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 ワゴン車が止まったのは、随分と山奥に入った場所だった。それにも関わらず、辺りは思った以上に光に溢れていた。原因は田沼の右手に広がる斜面にある。恵美側の山肌は、変わらず鬱蒼とした樹木で覆いつくされているにも関わらず、田沼の右側には大きな樹木がひとつとしてなく、さんさんと陽光が差し込んでいたのだ。

 代わりに、斜面には規則正しく一定の間隔をあけて幼木が林立していた。きっと、植えられてからまだそれほど年月は経っていないのだろう。背丈は目算で恵美の胸のあたりまでしかなかった。

 田沼が無言のまま車から降りた。慌てて恵美もそれに続く。柚木はドアをスライドさせるや、崩れ落ちるようにして地面にしゃがみ込み、辛そうに口を押さえていた。肩を激しく上下させて、懸命に新鮮な空気を取り込もうとしている。

 様子に気が付いて、恵美は大丈夫かどうか声をかけた。柚木は真っ白な顔をゆっくり動かすと弱々しく微笑んだ。そっと柚木の背中を擦りながら、しかし自分に出来ることはそう多くないと悟った恵美は、もう一度、今度はひとりで大丈夫かと訊ねた。

「心配しないでいいよ。すぐによくなる」

 気丈に口にした言葉を信じることにした。恵美は、田沼のところに行ってるからと言い残すと、蹲った柚木の側をあとにした。

 運転席の側に田沼はいなかった。きょろきょろと辺りを見渡して、いつの間に移動したのか、幼木が生え揃っている斜面の中腹に立っている田沼の後ろ姿を確認する。夏には緑を濃くしていたのであろう枯草が茂る傾斜を、少し急いで駆け登っていく。かさかさと山の静寂の中に音を響かせながら息を弾ませて、恵美は一気に田沼との距離を縮めた。少し後ろに立ち止る。

「ここの木は、俺も一緒に植樹したんだ」

 振り向きもしないまま田沼がそう口にした。細い枝を撫でる表情をこっそり覗き込んだ恵美は、とても穏やかな慈愛に満ちた表情を目の当たりにした。釣られるようにしてそっと笑顔になって、心底ここの木のことを大切にしているんだろうなと思った。真似するように枝に触れながら恵美は口を開く。

「どれくらいなんですか」

 田沼が振り返った。

「どれくらい、と言うと」

「えっと、種を植えてから」

「種を植えてからだと、五年ぐらいになるんじゃないかな」

「五年。思ったよりも大きくなるもんなんですね」

「まあな。木は、大きくならないとたくさん太陽を浴びられないんだ。だから生長が早い」

「へえ」

 感心しながら、恵美は触れていた幼木を見た。胸の辺りまでの背丈をもったこの木は、口もなく、もちろん耳も手もないのだけれど、それこそ動物と同じように、また人間と同じように、懸命に生きようとしているのだ。

 この世界はどこもかしこも競争で溢れている。生まれたからには、生きている限りは、生き物はどうしようもなくその流れに乗らなければならない。それはときとして、心や身体に激しい痛みを伴う流れに変貌するものだ。他者との衝突。誰かを失うこと。いろいろなぶつかり合いと、別れが存在していて、流れの中で誰もが大きくなっていく。

 しかしながら、それでも恵美は、今までその流れに呑まれざるを得なかったことが嫌だった。傷つき傷つけ合いながらも、どうしようもなく流されていくことに我慢がならなかった。いっそ醜いと思ったほどである。流れの中で見てきた人は、声を荒げ他人を見下し、我先にとがむしゃらに突き進むものであると恵美の目には映っていたのだ。

 おそらく、それらは人のあるべき姿のひとつとして、それほど間違ってはいないのだろう。人は必ずどこかにそういった面を持っているものなのだ。汚くがめつく凶暴な、恐ろしい一面をどんな人でも必ず内包している。それが人であり、その特徴であり、繁栄するにあたって大切なものだったのだ。

 ただ、それでもと、今の恵美は思う。もしかしたら、そんな人たちであっても、今周りに林立し取り囲んでいる幼木と変わらないのかもしれない。見る方向が違っていただけで、または汚い面をより見ようとしていただけで、同じく生きているのだから、人にも幼木と同じような純粋さがあるのかもしれない。どちらも懸命に競争し、生き残ろうとしているのかもしれない。幼木と違って、人はそこに優越感や劣等感を抱いてしまう余裕があるだけなのだ。

 そこまで考えて初めて、恵美は自身が幼木に対して純粋であるといった感想を抱いていることに気が付いた。木という、即座には目に見える形ではっきりとした反応を示してくれない存在に対して、純粋などと言う評価は果たして見当違いなものかもしれなかったが、恵美にはその表現がすとんときた。木は純粋な生き物である。言葉は心の中で正しく位置を確保したみたいだった。

「すごいですね、木って」

「もちろんだ。巨大な洞を持ったブナの木を、森の賢人なんて呼んだりしているところもあるくらいだからな」

 へえ、と感心しながら、恵美はまだまだ小さい賢人の枝をそっと撫でた。この木もいつかは大きく育って、それで田沼たちに伐られてどこかの家具とか建築材になるのだろうか。それとも、他の木に負けて、不要だと判断されて切り倒されてしまうのだろうか。そんなこと、現状ではわからないけれど、出来ることなら立派な材木になって欲しいなと恵美は思った。

「ねえ、何の話をしてるの」

 声がして、恵美は振り返った。幾わか顔色がよくなった柚木が背後に立っていた。

「大丈夫?」

「うん、大分よくなった。それよりもさ、一体何の話してたのさ」

「うーんと、森の賢人の話」

「森の賢人?」

 繰り返した柚木は、よくわからないと言ったように頭を傾げた。それを見て、確かにわからないだろうなと思い、恵美はちょっと困って、まあいいじゃないと口にした。

「よくないよ。気になってしょうがない」

 子供のように食い下がる柚木に意地悪をしたくなってしまった。くすりと、反応に対して声を漏らす、恵美は田沼の方に振り返えって、悪戯っぽく口の前に人差し指を立てた。

「ねえ、何のことなのさ。ぜんぜんわからないよ」

「だから、森の賢人のことだって」

「その森の賢人がわかんないんでしょうが」

 怒ったように口にした柚木の横を、恵美は素早く駆け抜けた。そのまま勢いをつけて斜面を降りていき、途中でくるりと振り返った。

「絶対に秘密」

「教えてよ」

 言い合いながら勢いよく駆け降りていく二人を、田沼は心配そうに、けれどどこか羨ましそうに眺めていた。

「転ぶなよ」

 呼びかけたあとでため息がこぼれ出た。こんなところではしゃぐなよと呆れながらも、田沼は二人のあとを追って斜面を降りていった。

 恵美と柚木は、未だ教えろ、教えないの問答を繰り返していた。場所は車の周りである。ぐるぐる歩き回りながら、少し楽しそうに、けれどどこか本気でやり取りを繰り返していた。

「いい加減教えてくれてもいいじゃない」

 腕を掴んだ柚木が、恵美を車に押し付けた。しまったと後悔して、恵美は目の前に迫った柚木の顔をまっすぐ見返す。

「やだ」

 答えて、思いっきり舌をのぞかせた。

「このっ……」

「あ、田沼さん、助けて!」

「何やってるんだよ……」

 ちょうどやって来た田沼はじゃれあう二人の姿を見て、頭を掻いた。

「調べに来たんだろ。こっちの深い森に行くなら俺もついていくからさっさと行こう」

「ね。と言うわけでさっさと行こう」

 言って、するりと柚木の手から逃れた恵美は、素早く森へと踏み込んだ。

「もう」

「ほら、柚木さんもいつまでもそんなことに拘らずにさ、行こう」

 言う恵美は、いつにも増して生き生きとしていた。柚木をからかったことが原因だったのかもしれない。瞳はきらきらと輝いて見えた。

「どうしちゃったんだろう」

「楽しいんだろうさ」

 呟いた柚木に田沼が答えた。

「さあ、お前も行くぞ。時間が決まってるんだろ」

 森に入りすぐに姿が見えなくなった恵美と、入り口付近の田沼の背中を見て、柚木はちょっと気に食わなかった。

「恵美が教えてくれたらそれで済むことなのに」

 不貞腐れたように呟いて、二人のあとを追った。

 しばらく森の中を歩いてから、不意に田沼が口を開いた。

「ところで、お前らはこの山ん中で一体何を調べるつもりなんだ」

 言葉に、少し疲れ始めていた恵美も、先頭に躍り出ていた柚木も、そういえば何を調べたらいいのだろうと思った。そもそも、山へはその土地の物を持ち帰るためだけにやってきたのだ。調べるも何も、今すぐにでも足元に堆積している腐葉土とか木の枝とか、拾って持ち帰ればそれで終わりだった。

 二人は田沼の質問には答えず、黙々と自らの足を動かす。山の森は、やはり山だけあってずっと傾斜ばかりだった。しばらく登って沢に出て、今はそれを辿っているのだが、それでもやはり水は流れ落ちているのである。変わらず坂道を登り続けていた。もうとっくにワゴン車は見えなくなっていた。代わりにどこまでも続く木々の姿と、その下に出来た影ばかりが周囲を囲んでいた。

 どういうわけか一定量の光は常に差し込んでいるものの、やはり少しだけ薄暗かった。沢のかすかな水音と、時折遠くで聞こえる、がさごそといった何ものかが動く気配、そして鳥の鳴き声以外は、全て三人の足音と呼吸音だけだった。

「狐の痕跡を調べたいんだ」

 柚木が口にした。

「狐の痕跡って、そんなのなかなか見つからないぞ」

「なかなか見つからないから良いんじゃない」

 振り返った柚木はにかっと力強く笑った。

「まあ勝手にしてくれ」

 そう肩を竦めた田沼に対して、恵美は何となく柚木の気持ちがわかるような気がしていた。要は少しでも長くこの森の中にいたいのである。ここには今まで味わったことのない空気があったし、気配もにおいもあった。体験したことのない異質な空間の中で、探し物をするのが何となく面白かったのだ。

 足は痛い。横腹もずきずきしているような気がする。出来れば少しくらい休みたかったけれど、恵美はその歩みを止めなかった。田沼はそうではないだろうが、柚木は同じくらい疲れているはずだった。それでも一番先頭で元気いっぱいなのである。負けたくないなと思っていた。

 しかしながら、狐の痕跡はおろか他の動物の足跡ひとつすら見つからなかった。へとへとに疲れた恵美と柚木は、苔の生した倒木に腰を据えると、膝に手を当て荒い呼吸を繰り返した。

「見つからないもんだねえ」

「本当に」

 言い合って、二人は弱々しく微笑み合った。側に立っていた田沼がやれやれといったように首を振る。

「だから言っただろ、簡単じゃないって。それにここら辺は、まだ動物達の本当のテリトリーじゃないからな。俺たちみたいな人が、頻繁にではないけれど足を踏み入れる場所だから。警戒してるんだよ」

「でも、もう車とかぜんぜん見えないじゃん」

「それでも直線で考えれば、まだ一キロぐらいしか奥に入ってない。奴らはにおいとか気配に馬鹿みたいに敏感だから、しっかりとここら辺の安全が確保されていると確認出来ないことには姿を現さないんだ」

「一キロってもう随分歩いたような気がするんだけれど」

「蛇行していたからな」

「そんなあ」

 情けない声を柚木が出した。恵美は苦笑して、田沼に振り返る。

「それじゃああとどれくらい行けば動物達のテリトリーには入れるんですか」

「そうだなあ、あと二時間は歩いた方がいいかもしれない。もちろんお前たちの歩く速度と休憩を考えてだけれど」

「二時間かあ」

 とてもじゃないが、もうそんなに余裕はなかった。木々に阻まれてしっかりとは見えないものの、すでに太陽は中天に差し掛かっていたし、帰りのことを考えるともうそろそろ戻らねばならなかった。

「どうする。まだ奥に行くか。行ったところで実りはまず期待できないだろうが」

 訊いた田沼に、恵美は力なく頭を振った。

「もう、いいです。時間がもうあまりないから」

「そうか。でも、調べ物とやらはできたのか。あんたたち、見たところそれらしいものをひとつも持ってないみたいだが」

「はは。確かにそうですね。でも、いいんです。もう十分探し終えましたから」

 そうだった。恵美の言う通りなのだ。形にはならないけれど、恵美と柚木はたくさんのものを両手に抱えていた。それは、理由として連れてきてもらった狐の伝承というものではなかったけれど、他に代わりのない確かなものだった。

「よし、じゃあ、降りますか」

 柚木がよいしょと腰を上げた。大きく伸びをすると、力一杯深呼吸をした。その横で、立ち上がり、恵美もお尻の辺りをはたく。ずっと立ちっぱなしだった田沼は、まったく理解出来ないと言ったような渋面を作って首を傾げていた。

「腑に落ちん」

「いいからいいから。帰りの運転も、あ、うん、頼みました……」

 行きの時のことを思い出したのか、柚木の表情がさっと青くなった。それを見て、災難だなあと恵美は思い、それからふと今まで座っていた倒木の方を振り返った。

 その枝は、大きな倒木のすぐ後ろに落ちていた。長さは一メートルくらいで、風か雪かどちらかはわからないが、ある時にぽっきりと折れてしまったらしい枝だった。恵美はそっと慈しむように拾い上げる。掌にぴったりと収まる太さだった。それに、思った以上に重量感がある。枝がしたたかに命を育んでいた証拠だった。

 頑張ったんだねと、恵美はそう声をかけたくなった。

「恵美、どうしたの。早く行くよ」

「あ、うん」

 声がかかって田沼と柚木の方へと振り返った。それから、もう一度周りを取り囲む木々を見上げて、それから二人のもとへと急いでいった。

 森は何も口にしない。すぐに現れる反応も見られないい。長い年月をかけて、それでも競争の中で急ぎ、追い、追い抜かれながら生きている。森の中は時間が悠久のように流れていて、誰もが精一杯だった。

 恵美は手に持った枝をぎゅっと握り締める。ごつごつした節が掌に痛かったけれど、枝は温かな何かを今でも持っているような気がした。

 ワゴン車が見えるところまで降りてきたところで、唐突に柚木が訊いてきた。

「恵美さ、その枝にするの」

「あ、うん。いいなって思って」

「ふーん」

 隣を歩きながら、柚木はその枝のことをじっくりと見た。

「いいね」

 そう言うと格好良く笑った。それに田沼が口を挟む。

「なんだよ、そんな枝ならどこにでも落ちてるじゃないか」

「そんな枝じゃないよ。この枝だからいいんだよ。ね、恵美」

 恵美は頷いた。その通りだった。

「あたしもなんかいい枝が欲しい」

「もうすぐ車につくぞ」

「もうちょっと待って」

 田沼は勝手にしろと言い残すと、ひとり先んじて車へと向かっていってしまった。ぶつぶつ呟きながら木の枝を探し回る柚木の背中を見ながら、恵美は思わず苦笑してしまった。


 例のごとく柚木が盛大に車酔いに苦しむことになった山道を降って、恵美たちは以前と通ったことのある農林所へと続いている道を走っていた。柚木は窓を全開にして、風が寒いにも関わらず窓の外に顔を出していた。

「もういいだろ。いい加減閉めてくれ」

 我慢の限界を超えた田沼がそう口にした。柚木としてはもうちょっと風に当たっていたかったのだが、乗せてもらっている以上、そうそうわがままも言えない。渋々ウィンドウを上げた。

 相変わらず辺りに人の気配はほとんどない。閑散としていると思いながらも、恵美はどこか気持ちが安らぐのを感じていた。おそらく、恵美や柚木はこういった場所に長くは住めないだろう。それは便利さに満たされた都市空間で過ごしてきたからであって、そういった便利さを捨て去ってしまうのが難しいからだからだった。それでも、と恵美は思う。年に何回か、または数年に一度でもいいから、こんな場所で時間を過ごしてみたかった。

「そうだ。ねえ、恵美、民宿のおばさん、何か言ってなかったっけ」

 後ろから声がかかって、恵美はどうだったろうかと思い出してみた。

「ああ、うん。確か帰る前に寄って行きなさいとか言っていたような気がする」

「なんだ、まだ用事があるのか」

「すみません、民宿に寄ってもらえますか」

 そう恵美が頼むと、田沼は無言のまま信号を右に曲がった。

「お安い御用で」

 少し投げやりな口調に、いかにもらしいなと思わされた。


「ああ、来てくれた。忘れちゃったかと思って心配してたのよ」

 民宿のおばさんは、二人が顔を覗かせるとせかせかと歩み寄ってきながらそう口にした。

「ね、二人ともこれから帰るんでしょう。お昼、何も持ってないじゃない。ここら辺の駅ってさ、ほら、無人駅だからね、駅弁とか全然ないのよ。もちろん電車の中だって。乗ってきたからわかってると思うけどさ。でね、話聞いてればもうすぐ帰るらしいじゃない。だからね、ほらこれ」

 そう言っておばさんが差し出したのはプラスチックのパックに詰め込まれた味ご飯だった。

「持っていきなさい」

「でも」

「いいのいいの。こんな田舎にさ、泊まりに来る人なんて登山客とかそんなおじさんばっかりでね、ほとんどお客さんがいないところにひょっこり若い女の子が来てくれたんですもの。貰っていって頂戴。これはね、私が嬉しいからやってることのなのよ」

 ささ、急いで急いで。時間迫ってるんでしょ、などと勢いよく捲くし立てたおばさんのペースに、二人は見事に飲み込まれてしまった。あれよあれよとするうちに、手にビニール袋を持たされて、そのまま民宿から車へと乗せられることになった。まるで催眠術にかかったみたいに、おばさんによって主導された動きだった。車に乗り込んだところで、ようやく二人にもお礼を言うだけの余裕が出来た。

「あの、ありがとうございます」

 恵美が言うと、おばさんは優しく微笑んだ。

「いいのよ。またいつでもいらしてね」

「おばさん、ありがとう」

 窓から顔を覗かせて、柚木は声を挙げた。懸命に民宿の前に立つおばさんに手を振り続けるものの、動き出した車は徐々にその距離を開かせていく。おばさんは一度も手を振らなかった。じっと立ったままその姿が見えなくなるまで二人が乗ったワゴン車を見続けていた。

「いい人だったね」

 曲がり角を曲がって、とうとうその姿が消えてしまうと、ずっと手を振り続けていた柚木はぽつりとこぼした。うん、と恵美は頷いた。

「また、いつか来られたらいいな」

 そう言った柚木の言葉は、果たして同意を求めるものだったのか、それとも単なる呟きだったのか、恵美には判別がつかなかったけれど、強く共感を覚えてしまった。

 田沼はずっと何も喋らなかった。車は一路駅へと向かっていた。

 無人駅には深山のおじさんがいた。田沼が驚きの声を上げる。

「深山さん。どうしたんっすか」

「いやね、どうだったか気になるじゃない」

 仕事はどうしたのだろうかと思わないこともなかったが、恵美と柚木は揃って頭を下げた。

「あらら、困ったねえこれは。人に感謝されてお礼を言ってもらうなんて慣れてないもんだから」

 まだ何も言ってないのになあと二人は揃って思った。頭を上げると、まず柚木が口を開いた。

「深山さん、本当にありがとうございました。お陰で十分楽しめました」

「そうかいそうかい。でも楽しめたって、君たちは調べ物に来たんじゃなかったのかい」

「そうです。調べ物がスムーズに済んでとても楽しく出来たという意味です」

「なるほど。そいつはよかった」

 言うと、深山さんは大袈裟に笑い声を出した。それを見ながら、柚木も恵美も引き攣ったような笑みを浮かべる。この手のタイプの人とは、まだそれほど交流がなかったためかまだ少し扱いに困っている最中だった。

「ああ、そうだ。それはともかくさ、調べ物の成果は何かあったのかい」

 言われて、恵美と柚木はどうしようかと顔を見合わせた。実質的な物は木の枝二本しかなかったのだ。これです、と差し出したところで話がややこしくあるのは目に見えていた。出来ればそんなことは避けたかったのだけれど、そのためにはまたはぐらかさないといけなくて、そうしたところで面倒くささはそれほど変わらないようだった。困ったような微笑を浮かべるばかりの二人を見て、田沼が口を開いた。

「大したものはなかったみたいっす。時間が時間ですし、それほど詳しくは調べられなかったから」

「おお、それは残念だね。もっと時間があればよかったのだけれど。うん、でも仕方がないかもしれないね」

 納得してくれた深山の言葉に二人は心底安堵した。

「ああ、でももしあれならこのままもう一日泊まっていったらどうかね。どうせ学校なんて一日くらい休んでもどうってことないんだから」

 提案に、これまた二人は困ってしまった、適当に笑って誤魔化すことしか出来なかった。

 それからの時間、電車が来るまで深山の質問は執拗に続いた。その度に田沼が場を執り成し、柚木や恵美はぽつりぽつりと言葉を述べるにとどまっていた。やがて、質問にも飽きたのか、深山は得意の武勇伝を語りだした。

 学校という単語が会話の中で出たためか、今回の内容は深山が高校生の時の出来事だった。何でも深山は当時剣道部に所属していて、山に入ったところをクマに襲われたのだそうだ。それを、そこらへんに落ちていた木の棒で撃退した、ということらしい。まったくもって眉唾物の武勇伝であったが、答えるよりは聞いているだけの方がまだ楽だったので、適当に驚いたり相槌を入れたりしながら恵美と柚木はじっと電車が来るのを待っていた。

 やがて遠くから小さな車体がやって来た。深山は未だ話の途中だったけれど、恵美と柚木はすくりと座っていた椅子から立ち上がった。

「でだね、そこで僕は、って、あれ? ああ、もうやって来ちゃったのか」

 電車はがたんごとんと確かな振動を伝えながら、駅との距離を縮めてくる。一緒につまらない話を聞いていた田沼と、話し続けていた深山に振り返り、恵美と柚木は再度お礼を言った。

「ありがとうございました。ずっとお世話になりっぱなしで」

「いいのいいの。こっちはこっちで楽しんだんだから。ごめんね、僕の話つまんなかったでしょ。でもさ、ついつい喋っちゃって。こいつだとさ、反応してくれないから話し甲斐がなくってね」

 言いながら深山は田沼の背中をばしばし叩いた。それから二人に直ると、まっすぐ見つめてきてにっこり笑顔になった。

「またいつでも来なさい。私たちは変わらずここにいると思うから。この集落はさ、時間の流れがゆっくりなんだ。だから、疲れた時とかいろんなことに嫌になった時とか、ここに来てリフレッシュしてくれたらいいと思う。僕たちも歓迎するしね」

「また、来ます」

 恵美が言った。

「絶対にね」

 柚木もそれに続いた。

 電車は二人の後ろで止まり、入り口を開いていた。たった二車両しかない田舎の電車。この電車に揺られやって来たこの場所のことを思い、恵美と柚木は胸が温かくなった。

「それじゃあ」

 言って、二人は電車に乗り込む。まもなく発車のベルが鳴ってドアが閉まり、入り口付近に立ったままの二人が見据える駅の風景がゆっくりと動き出した。深山が大きく手を振っている。田沼はぶっきらぼうに立ち尽くしている。恵美と柚木はそんな後方へと流れていく二人を見つめながら、そっと手を振り続けていた。

 やがて、そんな二人の姿も見えなくなると、恵美と柚木は揃って座席に着いた。

「面白い人たちだったね」

「そうだね」

 かたんごとんと速度を増して走る電車の中に、今日は恵美と柚木以外の人の姿はない。静かな車内で、二人はそれぞれ思いごとをしていた。悪くない沈黙で、居心地のいい静寂だった。思考の奥底で感じながら満たされた余韻を味わっていた。

「あのさ、深山さんって、なんだかお父さんみたいじゃなかった?」

 口にしたのは柚木だった。

「お父さん?」

「そう。なんだかあたし昔を思い出しちゃってさ。話はつまんないし、長いし、散々な目に合ったけれど、それでも声を聞いているとさ、胸がほっこりするような、そんな気持ちになった」

 言いながら柚木は胸に手を当てていた。恵美も手を当てて、そっと目を閉じ、ついさっきわかれたばかりの深山のことを思い出した。

「うん。何となくわかる、その感じ」

「でしょ」

 言い合って、見詰め合って、二人はくすぐったそうに笑いあった。温かくてほっこりしてて、とても幸せな感じがした。そうか、あの時感じた懐かしさは、父さんの面影を感じていたからなのかもしれない。恵美は初めて会った深山に抱いた不思議な懐かしさについて、ようやく合点することが出来た。

 それからの帰路、二人は出会った人たちのことを話し合った。無愛想な田沼のこと、民宿の優しいおばさんのこと、父親の雰囲気を存分に有した深山のこと、それから山のこと。話して、おばさんからもらった味ご飯を食べて、電車に揺られていた。

 景色は穏やかに流れていって、二人はゆっくりと集落から遠ざかり、狐の待つ恵美の家へと近づきつつあった。

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