風見草とサンクチュアリ
現実逃避のための鬱蒼としたいつもの森。しかしどういう訳か目の前は知らない光景だ。健康的に育った草と木。穏やかに吹く風。葉の隙間から零れる暖かな日差しが世界を包み込む。その中心には美少年がいる。端正な顔立ちに思わず見とれてしまう。彼は僕に気が付くと怪訝な顔でこちらを見る。
「僕はその……趣味でこの森を歩いていたらここに」
「そうであったか。気が済むまでゆっくりしていくといい」
彼は優しく微笑んでそう言うと視線を戻す。話しかける気もせず僕は近くの木にもたれる。それにしても絵になる男だ。「綺麗……」と思わず声に出てしまう。なんとなく恥ずかしくなりそれを紛らわすために彼に話しかける。
「あの。あなたは?」
「我は椿だ。昔この地に生贄として捧げられたが、この姿で目を覚ましてからはここで細々と生きておる」
「は?」
そういえば森の入り口にある看板には大昔に捧げられた生贄によって森が再生したという記述がある。
「そなたが名乗らぬのはずるいのでないか?」
考えに耽っていると彼は拗ねたようにそう言った。
「僕は柳です。ここは?」
「聖域。我を隔離する場所だ。そなたは森との親和性が高いせいでここに迷い込んだのだろう。森との親和性とは我との親和性なのだ」
彼は森の化身のようなものだろうか。それにしても現実逃避のために訪れるこの森で本当に現実から離れることができるとは。帰りたくない。そう思うが彼は家に帰るように催促する。再訪の承諾を得て僕は渋々森を後にした。
家に帰るといつも通り酩酊して、梅干しのように顔を赤くした父がいる。
「おい。帰ってくるのが遅えぞ。ヒック」
「…少し用があって」
「口答えするな!ああ!?」
父は手に持っていた酒瓶を壁に打ち付けて叫ぶ。しかし僕は父を無視して自室に戻ろうとする。
「そうだ。お前が通ってる森はもう少しでなくなるぞ」
咄嗟に振り返るとカバのように大きく口を開けて笑い始めた。僕は父の望み通りの反応をしたのだろう。それよりも森が無くなると彼が消えてしまう。突如不快感に襲われ逃げるように家から出る。吹き荒れる風の中、僕は無意識に森へ向かっていた。
聖域に着くと彼は少し元気がないようだった。彼と出会って間もないが力になりたい。これが親和性というものだろうか。
「こんな夜更けにどうかしたか?」
彼は辛そうな感情を押し殺して無理やり作った笑みを僕に向ける。僕はそれに触れず事情を話した。そこでふと思い出す。看板には数十年にわたって生贄を捧げ続けたと書かれていた。本当なら彼だけが森の化身として存在するのは何故だ。推測できるのは彼が森との親和性が高かったことだ。それなら彼の苦痛を和らげる方法はあるかもしれない。
翌日。終業式で夏休み中に森の開発があるという連絡があった。開発が始まると無関係の僕は森へ入れなくなる。
「思いつめた顔をしているが大丈夫か?」
「…椿さんに話があるんだ」
僕が話した内容は彼が担う役割の分担だ。僕ならば彼の負担を減らし消滅を防ぐことができるかもしれない。彼は生きて欲しいと言うが、居場所を無くした世界でうまく生きていく自信がない。人嫌いな僕にとってこの森は唯一の居場所だった。
「死ぬ前にそなたと出会えただけで我は充分報われた。心配してくれて感謝する」
僕は現実を見たくないだけだ。今も昔もずっと。こんな僕に優しくする価値なんてないのに、なんでそんなに優しくするんだ。……手放したくない。ふとそう思った。
「なら椿さんの最期を見送らせて欲しい」
最期の瞬間まで彼と一緒にいたい。そんな思いが昂って声に出る。
「…いいだろう」
彼が呆れながらそう言うと僕はそのまま寝てしまった。朝になると外に出て食料とナイフを買い、聖域へ戻る。ほんの少しだけ吹くそよ風が元気をくれるような気がした。
開発が最終段階になると彼はほとんど動けなくなっていた。彼が苦しんでいても僕はそっと見守っていることしかできない。
「…僕に大切な人を守る力があれば良かったんだけど」
「我の本質は自然。一人でどうにかできる問題でもない。それにそなたが最期まで我を想ってくれただけで幸せだ。そなたが一人の人間としてこの先幸せであってくれるなら猶更」
僕は自分が死んだとしても彼を苦しみから救いたかった。なのにそんなことを言われると死ぬに死ねない。
「我は本当に幸せであったぞ。柳」
彼は動かすのもやっとの腕を持ち上げて僕の頬を指でなぞる。彼の優しさが僕を埋め尽くす。最期なんだ。そう意識すると涙が止まらない。僕は静かなこの場所で最愛の人を見送った。二人だけの不思議な空間は消滅する。逃避の時間は終わった。これからは幸せと感じられるように生きると誓おう。見下ろす足元には純白の椿が落ちていた。




