地味さが、侘しさが、こんなにもはしゃいでしまうしあわせなのだ。―灯籠
太宰の書く女性の告白体小説が面白くて、夏休みにいくつか読む。女性の作家ではないのだが、女性の感性を感じられる文章に、ついうなってしまう。
愛すべきなんだろう。
家族を、家までも、愛すべきなんだろう。
太宰のそんな小説をよむと、家の調度を整えたり、手間のかかる料理をしたくなったり、普段しない換気扇の掃除なんかに取り掛かりたくなる。
今回、つい脱帽してしまった一節は、『灯籠』の最後の方にある。いわゆるオチにやられてしまった感じだ。
「私たちのしあわせは、所詮こんな、お部屋の電球をかえることくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、そんなにわびしい気も起こらず、かえってこのつつましい電燈をともした私たちの一家が、ずいぶん綺麗な走馬灯のような気がして来て、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かな喜びが、胸にこみあげて来たのでございます」
惚れっぽいさき子が、水野のためについ犯してしまった盗みと、親孝行という暮らしが、妙に、日々家族のために奔走する私を労るような慰めを感じる。電球を取り替えて夕食をいただくようなもの。そういう幸せ。暗くなったら灯す部屋の温かみが、団らんに幸福感を添える。「親子の美しさ」が感じられるといいと、作品を思い起こしながら箸を運び、美しさを演じてみる。地味さが、侘しさが、こんなにもはしゃいでしまうしあわせなのだ。
日が落ちて灯す電燈、柔らかな日。
家を灯す電燈、笑う家族と。




