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   〈 一 風の到来 〉


 下手くそな演奏家のちぐはぐな演奏を無理やり聞かされているかのようだった。

 気まぐれに窓を打ちつける豪雨がパーカッションで、耳障りでやかましい暴風がウッドベース。板書を解説する冴えない古典教師の声にはボーカルが割り振られている。

 次から次へと内耳に飛び込んでいく不協和音は、当て所のない閉塞感を醸し出していて、二年三組のプレートが掲げられた教室には、鬱積したフラストレーションが漂い始めていた。

 かちかちかちかち……

 恵美は、隣から聞こえてくるノック音に耳を閉ざしていた。黒板には目を向けず、退屈そうに頬杖を突いている。純白のブラウスが鋭く突き刺さった机の上には、筆記用具や教科書やノートなどの類が一切見当たらない。塗り重ねられたニスが艶やかに蛍光灯を反射して、恵美の輪郭をほのかに照らし出していた。

 その眼差しは、じっと窓の外に向けられていた。ガラスに打ちつけては垂れていく水滴を見たり、暴風によって遊ばれている降雨の行末を眺めたりしている。

 町並みは、降り注ぐ大粒の弾幕にくすんで全景がはっきりとしていなかった。見渡す限り、世界は煙雨に捲かれてしまっている。立ち並ぶ輪郭のぼやけたビル群は、薄墨を落としたような雨雲と境界を判別するのが難しい。通りを行き来する人々は、ぽつぽつと頼りない傘を掲げて、荒れ狂う空の下を懸命に歩いていた。

 様子を見下ろす恵美の顔が、薄っすらとガラスに映りこんでいる。短く切りそろえられた真っ黒なストレートヘアの下で、長い睫毛がしなやかに伏せられた半眼が無感情に濁っている。瞳には、諦観にも似た冷ややかな色が深く根を下ろしていた。

 不意に教壇で教師が咳払いをした。

 瞬間、降り積もっていた苛立ちがゆるりと舞い上がる。いつの間にか張り詰めていた緊張がたわんで、誰ともなしにほっとかすかな吐息を漏らす。

 巨大な台風は、ここ花崎市にもじわりじわりと接近してきていた。

 昨今の温暖化がもたらした海面温度の上昇による影響で、ハリケーン並みの強さを有するまでに成長した台風は、そのまますっぽりと列島を覆いつくさんばかりに渦を大きくさせながら、海上を北東に進み続けている。

 先遣隊として、一週間近く前から空には雨雲が立ち込めていた。日一日と雨脚を強めながら、飽きもせずに降り続くいやらしい雨だった。お陰で治水も限界に来ているらしい。いつどこで河川が氾濫してもおかしくないと、連日のように天気予報士は警鐘を鳴らしていた。

 また、三日前からは怪物の唸り声のような風も吹くようになった。時折吹き荒ぶ突風には、身を竦めて立ち止まるしかやり過ごす方法がない。

 上陸する前から鋭い爪牙を剥き出しにして、巨大台風は着実に邁進してきている。

 バンッ、と大きな音を立てて突風が窓を叩きつけた。ガラスがしなって、ガタガタと激しい振動が数秒続く。

 教室の中には、風に驚いて心配そうに窓の外を見る生徒がいる一方で、期待に満ちた表情でにやけついている生徒がいた。囁き合い感情の昂ぶりを友達と共有する女子がいて、教師に見えないよう携帯電話をいじり、ニュースサイトや掲示板から情報を得ている男子がいる。

 教師にしたって、荒々しい風雨には心底参っていたのだ。生徒の集中力が極限まで削り取られてしまうために授業ははかどらないし、これからどうなるのかも心配だった。

 すでに台風は内陸沖にかなり近づいてきているのである。避難勧告や退避命令がいつ出たとしてもおかしくはなかった。いっそのことさっさと出してくれたらいいのにと、教壇に上がる教員でさえも願わずにはいられなかった。

 誰も彼もが、巨大な台風に心を奪われてしまっていた。

 恵美だけが無感動のまま、じっと窓の外に視線を向け続けていた。

 そんな折、突然、天井近くにある四角いスピーカーが小さなノイズを放送する。

「ようやく来た」

 耳ざとく反応した誰かが嬉しそうな声を出した。

 そんな一言を皮切りに、至る所でざわめきが生じ始めた。押し留められていた興奮を肥料にして、不安が染み込んだ土壌におしゃべりの芽が一斉に芽吹いたのである。音量は瞬く間に大きくなっていった。慌てて教師が注意をしてみたが、もう手の施しようがない。たがの外れた精神は互いに伝播しあい、一気呵成に熱を帯びていった。

 ゴホン、とスピーカーの向こうで放送主が声慣らしの咳をする。胎動を内に秘めた教室は、一転して見違えるほど静かになる。

「えー、全校生徒の皆さん、昨今のニュースでもうすでに知っているものとは思いますが、現在猛烈な台風が接近しています。先ほど、事前に出ていた大雨洪水警報に加えて、暴風落雷警報が発令されました。また、県の教育委員会のほうから全生徒を帰宅させるようにとの通達がありましたので、本日の授業はこれまでとします。寄り道しないように気をつけて帰宅してください。以上です」

 教頭のしわがれた声が終わる。即座に教室の中は歓喜に沸き返る。教師が口にした指示のあれこれは、むろん生徒たちには届くはずがない。それぞれが好き勝手に帰り支度を始めていた。

 ある生徒は外の様子を見ながら、目を輝かせて友達と話し合っている。どうしよっかな、などと興奮に任せてこれからの過ごし方に華を咲かせている。

「HRがあるから、それまでは教室を出ないように!」

 教師が言い放ったその指示だけは律儀に守って、さっさと身仕度を整えた生徒たちは、浮き足立った会話を続けていた。忙しなく動き続ける口に話題がなくなることは当分なさそうだ。止まると死んでしまう回遊魚のように、破綻を恐れぬ金欲の膨張のように、喧騒は加速度的に厚みを増していった。

 恵美は相変わらず外を見続けていた。帰宅の準備もしないで、口を一文字に閉じ、じっと外を見ている。横顔には、雨風の凄惨な演奏に合わさった会話の高波に対する苛立ちがかすかに浮かんでいるようだった。

 そんな恵美のもとに、背後からひとりの女子生徒が近づいてくる。気配を感じて、恵美は側に立った彼女のことを見上げた。

 ふんわりとした長い髪の毛と満月のような瞳が印象的な女の子だった。少しだけ派手な化粧がより一層瞳の大きさを強調させている。その表情には不思議な静けさが浮んでいる。あくまで平静で、いつもどおりで、十字架を象った小さなイヤリングが輝きを放っていた。やあ、と手を上げて声をかけてくる。

「恵美さ、今日これから暇?」

「べつに。暇じゃないよ。どうして?」

「なんでもない。ただ訊きたかっただけだから。それじゃあ、また明日」

 言って、柔らかく破顔した彼女は恵美から離れて教室をあとにする。荒れ狂う天気なのだから、明日再び学校で会えるかどうかはわからないのだが、恵美も「またね」と立ち去る背中に手を振った。

 そうして再び、恵美の周りには沈黙が降りてくる。高揚した室内は騒がしいのに、恵美の机の周辺にだけはぽっかりと真っ黒な穴が開いていた。他の誰が意図したわけでもない。恵美自身が進んで開けた穴だった。

「おーい、お前ら静かにしろー。席につけー」

 暢気な声が響いた。担任が教室に入ってきたのだ。目尻に柔らかな皺を湛えながら朗らかに伸びる声で話をする彼は、生徒たちからの人気もそれなりに高くて、結構慕われている。

 証拠に、気ままに話し続けていた生徒たちが、順々にそれぞれの席に戻っていった。学級委員が号令をかける。挨拶をして着席し静かになった生徒たちを確認すると、まるで反復練習でも積んできたかのように、担任はすらすらと休校になるまでの経緯を口にした。ほとんど校内放送と同じ内容だった。

「というわけで、今日はこれから帰宅になるわけだが、いいかお前ら、絶対に寄り道はするなよ」

 言いながら少し口調が厳しくなった。クラスの雰囲気がひりりと緊張する。恵美の隣に座る男子生徒は、胸中を見抜かれたような気がして居心地を悪くさせていた。

「増水した川は本当に恐いもんだからな。人なんて簡単に呑み込んじまう。泳ぐことも、水面に顔を出すこともできない。周りの人が助けようとする前に、流されて見えなくなっちまうんだ」

 言うと、担任は少しだけ顔をしかめた。悔しそうな、辛そうな、複雑な渋面だった。絶対に川に近づかないこと、そして寄り道しないで帰るようにと、くどいほどに念を押して担任は話を終えた。

「じゃあ、お前ら気をつけてな」

 号令がかかって、HRが終わる。生徒たちはぞろぞろと教室からあふれ出していく。人波の中には、様々な表情があって、個性があって、あっという間に廊下は人で埋め尽くされてしまった。

 反対に、教室の中はどんどんどんどん広がっていく。恵美はずっと椅子に座ったままだった。

 校庭には早くも外に出たらしい生徒たちの傘が咲き始めている。色とりどりの傘は、暗鬱たる天候の下では決して映えることなく、毒々しく群がりながら町並みの彼方へ消えていく。様子を恵美は、あの無感情な半眼で眺めている。

 最後まで残っていた女子のグループが、教室を出る際、窓際に座っていた恵美に気が付いた。消そうとしていた電気パネルから手を離す。何事もなかったかのように談笑を再開させる。

 廊下に出ると甲高い笑い声は徐々に遠ざかっていった。蛍光灯の青白い光が明るく照らし出す教室には、恵美が一人と、それ以外の空間を埋め尽くす圧倒的な沈黙が腰を据えている。

 断続的に雨の音と風の唸りは響いていた。じっと固まっていた恵美は、ふぅと、小さく息をつくと、ようやく重い腰を上げた。机の横にかけた、今日一日何も取り出さなかった鞄を手に取ると、椅子をしまって、教室の出口へ向かった。

 入り口付近にある照明のスイッチを切る。ぱちんと破裂するような音を立てて、教室から光が消え失せた。誰もいない室内にさっと仄暗い墨色が滲みこんでくる。

 恵美はしばらくその場に立ち尽くしていた。遠くの空で紫電がほとばしる。待てども待てども轟音も振動も届いてこない。稲光でしかなかったようだ。

 間隔をあけて空には無秩序に閃光が瞬く。何度も何度も、繰り返し繰り返し、瞬いては風雨が吹き荒んでいる。

 様子をじっと見つめ続けてから、何度目かの稲光の後、恵美はようやく踵を返した。

 窓がガタガタ震えている。雨は勢いよく打ち付けている。

 人の姿の見えない廊下を進む足音が、やけに大きく響いていた。


 玄関にはもう誰もいなかった。大勢の生徒が立ち去って閑散とした空間には、熱気だけが名残のように漂っていた。無言のまま靴を履き、顔を上げると、誘われるようにして外に出てしまった。荒天を見上げながら、呆然と呟いてしまった。

「これはひどい……」

 猛る風雨が毎秒ごとにその向きを変え続けていた。正面から吹き付けてきたかと思えば左に折れて、一息つく間もなく今度は右に向かって折り返してくる。また、同時に三方向くらいから雨に打たれてしまうこともありそうだった。

 どのような風が吹けばそうなってしまうのか、恵美にはまったく理解できなかったが、降りしきる雨は意思を持っているかのように、奔放に暴れまわっていた。

 まったくもって、傘など何ら意味を成しそうにない豪雨である。たぶん、滝つぼに近づくと、少しは似たような感覚を味わうことができるのだろう。ぼんやりとそんなことを考えた恵美の視界を、突風に煽られた髪の毛が奪い去った。

 我に返って慌てて玄関の中に逃げ込み、恵美はしばし頭を悩ませた。

 どうしたらいいのだろう。

 人のいない薄暗い玄関に、恵美はぽつんと一人で立ち尽くす。ガラス戸の向こう側には、夕闇が迫りつつあった。お陰で、厚い雨雲が立ち込める町並みには、ほとんど陽の光が届いていない。点々とアスファルトを照らす街灯は、足元に小さなサークルを作り出しているだけだった。無機質な光を頭上に落とす蛍光灯は、浮き彫りになった沈黙を煌々と照らし出している。むくむくと不安の双葉が芽吹き始めてしまった。

 まるで、周囲全てを見えない何かに包囲されてしまっているような、それでいて、その見えない何かが自身にとって脅威であるのか、それとも無害であるのかさえもまったくわからない、言い知れようのない不安が刻一刻と忍び寄ってくるのである。恵美は降りしきる雨を睨み、靴の先で腹立たしそうにコンクリートの床を叩いた。

 しばらくの間、そうやって雨脚が少しはましにならないかと待ち続けていた。雨は一向に弱まる気配を見せなかった。

 考えてみればそれもそのはずだった。台風は連日のように接近し続けているのだ。ここ数日間の動向を振り返ってみても、風雨の勢いは増すことこそあれ、弱くなることはほとんどなかったのである。

 横殴りの雨は、いよいよ傾斜三十度ぐらいの角度でなびき始めている。このままでは、どんな対策を練って行こうが下着まで濡れてしまうが明らかだった。たとえ雨合羽を羽織っていたとしても、結果にそれほど大差はないように思える。

 恵美は傘立てに突き刺さっていた傘を見つめる。以前から家にある、少し古い男物の大きな黒傘である。がっしりと骨が組んであって、貼られた布も撥水製抜群で、今日も朝の登校時には降り注ぐ雨から身体を守ってくれた、付き合いの長いパートナーである。

 その性能は恵美が一番知っている。いつもならば頼りがいのある傘なのである。けれども、現状の空模様では単なる棒にしか見えなかった。運が悪ければ、開いた瞬間に壊れてしまうのである。ジャングルの中で手にする、根元からぽっきり刃が折れてしまったサバイバルナイフよりも使い道が見つからなかった。

 傘としての意義を失った元傘に存在理由を見出すことは甚だ難しい。なにせ、粗大ゴミ以上のなにものでもないのである。ガラクタアートに使われるくらいが関の山だった。

【雨天に壊れてしまった傘に、何かしらの利用方法を見出せ】

との設問が模試に出たら、たちまちたくさんの白紙回答が集まりそうだ。この傘は捨てるわけにはいかないから余計に性質が悪いと恵美は思った。

 顔をしかめてもう一度外に目を向ける。マシンガンを一斉に撃ち放ったかのような轟音を立てて、大量の雨粒がガラスにぶつかった。様子に、恵美はため息を堪えきれなかった。

 どうしたらいいのだろう。

 先ほどと同じ悩みでありながらも、状況が悪化した思案に暮れて、思わず唸ってしまった。仕方なく、考えられるだけの可能性をあげて、ひとつひとつ選定してみることにする。一種の消去法だった。

 まず一つ目。このままひっそりと学校に残る場合。

 問題点。

 ・食べ物がないこと。

 ・寝る場所に困ること。

 ・夜が寒く、どこまでも暗いこと。

 結論→却下。

 次の場合。担任か誰かに送ってもらうとする場合。

 問題点。

 ・職員室に乗車を頼みにいかねばならないこと。

 ・車の中で二人きりになってしまうこと。

 ・その時間がとてもじゃないが耐えられそうにないこと(恵美は教師という人種が大嫌いなのだ)。

 結論→精神的苦痛が考えられるため却下。

 それでは最後の場合。このまま雨の中に飛び出して帰ることを考えてみる。

 この場合、誰にも気を使わなくても済むし、夜だって安心安全暖かな場所が確保されている。安心して自宅のベッドで眠られるし、嫌なことをわざわざしなくてもいい。

 導き出した結論は、三つの中では抜群に素晴らしいものだった。ただ一点、代償として恵美の身体が濡れてしまうことを除外さえすれば、いうことのない完璧な選択肢だった。

 物事は、万事が万事、そう簡単にはいかないものなのである。

「仕方ないか」

 恵美は再度ため息を吐き出した。ありったけの空気を、肺から搾り出したかのようなため息だった。

 反動で大きく息を吸い込みながら、これしかないだろう、と腹をくくっていた。

 事実がより明確になっただけでも、試した消去法にはそれなりの成果があったのだ。きっとおそらく。たぶん、あったに違いない、はずである。

 そう自らに言い聞かせながら、恵美はえいっと玄関の戸を開いて外に出た。

 途端に暴風が牙を剥き始める。大粒の雨が面白いように風に運ばれて、容赦なく全身に打ちつけてきてくる。

 乱れる髪の毛に苛立ちながらもなんとか傘を開き、恵美は雨の中を歩き始めた。進行方向に傘を傾けて、ぐっぐっと、一歩一歩風に押し負けないよう慎重に進んでいく。

 校門を過ぎる頃には靴の中が冠水し始めていた。制服もじっとりと濡れかけている。風に歪む傘のフレームに向かって、どうにか耐えてくれと念じながら、決死の思いで恵美は家路を急いだ。


 結果として、やはり傘は壊れた。猛烈な突風が吹き荒んだのである。恵美の身体は傘に引かれるまま宙に浮かび、そのまま腰から水溜りに落下した。それは一瞬の出来事で、気がついたときには傘を手放してしまっていた。

 咄嗟に周囲に視線を走らせる。フレームが曲がって、所によっては折れてしまった傘が、遠く離れたアスファルトの上を転がっていた。

 もう一度強い風が吹きつける。傘は勢いよく吹き上がり、そのまま建物の影に隠れて見えなくなってしまった。

 様子を呆然と見つめていた恵美は、しばらく空を見上げて、それから一度大きな声で叫んだ。

 形あるものは総じてその形をいつかは失うものだから、傘がなくなったのは仕方がないといえば仕方がなかったのかもしれない。手元に置けなくなったその日時が、急激に早まっただけなのかもしれない。

 でも、だからと言って現状を受け入れられるほどの余裕もゆとりも、恵美はまったく持ち合わせていなかった。大切な傘だったのだ。悄然とした面持ちで立ち上がると、家まで帰るまでの道のりを思って、仕方なしにとぼとぼと歩き始めた。


 雨の中を健気に歩くみずぼらしい姿なんて、見知らぬ人に見られただけで恥ずかしくなってしまう。

 傘を失くしてからというもの、できるだけ人目につかないようにと、人通りの多い大通りを離れて歩いてきた恵美だったが、それが裏目に出ることとなった。

「ここ、どこ?」

 想像していた以上に、道は入り組んでいた。現在地点さえもよくわからない。鞄を頭の上に持って、遠くを見上げ、見知った百貨店の大きな看板を確認する。そうしてどうにか家までの道のりを思い浮かべていた。たぶんこのまま歩いていけば知った道に出るはずだ。信じて、疲れた心と脚に鞭を打った恵美は懸命に前を向く。

 もっと詳しく、細部に至るまでちゃんと把握しているとばかりに思っていた町は、いつの間にか恵美を飲み込んで離さなくなっていた。窓から光が漏れ出す民家や何かしらの倉庫、空き地が点々と続いている狭い道路を進んで、突き当たった角を右に曲がる。シャッターの閉まった見知らぬ店舗の前を通り過ぎて、だくだくと水の流れる坂を登り、交差点を今度は左に折れ曲がる。

 眼前に現われたのは、緩やかに右にカーブした細道だった。

 こんな道、恵美は知らない。来たことさえなかった。途方に暮れて立ち止まる。猛烈な豪雨の中、生まれてきてからの十七年間を過ごしてきた町並みは、異世界のように姿を変えていた。

 どうにかなるに違いないと、無謀な勇気を奮って歩き始めた当初の自分を、恵美は胸中で激しく罵倒していた。どこかに冒険じみた好奇心を持っていなかったわけではなかったのだが、その結果が迷子となっていてはどうしようもないのである。

 好奇心は生物の進化にとってなくてはならなかったのだという。けれども、だからといって恵美は、いまこの瞬間に進化したいと願っているわけではなかったのだ。

 歩いては立ち止まり、視線を上げては遠くにある大きな看板を確認する。どうしても縮まらない百貨店までの距離が腹立たしかった。これからどちらの方向に進めばいいのかを導き出して、苛立たしげに表情を歪めて恵美は再び歩き出す。

 辺りは、いつの間にか閑静な住宅地になっていた。両側には家々が立ち並び、窓からは温かな光がいくつもこぼれてきている。明かりの奥に動く人影を見つけるたびに、恵美はどうしようもなく心細くなった。

 早く家に帰りたい。あったかいお風呂に入って、ミルクを飲んで、ふかふかのベッドに沈み込みたい。そう思った。また、思えば思うほどに、光は更に明るさを増して、心細さを刺激していった。激しい雨に打たれている限り、恵美はどこまでも進んでもひとりぼっちのままなのである。

 がちがちと上手く噛み合わない奥歯が鳴っている。服に染み込んだ雨は、すでに肌にまで届いている。冷たい秋の台風は、容赦なく恵美の身体から体温を奪っていた。走ればいいのだろうとも思う。そうすればもっと早く家に辿り着けるのだろう。それに、身体を動かせば少しは身体も温まるのかもしれない。

 頭の中では、いろいろといい効果を思い浮かべていたくせに、恵美は頑なに走り出そうとはしなかった。雨の中を濡れたまま走りたくはなかったのだ。両側には、家々に温かな明かりが灯っている。挟まれた薄暗い雨の路地を、一人でぽつんと歩いている。それだけでも十分惨めに思えていたのだ。そそくさと走り去っていくなんて行為は、とてもじゃないができるはずがなかった。

 どうしようもなく馬鹿げたかけがえのない意地が、両脚に絡みついていた。身体中水浸しになりながらも少しずつ前進を続ける恵美の体力を、雨はいたずらに削ぎ落としていく。

 そういえば、あの日も雨だった。ガードレール。眩しい光線。思いっきり胸を突き飛ばされた感触。脚を擦って、肘を打って、とても痛くて痛くて。真っ赤な水が目の前のガードレールからじんわりと流れてきていた。

 あの時、傘はどうしていたのだっけ。手放していたのだろうか。雨合羽を羽織っていたのだろうか。十年以上も前の記憶は振り続ける雨に溶けて曖昧にしか思い出せなかった。

 思い出したくもないのだけれど。

 悲痛な思いを瞳に宿して、恵美はぎゅっと下唇を噛み締めた。

 それからしばらく、知らない町を歩き続けていた。いま、どの辺りだろう。不意に思って、頭に載せた鞄をずらした。見れば目印である百貨店の大きな看板が、ようやく近くなってきている。雨に煙りおぼろげだった輪郭が、はっきりとし始めていた。

 ほっと頬を緩ませてから恵美は正面を向く。一歩一歩、再び地道に歩き出す。

 と、進路方向に立つ電柱の一本が、ほんのりと薄っすら青く発光したことに気がついた。ぴたりと脚が固まる。正体不明の緊張が走り抜け、一瞬のうちに全身が強張っていく。

 錯覚でも見たのだろうかと思った。疲れていたせいで、変なものを見てしまったのだと。けれども漠然とした確信が、そうではないと叫び続けていた。あの電柱は確かに光っていた。淡く青く、ぼんやりと明滅した。この目でしかと見たのだ。どこに疑う余地があるのだろう。

 しばらくすると、再び電柱の根元がぼんやりと光った。

 なにかいる。

 電柱の後ろになにかがいる。

 そう理解したのと同時に、恵美は小さく息を呑んだ。依然として滝のような雨が襲い掛かってきている。風と雨の騒音で、耳の中は一杯になっていたはずだったのである。

 けれども森閑と、恵美の鼓膜はその声を聴いていた。確かに聴いたのだった。脳髄に直接響いてきたかのような、不思議な鳴き声。弱々しく響いたその声は、置かれた状況を嘆く悲鳴のように思えた。

 恵美はそろりと電柱に近づいてみる。相変わらず身体中雨に打たれているものの、意識はすでに電柱の背後に潜んでいるなにか方に向けられていた。息を殺し、気配を殺し、そろそろと電柱の裏に回りこむ。

 浸水したアスファルトの上に、体長百二十センチほどはあろうかという大きな大きな狐が横たわっていた。

 濡れほそり泥にまみれてはいたものの、白い獣毛からは気品のようなものが滲み出ている。淡い輝きは光度を変化させながら、ゆらゆらと狐の周囲に漂っている。雨に打たれながら力なく横たわるその姿は、そこだけ現実から切り取られたかのように幻想めいていた。壮麗な獣を前にして、恵美はわけもなく胸を打たれてしまった。

「大丈夫?」

 だからなのか、そう自然に声をかけていた。口に出した本人が一番驚いてしまったほどに突発的で、相応しい呼びかけだった。

 狐の耳がピクリと反応を示す。ゆっくりと顔を持ち上げると、見下ろす恵美をじっと見つめ返した。透き通ったクリアブルーの眼光。思わずたじろいでしまいそうな静謐さが滾々と染み出している。

 恵美は何もできないまま二つの双眸と視線を交錯さていた。狐も顔を持ち上げただけで、次なる行動を起こそうとはしない。起こしたくても、起こせないのかもしれない。雨と風だけがふたりの間を埋め尽くしていた。

 やがて狐は、また顔を元に戻してしまった。一瞬だけ、恵美はその表情に安堵の色が宿ったような気がした。

 狐の側にそっとしゃがみ込む。恐る恐る、横たわる身体に手を伸ばしてみる。毛皮に掌が触れた瞬間、ぞっとするほどの冷たさ伝わってきた。反射的に手を引っ込めてしまう。

 胸の前で手を擦りながら氷みたいだったと思い返した。そして、このままでは狐が死んでしまうだろうことを直感的に理解した。

 どういうわけか、恵美にはこの狐が放って置けなかった。絶対的な存在が、このまま見殺しにしてはいけないと語りかけているかのようだった。

 背中から手を差し込んで弛緩しきった体を起こすと、アスファルトとの間に生まれた僅かな隙間にもう一方の手を差し込んで、しっかりと抱きかかえる。顎を肩に載せるようにして体勢を調えると、鞄を右手に持ち直した。

 狐は、その大きさからは想像もできないほどに軽く、痩せ細っていて、ちょっとでも力を加えたら簡単に壊れてしまいそうだった。

 鞄を腕にぶら下げて、頭からつま先まで分け隔てなく雨に打たれながら、恵美は狐を抱いて住宅地を進んでいった。

 傍から見れば目を疑うような光景である。豪雨の中を、淡く光る狐を抱えた女の子が全身びしょびしょになりながら歩いているのだ。何かの儀式か、さもなければ頭のいかれた人間だと思われても仕方のない姿だった。

 けれど、当の本人はそんなことを気にしていなかった。考えてさえいなかった。頭になかったといっても誤りではない。腕の中の儚すぎる重さを感じ、冷たさを感じて、恵美は不思議と落ち着いた凪いだ気持ちで歩き続けていたのだった。

 どうしてそんな気持ちになるのかは、本人にもわからなかった。どこからともなく湧き出でてくるのだとしか説明のしようがなかった。

 実際、そのときに恵美を満たしていた感覚は、これまでに経験したことのないものであったのだ。全身を柔らかな毛布で包まれているかのような、朗らかな温かさがじんわりと包み込んでくれる、どこか懐かしくて、心から安心することのできる、圧倒的に優しい感覚だった。

 わけもなく溢れそうになった涙を我慢した腕の中で、狐は弛緩したままピクリとも動かなかった。目だけは開かれていて、恵美はときどき頬の辺りに視線を感じることがあった。

 一人と一匹は、そうして雨の中をひた進んだ。目的地である板倉家までは、角を曲がればもうすぐだった。


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