救いの手は最早遠く
盛大な式であったなら、初夜を迎えるにしてももっとずっと遅い時間になっていたかもしれない。
それ以前に日を改めて……という可能性もあったのかもしれない。
けれども簡易的な式が終わった後、アデラは使用人たちに連れられてドレスを脱ぎ、身体を清められ、丁寧に磨かれていった。
両親はすぐに別邸に行くのではなく、今日は本邸の客室で休む事になっているらしいとは聞いている。アデラが今いる場所からは遠いようで、会うとしても翌日になるだろう事は明らかである。
初夜を迎えて明日、一体どんな顔をして両親の前に出ればいいのかしら……?
なんて戸惑いながらも、アデラは使用人たちの手に身をゆだねる。
綺麗に洗われた後は、丁寧に髪を乾かされたあとで香油を塗られ、身体にはほのかに甘い香りがするクリームを塗られた。それら一連の行為が気持ちよくて危うく眠りそうになるけれど、どうにか頑張って目を見開く。
それらが終わった後、アデラが纏った夜着は清楚なデザインながらどこか煽情的で、この後行われる行為をどうしたって想像してしまう。
そして寝室へと連れられて行く途中で、カルロと遭遇した。
「カルロ……?」
寝室なのだから、カルロがここに来る事は何もおかしな話ではない。
けれどもアデラはなんだか妙な胸騒ぎを感じていた。
そんな不安をどう感じ取ったのか、カルロは安心させるように微笑む。
「緊張してる?」
「え、えぇ……」
すっと出された手を取って、アデラは寝室までの短い距離をカルロの手でエスコートされる。
寝室の中で待っていて、そこにカルロがやって来るのであればまだ良かったが、しかしここはまだ廊下だ。
そこを、夜着でカルロと共に歩いているというのはなんだか妙におかしな光景だった。
カルロは夜着ではなかったから、余計に。
後ろに控えている使用人たちだって、ちゃんとした服を着ている。
全裸で歩いているわけではないけれど、しかしこの場でただ一人だけ、夜着なのだ。
これじゃまるで自分だけが恥ずかしい格好をしているようだわ……なんて思えば、羞恥からアデラは自然とカルロから目を逸らしてしまっていた。
カルロのエスコートでゆっくりとした足取りのまま進み、そしてカルロの足が止まる。
あぁ、ここが寝室なのね……と理解できたのはそのせいだ。
「大丈夫」
「え、えぇ」
「もし見る場所に困ったなら天井を見ているといい。染みはないが……まぁ、少なくとも気は紛れると思うから」
「まぁ」
どこかおどけたように言うカルロに、アデラは思わず笑っていた。
そのセリフを他の誰か――それこそ母親あたりに言われたのであればアデラとて軽く受け流せたと思う。
けれどもこれから初夜を迎える相手に言われてしまえば、それ、自分で言っちゃう? としか思えないわけで。
僅かに強張っていた身体から力が抜ける感覚がして、そこで多少リラックスできたと自覚して。
そうして寝室の扉をカルロが開けて――
扉は固く閉ざされた。
アデラは目の前の光景をすぐには信じられなかった。
二人きりの寝室。そのはずだ。
けれども寝室には既に人がいたのである。
アデラを室内に入れて、それから寝室に足を踏み入れたカルロはアデラの少し後ろにいる。扉は既に閉じられた。部屋の中にまで使用人はいないけれど、しかし室外に待機しているのは確かだ。
本来いるはずのない三人目。
薄暗い室内で、影のように存在していたそれを見て、咄嗟にアデラは背後にいるカルロへと振り返った。
けれどカルロはそんなアデラの困惑を気にする様子もなく、室内の灯りをつける。
部屋が明るくなった事で、最初から寝室にいた人物がアデラの目にハッキリと確認できるようになったと同時、アデラは悲鳴を上げていた。
「ひっ、だ、誰なの!? カルロ!? ねぇ、なんでこんな……どうして!?」
驚きすぎてマトモな言葉になっていないけれど、そんな事を気にする余裕もなかった。
ベッド脇に控えるようにして佇んでいたのは老人である。
一体どれほどの年齢なのかもわからないくらい皺だらけで、使用人にも到底見えない。
別にただ老人を見たくらいでアデラが取り乱す事、本来ならばないのだがしかしこの老人は驚く程に醜い姿だった。ただ顔に皺が刻まれているだけならそう驚くものでもない。男であれ女であれ年老いていけばいずれは皆そうなると、アデラだってわかってはいるのだから。
けれども男の顔には皺以外にも傷があり、一部の肉が削げ落ちているような状態で、更には火傷らしき痕もある。一体何をどうすればこんな事になるというのか……と思う程。
見ていて痛々しいなんて感情を通り越して、本能的な忌避感を抱いたのだ。
すぐ近くにカルロがいるからこの程度の反応で済んだけれど、もしたった一人でこの老人に遭遇していたのであれば、アデラはきっと「化け物!」と叫んでいたに違いなかった。
助けを求めるようにカルロを見ても、カルロは何故だか平然としていた。
「どうしたの? アデラ」
「どうしたって……だって!」
もしかして本当にこの老人は幽霊か何かで、カルロには見えていないのだろうか。
そんな荒唐無稽な考えが浮かぶ。
しかしどうやらそうではなかったと気付いたのは、カルロがアデラに近づいて、そうしてそっと夜着に手をかけたからだ。
「ち、ちょっと!? カルロ!?」
「何?」
「何って、だから!」
見知らぬ醜い老人がいるというのに平然とアデラを脱がそうとしてくるカルロに、アデラは何を言えばいいのかわからずどうにかカルロの行動を押し留めようとした。けれどもカルロはそんなアデラの抵抗などまるで無いかのようにするすると脱がせていく。
「今更恥ずかしがるの?」
「今更っていうか」
「旦那様を待たせてはいけないよ」
「えっ!?」
どう言えばアデラの思っている事を正確に伝えられるのだろう、と悩む間もなくカルロの口から出た言葉に、アデラは何を言われたのかすぐに理解ができなかった。
「旦那、様……?」
「そうだよ。君の夫になる人だ」
ほら、と言われてとんと肩を押される。
その勢いでふらりとよろけた先にあったのはベッドで、アデラはわけがわからないままベッドに倒れ込む形となった。
その直後、すぐ近くにいた老人がアデラに覆いかぶさる。
「えっ、やっ、やだ! やめてよ! 触んないで!!」
うつ伏せ状態のままではロクな抵抗もできそうになく、上半身を捻ってどうにか老人を押しのけようとしたけれど、思った以上の力強さにアデラの両腕は纏め上げられて呆気なく片手で身動きを封じられた。
「なんだ、説明しておらんのか?」
「正直に話したら誰も引き受けてくれないのはわかりきった事でしょう?」
肩を竦めて言うカルロに、アデラはようやくこの老人が幽霊でもなんでもなく、カルロも知っている存在なのだと理解する。
腕が動かせなくなったので、どうにか動ける部分――と考えた結果足で蹴飛ばそうとしたものの、その行動は最後までアデラが思ったように実行される事はなかった。掴まれていた両腕に力をこめられ、痛さに呻いて抵抗しようとした勢いが削がれる。その後カルロが老人にかわってアデラの腕を掴みながらもアデラを仰向けにさせて、老人はアデラが足を動かして抵抗しようとした矢先にさっさとアデラの足の間に身体を割り込ませたのである。
あられもない姿で自分の足の間に老人が陣取っている、と察した途端アデラの顔は真っ青に染まった。
「ど、どういうつもり!?」
キッ、と老人を睨みつけながら、アデラはどうにか強気に問いかけた。
けれどもそれが虚勢である事を、カルロも老人もよく理解していた。カルロが掴んでいる腕は抵抗しようとしているだけではなく震えていたし、声だってそうだ。これがただの強がりでなくて何だというのか。
あと少ししたら恐怖で泣きだすのではないかと思うくらいに、今のアデラはただのか弱い女だった。
老人一人だけならアデラが暴れればどうにか逃げ出せる可能性はあったかもしれない。けれどもカルロにも拘束されている以上アデラが自由になれる可能性はほぼ途絶えている。
皺だらけのガサついた手がアデラの身体を這い回る。
「やっ、やだ! やめて! 触らないでったら!! カルロ、離して! 助けて!」
「うん、でも手を離したら暴れるから」
「そっ……そんなの当然じゃない!」
「だからだよ。抵抗されるのは手間だからね」
アデラがどれだけ叫んで喚いてもカルロの手がアデラを解放する事はない。
どうにか身を捩って逃れようとしても、動きを封じようとするカルロの手に余計に力が入るだけでアデラは思わず痛みに呻いた。
カルロだけではない。老人の方もカルロと比べれば細いしそう力もなさそうなのに、しかしアデラの身体を容易く押さえつけてくる。
武術の心得も何もないアデラに、この状態から二人をどうにかして脱出するという方法は何もなかった。
そこからはアデラにとっておぞましいとしか言えない時間だった。
本来ならば夫となったカルロと共に夜を迎えるはずだった。
幸せな結婚生活、恥じらいながらも彼を受け入れるはずだった初夜。
それらは一転してアデラにとって誰かもわからない醜悪としか言いようのない老人とまぐわう事になっているのだ。
一応アデラにもそういった男女の営みについて、何も知らないわけではない。
だからこそ、老人が明確にアデラをそういう目的でもって触れているのだと嫌でも理解できてしまう。
そもそもこんな高齢のおじいさんとそんな事をして、どうなるというのだ。
まさか本当にこの老人と子作りするはずがないだろう。
そう思っていたけれど、諦めず抵抗を続けていたアデラの動きをやはりしっかり封じてくるカルロは、恐ろしい事を語りだした。
そもそもの話、アデラの夫となる相手はカルロではなくこの老人だと言うではないか。
ではこの老人は何なのか。
その疑問は当然浮かぶし、それをどうにか言葉にも出した。
その疑問に対して淡々とカルロが語る言葉を、アデラがどこまで理解できたかはわからない。カルロの言葉に耳を傾ける精神的余裕がないので。
ただ、もうアデラがどう足掻いても逃げられないと確信しているカルロにとって、アデラの精神的な状況などどうでも良かった。故にカルロも勝手に、彼女が理解していようといまいとどうしてこうなっているのかを語って聞かせた。
カルロ・マーテリーの父は今しがたアデラを組み敷いている老人である。
彼はスヴェン・カルトリオ公爵であり、表舞台に滅多に出てはこないが王家も無視できない程の力を持っている。
本来ならばカルロは彼の後を継いで公爵となるはずだった。けれども幼い頃の病気の治療が遅れた事で、彼は子を作れない身体となってしまった。その事実が発覚したのは、彼が成人になる少し前の話だ。
その時点でスヴェンにとってカルロの存在は跡取りを作る事すらできない役立たずであるのだが、しかしそれでも彼はまだ利用価値があったからこそ、こうして一代限りの侯爵として生かされている。
カルロの価値はその見た目にあった。
周囲の目を攫うその美貌は、何も知らない女性を釣り上げるのに充分な餌であるとも言える。
子を作る事ができないカルロにかわり、スヴェンの相手を探す。けれどもスヴェンはかつて、暗殺されかけたせいで酷い見た目になってしまった。
一命をとりとめたのも奇跡ではあるのだが、それ以上は無理だった。
生きてはいる。けれどもその見た目は思わず目を逸らしたくなるような酷いものになってしまった。
権力や財力を目当てに後妻でもいいから、と取り入ろうとした者がいないわけでもなかったが、一目見た瞬間思わず悲鳴を上げて逃げ惑う程なのだ。戦場に立つ軍人とてここまで酷い傷を負っている者はいないとされる程だ。日頃そういったものとは無縁の女性には目の毒であるし、耐性すらないとなれば。
噂は水面下ではあるものの凄まじい勢いで流れ、そうしてスヴェンに近づこうとする女性はいなくなった。
政略の駒として娘を嫁に、などと言おうにも、その両親ですらスヴェンの姿を見た時点で恐ろしさで震える程、となれば言い出せるはずもなかった。
自分たちですら恐ろしくて思わず目を逸らしてしまうというのに、娘を嫁に差し出したとして、その娘の精神がどこまで耐えられるかわかったものではないのだから。
カルトリオ公爵家と繋がりを持ちたい者はいるけれど、いくら政略の駒と思っていても娘の精神が壊れ、知らずその後姿を見る事がなくなった……なんていうのは望んでいない。
仮に結婚させたところでその後娘の心が壊れ、そのまま儚くなってしまえば繋がりなどその時点で途切れる。
娘の死にカルトリオ公爵家が生家へ多少の便宜をはかったとしても、永劫続くものでもない。一時のそれに支払う対価が娘の命ではどう考えても割に合うはずがなかった。
スヴェンも己の容姿が醜いものであると理解していたからこそ、普段は人前に姿を見せない。屋敷で働く使用人たちですら、スヴェンの近くに居る事を許されているのは限られた一部である。
カルトリオ公爵家の遠縁から養子を貰い、跡継ぎにする、という方法も考えられはしたけれど。
しかしそれをスヴェンが望まなかった。
力をつけて大きくなった公爵家に、スヴェンの後継として相応しいと思えるだけの相手がそもそも親類にいなかったのだ。
優秀だからと他家の貴族の血を引いた者を養子に迎えるわけにもいかない。親族がいたとして、血筋が完全に絶えるわけではないが、カルトリオの力は大きく削がれる結果になるのだから。
故にスヴェンは自身の子を後継に望んだ。けれどもカルロは子を作れない。
スヴェン本人を見た時点で相手は拒絶の意を示す。けれどカルロに対しては、婚約の話はないわけではなかったのだ。
カルトリオの後継となる相手を産む女性の血筋も、誰でも良いというわけではない。
スヴェンにとっては選べる立場になくなってしまっても、しかし誰彼構わず手を付けるつもりはなかった。たとえそれができるだけの権力を持っていたとしても。
一番手っ取り早いのは、金で解決できる相手だ。
けれどもその頃にはカルロが子を作れない身体である事と、一代限りの侯爵である事は情報収集に余念のない貴族たちに知られていたし、そういった情報を集める事に乗り遅れた者たちですら、後になってから知る事になれば、どうにかして穏便な方法で距離を取ろうとした。
後継者の母親として望ましい血筋はやはり高位身分の出であるのだが、そもそもそれらの家の大半は既にスヴェンの外見についてある程度知ってしまっている。娘に自分の父親よりも年上の相手の元へ嫁げ、などと言うような高位身分の家はなかったのである。
娘を生贄のように差し出したとして、何かの折にスヴェンと顔を合わせる機会が生じるかもしれないとなれば、親も二の足を踏んだのだ。娘を差し出した後、こちらとの関わりを絶つとなれば何のために差し出すのかもわからないし、そうなると旨味はまず無いと言ってもいい。
カルトリオ公爵家との縁は欲しいが、しかしそれは婚姻によるものではなくもっと別の方法で。
多くの高位身分の者たちはそういう結論に達していた。
では、下位身分の貴族家はどうなのかと言うと、こちらもこちらで色々と難しかった。
下位身分と言えども、貴族として生まれた女だ。政略結婚の意味も理解はしているし、覚悟もしている。
けれどもそれでも、スヴェンと結婚しあまつさえ子を産むとなれば、若い娘にとっては拷問だろう。
一度でも実家に帰ったら二度と戻ってきそうにない。そのまま産んだ子も連れていかれる可能性すらある。
かと言って、では二度と実家へ戻る事も許されないとなれば家族が了承しないだろう。
いっそどこまでもビジネスライクに子を産む契約を結んだ方がまだどうにかなりそうではあるけれど、スヴェンの年齢が年齢なので、畑となる女性の年齢は少しでも若い方が可能性はある。
けれども若い娘がそんな契約を了承するかとなれば……
既に子を産んだ経験があるそれなりの年齢の夫人であればまだ可能性はあるのかもしれないが、その場合種も畑も度合いこそあれ古いものである事に変わりはない。そもそもお互いに若くとも、一度で必ず子ができるというわけでもないのだ。なのにお互い若くはない状態でとなれば、スヴェンの方はさておき女性の方が何度もチャレンジできるかは謎であった。
何度試してもできないからと、スヴェンが諦めるわけもない。子種が出る以上は諦めるつもりが彼にはなかった。
それに付き合わされる女性の方が先に限界に達する可能性の方が圧倒的に高かった。
結果として下位貴族のほとんども、やはりカルトリオ公爵の後妻としてなおかつ跡取りを作るのが必須という条件では、嫁入りさせようと考えなかった。
最低限貴族の血を引いている娘でなければ……という絶対的に外せない条件を緩めるつもりはスヴェンにはなかった。平民であればもしかしたら可能性があったとしても、スヴェンにとって平民とは自身と異なる人種であるという認識が強かったために。
彼は平民を自分と同じ人間と認識しないある種の差別主義者でもあったので。
選り好みできる状況でもなし、いっそ大金を積むのは当然として、相手の女性にはスヴェンを見ないよう目隠しでもしてなおかつ睡眠薬でも盛るしかないのではないか……とカルロは思い始めていたのだが、しかしそこで聞こえてきた噂があった。
かろうじて貴族の血を引いている娘。
仮面舞踏会に一人で参加し、どうやら結婚相手を探している模様。
立場的には平民だが、しかし父親は貴族の血を引いている。
そういう意味ではまぁ、スヴェンの条件にギリギリ当てはまらない事もない。
貴族令嬢として教育を受けているわけでもなさそうなので、所作は微妙だし教養もあるかどうか……というところだが、しかし逆にそれはカルロにとって都合が良いだけだった。
娘の両親も、父が貴族であったといっても、娘の母が平民であるため再婚した時点で平民となっている。
であれば、如何様にもできてしまう。
カルロがちょっと調べただけで、情報はザクザク出てきたのだ。
リコット伯爵家で世話になっているといっても、少し前に伯爵位を継いだばかりの女伯爵ナタリアとアデラたち家族の仲は良いとも言えない。
父親が同じであるが故に、一応お情けで置いてあげているだけ、という感じである事は調べれば誰でもすぐにわかるような情報だった。
それはつまり、アデラたち一家がリコット伯爵家から出ていくとしても、ナタリアはそれをわざわざ引き留めるつもりもないという事に他ならない。
前女伯爵であるナタリアの母と、夫との仲は良いも悪いも……といったところであったようだ。
仲が悪いとするには、まず夫が社交に姿を見せない時点でなんとも言えない。
政略結婚であるが故に、子供ができたならそれ以上はお互いどうでも良かったのだろう。
そんな中生まれ育ってきたナタリアが、父親に対して何らかの情を持つことの方が難しいとカルロですら思うのだから、アデラに対しても自分や家に迷惑さえかけなければ問題ないとしているナタリアの態度も納得である。
予定していたであろう時よりも早く女伯爵となってしまったナタリアだが、彼女の母がこうなる事を見越していたのかある程度の事は教え込んだのだろう。リコット家の状況については、前女伯爵が亡くなった後とナタリアが女伯爵になってからとで、然程変わりはしなかった。
であるのなら。
ナタリアは間違いなくカルトリオ公爵家やカルロ・マーテリー侯爵の件を知っている。
カルロがアデラに結婚の話を持ち掛けた時、恐らくアデラはナタリアにその一件を伝えたのだろうとは思う。
けれども彼女は果たしてそれを止めようとしただろうか。もしアデラに対して何らかの情があったなら阻止しようとしたかもしれないが、恐らくそれほどの感情はなかった事だろう。
何が何でも、それこそこちらと敵対してでも止めようという程ではない事だけは確かだ。
であるのなら。
アデラに帰る家はもうない。
彼女の両親も共に連れてきたのだ。
今更リコット伯爵家に戻りたいなどと言ったところで、一度家を出て行ったアデラたちの事をナタリアが再び受け入れてやる義理はどこにもない。
マトモな貴族の娘をもらっていたのなら、社交の場に連れ出す必要があったかもしれない。
結婚後一度も姿を見せないとなれば、娘の家族や友人たちが人知れず殺されているのでは……なんて噂をまき散らしかねないというのもある。
だが、調べたところアデラの家族は、特に父が社交に力を入れたりはしていなかったようだし、結婚以前、令息だった頃の友人たちともアデラの父はそこまで関わりを持たなかった。そんな事よりも恋人に夢中だったのだろう。
結果としてケニーの存在は友人たちの中から薄れ、あいつ今頃どうしてるんだろうな、くらいの事を呟く者がいたとしても本気でその後どうしているかを調べる程でもないのだ。
仮にその後のケニーの事を調べた者がいたとして、平民の恋人に夢中になって友人関係を疎かにした挙句、政略結婚をした妻が亡くなった後早々に愛人にしていた相手と再婚して平民になるような男だ。
かつて友人だった者たちも、今関わったところでなんの利にもならないと判断してそっと彼の存在を思い出の底にでも沈めたに違いなかった。事実彼の周囲に当時の友人の姿は影も形もなかったのだから。
アデラの母もまた、美しい女ではあるけれどそのせいでケニーが常に近くにいた程だ。他の男が彼女に目をつけてもケニーが牽制し、そして女はそれを良しとしているとなれば。
異性が近づく事はほとんどなくなり、アデラが生まれてからは子育てに忙しくこちらも周囲の人間関係の構築にそこまで手を掛けたりはしていない様子だった。
仮に、同じ平民の友人がいたとしても夫が一応貴族であるとなれば。
もし貴族の機嫌を損ねて自分だけならいざ知らず家族まで何らかの罰を与えられるかもしれないと考えれば、真っ当な精神をしていれば関わりたいとは思わないだろう。
露骨に排除しようとすればケニーに睨まれ、こちらが逆に酷い目に遭うかもしれない……周囲がそう考えて、当たり障りのない程度の付き合いしかしていなかったからこそ、ケニーはさっさと再婚してリコット家にアデラと妻を連れていった。
女にもっと大勢の友人がいたのなら、引き留める者も少しはいたって何もおかしくはないので。
恐らく何のしがらみもないままだったのは、幼さ故にそういったものとは無縁でしかないアデラだけだった。
けれどもアデラもアデラで、己の可愛さを武器に周囲に密かに敵を作っていたようなものなので、彼女の姿が見えなくなったからとて、本気で心配して彼女の行方を捜すような者はいない。
つまりアデラという女の存在は、カルロやスヴェンにとってとても利用価値があった。
半分と薄い状態ではあるけれどそれでも貴族の血を引いている。
見た目は悪くない。
教養が足りずともどのみち外に出すつもりがない以上、そんなものは必要ない。
友人や知人と親しい関係を築いているわけでもない。アデラに惹かれていた男はいたかもしれないが、しかしそれはアデラが平民として過ごしていた頃の話だ。
昔の話である以上今頃そんな幼い頃の恋かどうかもわからない想いを引きずってアデラを想い続けている者が果たしてどれほどいるものか。
大半は間違いなく当時の初恋を実らなかった淡く苦い思い出として、別の女に新たな恋をし、もしくは既に結ばれているのだろう。
平民の男がアデラを想い続けていたとして、カルロやスヴェンには何の関係も問題もない。
彼らがアデラのその後の行方を辿ったとして、既に人妻となったアデラを、それも高位身分の貴族から奪ってみせようなどという命知らずが現れる事など流石にないだろうから。
仮面舞踏会でアデラと知り合った男たちとて、最初にちょっといいな、と思ってもいざ彼女の事を調べたら貴族令嬢ですらないのだ。そんなのを愛人ならともかく嫁にしたいなんて言えば自分の立場が落ちるのは明らかだし、どこまでいっても仮面舞踏会でアデラと知り合った男性たちにとって、アデラは一時の遊び相手でしかない。
すぐに身体を許さずにもったいぶっていたから、少しばかり付き合いが長引いた者もいたようだけど、最終的にそれがカルトリオ公爵家に目を付けられる事になるなんてアデラは思ってもいなかっただろう。
貴族たちは薄々予想していたかもしれない。けれども誰もアデラにカルトリオ公爵家やマーテリー侯爵家の事を教えたりはしなかった。
貴族と関わるのなら最低限の知識として頭に入れておくべき情報ではある。
学んでいてもまだそこまで理解していないのか、最初から学ぶ意思がないのか。アデラの普段の言動から周囲は後者だと認識していた。
故に、仮面舞踏会でアデラと関わった男たちはあえて教える真似はしなかったし、カルロと二人きりであちこち出かけているのを見かけた令嬢たちも黙っていた。
精々、あぁあの子が……とその先を想像して不幸になるのがわかった上で傍観していただけだ。
明らかな味方らしき味方はいない。
いても然程力を持たない無力な者ではアデラを守り切るなど不可能。
アデラという女は、だからこそどこまでも都合が良かったのだ。
滔々とどうしてアデラが今このような目に遭っているのかを語っていたカルロに、アデラはなおも「なんで」「どうして」と繰り返す。その声も途切れ途切れで、今にも消えそうなものだった。カルロが語り聞かせていた間にも、子を作ると言う作業は続いていたので。
「君さえよければ結婚してほしい、とは言ったけれど。
誰と、とは言わなかったし式だって身内だけの簡易的なもの。
君の家族が今後君と会う事はないだろうし、世間だって君の存在を気に留める程のものでもない。
ただそれだけの話なんだよ、これは」
そう言われてもアデラが納得などできるはずがなかった。
今にして思えば、仮面舞踏会で公爵家のパーティーに連れて行ってくれた男も彼らの協力者だったのだろう。偶然を装うどころか堂々と知り合う機会を作り、カルロと共に居る事が不自然ではない状況へ持っていった。
パーティーで知り合った男女が距離を縮め親しくなって、逢瀬を重ねる。
婚約者がいるなら問題もあるけれど、いないのだからむしろそれは何もおかしなことではない。
ただカルロは自分の子を作る事ができないという事実を伏せて、父の花嫁を見繕おうとしていたに過ぎないし、アデラがその事実に気付けなかっただけ。
もっともアデラにそれを気付けというのは無理がありすぎるのだが。
「私の時のような事を考えると、子供は一人じゃ足りないかもしれないからできる限り欲しいのだけれど。
君はこれから先生活の心配をする必要なんて何もないし、ただ元気な赤ん坊を産んでくれればそれでいい。育てる人材は他にいくらでもいるからね」
幼い頃に罹った病のせいで子種を失ったと気付いたのは大分後の事だった。
もっと早くに気付けていたら対処できたかもしれない……そう考えたところで時間は巻き戻らないのだから、どうにもできない。
折角若い畑を手に入れたのだから、種が完全に駄目になる前にできるだけ多く収穫しておきたいと考える。
その事実を聞かされて、アデラはより一層顔を青くさせた。
一度で終わらないと宣言されたのだ。
今この状況だって悪夢でしかないというのに。
おぞましすぎて震えが止まらないというのに。
こんな醜い老人と子を作るという行為に、ともすれば意識を失ってしまいそうだというのに。
もし胎に子が宿ったとして、それを自分が産むと考えただけで怖気が走るというのに。
一人だけでは終わらない……!?
「ぃ、いやあああああああああああああ!!」
本当に悪い夢であれとばかりに、アデラの喉から絶叫がほとばしったが――
拘束が緩む事も、行為が止まる事も当然ながらありはしなかった。




