Epilogue:『パパ、授かる』
……ぴくり。
私は、肩を跳ねさせて目を覚ました。
椅子だ。メインラボのスツール。
背もたれなし、座面硬め、長時間滞在に不向き——つまり寝落ちに最悪の家具である。
にもかかわらず、私はここで眠っていた。
深く。実に深く。熟睡レベルで。
……頬に、なにか冷たいものが伝う。
私は指で拭った。
——ぬるり。無味。無臭。
……ふむ、よだれだ。
いや、待て。
その少し上も濡れている。これは……涙?
なるほど。
どうやら私は、よだれと涙の同時放出という、情緒と生理のハイブリッド現象を起こしていたらしい。
人間とは、かくも繊細で、かくも汚い。
何か、夢を見ていた様な気もする。
よだれを垂らしながら、涙する夢だったのだろうか?
だが、夢の内容は思い出せない。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残っている。
まるで——
何か大切なものを、手に入れ、抱いて、そして手放したあとのような。
……いや、違うな。
もっとこう……そう!
コンビニで最後の一個だった限定スイーツを買い、
帰宅途中で袋を落とし、
三秒ルールを主張する間もなく車に轢かれ、
それでも「まぁ写真は撮れたし」と自分を納得させた時の湿った納得感。
——そんな夢……。
もしくは、深夜帯における自律神経の偏重。
要するに生理現象である。
私は咳払いを一つし、事実を上書き保存したところで、
——ぐうぅ。
腹が鳴った。
……ふむ。
これは“飢え”だ。
涙→よだれ→空腹。
感情と内臓が、綺麗なリレーをしている。
非常にはしたない兆候だが、生命としては正しい。
私は立ち上がり、白衣を払う。
モニターはまだ点いている。時刻を見る。
——04:27。
なるほど。
これはもう「うたた寝」ではない。
完全なる睡眠事故である。
労働基準法的にはアウトだが、私は父であり、父は労基の管轄外だ。
これは世界の常識である。
私はメインラボを出た。
目的地は明確だ。
アジュールがこっそり隠しているお菓子の保管場所。
彼女の自室の引き出し、二段目の奥。すでにそこにあったチョコを三度くすねている。
もはや“犯行”というより“定期収穫”だ。栽培扱いでよかろう。
——いや、違うな。
これは父による間引きであり、食育であり、資源管理だ。
廊下は静まり返っていた。
人工照明の切り替えタイミングなのか、全体が少し青白い。
空調の低い唸りが、巨大な生き物の寝息のように響いている。
私は歩く。
——と、途中で足を止めた。
……なにか、聞こえる。
((……ふぇ……ぅ……))
微かな音が、遠くから空調のリズムに混ざって紛れ込んだ気がした。
細く、途切れ途切れで、弱々しい。
……泣いている?
私は耳を澄ませた。
((……ふぇぇ……ひっ……あぅ……))
低く、か細く、ぎこちない呼吸。
それはどう考えても、
赤ん坊の泣き声だった。
だが、ここはラボだ。
研究所だ。
早朝だ。
赤ん坊など、いるはずがない。
泣き声は、廊下の先。
かつて使われていた第三実験室から聞こえていた。
照明は落ち、扉には「立入禁止」の札。
私の直筆だ。
私の字は汚すぎて他の人間には読めない。
私はそれを、高度な暗号の一種として運用している。
ここは封鎖済みだ。
電源も落としている。
結界も張っている。
つまり、常識的に考えれば誰も入れるはずがない。
……が。
泣いている。
これは、かなりホラーだ。
だが、私は科学者である。
お化けは信じない。
例外として、実体干渉型霊体や量子魔導的存在は“現象として”認めるが、それはホラーではない。
検証対象だ。
よって、これは。
怖い出来事ではなく、調査案件である。
私は扉に手をかけ、静かに開いた。
ぎぃ……。
錆びた音。
埃の匂い。
閉ざされた空気が、足元を撫でる。
「……あぁ……ふぇぇぇ……」
空気の層を割って、はっきりとした泣き声が漏れ出している。
これは紛れもない。乳児系哀音である。
蛍光灯は死んでいた。
だが、室内の奥、
かつての魔導炉から、淡い光が漏れている。
……まるで、
何かが生まれた直後の、濡れた呼吸のような。
私は一歩ずつ近づいた。
——第三実験室。
精創型プロトコルの試験場。
核を用いない、曖昧な、
そして、失敗したはずの実験。
[トゥルパ]。
想念を依代として、意思そのものを形にする構造。
私は精創型の最初期に、真っ先にこれに着手した。
だが結果は散々だった。
魂が安定して収束しない。
定着せず、留まらず、想ったそばから霧散する。
そこで私は判断した。
『これは核が要る』と。
そうして切り替えたのが、
核を用いた安定構造。
マハとエナの系譜である。
——そう。
この魔導炉では何も生まれなかった。
夏休みの自由研究で「タイトルだけ決めて満足した小学生」レベルだ。
あとは、結果を捏造してChat GPTで出力して終わりである。
……にもかかわらず。
そこに、居た。
最初に目に入ったのは、小さな手。
それが震えている。
——これは……やはり赤子?
いや、“赤子”という言葉は、分類としては近いが、定義としては遠い。
足の先には、柔らかな蹄。
頭部には、くるくると巻かれた螺旋角。
……羊の角だ。
赤子と仔羊の境界を、勢いで縫い合わせたような存在。
顔は泣き腫らしていた。
肌はまだ定着しきっておらず、ところどころに羊毛のような保護膜が残っている。
いや、羊毛ではないな。
霊質が繊維化している。
私は、息を呑んだ。
……なるほど。
信じがたい。
だが、目の前で泣いている。
そして、まっすぐに私を見ていた。
私は、静かに息を吐いた。
「……ふぇっ、ふぇっ……ぁあああぁ……」
魔導炉の中。
崩れた結界の中心で、その子は泣いている。
……が、少しだけ声が落ち着いた。
たぶん、私を見て安心したのだろう。
間違いない。
——これは、私の娘だ。
そうとしか思えない。
設計していない。
構築していない。
だが、ここにいる。
私の意図に関わらず現れた、
私の娘だ。
私は膝をつき、彼女を見下ろした。
羊の角。
足には蹄。
柔らかな体毛。
……よろしい。
ならば、父としてやることは一つ。
……名を与える。
——[LC-13]
ナンバリングとしては、エナの次の番号。
しかし、それは無機質すぎる。
番号呼びは無粋の極み。
私は父だ。
詩情と誤解に満ちた存在だ。
——私は、すぐさま閃いた。
この羊のような姿。
その無垢な瞳。
柔らかな声。まだ言葉にもならぬ泣き声。
そう……ぴったりの名がある。
[ネヴィーナ・オフチェルカ]
「無垢な羊」という意味の、異邦の言葉。
——完璧だ。
完璧すぎる。
意味、響き、雰囲気。
全部いい。
これを一瞬で思いつくとは、
我ながらネーミングの才が爆発している。
天才か。私は天才なのか。いや、天才である。間違いない。
しかし、やや長いな。
いや、正直長いな。
呼ぶたびに息が切れそうだ。
うむ……ならば、愛称は“ネネ”としよう。
私は、そっと炉の縁に手を伸ばし、彼女の小さな指先に触れた。
「……っ……」
その瞬間……泣き声が、ぴたりと止まった。
水を打ったような沈黙。
最後の嗚咽の残響だけが、空気に消えた
私は、膝をついて彼女を見下ろした。
するとネネが、小さな手をこちらへ差し出してきた。
その手の中に、なにかが握られている。
……これは?
私は慎重に、それを受け取った。
これは、花だ。
形状としては深紫のアネモネ。
実物と比較すると、かなり小さい。
だが不思議と存在感がある……夢の濃度がそのまま色になったような花弁。
が。
次の瞬間、それはふっと消えた。
跡形もなく。
香りすら残さず。
……ほう?
これは、なにかのメッセージだろうか?
選ばれしパパにのみ与えられる、父性への象徴?
まあ、ただの偶発現象だろう。
手元に花の幻影を投影するなど、夢霊系精霊なら普通にできる。
そして。
「……ふにゃ、ふぃ……ふはっ」
ネネが笑った。
明らかに笑った。
声にならない声で、ぷくぷくと口を泡立てながら、顔をくしゃっと崩し、ふよん、と両手を伸ばしてきた。
私は反射的に身を乗り出す。
そして、慎重に、その身体を両手で抱き上げた。
やわらかい。
あたたかい。
そして、軽い。
……なんだこれは。尊さの濃縮液か。
このまま上に持ち上げたら、虹でも発生するのでは?
……と思った刹那、ネネが白衣の袖を、ぐいと掴んだ。
いや、掴むというか、抱きつくというか、もはやよじ登ろうとしている。
「……ふひ、ふぃぃっ……はっ、はぁ!」
笑っている。
明らかに、喜んでいる。
目はうるうる、顔はぐしゃぐしゃ、でもそれ以上に、
この“しがみつきムーブ”が、何より雄弁だった。
私は震える声で、言った。
「……間違いない。これは……」
私の白衣が“好き”という意思表示である。
すなわち、
白衣=私。
私=父。
私を掴む=父に抱きつく。
……見事な三段論法である。
よって、これは論理的に導かれる愛情表現である。
愛とは証明できるのだ。間違いない。
ネネは、きゅっきゅと喉を鳴らすような音を立て、さらに白衣を掴んだ。
私はそのまま胸元に引き寄せる。
ふわふわの羊毛が、首元に当たる。
……あったかい。
そして、ほんのりミルクっぽい匂いがする。
たぶん霊質由来だ。知らんけど。
なんと尊い光景であろうか。
これはもう……
父イベント発生、確定演出である。
——私はネネに、静かに言葉をかけた。
なぜか、彼女に掛けるべき言葉が、自然とわかっていた気がする。
「……おはよう、ネネ」
……ネネは少し大人びた仕草で、
ゆっくりと目を細め、私に微笑み返した——
——the episode’s end.




