもる日々が続いていた。

 転機となったのは聡の一言である。

 紗枝と共に当夜の内に帰山するという話を狐から聞いていた聡は、数日の間は恵美の悲しみを思いやり好きなようにさせていたが、二日ほど前に無理矢理部屋に押し入ってきたのだった。

「いつまでそこにいるんだ」

 声は低く、恵美は多少の恐怖を覚えた。ベッドの上で膝を抱えて、聡との距離を取ろうと後しさる。

 様子を、部屋の外から紗枝は心配そうに見つめていた。

「なあ、恵美。お前なにしてんだよ。あいつは遠くから俺たちのことを見てるって、そう言ってたんだぞ。こんな姿じゃ、あいつの気は休まらないじゃないか」

 聡はベッドの縁にしゃがみ込んで続けた。

「母さんとも、会ったんだろう。あいつに会わせてもらったんだろう。だったらちゃんと前を向こうよ。精一杯生活してる姿、見せてやろうよ。なあ、お願いだからさ」

 向けられた微笑に、恵美は母の姿をした狐のぎこちない表情を重ね合わせていた。みんな、こんな顔をして心配しているのだと思うと、空っぽの胸の奥に、いかんいかん、と逞しい声が響いたのだった。

 それから徐々に気持ちを鼓舞させて、今こうして公園にやってきている。

 靴の先で地面を蹴りながら、柚木は、残念だったな、と口にした。

「あたし、少し恵美が羨ましいよ」

「どうして?」

「どうしてって、あの狐と最後の挨拶ができたわけでしょう」

「挨拶ってほどでもないよ。泣いちゃってほとんどできなかったんだから」

 苦笑した足元に、サッカーボールが転がってくる。拾い上げると、恵美は公園の中央で遊んでいた子供たちに向かって優しく蹴り返してやった。お礼に対して手を振って、再びベンチに腰を掛ける。

「本当に、何にもできなかった」

「そうだとしても羨ましいよ。あたしにはその機会すら巡ってこなかったんだから」

「……それは、確かにそうかもしれないけど」

「『けど』じゃないの。実際にそうなんだから」

 恵美には返す言葉がなかった。柚木も狐と関わってしまったのである。紗枝や、聡だってそうだった。嘆いてしまうことは、少し驕った行為なのかもしれない。思い、恵美は遠く朱に染まった空を眺める。狐の山がある方角だった。

 様子に柚木も視線を持ち上げる。

「遠いよね」

 呟くような一声に頷いてしまっていた。柚木は目を閉じて続きを口にする。

「でも、行けないことはないんだよね」

「そうだね。現に、二人で行って帰ってきたんだもんね」

「愉快な人たちと出逢ったりしてね」

「木の枝を持ち帰って」

 話しながら、二人はくすくすと笑った。足元では?彼女?が退屈そうに伏せてしまっている。

 実さは、と恵美が少し明るい口調で言った。

「あの枝ね、ほら、帰るときに玄関に置いたでしょう。あれね、二つとも新しい枝が伸びてたよ」

「嘘」

「本当だよ。ちっさいモミジの葉っぱがさ、紅葉して五六枚ついていた」

「へえ、すごい。狐の置き土産なのかな」

「どうだろう。でも、たぶんそうなんだと思う」

「山のモノなんだものね」

「うん。山の神様なんだもの」

 風がひとつ穏やかに二人の間をすり抜けていった。真っ赤に染まった空にカラスが飛んでいるのが見て取れる。サッカーを遊んでいた子供たちの姿は、もう公園の中になかった。人気の去った遊具は揺れて、空気にはおいしそうな夕飯のにおいが溶け込んでいる。

 小さな掛け声を口にしながら、柚木はベンチから腰を上げた。ぐぐっと伸びをする。様子を見ながら、恵美も立ち上がっていた。

「んー。じゃあ、あたしそろそろ帰るね」

「うん。また明日」

「また明日」

 挨拶を交わして、二人は公園を後にした。

 恵美は淡い紺色に染まった路地をひとりで歩いていく。こつこつと靴音がコンクリート塀に反響して、上空高く伸びていく。

 そういえば、と恵美は唐突に傘のことを柚木に話していないことを思い出した。大風で父親が残していった傘は大破してしまったものの、紗枝が新しいのを買ってくれたのである。二本セットの特売品だったとのことで、ひとつ余ってしまっていたのだった。

 いつ、渡そうかな。貰ってくれるかな。

 そんなことを考えながら、恵美は我が家へと辿り着く。

 扉のノブをゆっくりと回すと、穏やかな微笑を顔に浮かべた。

「ただいま」

「おかえりー」

 緩やかに、夜は更けていく。




〈了〉


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