想いと文字化されたものとはどうしても齟齬があってもどかしい。―文字禍
中学生の頃から親しんでいる中島敦。遠くの土地の、遠くの時代を題材に描かれた作品が、行ったことのない、まるで知らない世界に旅行に行ったような気分にさせてくれる。中国の古典が好きになったのも、中島敦の影響だ。
といっても今回初めて取り上げる中島敦。舞台は中国古典ではなく、新アッシリア時代のアッシリア王の頃。『文字禍』という作品だ。「文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか」の一文から始まる。文字の精霊とはいかなる性質を持つものか、研究を王が命じるのである。
文字の精霊? 性質? 普段からお世話になっている文字。日々、文字を使って創作する身分としては、なくてはならないマティエールだ。文字は情報を伝えるのみならず、詩を書く私としては音や間と言ったリズムを意識して文字を書き連ねたりする。歌の要素が文字には霊として宿っているだろう。想いを文字に起こそうとするとき、想いと文字化されたものとはどうしても齟齬があってもどかしい経験は毎日のようにしている。自分の拙さを恥じるとともに、湧き出る想いを即座に文字に変換していく技術は、とても追いつかないし、まるまる投写させることなんて到底できない。
王に命じられた老博士は、文字の霊について説を見出そうとする。しかし、それはゲシュタルト崩壊し、おかしな統計が出来上がったりする。ある人は蝨を捕るのが下手になり、ある人は、眼に埃が余計はいるようになったり、今までよく見えた空の鷲の姿が見えなくなった者。空の色が以前ほど碧くなくなったという者が現れる。それは浅薄な合理主義の病だ。文字を使って書き物をしているというのは間違いで、「わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕」だ。そうかもしれない。私たちは文字に束縛され、その囲いの中から思考し、出ることもできず、もし、文字を知らなかったなら、翼を得た鳥のように豊かに大空を舞うような境地でいることだってできたのではないだろうか。
小説の終わり、博士の最期。文学青年たちの夢のような死に方だと、当時文学少女だった頃の私の同級生が常日頃言っていた夢。文字に囚われ、鞭打たれ、それでも、その状態であることを望む私たちは、だから進化してきたかけがえのない人類と言えるのかもしれない。




