Scene4:『ぼくの大切だったもの』
次の日も、ぼくは腕立てをした。
誰にも見られないように、まだ朝が来る前の暗い時間に、納屋の裏に行って。
膝をつかないように気をつけて、ゆっくり、ゆっくり、体を沈めた。
昨日よりも、ちょっとだけ多くできた気がした。
気のせいでもいい。続けることのほうが、たぶん大事だから。
“ちょっとずつでいい。毎日、すこしずつ。”
“変わっていけば、いつかきっと——”
そんな小さな希望を、胸の奥で温めてた。
あの日までは。
————
ぼくには、ひとつ“心の支え”があった。
村はずれの物置小屋の裏に、いつの間にか住みついてた小さな白猫。
耳が少し欠けてて、しっぽがふにゃっと曲がってる、年を取った子だった。
名前はつけなかった。
名前をつけたら、いなくなったときにつらいから。
でも、毎朝こっそり、残りものを持っていった。
魚の骨とか、かけらになったパンとか。
食べ終わると、「にゃっ」って鳴いて、足元にすり寄ってきた。
それだけで、少しだけ安心できた。
弱くても、生きてていいって思えた。
——ぼくだけの、秘密だった。
「おーい、タクト!」
広場のはじ。声がして、振り返った。
その瞬間、何かが投げられてきて——
——ぺた。
足元に落ちたのは、赤いシミがついた、布きれ。
「……え?」
目をこらす。
模様が見えた。白い、先っぽに少し黒い模様。
ふにゃっと曲がった、しっぽ。
「あっ——」
息が詰まった。
喉の奥で、なにかが固まる。
手が、勝手に動いて、それを拾おうとしたとき——
「っはははははは!!」
笑い声が、背中に刺さった。
「マジで拾った!やっっっば!」
「おまえ、ほんとにエサやってたんだな、あの汚ねー猫に!」
「昨日、ヒマだったからさ〜、みんなで追い回して遊んでたんだけど〜、
ベックが蹴ったら、“キュッ”って変な声出してさ〜!」
「ぐえっ、ぎゃっははははは!!」
「お前の猫、弱すぎ〜!」
「オマエといっしょ! よっわ〜!」
——世界が、止まったみたいだった。
周りにも、ほかの子たちがいた。
でも、誰も止めなかった。
聞こえてないふりをして、目をそらして。
それすらやめて、背を向けた子もいた。
誰も、なにも言わなかった。
ぼくのために、怒る子はひとりもいなかった。
「……あーあ」
ゼノットが、あくび混じりに言った。
「オマエが関わんなきゃさ〜、
あの猫、もうちょい生きられたのにな〜?」
「ちょーとばっちり? かわいそ〜」
にやり。
その顔は、笑ってなかった。
ただ、ぼくの心が割れる音を聞きたがってる顔だった。
彼らはそのまま去っていった。
足元に、ぼくだけの秘密だった“それ”を置いて。
その夜、ぼくは泣かなかった。
泣いたら、本当に終わる気がした。
リオお兄ちゃんが言ってたことを思い出す。
「誰も助けてくれねぇ」
「甘えんな。自分で切り開け」
——その通りだった。
弱いままじゃ、大事なものを守れない。
誰も味方になってくれないなら、ぼくがぼくの味方になるしかない。
決めたんだ。
もう、誰にも頼らない。
優しさにも、期待しない。
つよくなる。
——ぼくだけの力で。
その晩、納屋の裏で、ぼくは何度も拳を握った。
震える心を叩き直すみたいに。
くしゃくしゃになった感情を、叩き込むように。
月は出てなかった。
でも、見られてる気がした。
どこかで、誰かが、ぼくを見ている気がした。
それだけで、立ち上がれた。
——ぜったい、守れる自分になる。
——to be the next scene.




