ともによきひと―徒然草
友、と呼べる人とは? と巡らせると、夫しか思いつかない私には、果たして、世界中の多くの友を有しているといえなくもない、とこっそり笑う。
「何事も古き世のみぞしたはしき」とした兼好法師のように、私も古いものが大好き。すでに亡くなりしいにしえの作家を友にして、和歌を現代詩にオマージュしたり、リスペクトさせて頂いている。
詩の言葉を習い、感情を共有し、曖昧だった感覚を客体化し、そうして作家の命をなぞる。日常が慰められ、創作は日々、更新されていく。食事を作ることを生業にしている私は、血となり肉となるような詩作を心がける。
生きるもののいのちを頂戴して、朝昼夕となく栄養を摂りこむ私は、ひとりの作家によって紡がれた真摯な言葉もまた、享受する。言葉に感動を添えて、噛み砕くように味わい、戦慄や衝撃が訪れ、ひれ伏してしまう。
確かに存在していた証を残すいにしえの人の言葉は、繰り返し口ずさまれてきたという、図太さのようなもの、爽快感と呼べるようなものを有している。千年の隔たりは一掃されて、確かに息づく色褪せぬ感情に対峙させられる。
柿本人麻呂の「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」という和歌には、山鳥の尾の長いことと、ひとりで眠る秋の夜の長いこととが掛けられている。ここにシンパシーを感じて、詩作の動機たる長い尾と夜は、私自身の固有の体験と結びつき、デッサンを形づくる。夜の深い闇のなか、ひとり身体を横たわらせ、自分の呼吸に耳を澄ませる。秋の夜の肌寒さは、寂しさと共に、かつての記憶のいとおしさを思い起こさせる。夏の残り香のようなものが、口元まで引き寄せる衣に籠もっている。外は秋雨だろうか、静寂の闇に響く雨音が、闇と同化しつつある自分と重なる。指先で梳く長い髪は、湿った地面と混ざり合い、どこまでも続いて行きそうな時の流れと合流する。手探りし、触れる髪の一束でさえあの人のもとに届かないかと願い、瞼をとじる⋯
見ぬ世の人、亡き人の言葉を友とするのは、孤独を慰められ、実生活の人間関係の煩わしさからは解放され、気遣いの心配もなく、楽しいもの。しかしながら、互いに交流しあい、衝突し、絶望し、それでも望み諦めきれない経験が、先人の言葉を手繰り寄せて、私に新しい息吹与える。創作の波に押し寄せられ、生きた言葉を吐き出し、それを糧としてくれる友と出会う。そういう友と、腹蔵なく言い合ったり、信じて、約束し合ったりする。
今日も、友と、おはようを交わす。そして、さようなら、とも。




