Scene17:『あなたの願いが生んだ、ボク』
滑りながら、スライダーの先に目を向ける。霧と光が入り混じる大滑走路が、遥か彼方まで伸びていた。
「……ボクには過去なんてないけど、これって、ちゃんと映るのかな?」
マハが苦笑いする。
最初に映った映像は——自分が産まれてから今まで。
自分が生まれ、暗い部屋で辺りを見渡す。
"LC-10の監視と追跡を任せる"と告げられた声。
飛鳥達が、仲間と共に進む旅路を見つめていた記憶。
「まあ、ボクの記憶って言ったらこんなもんだよね。別に懐かしいってほどでもないし……」
水に流れる映像は、ただの記録みたいに平坦だった。
生まれた瞬間も、命令を受けたときも、全部が淡々としている。
別に悲しかったとか、辛かったわけでもない。
——他の子たちは違う。
笑ったり、泣いたり、何かを掴んだり失ったりして、
そうやって"今の自分"を作ってきた。
——ボクは、それをずっと“外”から眺めていただけ。
自分にあるのは、たった今ここにいる、この“今”だけ。
みんなの事が、少しだけ羨ましい。
そして……ほんの少しだけ、悲しい。
泡が頬をかすめ、視界の奥で光が揺れた。
でも、その次に来た映像で——呼吸が止まった。
泣き声。
最初は水の響きと区別がつかないほど淡く、すぐに確かな産声になった。
狭い部屋。汗に濡れた額を押さえる女の人がいた。
腕の中には、小さな赤ん坊。
まだ目をうまく開けられず、細い指をぎゅっと握っている。
泣き声は弱々しいのに、その場の空気はやわらかく満ちていた。
母が、その小さな指を頬にあて、「よく来たね」と何度も囁く。
マハは息を忘れて、その光景を見つめていた。
その子の始まりは、あたたかい声と祝福に満ちていた。
でも——その色は、すぐに変わった。
次に訪れる出来事を、マハは知っていた。
数日後。
赤ん坊は力を失い、泣き声が細くなっていく。
母の腕の中で呼吸が浅くなり、やがて静かになった。
母は声を殺し、肩を震わせながら、動かなくなった体を抱きしめる。
名前をつけられることもなく、僅かな生を終えた赤子。
……ああ、これは。
この次になにが起こるかも、マハは知っている。
低く、事務的な声が母の元に落ちる。
「……嬰児が死亡したと聞いた。
“トヨール”の検体として提供してもらいたい」
——トヨール。
それは、死んだ子どもの一部を素材にして、呪術で精霊を造る技法。
この子が生き返るわけではない。
新たな生まれ変わりとして、目を開けるわけでもない。
母は、それを知っている。それは全く別の命になる。
それでも。
わかっている。わかっているのに——心はどうしても切り離せない。
願ってしまう。
この子の続きを、誰かに歩いてほしいと。
母は、深く息を吸い込んだ。
そして、小さく頷いた。
「……この子が生きた証を、少しでも残せるのなら」
声は震えていた。
それでも、そこには微かな光が混じっていた。
目の前の命は戻らない。
だけど——全てを失ったわけじゃないと、自分に言い聞かせるような光。
マハは、その思いを胸の奥でなぞる。
——ああ……これが、ボクの“始まり”
……そして、母の視線がゆっくりと持ち上がった。
そこの視線の先には、彼女の腕から送り出した命の一部を宿す"ボク"。
——あなたは、この子の命のかけらから生まれた。
——わたしの悲しみがわかるのなら……この子の代わりになって。
——そして、あなたに過去がなくて寂しいのなら……この子の過去を、あなたが持っていって。
その声は、響くというより水の中に溶けて、直接胸の奥に触れてきた。
何度も、何度も繰り返される。
それは祈りであり、願いであり、命令にも似た重さを持っていた。
マハは視線を落とし、ほんの少しだけ笑った。
「……ごめんね。ボクは、その子にはなれない」
母はまだ、代わりを求め続けている。
それでも、マハは穏やかに続けた。
「ボクは、あなたの願いで生まれた。
でも、"あなたの赤ちゃんの代わり"には、なれない」
マハは片手をひらりと振った。
でも、瞳は静かに真っ直ぐ母を見ていた。
「あなたの悲しみを借りて、自分を埋めるのは違うんだ。
ボクの寂しさも、あなたの悲しみも——
それぞれ、自分の足で歩いた先で埋めるべきモノだから」
「それでも……あなたの祈りだけは、ボクの中にある。
だから、ボクは……この世界で、生きていく」
マハは、濡れた髪を指で払い、胸の前で静かに手を合わせた。
指先は鼻の高さまで上げ、軽く頭を垂れる。
その間、ひと呼吸。
まるで、遠い寺院の僧侶のように……
その仕草は祈りというより、静かな約束だった。
「ボクは、あなたの赤ちゃんの生まれ代わりじゃない。
でも、“あなたの願い”が作った、"ボク"だから」
——to be the next scene.




