EP 2
家事が完璧すぎる同居人と、消えた不運
翌朝。
俺は、あまりにもいい匂いで目を覚ました。
「ん……?」
いつもの、カビ臭いアパートの匂いじゃない。
出汁だ。
それも、高級料亭でしか嗅げないような、芳醇で優しい鰹と昆布の香りが、六畳一間の部屋に充満している。
重い瞼をこじ開ける。
視界に入ってきたのは、西日が差し込む薄暗い部屋……ではなく、ピカピカに磨き上げられた窓から差し込む、清々しい朝日だった。
「あ、おはようございます。世一様」
エプロン姿の美女が、台所から顔を出した。
昨晩、強引に押しかけてきた謎の美女、結だ。
安物の白いエプロンをつけているはずなのに、彼女が着ると天女の羽衣に見えるから不思議だ。
「お、おはよう……って、これ」
俺は身体を起こして、絶句した。
部屋が、輝いている。
散らかり放題だった雑誌は整頓され、床は顔が映るほど磨かれ、万年床だった布団はフカフカに干されている。
「勝手にいじって申し訳ありません。少し、埃っぽかったので」
少しどころではない。ゴミ屋敷一歩手前だったはずだ。これを一晩で?
呆然とする俺の前に、彼女はお盆を置いた。
白米、豆腐とわかめの味噌汁、厚焼き玉子、そして焼き鮭。
日本の朝食の完成形がそこにあった。
「どうぞ、召し上がってください」
「あ、ああ……いただきます」
狐につままれた気分で、味噌汁を一口すする。
「――っ!?」
衝撃が走った。
美味い。美味すぎる。
ただの味噌汁のはずなのに、全身の細胞が歓喜の声を上げ、五臓六腑に染み渡っていく。昨日までの疲労が、嘘のように溶けていくようだ。
「な、なんだこれ……美味い、美味すぎる……」
「お口に合いましたか?」
「合うどころじゃない。俺、今まで何を食ってたんだ?」
気づけば、俺は無心で箸を動かしていた。
白米一粒一粒が立っている。焼き鮭の塩加減が絶妙だ。
涙が出そうだった。誰かに手料理を作ってもらうなんて、何年ぶりだろう。
完食して手を合わせると、結は花が咲くように微笑んだ。
「貴方様のお世話こそ、我が至上の喜び。明日も、明後日も、作らせてくださいね」
その笑顔の破壊力に、俺は危うく頷きかけたが、ハッと時計を見た。
「やべっ、もうこんな時間か! 会社行かなきゃ!」
夢のような時間は終わりだ。現実は待ってくれない。
俺は慌ててスーツに着替えようとして――また固まった。
ハンガーに掛かっていたのは、昨夜、階段で転んで泥だらけになり、シワシワだったはずの安物のスーツだ。
それが今、新品のようにパリッとしていて、汚れ一つない。
「……これも、君が?」
「はい。少しアイロンを当てて、布の綻びを『修復』しておきました」
「修復ってレベルじゃねーぞ……クリーニング屋も裸足で逃げ出すわ」
袖を通す。軽い。
まるでオーダーメイドのように体に馴染む。
「いってらっしゃいませ、世一様」
玄関先で、結が深々と頭を下げる。
三つ指ついて見送られるなんて、昭和のドラマか、大企業の重役くらいだろう。
俺は背筋が伸びるのを感じながら、アパートのドアを開けた。
◇
「……変だ」
駅までの道を歩きながら、俺は首を傾げていた。
今朝の天気予報は「大雨」。降水確率は90%だったはずだ。
俺は傘を持っていない。いつもの俺なら、家を出た瞬間にゲリラ豪雨に見舞われ、ズブ濡れで出社して笑いものになるパターンだ。
なのに。
見上げると、俺の頭上だけ、雲が割れていた。
周囲の空はどす黒い雨雲に覆われているのに、俺がいる場所だけスポットライトのように陽が差している。
「天気予報、外れたのか?」
さらに、異変は続く。
通勤ラッシュの駅のホーム。
いつもなら満員電車ですし詰めになり、足を踏まれ、痴漢に間違われそうになりながら耐える地獄の時間だ。
プシュー、とドアが開く。
目の前の車両は、なぜか奇跡的に空いていた。
俺が乗り込むと、両隣の人がスッと席を立ち、「どうぞ」と言わんばかりにスペースが空いた。
「えっ? あ、どうも……」
座れた。
通勤電車で座れるなんて、入社以来初めてだ。
電車が揺れる。
いつもなら気分が悪くなる揺れも、今日はゆりかごのように心地よい。
(なんだこれ……今日は一体、どうなってるんだ?)
スマホを見る。画面のヒビが、いつの間にか直っている。
怖い。逆に怖い。
これだけ幸運が続くと、あとでとんでもないしっぺ返しが来るんじゃないか。
俺は疑心暗鬼になりながらも、快適すぎる通勤時間を過ごしていた。
◇
一方その頃。
世一のアパートのベランダにて。
結は、空を見上げていた。
その瞳は、世一に向けていた慈愛に満ちたものとは真逆の、氷のように冷徹な光を放っていた。
上空には、再び雨雲が集まろうとしていた。
世一を濡らそうとする、意地悪な低気圧の塊だ。
「……邪魔です」
結が小さく呟き、空に向かって指を弾く。
ドォォォン!!
上空で衝撃波が走り、分厚い雨雲が瞬時に霧散した。
物理法則を無視した、神の御業(残り香)による強引な天候操作である。
「世一様の体に、雨粒一つ当てさせはしません」
彼女は満足げに頷くと、次は駅の方角へ視線を向けた。
「あの電車……少し邪気が多いですね。世一様の快適な通勤を妨げる者は、痴漢であれ混雑であれ、許しません」
彼女の瞳が妖しく光る。
その瞬間、数キロ先の電車内で、世一の周りにいたマナーの悪い乗客たちが、一斉に「急に腹痛がして別の車両へ逃げ出す」という怪現象に見舞われた。
「ふふっ。いってらっしゃいませ、私の愛しい神様」
彼女は頬を染め、うっとりと身をよじる。
これは「内助の功」などという生易しいものではない。
世界そのものを敵に回しても、愛する男を過保護に守り抜く。
数千年の時を経て拗らせた、女神による徹底的な「管理」の始まりだった。




