運命の赤い糸が見えるようになりまして。
アリシアは目をパチパチと瞬かせていた。
何やら、見えてはいけないものが見えている気がするのだ。
それは、幼馴染のジェシカの小指からびろーんと垂れる赤い糸で……。
ジェシカはいつこんなものを指に巻き付けたのだろうか?
――いや、そんな暇はなかったはず。
ジェシカの様子をチラッと観察してみるが、照れたようにはにかんではいるものの、おかしな素振りはない。
見慣れたいつもの可愛いジェシカだ。
もう一人の幼馴染、ミシェルの顔を見ても……大人びた美しい笑みを浮かべる彼女も、ジェシカ同様で。
二人にいつもと違った様子は見られない。
……とすると、この赤い糸は一体?
一人で頭を悩ませていたって、埒が明かないことは明白である。
アリシアはここは正攻法とばかりに、ジェシカに直接尋ねてみることにした。
「ねえ、ジェシカ。あなたの右手の小指なのだけれど……」
「まあ、さすがアリシアね!」
ジェシカが嬉しそうに食い付いてきた。
なんと、自覚があるらしい。
つまり、自分で糸を小指に結んだということなのだろう……え、何のために?
「ほら、わたくしが言った通りでしょう? アリシアなら絶対に気が付いて指摘してくるに違いないって」
ミシェルが切れ長の瞳を悪戯っぽく細めながら、ジェシカの肩に手を置いた。
「ええ、さすがアリシアだわ」と、ジェシカもはしゃいでいる。
うんうん、気付いちゃったから早く種明かしをしてちょうだいな。
この赤い糸の意図は? あら、ダジャレみたいになっちゃった。
しかし、続くミシェルの言葉は、アリシアの期待に応えるものではなく――。
「ジェシカったら、この前買ったピンキーリングを着けてくるのを忘れてしまったのですって。おっちょこちょいなのだから」
「だって遅刻しそうだったのだもの。次は絶対に忘れないわ!」
ウフフ、アハハと笑い合う幼馴染たち……。
ちがーーう、そうじゃない!
アリシアが気になっているのはそこではないのだ。
え、そっち!?
むしろ指輪を買ったことなんて忘れていたわよ。
そんなことより、私はこの赤い糸が気になっているだけで……。
でもこれでわかった。
どうやら二人とも赤い糸には気付いていないらしい――というより、アリシア以外には見えていないのだろう。
目立つ赤い糸だというのに、反応しているのはアリシアだけである。
赤い糸って言ったら、やっぱりアレよね?
運命の男女が結ばれているという、乙女の好きそうな言い伝え……。
そうなると、重要なのはジェシカの小指から垂れる糸の行方である。
言い伝え通りなら、この糸はジェシカの運命の相手と繋がっているはずなのだから。
アリシアは期待半分、不安半分で、糸の先をゆっくりと視線で辿るのだった。
◆◆◆
アリシアには前世の記憶がある。
と言っても、たまに何かを目にした際に、頭にこの世界以外の知識が流れ込んでくるだけで、丸々全てを覚えているわけではなかった。
前世の自分の名前や、家族すら思い出せない。
おかげで、どうやら前世は日本という文明が進んだ国で生きていたらしいのに、何も活かせることがないままここまできてしまった。
今まで思い出したことといえば、王宮内の大階段を下りていたら、シンデレラの靴が落ちている光景が思い浮かび、『シンデレラ』のストーリーを思い出したこと。
または、国王の姿を遠くから眺めていたら、『裸の王様』の話を思い出したこと――などなど。
役に立たないにもほどがある。
これはきっと、前世の自分が貴族社会に関わりも興味もなかったせいで、似たようなこの世界に通じる知識を持ち合わせていなかったということなのだろう。
それこそ幼い頃に読んだらしい、西洋が舞台の物語くらいしか引き出しがないのだ。
……残念過ぎる。
そんな中、突然見えるようになった赤い糸。
これはどういうことなのだろうか。
『赤い糸』の意味は、糸を目にした瞬間に思い出した。
けれど、そもそも糸が見えること自体がおかしい。
もしかして、ファンタジー小説に出てきたチート能力ってやつなのかしら?
それにしては、今まで力が発揮されることがなかったのが不思議だ。
赤い糸が見えたのは、今夜が初めてなのである。
アリシアは遠くへと続いている糸の先を目で追いながらも、何がきっかけで見えるようになったのか頭を巡らせていた。
◆◆◆
現在十七歳のアリシアは、オベール伯爵家の長女である。
兄が一人いる為、いずれはどこかの家に嫁入りしなければならない。
世間では結婚適齢期と言われる年齢にさしかかり、同い年の友人の中にも結婚する令嬢が現れ始めた。
しかし、婚約者も恋人もいまだにいないアリシア。
両親にせき立てられ、同じく伯爵令嬢のジェシカ、ミシェルと共に、頻繁に夜会に出席していた。
二人はアリシアの幼馴染だが、彼女たちにも決まったお相手はまだいない。
『結婚をするなら恋愛結婚がいいわ!』と言いながら、三人とも結婚にまだまだ現実味がなかったのだ。
偶然にも、憧れはあるものの、恋愛に積極的ではないという共通点を持つ三人。
夜会のたびに色気より食い気とばかりに、供される珍しい料理に舌鼓を打ってばかりいたら、いつの間にか「食道楽トリオ」というあだ名が付けられていた。
うら若き令嬢にとって不名誉な名ではあるが、自業自得であることも理解していた。
婚約者探しを目的に、夜会に出席している他の令嬢の中では、彼女たちは明らかに浮いた存在だったからである。
――が!
今夜の夜会の開始早々、いつものように「この鴨は最高だわ!」「こちらの真鯛もなかなか」などと、アリシアが食事を堪能していたら。
「私、実は気になる殿方ができちゃったの……」
なんと、ジェシカが頬を染めながら爆弾発言をしたではないか――好物の海老を頬張りながら。
それは唐突な告白だった。
まさに青天の霹靂である。
アリシアとミシェルが、思わず握っていたフォークを落としてしまったほどに……。
「え、今なんて言ったの?」
「気になる殿方って……それって好きな人ができたってことですわよね?」
驚いたアリシアとミシェルは、ジェシカを人気のないホールの隅っこまで引っ張っていった。
もう食事を楽しむどころではなくなっていたのだ。
「で、お相手はどこの誰なの?」
「わたくしたちに隠し事はなしよ?」
二人で問い詰めれば、「フレデリク様よ。子爵令息の」と、照れたようにジェシカが小声で教えてくれる。
赤く染まった頬が初々しい。
フレデリク様か……うん、悪い話は聞かないし、反対する理由はないわね。
茶髪の中肉中背、大人しい雰囲気のフレデリクは、オドラン子爵家の長男である。
性格も温厚で、アリシアも何度か話したことがあるが、感じのいい青年だった。
ジェシカも、以前酔っ払いに絡まれた時に、ビクビクしながらも助けに入ってくれた誠実な人柄に惹かれたそうだ。
アリシアは、ジェシカの小さな手を握りしめた。
「わかった、ジェシカの初恋だもの。私も応援するわ!」
すると、手に感じた何かの違和感……。
確かめるように視線を落とせば、ジェシカの小指から糸が垂れていたのだった――。
以上、回想終わり。
結局、赤い糸が見えるようになったきっかけはよくわからなかったので、今は糸を辿ることに専念しよう。
アリシアが赤い糸が延びている先を目で追いかけていると、ジェシカとミシェルが不思議そうに尋ねてきた。
「アリシア、さっきからどうしたの?」
「何か落とし物でも? でしたらわたくしたちも一緒に探しますわよ?」
親切で優しい幼馴染たちに視線を戻す。
小柄でピンクがかった茶髪をツインテールにし、オレンジ色のフリルたっぷりのドレスを着たジェシカは、今夜も文句なしに可愛らしい。
一方、背中まであるストレートの銀髪をポニーテールにし、紺色のワンショルダーのドレスを纏ったミシェルは凛として美しかった。
二人ともアリシアの大切な幼馴染であり、自慢の親友である。
こうしてせっかく赤い糸が見えるようになったのだもの。
ジェシカとミシェルの幸せの為なら、この妙な能力だって使いこなしてみせるわ!
首を傾げる二人にしっかりと頷くと、アリシアは本格的に糸を辿ることにした。
ジェシカの人生がかかっているのだ!
――多分。
赤い糸の行方を追跡しようと、おもむろに移動を始めたアリシア。
そしてその後ろを、ジェシカとミシェルが顔を見合わせながら、不思議そうに付いてくる。
糸は、夜会の招待客で溢れるホールの床の上を、扉に向かって緩やかに伸びていた。
もう片方の先は、雑踏に紛れてまだ見ることはできない。
アリシアは糸を見失わないように人をかき分け、時にはダンス中のカップルの間をくぐり抜け……。
ホールを抜けた廊下で、なんとか糸の最終地点とおぼしきところまで行きつくことができた。
見つけたわ!
ジェシカの運命の相手はあの人のはず……。
ジェシカの小指に結ばれた赤い糸を辿った先に、同じく小指に糸を巻き着けた男性を発見したのである。
――後ろ姿だが。
思えば、この建物内にいてくれて良かったと思う。
いくら親友の為とはいえ、暗い夜道にドレス姿で赤い糸を辿るのは勘弁して欲しい。
糸はほんのりと発光して見える為、見えづらさはないものの、問題はそこではないのだ。
危うく不名誉なあだ名が増えてしまうところだった。
「もう、アリシアったら! さっきから何をしているの?」
「あなたが挙動不審な行動をしているせいで、追っているわたくしたちまで変な目で見られましたわよ?」
しっかり追いかけてきてくれたジェシカとミシェルが、怒ったように口を尖らせている。
やってしまった。
すでにおかしな目で見られた後だったらしい。
それでも見捨てずにここまで付いてきてくれたのだから、さすが親友の二人である。
「ごめんなさい。ちょっと気になることがあって」
「気になること?」
「何が気になっているというのかしら?」
アリシアが赤い糸の先にいる男性に目をやると、彼女たちの賑やかな話し声に気付いたのか、男性が三人の方を振り返った。
「フ、フレデリク様!?」
アリシアから思わず変な声が出てしまったが、仕方のないことだと許してほしい。
ジェシカの赤い糸の先にいたのは、なんと彼女の想い人のフレデリクだったのである。
ジェシカとミシェルが息を呑むのがわかった。
「やあ、アリシア嬢。ジェシカ嬢とミシェル嬢も。食事の時間はもう終わったのかい?」
少しも嫌味を感じさせない柔らかな口調は、食欲旺盛な彼女たちをむしろ微笑ましいと言わんばかりで、フレデリクは穏やかな微笑を浮かべている。
やはりいい青年だと思う――アリシアの好みではないが。
「え、ええ。とても美味でしたわ」
「わたくしのオススメはサーモンでしてよ」
ひきつった笑顔でなんとか返事をすると、ミシェルも朗らかにフレデリクにサーモンを勧めながら、アリシアに『どういうことなのかしら?』と圧をかけてきた。
確かにこの状況は、ジェシカとフレデリクを引き合わせたとしか思えないだろう。
肘で小突かれているが、アリシアはどうすることもできなかった。
動揺する気持ちはわかるが、アリシアだってまさか糸の先に本当にフレデリクがいるだなんて、予想していなかったのだ。
責められても困ってしまう。
その時だった。
「あのフレデリク様、以前の夜会では助けていただきありがとうございました。私、ずっとお礼が言いたくて……」
一人モジモジしていたジェシカが顔を上げ、意を決したように話し始めた。
緊張で頬は赤く染まり、瞳は潤んでしまっている。
「ジェシカ嬢……。いや、もっと格好良く助けられたら良かったんだけど」
「フレデリク様は素敵でしたわ! 私、とても嬉しかったのです!」
「……ありがとう。実は、君とはゆっくり話してみたいと思っていたんだ。その……可愛らしいなといつも思っていて……」
「まあ! 光栄ですわ。ぜひ!!」
二人は肩を寄せ合うと、静かなバルコニーへと消えていった。
もうお互いのことしか目に入っていないようだ。
ええっ!?
何なのよ、この急転直下な展開は!
半信半疑だった赤い糸は、どうやら本物だったらしい。
二人の小指は、心なしかさきほどより太い赤い糸で結ばれている。
アリシアは目を丸くしながら、ジェシカとフレデリクの幸せそうな後ろ姿を見送ったのだった。
◆◆◆
「まさか、ジェシカに想う方がいただなんて……。水くさいですわよね」
「私も驚いたわ。しかも、フレデリク様ともう婚約まで結んだらしいわよ? 目まぐるし過ぎてついていけないわ」
ミシェルに話しかけられ、頷くアリシア。
彼女たちが少し拗ねた顔で見つめる先には、幸せそうに笑い合うジェシカとフレデリクの姿があった。
前回の夜会でお互いの想いを確かめ合った二人は、あっという間に両家の承諾を得て、婚約を結んだらしい。
普段おっとりしている二人にしては、恐るべき行動の早さである。
そんなこんなで、三人の中でいつの間にか唯一の婚約者持ちになっていたジェシカは、フレデリクにエスコートをされて、今夜の夜会に現れたというわけだ。
いやいや、おめでたいけれども!
ついこの前までは、三人で仲良く過ごしていたのに……。
アリシアは寂しさを感じずにはいられなかった。
もちろん、赤い糸についても気になる点が多い。
結局、あの赤い糸は運命の人に繋がっていたってことになるのかしら。
まだ先のことはわからないにしても、とりあえず二人は幸せそうにしているし。
……ううん、まだ一組のカップルだけで結論を出すのは早いわ。
たまたまかもしれないもの。
もっと事例を集めないと!
アリシアはローストビーフを口に入れたが、なんだかあまり美味しくない。
ミシェルを見れば彼女も同じなのか、モソモソと口を動かしてはいるものの、目はどこか虚ろだ。
親友の恋が実ったのは喜ばしいことだが、ミシェルも寂しいのかもしれない。
ふいにミシェルがボソッと呟いた。
「ジェシカがうらやましいですわ。あの方はいつになったらわたくしを女性として見てくれるのかしら……」
んんっ!?
なんだか意味深なセリフが聞こえたのだけど?
「ミシェル、あの方って誰? もしかしてミシェルにも好きな人がいるの?」
アリシアが詰め寄ると、ミシェルは美しい弧を描く眉をへにょんと落とした。
ビンゴ!
ミシェル、お前もか!
アリシアが驚いて言葉を失くしていると、二人に近付く靴音があった。
「アリシア、なにしけた顔で肉食ってるんだよ」
「お兄様!」
声をかけてきたのはアリシアの兄、シルヴァンだった。
三つ年上で現在二十歳の彼は、騎士団員として働いている。
見た目は悪くないのだが、いかんせん口調と態度が貴族らしくなく、両親は頭を抱えている。
夜会ではアリシアのエスコート役のくせに、いつもフラフラとどこかへ消えていた。
まあ、食事がメインのアリシアは、兄が居なくても困ることはなかったのだが……。
つまり、ある意味似た者兄妹の二人だった。
「さては、ジェシカに婚約者ができて悔しいんだろ?」
「別に悔しくなんかないわよ。お兄様こそ、いつまでも独り身で可哀想ね」
「俺は別に……」
そこでシルヴァンはミシェルに視線をやった。
「よう、ミシェル。久しぶりだな」
「シルヴァンお兄様、お久しぶりですわ」
幼馴染のミシェルは、昔からシルヴァンを『お兄様』と呼んで慕っている。
さっきまで落ち込んでいたはずのミシェルが、どこか弾むような声で挨拶をしていることにアリシアは違和感を感じた。
落ち着かない様子で髪を触っているが、そんな態度も珍しい。
何かがおかしかった。
「お兄様、私たちは大事な話をしている途中なのです。邪魔をしないでもらえますか?」
そうよ、私はミシェルの好きな人を教えてもらって、恋を応援するところだったんだから!
アリシアがミシェルと腕を組んだその瞬間、目に入ってきたのはもちろん赤い糸で。
今度はミシェルに赤い糸が!
一体誰に繋がっているのかしら?
しかし、今回は行方を辿るまでもなかった。
なぜなら、すでに見えているのだ。
ミシェルの赤い糸の先が、目の前に立っているシルヴァンの小指へと繋がっているのが――。
なんてこと!
ミシェルの運命の相手はお兄様だというの?
驚愕している間に、アリシア抜きで二人の会話が続いていく。
「『お兄様』か…。ミシェルもすっかり綺麗になっちまって、これじゃあ妹だと思えなくなりそうだ」
「それは……本当ですか? でしたら、これからはわたくしを女性として見てくださいませ」
「ミシェル……」
「お兄……いえ、シルヴァン様……」
しばらく見つめ合った二人は、ダンスをする為にその場を離れていった。
アリシアを一人残して――。
マジか!
私、一人ぼっちになっちゃった……。
こうして、立て続けに二組のカップルが生まれたのだった。
◆◆◆
社交界は夜会シーズン真っただ中である。
アリシアの憂鬱な気分などおかまいなしに、今夜もとある公爵家では夜会が催されていた。
仕方なく出席しているアリシアは、見るからに幸せ一杯なジェシカとミシェルを見て、溜息を吐いた。
ミシェルまで婚約者ができるなんて。
しかも相手はお兄様!
二人が両片思いだったなんて、全く気付かなかったわ……。
ミシェルはシルヴァンに妹扱いされるのが嫌で、一生懸命大人っぽく見せていたことが判明。
一方、シルヴァンも妹のように思っていたミシェルが日に日に美しく、自分好みの女性に成長していくことに困惑し、まともに顔を合わせられなくなっていたそうだ。
だからお兄様は夜会の度にどこかへ行ってしまっていたのね。
――って、中坊か!
ミシェルがやたら大人びたドレスやメイクばかり選ぶのも、お兄様と釣り合いたいからだったなんて思いもしなかったわ。
いじらしいじゃないの。
二組のカップルが放つハッピーオーラに当てられたアリシアは、今日も美味しそうな料理が盛られた皿を手にしているが、全く食欲が湧かなかった。
顔見知りになっている給仕の男性が、気を利かせて彼女の好物を盛り付けてくれたのだが、フォークで突くだけで食べる気力がまるで出ない。
華やかな会場に一人ポツンと立っているのだから、心細く感じても無理はなかった。
シルヴァンとミシェルの婚約も、先日つつがなく結ばれた。
よって、今夜のアリシアをエスコートしているのは兄ではなく、父である。
いつまでもフラフラしていた長男が、ミシェルというしっかり者の伯爵令嬢を射止めたことで、父が大喜びで周囲に報告をしているのが見える。
一人で立ちすくむアリシアに、声をかけてくる令嬢がいた。
振り返れば、金色に輝く巻き毛が今日も派手派手しい、侯爵令嬢のクロエだった。
「あら、ご友人たちが婚約されて寂しそうね。だからいつも私が言っているでしょう? 食べてばかりいないで、お相手を探しなさいと」
「クロエ様……」
確かにクロエは、いつもモグモグしている「食道楽トリオ」のアリシアたちに、もっと積極的に令息に関わるようにと叱咤激励していた。
おせっかいだと感じ、いつも三人で適当にあしらっていたが、今思うと彼女の言い分は正しかったのだろう。
「いつも三人だけで固まって、他の方と交流をもたないからこういうことになるのです。だいたいアリシアさまは……」
「ううっ、クロエ様はいつだって正しいですよ。どうせ私は食い意地の張った、ダメな女なんです……」
世界に一人取り残されたような、心許ない気がしていたアリシアに、クロエの指摘は効き過ぎた。
普段なら聞き流せるような言葉にも涙がこみ上げ、俯いてしまうアリシア。
そんな彼女の様子に、慌てたのはクロエのほうだった。
「ちょっと、そんなに落ち込むことはないでしょう! 今からだって遅くはないのだから。ほら、涙を拭いて。せっかくの可愛い顔が台無しじゃない」
「ふええ……」
『困った子ね』と言わんばかりに、クロエがアリシアの涙をハンカチで拭ってくれる。
以前は、同い年だというのに世話焼き気質のクロエに、アリシアは若干の苦手意識を持っていた。
正論ばかり言う彼女に、つい反抗したくなってしまったのだ。
しかし、今夜ばかりはクロエのおせっかいもありがたく感じられる。
「いつも能天気なあなたが、こんなに落ち込むなんてね。二人の婚約がそんなにショックだったの?」
クロエが首を傾げているが、アリシアの元気がない理由は、寂しさだけが原因ではなかった。
実は、ミシェルの赤い糸が見えた後、アリシアは自分の指にも赤い糸が見えるのではないかと考えたのだ。
もし見えたなら、糸を辿って相手の人に話しかけてみるのもいいかもしれない。
恋が芽生えちゃったりして――!?
そんなことを考え、ドキドキしながら自分の右手の小指を見たら――赤い糸なんて影も形も無かったのである。
そこには、ただ普通に小指があるだけだった。
どうして?
あ、二人の糸が見えた時は、確か触れながら恋の応援をしようと思っていたのよね。
よし、左手で右手を握りながら、『私の恋が叶いますように!』って祈ってみるのはどうかしら。
ギュッと目を瞑って祈り、うっすらと目を開きながら小指を見たが、やっぱり赤い糸は見えない。
小指を動かしてみたり、強く念じても糸は現れなかった。
ええっ、自分の糸は見えないものなのかしら?
それとも、好きな人がいないと力が発揮されないとか?
結果、赤い糸の力で婚約者を見つけようとしていたアリシアは、あっさりと失敗したのだった。
再び意気消沈してしまったアリシアの前で、焦ったクロエが誰かを呼び始めた。
こんなに落ち込んでいるアリシアを見たことがなかった彼女は、とうとう自分の手に負えないと判断したらしい。
「クロエ、呼んだかい?」
「ああ、お兄様。アリシア様のお相手をお願いしても?」
「それはもちろん構わないが……アリシア嬢? どうしたんだ? 何か辛いことでも?」
金髪のイケメンが、アリシアの顔を覗き込んでいる。
クロエが呼んだのは、彼女の兄のエリオットだった。
エリオットは確か二十一歳。
カーティス侯爵家の嫡男で、上品な物腰が兄のシルヴァンとは大違いな、社交界きっての優良物件である。
明るい金髪に翡翠のような瞳、通った鼻筋が作り物のような美青年だが、人当たりがいいのに軽薄さを感じさせないところがまた人気で、いつも女性に囲まれている印象だ。
時々会話に疲れたのか、モグモグしているアリシアの元を訪れては、たわいもない会話をしていくことがあったが、二人はそれだけの関係だった。
エリオットの顔はイケメン過ぎて消化に悪いし、たまに見せる極上の笑顔は、デザートが食べられなくなりそうなほどに甘い。
恐れ多く感じてしまうアリシアは、正直クロエだけでなく、彼女の兄も苦手だった。
「アリシア様ったら、友人が婚約してしまって寂しいみたいですの。お兄様、慰めてさしあげて?」
「なるほど、そういうことなら私が喜んで引き受けよう」
「頼みましたわ」
へ? なんだか語弊があるような……。
しかも、喜んで引き受けちゃうの?
今の私、自分で言うのもなんだけど、とっても面倒臭いと思うのだけど。
クロエは手を振って去ってしまった。
エリオットはニコニコとアリシアを見下ろしている。
長身の彼は、アリシアより頭一つ分背が高いのである。
「ねえ、アリシア嬢。良かったらダンスでも踊らないか?」
「ダンスですか?」
「ああ。少しは気分転換になるかもしれないよ? 今までも何度も誘おうとしたんだけど、いつもお腹が一杯そうだから遠慮していたんだ」
「ああ……」
確かに、毎回お腹が膨れるまで食べていた自覚はある。
あんな状態でクルクル踊ったら、リバースしていたに違いない。
煌びやかな会場で起こっていたかもしれない大惨事を思い浮かべて、アリシアは吹き出しそうになってしまった。
「ふふっ、今日はまだ食べていないので、ちょうど良かったです。一曲お付き合いいただいてもいいですか?」
「ああ! 喜んで!」
エリオットが嬉しそうに破顔した。
そんなにダンスがしたかったのだろうか。
アリシアが皿を置き、二人がホールの中心へと手を取り合って進むと、周囲には自然と空間ができていた。
食道楽のアリシアがダンスに参加するのも珍しいが、何よりエリオットは誘われても決して踊らないと有名だったからである。
――ダンスに興味のないアリシアは、知る由もなかったのだが。
エリオットのエスコートは素晴らしかった。
踊り慣れず、たどたどしい動きのアリシアを上手くサポートし、余計な動作すらダンスのアレンジに変えてしまう。
まるで羽根が生えたように自由に踊ることができ、アリシアは初めてダンスが楽しいと思った。
さっきまでの寂しさなどどこかへ行ってしまい、笑顔で顔を上げれば、エリオットが優しい瞳でアリシアを見つめていた。
さすが、イケメンは何をしてもイケメンなのね!
モテ男に興味はなかったはずなのに、気を付けないと沼に落ちてしまいそうな魅力があるわ。
……まあ、私には効かないけれど。
強がっていても、とっくに胸はドキドキと高鳴っている。
それを全て、久しぶりのダンスで息が上がったせいにして、アリシアはステップを踏み続けた。
やがて一曲終わると、エリオットがさりげなく提案した。
「良かったらもう一曲どうかな? せっかく体がダンスの感覚を思い出してきた頃だろう? 私もアリシア嬢とのダンスはとても楽しいし、もう少し君と踊っていたいな」
「私も楽しいです。エリオット様がそうおっしゃるなら、もう一曲だけ……」
アリシアは忘れていた。
この国では、二曲続けて踊ることは、婚約者以上の関係を意味していることを――。
◆◆◆
久しぶりに楽しい気分で帰路についているアリシア。
帰りの馬車の向かいに座る父は、なぜか行きよりも更に機嫌が良く、娘の様子をチラチラと窺っている。
お父様ったらどうしたのかしら?
言いたいことがあれば言えばいいのに。
エリオットと二曲も踊ったアリシアは、今夜の夜会で噂の的になっていたのだが、本人は全くわかっていない。
父はエリオットと娘の関係が気になって仕方がなかったが、うまく尋ねられないまま屋敷に到着してしまった。
部屋に戻ってドレスを脱いでいると、なんだか侍女の様子がおかしいことに気付いた。
侍女のサリーは夜会にも付き添ってくれていたが、どこか体調が悪いのかもしれない。
「サリー大丈夫? 顔色が悪いみたいだけれど」
「いえ、問題ありません」
「そう? 今夜はもう休んでね」
「ありがとうございます」
サリーを見送ったアリシアに、すぐに眠気が襲いかかる。
久々のダンスに疲れていたせいかもしれないが、それよりも楽しく、充実した気持ちで満たされていた。
瞼の裏に、エリオットの翡翠の瞳が愛おし気に細められる様子が思い浮かび――。
恥ずかしさで足をバタバタさせ、見悶えているうちに、アリシアは眠りに落ちていた。
翌朝、顔を見せたサリーは、目を赤く腫らしていた。
「サリー!? その目はどうしたの? やっぱり昨日何かあったのね?」
「たいした事はありませんので。ご心配をおかけして申し訳ございません」
「何言っているの! たいした事、大アリよ!」
サリーを椅子に座らせ、多少強引に尋問すれば、おずおずと昨夜の出来事を話し出した。
まとめると、サリーはアリシアの夜会に付き添っているうちに、どこかの家の侍従と親しくなったらしい。
彼も主のお供で来ていて、名前はニコラスというそうだ。
温和で礼儀正しいニコラスにサリーは惹かれ、彼もサリーを憎からず思ってくれるようになり、将来の話をする仲になったとか。
サリーってば、私がモグモグしているうちにそんなことになっていたのね!
というか、私って相当鈍いのかしら?
知らない内にジェシカとミシェル、サリーまでもが好きな人を見つけているなんて。
ガーン……とショックを受けるが、それどころではない。
今はサリーを慰めなければ。
「昨夜もニコラス様にお会いしたのです。ですが、彼は主にお見合いを勧められ、断ることができなさそうだと……」
うっうっと泣き出してしまったサリー。
「サリー……。でもお見合いはまだなのよね? 結婚が決まってしまったわけではないのでしょう?」
「は、はい……。でもお世話になっている身で、自分からは断れないと……」
それはそうだろう。
きっとその主人も良かれと思って、彼に見合い話を持ってきたに違いない。
それだけニコラスは信頼され、期待される人物だということだ。
「お嬢様、聞いてくださりありがとうございました。私、彼のことは諦めます……」
「待って! 諦めるのはまだ早いと思うわ。私、サリーには幸せになって欲しいもの」
膝に置かれていたサリーの両手を、アリシアが握ると――。
きたきた! 今回もちゃんと赤い糸が見えるわ!
弱弱しい細い糸だけれど、切れていないようで良かった。
サリーの赤い糸は、細いながらもしっかりと伸びている。
窓の外を見れば、門の先へと繋がる糸がキラッと光った。
この糸の先が、ニコラスに続いているかどうかはわからない。
だけどせっかくこの力を得たのだから、私はしっかりと糸の行方を見定めないと!
「サリー、私に任せて。悪いようにはしないから」
「お嬢様? よくわかりませんが、ありがとうございます」
ようやくサリーが泣き腫らした顔で笑顔を見せてくれる。
こうしてはいられないと、アリシアは屋敷を飛び出したのだった。
赤い糸は、道路に寝そべるように続いている。
御者にゆっくりと馬車を走らせるように頼んだアリシアは、窓から身を乗り出すようにして糸を眺めていた。
本当は、糸の先が辿りやすい御者席の隣に座らせて欲しいと頼んだのだが、却下されてしまったのだ。
どこまで続いているのかしら?
ニコラスがどこの家の侍従なのか、聞き忘れたのは失敗だったわね。
そう、アリシアは気持ちが急いていたせいで、ニコラスがどこの家に雇われているのかすら確認せずに出てきてしまったのである。
仮にサリーの赤い糸が想い人のニコラスに繋がっていたとして、もし全く面識のない貴族や、自分より高位の貴族だったらどうするのかも考えてはいなかった。
つまり、アリシアはノープラン、まさに見切り発車でここまで来てしまったというわけだ。
こういう猪突猛進なところ、お兄様みたいで嫌だから直す必要があるわね。
とりあえず今日のところは、サリーの運命の相手の居場所だけでもわかれば上々かしら。
兄のシルヴァンは、ミシェルと気持ちが通じ合った途端、愛が重い厄介な男へと変貌していた。
周りが見えていないのか、ところ構わず愛を囁いているが、ミシェルが幸せそうだからいいとしよう。
アリシアが前向きに、本日の目標を低めに設定して頷いていると、糸はある大きな屋敷の門の中へと続いていた。
ここね!
この屋敷にサリーの運命の相手がいるのだわ。
門から少し離れた場所に馬車を停めてもらい、改めてその屋敷を観察すると――。
ここって、カーティス侯爵家よね?
エリオット様とクロエ様の……。
いくら呑気なアリシアでも、国有数の高位貴族の屋敷くらいは覚えている。
この豪奢な屋敷は、紛れもなくカーティス侯爵の住まいだ。
「どうしようかしら……。クロエ様なら、アポなしでも喜んで屋敷に通してくれそうだけれど、別の意味で面倒なことになりそうだし」
などと、ブツブツと呟きながら門の周囲を徘徊していたら。
「もしかしてアリシア嬢? そんなところで何をしているんだい?」
門を出てきた馬車の中から声をかけたのは、昨夜ダンスを踊ったエリオットだった。
「エリオット様!」
エリオットの家なのだから、彼が現れても不思議なことなど何もない。
だというのに、アリシアはやけに動揺してしまい、あたふたとしてしまった。
私、勢いで出てきてしまったからこんな格好で……。
髪型はどうしていたっけ?
サリーのことばかりで、自分の見た目のことは頭から抜けていたわ。
アリシアは飾り気のない水色のワンピースを見下ろし、溜息を吐いた。
軽くうねったネイビーブルーの長い髪は、結われていないまま腰まで広がっている。
思わず隠れたくなったが、エリオットは馬車を降りてアリシアに近付いてきた。
しかもなんだかとても嬉しそうに、口角が上がっている。
「まさかアリシア嬢に会えるとは思っていなかったな。もしかして私に会いにきてくれたの?」
「えっ? いえ、あの……」
「ははっ、冗談だよ。そうだったら嬉しかったけど。クロエに用事かな? 呼ぼうか?」
それは困る。
アリシアがブンブンと首を振っていると、そのクロエの声が聞こえてきた。
まずい。
「お兄様、まだいらっしゃったの? 何かありまして?」
近付いてきそうな雰囲気にアリシアが慌てると、エリオットはグイっと彼女の手を引き、自分の馬車へと導いた。
「何でもないよ、クロエ。では行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
馬車が動き始めるが、アリシアは戸惑ったようにエリオットを見つめるしかなかった。
いつの間にか、侯爵家の馬車に乗せられているのだから当然である。
「エリオット様、どうして私を馬車に乗せたのですか?」
「うーん、クロエに見つかりたくなさそうだったから? アリシア嬢、せっかくだから、私とカフェでもどうだい?」
「カフェ? エリオット様はこれから用事があるのではないのですか?」
「急ぎではないから平気さ。朝食は摂っているだろうから、何か甘いものでも……」
「朝食! そういえばまだでした!」
アリシアは急ぐあまり、朝食を摂るのも忘れて屋敷を飛び出していた。
いまだかつて朝食を忘れたことなどなかったというのに……。
お腹が減っていたことに気付かされてしまう。
ぎゅるる~~~
途端に鳴り出したお腹に、二人分の笑い声がした。
……二人分?
エリオット様はいいとして、あと一人って?
なんと、馬車には侍従らしき男性も乗っていた。
今まで気付かなかったほど、物静かで影が薄い。
お腹の音を聞かれた恥ずかしさで目線を下げようとして――。
「ああっ!!」
アリシアは叫んでいた。
侍従の男性の小指に、赤い糸が結ばれているのが見えたからだ。
「アリシア嬢? どうしたんだい?」
驚いた顔でエリオットが尋ねてくるが、アリシアには侍従しか目に入っていなかった。
正確に言えば、彼の右手の小指なのだが。
赤い糸を巻き付けている侍従――どう考えても彼がニコラスだろう。
「あの、もしかしてあなたはニコラスさんではないですか?」
「は、はい。僕がニコラスですが……」
「やっぱり!」
怪訝そうなニコラスに対し、アリシアは満面の笑みである。
まさか彼がエリオットの侍従で、こんなにタイミング良く会えるとは!
サリーの赤い糸はニコラスに繋がっていたのね!
良かったわね、サリー!!
アリシアは歓喜のあまり、気付けばニコラスに身を乗り出して問い詰めていた。
「うちの侍女、サリーをご存知ですよね? 結婚するって本当? サリーのことはもういいのですか?」
「それは……」
「サリーが辛そうで見ていられないの。あなたの本心を聞かせてくれないかしら?」
「僕は彼女のことを……」
アリシアが矢継ぎ早に質問すれば、辛そうに顔を歪めるニコラス。
すると、状況を察したのか、エリオットが話に加わってきた。
「なるほどね。ニコラスには心に決めた女性がいたんだね」
「……はい」
ニコラスが頷くと、居てもたってもいられなくなったアリシアは、エリオットに懇願した。
「エリオット様、ニコラスさんに縁談を持ちかけたのはあなたですよね? 図々しいお願いだとはわかっていますが、どうかなかったことにはできませんか?」
サリーは、ニコラスの主が持ってきたお見合い話だと言っていた。
それはつまり、エリオットが持ちかけたということになる。
しかし――。
「いや、私ではないな。きっとクロエだろう。あの子はおせっかいというか、昔から世話を焼くのが好きなところがあるから」
「……はい、クロエ様がもったいなくも、私に男爵家のお嬢様との縁談を持ちかけてくださったのです」
クーローエー、お前だったのか!
さすが、根っからの世話焼き令嬢だな!
「クロエ様の仕業……いえ、気遣いでしたか。腑に落ちました」
やれやれと肩を竦めるアリシアに、エリオットとニコラスは困ったように笑っている。
きっと、今までもクロエの暴走に苦労させられてきたに違いない。
「つまり、アリシア嬢はニコラスに会いにわざわざやってきたというわけか。君は侍女思いなんだな……妬ける」
「え?」
「いや、ニコラスのことなら心配いらない。私からクロエに話して聞かせておこう。ニコラスも、好きなようにするといい」
「エリオット様、ありがとうございます!」
ニコラスが顔を綻ばせ、エリオットにお礼を言っている。
これで彼が意に染まない縁談をする必要はなくなったし、サリーとの仲も進展するだろう。
細かったはずの赤い糸も、存在感が増している。
『よしよし、これにて一件落着!』などとニマニマしていたら、エリオットが「これで心置きなく食べられるな」と言ってきた。
あら?
本当にカフェに行くつもりかしら?
そうしているうちに、アリシアはエリオットにこじんまりとしたお洒落なカフェに連れられ、個室に案内されていた。
◆◆◆
どうしてこうなったのかしら?
アリシアは若い女性に人気だというカフェで、エリオットと対面していた。
しかも個室に二人きり。
ニコラスは馬車で待機しているらしく、アリシアが侯爵邸まで乗ってきた馬車は、もう伯爵家に帰されたらしい。
「アリシア嬢は何にする? この店は軽食も充実しているよ?」
「はい……。エリオット様は素敵なお店をご存知なのですね」
メニューに軽く目を通すが、デカデカと書かれた『スペシャルパンケーキ全部のせ』の文字に目が釘付けになり、あっさりと決まってしまった。
暇になって部屋を観察すれば、香り高い薔薇が数カ所に飾られ、壁紙はピンク色、テーブルクロスは可愛らしい花柄のパッチワークである。
なんとも乙女チックな装飾だが、麗しいエリオットは部屋に負けていなかった。
さすがだ。
「ここは妹が気に入っていてね。『お兄様もデートの時に行ってみては?』と言われていたんだ」
「デート……」
注文を済ませたエリオットが、サラっと刺激的な言葉を口にした。
これはデートなのだろうか?
もしデートなのだとしたら、もう少しおめかししてきたというのに……。
「記念すべき、人生初のデートがこんな格好なんて……」
「ん? アリシア嬢はいつだって可愛いと思うけど? 気になるなら次はあらかじめ予定を立てようか。来週はどうかな?」
エリオットが積極的に誘ってくる意味がわからない。
昨夜、クロエに慰めろと頼まれたからだろうか。
「エリオット様は律義な方ですね。クロエ様に言われたからって、私に良くしてくださって」
「そうきたか! アリシア嬢は手強いな」
楽し気に笑ったエリオットは、アリシアの頼んだ『スペシャルパンケーキ全部のせ』が届いたのを見て、体を折り曲げて大笑いしている。
パンケーキのボリュームがツボに入ったらしい。
笑い続けるエリオットを無視し、アリシアがモグモグしていると、笑いが治まってきたのかエリオットが尋ねた。
「アリシア嬢はニコラスの顔を知らなかったんだよね?」
「そうですね。顔どころか、エリオット様の侍従だということも知りませんでした」
「そうなのかい? それでよくニコラスまで辿り着いたものだ」
「そりゃあ、サリーの赤い糸を辿って……ああっ!!」
パンケーキにすっかり夢中になっていたアリシアは、うっかり口を滑らせていた。
恐る恐る目を上げると……「なるほどね。赤い糸か」と、納得しているエリオット。
「エリオット様は私の話を信じるのですか?」
「夜会で君が、何か地面をじっと見つめながら移動するのを見ていたからね。確かその後に、ジェシカ嬢の婚約者が決まったのではなかったかな」
「確かにあの時初めて赤い糸が見えて、糸の行方を辿っていましたが……。そもそも赤い糸の伝説を知っているのですか?」
「うーん、以前そんな話を聞いたことがあるような。まさか、本当に見える人がいるとは思いもしなかったけどね」
ですよね。
私も自分の力にびっくりしましたから。
「でも不思議な力を得たとして、それを友人や侍女の為に使うなんて、アリシア嬢は優しい人だ。自分の為に力を使おうとは思わなかったの?」
「……もちろん思いました」
そこでナイフとフォークを置いたアリシアは、自分の右手の小指に目をやった。
「私には見えないのです。自分の赤い糸が」
「そうなのかい?」
驚いた表情のエリオットに一つ頷き、アリシアは自分の糸が見えない理由について、考えられることを説明した。
「運命の相手が元から存在しない可能性もありますが、もしかしたらその時は、まだ好きな人がいなかったからかもしれません」
「その時はまだ? 今は好きな人ができたということかな?」
「えっ!」
アリシアの頬が一瞬にして茹で上がった。
無意識に口にしていたが、今の言い方ではまるで、好きな人ができたかのようだ。
しかも、思い当たる人物といえば、ダンスを踊ってくれた、目の前に座っているエリオットで――。
慌てて誤魔化すようにパンケーキを頬張ったら、メープルシロップがさっきよりもずっと甘く感じられた。
「ふふっ。じゃあ、私も見てもらおうかな。運命の相手が気になるし」
「エリオット様の相手……」
「ああ。実は気になっている子がいるんだ」
エリオット様に気になる女性が……。
途端に、甘かったはずのパンケーキの味がわからなくなってしまった。
胸が苦しくなり、心臓が嫌な音を立て始める。
『嫌です!』と言いたい気持ちを抑え、アリシアはテーブルに置かれていたエリオットの手を握り、目を瞑った。
エリオット様には幸せな時間をいただいたもの。
今度は彼の幸せを願う番だわ。
彼の恋が上手くいきますように!
こわごわと目を開けると――目に映ったのは赤い糸だった。
なぜか、アリシアの小指にしっかりと巻き付いている。
「え? なんで? どうして私の指に赤い糸が……」
呆然と呟いた言葉は、身を乗り出してエリオットが抱きしめてきたせいで、途中でかき消されてしまった。
「ははっ! 私がこれだけ恋焦がれてきたのだから当然だろう?」
「恋焦がれる? エリオット様が?」
腕を少しだけ緩めたエリオットが、アリシアの顔を覗き込みながら甘く笑う。
「そうだよ。夜会で食べている姿に惹かれてから、君に何度アプローチしたことか」
「アプローチ? されたことありましたか?」
「ほら! でもその鈍感なところがたまらなく可愛いから困るんだ」
「鈍感……」
やはりアリシアは鈍いらしい。
今となっては、こんな素敵な人をほったらかしにして、食欲を優先していた自分が信じられない。
「アリシア嬢、君を愛しているよ。私と結婚してくれないか?」
「エリオット様……喜んで!」
おでこにキスを落とされ、アリシアにとってこの上なく甘い初デートとなったのだった。
デートの翌日には、カーティス侯爵家から正式に婚約の打診があった。
アリシアの父は小躍りし、幼馴染のジェシカとミシェルも自分のことのように喜んでくれた。
後から知ったことだが、二人はクロエに頼まれ、夜会であえてアリシアを一人ぼっちにしていたらしい。
クロエは兄をけしかけ、アリシアと仲良くさせようと目論んでいたとか。
さすが世話焼き令嬢、抜かりない計画である。
「アリシア、またカップルを誕生させたんだって?」
「エリオット様! だって、私ばかり幸せじゃ申し訳なくて……」
「君が幸せなのは嬉しいけど、最近はクロエよりもアリシアのほうが『くっつけ令嬢』と呼ばれているらしいじゃないか」
「クロエ様より!? それはご勘弁を!」
「はははっ!」
エリオットは、愛おしくて仕方がないといった顔で、最愛の婚約者を腕に閉じ込めた。
赤い糸が見える『くっつけ令嬢アリシア』は、その後も運命の相手をさりげなく紹介することで、密かに王国の成婚率に貢献したのだった。
おしまい。
お読みいただき、ありがとうございました!




