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5.アジュール温泉郷

イヲンの街の近くにある精霊の森で、ルキは黒く変色した植物を地に這うようにして観察していた。円形に地面が窪んだ場所の草が黒く変色し、それが周囲の草に伝染してどんどん広がっていると樹精獣達に知らされて、調査に来たのだ。

ここは以前、魔族と樹精霊が戦った場所で、その際に魔族が使用した「世界樹伐りの斧」の影響を受けた周辺の植物が、本来は聖邪どちらでもないはずが邪性に傾いてしまったのだ。

邪性に傾いた植物は、一代で果てて種を残すことが出来ないのだと、ルキの中の樹精霊が教える。その範囲が広まれば、植物が絶滅してしまう恐れがある。ルキは、影響を受けた範囲の大地を抉り取って焼却するか、「世界樹伐りの斧」を無効化するかを思案していた。

世界樹伐りの斧に憑りつかれたソゴゥを助けた際は、その体からウイルスを血と共に吸い出すことで、影響を取り除くことが出来た、だが、この地を覆う草の一本一本を救うために齧って、汁を啜ったら、それだけで草が枯れてしまい本末転倒となる。

ルキの側に控えている四頭の樹精獣達が、その毛に覆われたモフモフの手を波のようにくねらせるジェスチャーをそれぞれがルキに向かって行う。

「確かに、砂塵化すれば、あっという間なのデフが・・・・・・」

ルキは、自分の身体を守るように両腕を抱える。

こちらの次元でも物理干渉を行えるように、樹精霊が長い年月をかけて作った樹木の粋を核として、邪神のルキは樹精獣達を抱っこ出来る体を得ている。

砂に戻ることは、一時的に核から離れ、体を失う事だ。

直ぐに戻れると分かっていても、永い孤独な時間が、ルキの砂塵化を躊躇わせる。

だが、この精霊の森が、これ以上汚染されることをルキも許しておくことは出来ない。

ルキの手のひらから溢れた砂が零れ落ち、地面へと降り注ぐ。

黒い砂の中には、赤いルビーの粉のような光が混じっていて、それが瞬く星のように明滅しながら霧の様に広がっていく。

ルキの体はその像を崩して黒い霧のようになり、核である樹木の粋は、白木が化石となったような球体を露にして地に落ちる前に、樹精獣の一頭が肉球におさめた。

変色した植物の上を、黒い砂がすっかりと覆い尽くす。

しばらくそうして変色した大地に留まっていた砂の中の光の明滅のおさまり、やがて樹精獣の持つ核へと集まるように砂が戻って来る。

黒い霧が晴れた地面には、変色していた植物が本来の色を取り戻していた。

樹精獣達は、健康な色を取り戻した草を見て飛び跳ねて喜び、ルキの元に集まると、肉球でポンポンと労うように叩いたり、ギュッと抱きついてきたり、四頭それぞれの感謝を表現してくる。

樹精獣の一頭が突然動きを止め、周囲を伺うように耳を立てる。

他の三頭も一頭が見ている方向に顔を向け、警戒しはじめる。一頭が森の中へと走って行き、チャイブに抱かれて戻って来た。

「お久しぶりです、ルキさん」

挨拶をするチャイブを押しのけ、イグドラム警察機関、国家安全局、魔法安全対策課班長のイフェイオンが、毛先が薄紫色の白い髪を乱しながらルキの前に勢いよく滑り込むように跪く。

「深い森の中に佇む貴女は、今ここに誕生した神のように神秘的で美しい。ああ、このような清らかな女神誕生の光景に立ち会えた私は何と幸運な事でしょう」と、手を広げて、感激を示す。

「ルキは、女神でもなければ、今生まれたわけでもないニョロ。イフェ長は何しに来たニャスか?」

「そうでした、ルキ様に血液の試食をしていただきたく参上いたしました」

吸血鬼であるルキが好むのは女性の血で、男性の血は不味く、また時間を置いた血液では食事の意味がなくなるなどといった問題解決に、イフェイオンが名乗りを上げて取り組んでいたのだ。

イフェイオンは立ち上がると、円形に陥没した地面が、以前は不気味に変色していた草の状態が元に戻っていることに今更ながらに気付いた。

「ここの草が、正常に戻っていますね」

「本当ですね、焼け跡みたいになっていたのが噓みたいです」

ルキが鼻を鳴らし、胸を反らせる。

「もしかして、ルキ様が?」

ルキが頷くと「流石です我が女神!」とイフェイオンが抱きつこうとしてくるのを躱し、樹精獣たちで身を固めて、チャイブとイフェイオンに付いてくるように言う。

「屋敷に寄って、お茶でも飲んでいくノシ」

先程、チャイブとイフェイオンの二人は、この精霊の森に着くと真っ先に精霊の家に向かったのだったが、外から呼びかけても反応がなかったので、思い付く場所を探して、精霊の消失した現場にやって来たのだった。

「それにしても・・・・・・」とイフェイオンが精霊の家を見上げる。

「何か、育ちましたよね、樹が。前は小さな家だったのが、今は小さな宿泊施設くらいになりましたよね。佇まいも、ひっそりとしていたのが、オープンになったと言いますか」

「たしかに、森の中のおしゃれなヴィラのようです。あとプールがあれば完璧ですね」

先を歩く樹精獣たちがルキを振り返り、ニャッ、ニャッとルキに話しかける。

「なるほど、プールは盲点だったニョロ」

何やら軽口が採用されそうで、チャイブは焦った。

精霊の家に入ると、気持ちの良い日が差し込む二階のテラスに案内され、テーブルセットにつくと、樹精獣たちがお茶と御菓子をルキとお客であるチャイブたちに運んできてくれる。

ルキは、青空と太陽の光を満喫しながら、お茶を口にする。

しばらく王都やイヲンの街の様子についてお互いの近況などを話しながら、チャイブはどうしてこの家がここまで大きくなったのかを尋ねた。

「お客さんが増えたからノシ」

「お客さんが来られるのですか?」

「兄とか、父と母とか、王様たちとかもお忍びで来るニャフ。イグドラシルの樹精獣は人目があるのでモフれないから、ここに来て心ゆくまで樹精獣たちをモフっていくニョロ」

「ニトゥリーとかがですか?」

「王様と御后様がニョロ」

チャイブは噴き出しかけた茶を何とか嚥下して、鼻水を拭った。

「もしかして、泊まっていかれるのですか?」

「父と母とかは泊まって帰るニャ、客室のシーツはいつも清潔にして、部屋もピカピカなので、イフェ長やチャイも泊まっていくといいニョロ。森の幸の夕食と、最近ルキがはまっている太鼓のリズムに合わせて樹精獣たちが踊るのを見ていくニャ」

「ありがとうございます、是非拝見させてください!」

イフェイオンが言い、チャイブも警察内のストレスで、樹精獣に癒しを求めての来訪でもあり、断る理由はなかった。

「ところで、加工血液の試作品をお持ちしたので、試食をお願いしたいのですが。もちろん、我々魔法安全対策課全員が試食を重ね、賞味に耐え得るレベルに達した物をお持ちいたしました」

「ありがとう、イフェ長」

イフェイオンは冷却装置の付いたケースから取り出した、白い饅頭の様な物をテーブルに置いて、ルキの方に寄せる。

「こちらは、保存食用として考案された物です。女性エルフの血液を、劣化防止処理を行ってゲル状に固め、大福の皮で包んだ一品でございます。どうぞお召し上がりください」

ルキは大福を手で摘まみ、ひと噛みする。

口の中の大福を飲み込むと、さらに残りを口に入れて完食し目を瞑る。

「大福の柔らかな皮の中から、女性エルフの芳醇な香りと風味の血液がジワリとにじみ出てきて口の中に広がり、ジャムのように粘度を持たせることで食べやすく手も汚れずに、大変美味しく頂けたのでございマフス」

「こちらの成分劣化はどうでしょうか?」

「流石イグドラムの魔法安全対策課なのデフ、血液の鮮度が保たれていたので、ルキに必要な成分が、これからなら補えるニャス」

イフェイオンがテーブルの下で、手ごたえに拳を握る。

「次はこちらなのですが、男性署員が女性ホルモンを一時的に増進させるサプリを摂取した状態で採取した血液を、さらに成分を壊さないよう劣化防止処理を行った上で、ベリー系の風味付けを施したグミです」

イフェイオンは宝石のように赤い柘榴の実のようなグミを皿にのせて、ルキの前に置いた。

ルキの細い指が、小さな粒を摘まんで口の中に入れる。

ルキは長いマツゲを瞬かせ、もう一つ、もう一つと口に入れ、首を傾げる。

「本当に、男性エルフの血デフか?」

「はい、もちろんそうです」

「うん。不味くないデフ!これなら食べられるニョス!」

「やりましたね!班長!」

「ああ、味はクリアだな。だが、保存期間がどれも一週間と短い、それに不味くないではなく、美味しいと言ってもらえることが目的だから、まだ達成とは言いえない」

「ええ、班長。それと、男性署員の女性ホルモンサプリ摂取ですが、署員が化粧品売り場に入っていくところを見掛けたので、こちらも別の方法を検討した方がいいかもしれません」

「それ、本当か?上にバレたら、コンプライアンスがどうとか言ってくるな。しょうがない、別の方法を考えるか」

血液の成分解析は、イグドラシルの知識と魔法庁の魔法技術をもってしても、底の分からない深淵を覗くように先も見えない状態のため、血液を加工する方法で、吸血鬼の必要とする成分を壊さず、かつ味覚を満足させる研究をして来たのだった。

その夕刻、暮れゆく空の下、精霊の家中にオレンジの光が点り、優しく客を迎える森の中のレストランの様に、暗い森にここだけ温かい明かりが溢れていた。

テーブルにはルキとイフェイオンとチャイブ、それに樹精獣達の分の料理が並んでいる。

ワインとサラダ、清流魚のフリットに、チーズリゾットの珍しキノコのカラッと焼き添え、さらに、最も美味しい状態に熟れた果物を味わう。樹精獣たちは、アルコールは好まないようで、ぶどうジュースを飲んでいたが。さらに、手掴みではなく、肉球で器用にカトラリーを使っていた。

食事も終え日がすっかり落ちると、庭の様な広場に出て、ルキ達がイグドラシルの文化交流会で披露する予定の、樹精獣の舞踊を披露する。

人ではまず無理な速さのバチさばきをするルキの太鼓に、コミカルでアクロバティックな樹精獣たちの踊りを鑑賞するイフェイオンとチャイブ。

やがて演舞が終わると、イフェイオンは感激し、ルキの前に跪く。

「大変すばらしい演奏と、精霊獣様方の舞踊でした、沢山練習されたのですね、全ての調和が見事です。料理も素晴らしいものですし、空気も美味しい。ここには、私を魅了する全てがある、大好きです、ルキ様!」

「ルキを好きなのはイフェ長の勝手ニャス。ルキも誰かを好きになったら、そう言って気持ちを伝えるノシ」

「はい、貴方が好きになる誰かが私となるように、私は努力いたします」

「班長、私もここに住みたいです。毎日、あの可愛い樹精獣様たちの踊りを見たいです。ここを森のコテージ風レストランにして、樹精獣様たちのショーを開催すれば、きっと人気が出ます、料理も美味しいですし、従業員として雇ってほしいです」

強かに酔った二人だが、割と本気で移住を考え始めていた。


竜神王スラジ・ラードーンがイグドラム訪問の翌日に、自分は空中国家ヘスペリデスに行くことが決まった。

兄のロブスタスは、自分の失態と思い顔色を失くしていたが、この件に関しては、関ったのがたまたまロブスタスであっただけで、誰に非があるわけではないと思っていた。

だが、兄は酷く落ち込み、その責任を一身に背負って自害しかねない顔をしていたため、迎賓館から御所へ戻る途中、私は兄に、王族の命は民のためにあるのだから、自分自身であっても勝手に損ねてはならないと釘を刺しておいた。

兄は、私の顔をまじまじと見つめたのち、何かを決意したように、御所とは別の場所に向かって行ってしまった。

やがて、部屋の扉がノックされ、先ほど何処かへ走り去った第二王子である兄のロブスタスが、話があると訪問して来た。

兄の後ろには、王宮騎士特務隊隊長のイセトゥアンがいる。

「アナ、今回の事、本当に済まなかった。父さんやお前はきっと戦争を避けようと、お互いが一番大事なものを犠牲にしようとしている。けれど、父さんはお前を、アナを諦めてはいない。一週間以内に何としてでも、お前を取り戻し、アナから竜神王の手を引かせようとのお考えなのだ」

「ロブ兄様、まさかヘスペリデスに私を助けに来る気でいらっしゃるの?空で、私達エルフに勝ち目はありませんわ。私のせいで誰かが犠牲になることを、私は望んでおりませんわよ?」

「ああ、だから、方法を考えたんだ。お前は反対すると思うが、私にもう一度チャンスを与えて欲しい」

兄より身を退けた。

自身の持つ特殊能力、「害意の把握」にロブスタスが引っ掛かったのだ。

何をする気か問おうとして、意識が途切れた。

再び目を覚ましたのは自室のベッドの上で、竜神王が既にリンドレイアナ姫を伴って、ヘスペリデスに帰還した後だった。

文机の上にロブスタスからの手紙が置かれており、その内容は、イセトゥアンの魔法で、ロブスタス自らが私に成り代わり、ヘスペリデスから一週間以内に脱出してくるとの事。侍女にも事情を話し、協力を取り付けているので、食事や必要な物は侍女に全て用意してもらい、リンドレイアナは部屋から一週間出ないようにとの注意が綴られていた。

本当にそんなことが出来るのかと兄を信じたい気持ちと、兄に何かあったらとの心配で落ち着くことが出来ず、立ったり座ったり、部屋の中をウロウロしたりして、一日を過ごした。

翌日、部屋に王宮騎士特務隊のブロン・サジタリアスとヴィント・トーラスの二人を従えた、ロブスタスの姿をした者がやって来た。

「貴方は誰なのかしら?」

「私はロブスタス殿下より、竜神王をお見送りする際の身代わりとなるよう、イセトゥアン隊長の特殊魔法で、ロブスタス殿下の姿をとっております、特務隊第二班所属、ライフ・スコーピオです」

王宮勤めには、十三貴族の第二子以後のエルフが多い。イセトゥアンの様に特殊な事情で、名家の長男であることを知らずに施設で育ったために、王宮騎士となった者もいるが。

イセトゥアンの場合は、ノディマー姓を名乗るようになってからも、家督は四男が継いで、他の兄弟達も現職を優先している。エルフは合理的に物事を判断するため、必ずしも長子が家督を継がなくてもよく、また、家督を持つ親の生死関係なく、子に家督を譲ることが出来る。さらに、家督継承は男女どちらでも構わないことになっている。

その家で、最もふさわしいエルフが継ぐべきものと捉えられ、往々にしてそのために育てられた長子が、その役を担う事が多いというだけの話だ。

王宮騎士特務隊は、特に特殊魔法の能力が高い十三貴族が揃っている。強力な雷魔法を操る第九領のサジタリアス家、優雅を好み古くから国を支えてきた、風や空気操作魔法の得意な第二領のトーラス家、神秘的な力を持つ者が多い第八領のスコーピオ家の子息達が、第十三領の化け物揃いの一家、イセトゥアン・ノディマーの命で、ロブスタスの作戦に乗って動いていたようだ。

「ライフ、貴方は兄が戻って来るまで、兄の振りをしているの?」

「いえ、ロブスタス殿下は所用で城を離れるということにして、私は今日にも元の姿に戻るつもりです。もともと、隊長がいないとこの魔法は三日しか持たないので、そうなる前に、出立した振りをいたします。その前に、リンドレイアナ殿下に事情の説明をと思い、参上した次第でございます」

「兄が迷惑をかけましたね、この私のためだという事は分かっているのだけれど、本当に兄の思惑通り事が運ぶかどうか、私は心配でなりませんの」

「殿下と隊長たちなら大丈夫ですよ、もし竜神王様に正体がばれても、きっと逃げ帰って来ます」

トーラス家のヴィントが言う。

金色の巻き毛を騎士特有の編み込みにした短い髪ではあるが、鮮やかなブルーの瞳と華のある雰囲気はトーラス家の血縁によく顕れる特徴を有している。

「それに、向こうには心強い協力者がおられます。とにかく、あと今日を含め5日を乗り切りましょう」

こちらは、サジタリアス家の特徴の砂色の髪の短髪で、アイスブルーの瞳が鋭い精悍な顔つきをしており、戦士らしい体格をしている。

騎士一人一人の顔と名前は一致するが、具に観察をしないため多くの騎士は、何となくでしか覚えていなかったが、この特務隊は親友の話題にもよく出てくるため、物語の登場人物のように親しみがあった。

「それでは殿下、我々はこれで失礼致します。ああ、そうでした、苦情はロブスタス殿下が戻った際に、ロブスタス殿下にお願いしますね。私達と隊長は殿下の命に従っているに過ぎませんので」

「ライフ!リンドレイアナ殿下に失礼な事を言うんじゃない」

「そう言うとことだぞ」

ヴィントとブロンに襟首を掴まれ、下げられているのが兄の姿なので複雑だが、ライフは毒を吐くことで、他人との距離をとりたがると、その妹の親友であるサルビア・スコーピオから聞いていた。

あまり関わることはないが、サルビアに似た緋色の髪と、緋色の瞳をした、神経質そうな雰囲気のあるエルフだったと記憶している。

サルビアの話では、ライフはサルビア以上の人見知りのため、早く親友と呼べるような友達か、理解のある彼女を見つけて欲しいものだという事だった。

そんな三人が部屋から退出していくのを見送り、やがて押し寄せるどうしようもない不安から、部屋の隅にブランケットを被って蹲った。

こうして一人になると、自分は途端に王女ではなくなってしまう。

素の自分が、公の顔を蝕む。

こうして、部屋の隅で自分を甘やかすことが出来る時間を作ってくれたのは、ロブスタス兄さんだ。この先何があっても、自分は誰を恨むことなく、王女であり続ける。

リンドレイアナは、ブランケットから顔を出し、ふと、王城でも最も美しいとされる自分の部屋の、巨大な飾り窓に目を向けた。

リンドレイアナは声にならない声を上げ、逃げ場を探すように辺りを見回したが、直ぐに、逃げてどうするのかと思い直した。

この王女の部屋の窓を覗いていたのは、金色の巨大な竜だった。

金色の龍眼が、焦点を合わせるようにこちらを伺っている。だが直ぐに、竜は体を捩って窓から遠ざかった。庭園の上空へと退く竜を、王宮騎士達が攻撃しているのだ。

「いけない!」

リンドレイアナは部屋を飛び出し、城の上方へ続く階段を駆け上った。城の屋上へと飛び出すと、その竜の名を叫んだ。

金色の竜はリンドレイアナに気付くと、城の屋上に飛来した。

「私はここです!城の者を傷つけないでください、貴方と共にヘスペリデスへ参ります!」

竜が手を開き、屋上に差し出す。リンドレイアナがその大きな竜の手のひらへと近づくと竜は、リンドレイアナを掌に乗せて、もう片方の手で、大事な物を包むようにリンドレイアナを隠した。竜がその場を飛び去ろうとしたところで、一度上昇しかけた体は屋上へ引き戻され、身動きが取れなくなった。

見ると全方位にオレンジ色の魔法円が出現し、炎の様な光を纏った紐が、竜の全身を絡め捕っていた。

「アナを放して!!」

上空より屋上に降り立ち、泣き腫らし真っ赤な目をしたサルビアが、今だに涙を流し続けたまま、血を吐くように怒鳴った。

リンドレイアナ姫がヘスペリデスに行くと知らされたのは、その神輿が空に舞い上がるまさにその時だった。サルビアは中庭に駆け付け、神輿と竜人族の一行が空の島に行くのを、我を忘れて飛行魔法で追いかけた。水の中に落ちるように一行が消えていった所から、空間が閉じられて向こう側へ渡れないことに絶望し、以来ずっと泣き続けていたのだ。

「サルビア!」

竜の指の隙間から見下ろすと、屋上に立つサルビアの姿が見えた。

「アナを渡すものか!」

サルビアの魔力量が可視化できるほどに上昇し、魔法円の量が増え続けている。

その指には、自分の髪で作った拘束糸が綾取りのように絡まり、指先から投網を広げるように自在に魔法円を介して竜の体を更に拘束していく。

「サルビア、聞いて!」

「早く放せ!!」

竜神王の両手首を切り落とさんと、拘束が深まるが、竜神王は中にいるリンドレイアナを振り落とさないために、腕を動かせずにいるようだ。

リンドレイアナは竜神王の指の隙間から身を乗り出し、声を限りに叫ぶ。

「サルビア!王宮魔導士サルビア・スコーピオよ!リンドレイアナ・プルニーマ・イグドラムが命ずる、直ちに攻撃を止めて私の話を聞きなさい!」

「アナ・・・・・・リンドレイアナ殿下」

「我が友サルビア、竜神王の拘束を解くのです。これは命令です、それと、お願いでもあるのですよ。サルビア、私はヘスペリデスに行ってみたいと思っていたのよ」

リンドレイアナがサルビアに微笑みかける。

「殿下・・・・・・アナ、行っては嫌ですよ・・・・・・」

サルビアが鼻水を啜りながら訴える。

「また会えるわ」

サルビアが手指に絡まった糸を切ると、魔法円から伸びていた強力な紐が同時に消失した。

王宮の庭から、第一騎士団のグロリオサが王城の壁を駆け上って、竜神王の背後上空へ踊り上がって、大型魔獣討伐用の返しのついた銛のような巨大な槍を投擲する。

「我らが王の御座す城に土足で踏み入れる者は、何人であろうと許しはしない!」

竜の鳴き声が響き、槍が深く刺さった背中から、黄金の血が吹き上がる。

グロリオサは槍についた鎖を、後方の庭にいる王宮騎士達に投げ渡し、これを引かせた。自分自身は屋上に降り立ち、竜の正面へと回り込んだ。

竜の体が浮き上がり、地面へと引き寄せられる。

グロリオサは、長剣を取り出してこれを構える。

リンドレイアナは、竜の指の隙間からその背から伸びる鎖を見て、悲鳴に近い声を上げる。

「サルビア!お願い、この鎖を切って!!」

「リンドレイアナ殿下?」

ここに居ないはずのリンドレイアナの声に、グロリオサが竜の手の中を凝視する。

「グロリオサ団長、少し眠っていてもらいますよ」

サルビアの体から発生した赤い霧がグロリオサを包み、グロリオサはその場に昏倒した。

更にサルビアは手指を忙しなく動かし、竜神王の背に刺さった槍の先の鎖の横に二つのオレンジ色の魔法円を出現させる。魔法円の中から二本の腕が伸びてきて、鎖を掴むとこれを引き千切った。

「行ってください、殿下。必ず戻ると、約束してください!」

「サルビア、ありがとう」

竜は舞い上がり、上空へ向けてひと鳴きした。

サルビアのように魔力量の多い者以外は、この鳴き声で体の自由が奪われ、舞い上がる竜を追うことが出来なかった。

「私達はだいぶ手加減をされていたのですね・・・・・・」

サルビアは屋上から王宮の庭を見下ろして、独り言ちる。イグドラム王宮の厳重な多重防壁を薄氷の様に砕くほどの圧倒的な力を持ちながら、庭に倒れている騎士達には怪我一つないのだ。

まるで誰も傷つけないように、蝶が花に止まるようにやって来て、姫だけを連れて去って行ってしまった。

リンドレイアナは遠くなる友と城を見下ろし、やがてヘスペリデスに続く次元をまたいで、一気に景色が変わるのを目の当たりにした。

ニルヤカナヤの海底の王国や、近隣諸国へ外交で訪れることは多々あったが、このような巨大で荘厳な神殿を今まで見たことがなかった。

リンドレイアナはただの少女に戻って、この光景に胸が躍るような感動を覚えていた。

竜は神殿の最上部に降り立つと、リンドレイアナを手の中からそっと下した。

背中に刺さっていて槍が溶解するように消えていき、体表に白い泡の様な光が浮かび上がって傷を塞いでいく。やがて、傷がすっかり塞がると、巨大な金色の竜から、人の姿に変化していった。

リンドレイアナは褐色の肌に赤い衣を纏ったスラジ王に、優雅に一礼をする。

「お久しぶりです、竜神王様。貴方はニルヤカナヤから戻る私達の船が、魔物だまりの渦に遭遇した時に助けてくれた、あの時の竜神様だったのですね」

「手荒な真似をして済まなかったな」

「いえ、元はと言えば、兄が私に成り替わっていたのでございますから。ところで、兄達はいま何処に居るのでしょうか」

「おそらく浮島群の何処かにいるとは思うが、逃げるのを追わなかったのだ」

「そうなのですね。では、今も何処かに元気に逃げ回っていることでしょう。父との約束で、五日後にイグドラム国に戻る際に、兄達は戻してやってくれませんか?」

「ああ、見付けられたらそうしよう。がだ、あの者達の中には、自力でも次元を超えられる者が少なとも二人はおったぞ」

「兄のロブスタスと王宮騎士のイセトゥアン隊長と、他に誰がいたのでしょうか?」

「恐らく、悪魔と思しき騎士と、魔王の様な侍女だ」

リンドレイアナは首を傾げる。

「イグドラム国にいる悪魔と言えば、イグドラシルの第一司書様をお守りする護衛の悪魔殿がおりますわ、けれど魔王のような侍女に私は心当たりがございません」

「ソウと呼ばれておった」

「ソウですか?やはり私の侍女ではございませんね。ただ、イグドラシルの第一司書様は、確かに魔王と間違えられてもおかしくない、エルフを超越した存在ではありますが。彼は、惑星の巫覡ですので、私の様な一国の第三子に拘うお方ではございませんわ」

「そうか」とスラジは目を細めた。

「其方と話がしたかったのだ。五日でよい、いや、五日もないかもしれないが、最期を其方と過ごしたかったのだ」

「最期とは、どういう事ですの?」

スラジは、リンドレイアナに手を差し出す。リンドレイアナがその手をとると、一段高くなった展望台へと導き、眼下に広がる神域の果てを指した。

「黒い森が広がっているのが分かるだろう」

「はい、神殿の端から向こうは黒い森ですわね」

「あの森こそがヘスペリデスだ。神より賜りし神樹が黄金の実を付ける神の庭。だが、魔族の持ち込んだ邪神の武器により、神樹の一柱が枯れ落ち、もう一柱が辛うじて邪気による汚染のパンデミックを抑えている。既に神域の竜人族と、ニンフたちが感染し、余が彼らの時間を止めているのだ」

リンドレイアナは、イグドラムへやって来た生気のない竜人族を思い出した。

「この神域にある大切な二つで一つの神樹の一柱を枯らし、臣民に魔の手が及んでしまった。余が駆け付けたときひと柱は既に手の施しようがなく、もう片方を何とか別の場所に隠している間、すでに邪神の武器を持った魔族の手先と思われる者は姿を消し、汚染だけが残された。何故神樹を狙ったのか、犯人が誰なのかいまだ不明だが、ここに置いていては太陽の石もいずれ魔族側の手に渡る恐れから、聖なる世界樹を守るエルフの国ならばと太陽の石を託したのだ」

「私達は、貴方のご期待に沿えなかったのですね」

「いや、どうであろうな。其方の父はかなりの策謀家であり、余は其方の兄に、王宮で石を留め置かぬよう、展示して国民に知らしめるように言いおいた。それは、イグドラシルの介入を望んでのことだ。世界樹はあらゆる文明を守護する。文明は人や暮らしがあってのもの、それをただ破壊する魔族がこの惑星を席巻する事態を、世界樹は妨害するだろうという予想をもって、そう指示したのだ」

「では、太陽の石が魔族に盗まれたというのは、事実ではないとお考えなのですね」

「そうだ。イグドラム国王の覚悟は、其方を失うかもしれないという事だけに向いているようだった。もし太陽の石が本当に魔族の手に渡ったのであれば、王城の様相は一変していたはずだ。余が飛来した際、魔族の襲撃に備えていたのであれば、対魔用の重火器が火を吹いてもおかしくなかったはずである」

リンドレイアナは、尊敬を持ってスラジ王の金色に閃く瞳を見つめた。

この思慮深い竜神王が、最期という事態とは何を指すのか、リンドレイアナは重たい気持ちでその答えを問う。

「もう余と神樹には、邪気を封じる力が残っておらん。この神竜浮島群を守るためにも余の心臓を用いて、神樹に後を託すより他ない」

「そんな・・・・・・」

スラジは今にも泣きだしそうなリンドレイアナの顔をみて、ぎょっとした。

「せっかくお会いできたのに・・・・・・あの時より、私にとっての光とは、貴方だったのでございます」

「リンドレイアナ姫」

「私は絶望の中を、暗雲を切り裂いて降臨したあの強くて優しい竜が、あの圧倒的な光が忘れられませんでした。まるで奇跡の様に、私の呼びかけに応じ、押し寄せる何千何万もの魔物を切り裂いて、船上にある、我が国の者達を救ってくれました。願わくば、恩返しがしたいのです。スラジ王をお助けすることは出来ないのでしょうか?」

スラジは、握ったままだったリンドレイアナの手を、両手で包んだ。

そして、思い出したように笑う。

「其方の兄とともに来た侍女が、其方に触れるのは、其方が許可し、さらに三度確認した後に、手指にのみ触れることを許すと申しておったのを思い出した」

「まあ」

「勝手に触れて済まぬ」

「ここへ上がるために、手を引いてくださったのです、構いませんわ」

「その後も、名残惜しくてずっと触れていた」

「スラジ王は、私の事が好きなのですね」とリンドレイアナは冗談めかして微笑む。

「そうだ」

「え?」

「つまらぬことを言った。其方をここへ呼んだのは、其方に頼みがあるからなのだ。この神域の奥に残る神樹の一柱に、余の心臓を捧げることで、余は理性無き邪竜となるだろう。災いと化した余が、浮島群を破壊して回らぬよう、其方には余をうち滅ぼすものを、「王家の書」で召喚してほしいのだ」

「スラジ王」

「それと、この神竜浮島群の次なる王を早急に決め、帝国の侵略を退けるよう、民に言伝を預かってくれぬか。何千年と竜神が王を務めてきたが、それも余の代で叶わなくなった。ニンフは気まぐれで、自由を阻害する要因には恐ろしく攻撃的であるから、次期王は竜人族から選ぶとよいだろう。竜人は己の痛みより、多くの痛みを嫌う、類稀なる福祉の精神を持った民だ、きっとエルフの良い隣人となるであろう」

「スラジ王」

リンドレイアナの両目から涙が落ちる。

「すまぬな、貴女を巻き込んでしまうことを許してくれ。あの荒れ狂う海の上で、その船首に立ち、自分の命を差し出して家臣を助けよと言う、あの凛とした声が、あの王族としての佇まいが、まだ若いエルフがどうしてここまでの覚悟が持てるのかと、尊敬に近い感動を覚え、ずっと忘れられなかったのだ」

「私も、私もずっとあの竜を想っていました。『王家の書』は起死回生の一手、王族が直面した危機を打開する『何か』を呼び出すことが出来る、王家の至宝。ただ、その場に何が呼び出されるのかは、王家の書を使用した者にも分からないのです。あの時、スラジ王が私の呼びかけに応えてくれたのは、この先の未来を、ともに生きる切っ掛けであったのだと、私はそう信じたいのです」

スラジは恐る恐るリンドレイアナの涙を拭う。

その慣れないが優しい手つきに、リンドレイアナは微笑んだ。

「涙を堪えるのは得意なのですよ。感情を抑え、微笑むことも王家の仕事なのですから。でも、今は泣かせてください」

「ああ、余のために泣いてくれているのだと思うと辛いが、余は其方の隣にこうしていられることが、何よりも嬉しい」

隣り合う姫と同じ方を向いて見る、彼方まで続く浮島群を、これほど美しいと感じたことはないとスラジは思った。


「ソゴゥどうした?眉間に皴が寄っているぞ」

「いまさらだけど、男四人でリゾートホテルはキツイ。チェックインの時に、クソカップルに煽られた気がする・・・・・・ちょっと戻って野郎の方を埋めて来るわ」

「引き返すなバカ、いちいち相手にするな」

「普通にしていてくれれば『お幸せに』って思うよ、俺だって。ただ、なんでわざわざこちらに憐憫の視線を送って来るの?そんなことする必要ある?コロス」

「気持ちはわかるが、落ち着けって」

「あの竜人族の女性は、そこのイセトゥアンに目が釘付けで、むしろ男の方は嫉妬心を剝き出しにして、こちらを睨んでいたようだぞ」

「なら、お前を埋める」

余計な事をとばかりに、イセトゥアンはロブスタスに目を向けた。

「殿下を睨むなアホ、そろそろ病院で見てもらった方がいいよ。身体から変なものが放出されているんだよきっと」

「何も出ていません、ソゴゥお前だって、お前が通った後の空気を手でかき集めるようにして頭や体に浴びたり、通り掛かると拝まれたりしているが、気付いているか?」

「イグドラシル内に限ってだろ、それはモテとは違う。イグドラシルの試験に好成績で入った人のご利益にあやかろうとしているだけだ」

ロブスタスはイグドラシルの試験とは関係ないと思ったが、口を出すことは控えた。

「この部屋ではないか」

フロントから部屋へ向かっていた四人は、ヨルの指す部屋の前で止まった。

「ああ、この部屋だ」

ソゴゥはフロントで受け取った円柱形の水晶を、部屋の表札の横にある窪みに嵌める。

水晶が光ると、壁を塞いでいた布が、ニュッと上方へ捲れ上がって、部屋への入口が開いた。

「想定外の開き方だな」

フロントで聞いた水晶の使い方を実践し、ソゴゥは皆が入室すると水晶を抜き取って、部屋に入り室内の水晶ホルダーに嵌めて、布を下げて壁を塞いだ。

足を踏み入れて先ず飛び込んできたのは、奥の壁一面の窓から迫るように広がっている大自然の風景だ。

「これは素晴らしい」

贅沢には慣れているだろうロブスタスが、感嘆の声を上げる。

パオのような円形の室内には、入り口右手に荷物を置けるチェストとクローゼット、反対側に洗面化粧台やトイレがあり、部屋の中へ進むと幅二メートル以上ある膝の高さほどのワフワした白いマットレスのようなものが、壁に沿って部屋を一周している。

入口から中央まで真っ直ぐ通路があり、中央の空いた部分に、円形のテーブルが一つある。

「珍しい素材だ」とロブスタスが、マットレスの感触を確かめる。

「寝るには丁度いい硬さだぞ」とイセトゥアンが雲のようなフワフワに倒れ込む。

荷物を置いて部屋の奥にやって来たソゴゥも、嬉々としてフワフワの上に飛び乗り、ゴロゴロと転がる。

「布団はないのかな」

ヨルが、フワフワを千切って持ち上げる。

「これが、掛け布団も兼ねておるのではないか?丸めれば枕にもなる」

「なるほど、すごいね!イセ兄が飛び跳ねても、振動がこっちに伝わってこないし、大勢で寝ても、誰かの寝返りに煩わされずに済む。すごいソファーベッドだ。しかも広いから、各々好きなところで眠れる」

ドーナツのような形状のマットレスは入り口部分が齧られたように開いている以外、窓の前も壁も塞いでいる。

イセトゥアンがトランポリンの様にフワフワの上を飛び跳ねているのを横目に、ロブスタスはフワフワに優雅に腰掛け、中央のテーブルにあるポットで、中の水をお湯にする魔法石に魔力を送った。

「この広さなら、十人以上で泊っても余裕だな。誰か一人くらい鼾が五月蠅くても、何とかなりそうだ」

「ソゴゥはいつも死んだように寝ている。たまに、生きているか心配になるほどである」

「お前たち、同じ部屋なんだっけ」

「同じ部屋っていっても、ドアがないだけで、別々の部屋のようなもんだよ。イグドラシルは広いからね、俺の部屋は天上も二階分くらいの高さがあるよ。ヨルは、俺の所から見えない、高い場所の壁穴が入口になった基地のような部屋を使っているんだよ。俺からは、ヨルが起きているのか寝ているのか分からないけど、夜中に羽の音がバサバサって聞こえてビびっくりする事がある。ヨル、アレって、魘されているの?」

「それはすまぬ。我は夢を見ないはずなのであるが、この体は眠ることもできるし、眠れば夢を見ることもある。偶に、自分の羽音に驚いて目を覚ますのだ」

「翼を出して寝ているのか?寝辛いだろ?」

「眠っていると、本性に近い状態に戻るのだ。それに、横向きに寝るので問題ない」

「それで、勝手に羽が動いて、自分でびっくりして起きるんだ?」

「そうである」

プフッとソゴゥが吹き出す。

「さあ皆、私が入れたお茶を飲みなさい」

「殿下自らありがとうございます」とソゴゥがフワフワの上を中央に移動して、ロブスタスの前に座る。

「一番いい部屋にしてよかったな」

イセトゥアンも中央のテーブルの前に座り、ヨルも続く。

ロブスタスは色々と気掛かりな事があるが、こうして友人と出かけるようなことが今までになく、ロブスタスもまた浮かれていた。

「一服したら、首枷を破壊するため、どこか無人島に行ってこようと思うけども、イセ兄と殿下はどうされますか?」

「俺も付いて行くよ、せっかくだから色々と見て回りたい」

「私も行こう」

「わかりました」

ロブスタスの入れたお茶を飲み終わると、ソゴゥは首枷と練り宝石を入れたリュックを持って、部屋を出た。

駐竜場から飛行竜を出して練り宝石を与え、爆弾処理に適した島を探す。

浮島群の下の方には小さな島が多く、ソゴゥ達はその小さい島の一つ、人工的な建物のない見通しの良い草原の島を見つけてそこへ降り立った。

ソゴゥが草原の真ん中で首枷を空中に放り投げ、イセトゥアンが攻撃魔法をそれに当てた直後に、ヨルが防護魔法で覆い、爆発の衝撃を抑える。

ヨルが衝撃を抑えるまでもなく、爆発は小規模なものだった。

「爆発はこの程度か」

「太陽の石を爆弾にする技術は、魔族だけではなくランカ島にもあることが証明されたね」

「神竜浮島群での太陽の石の扱いは、今後それほど危惧する必要はないようだが、別の浮島群に鉱脈が存在しているとなると、やはり安心はできなッ、グエッ!」

ロブスタスが急に吹き飛んで転がり、ソゴゥは何事かと周囲を見回した。

イセトゥアンがロブスタスを助け起こしているところへ、さらに、先ほどロブスタスを突き飛ばした元凶が突進してくる。

「何だこいつ、山羊か?」

イセトゥアンの防護魔法を突き破って、山羊がそのままイセトゥアンへとぶつかる。

イセトゥアンは山羊の角を捕まえ、横へとなぎ倒した。

「こいつ、魔法をすり抜けるぞ!」

「囲まれているようだな」

ロブスタスはわき腹を抑えながら、何とか立ち上がった。

「ヨル、怪我させたら駄目だぞ、彼らの縄張りに侵入したのは俺たちの方だ」

「了解した」

次々と突進してくる山羊を、四人でちぎっては投げを繰り返す。

「催眠も、拘束もきかぬ、ならば」とロブスタスが地面を泥濘に変えて、山羊の足場を悪くするが、戦車の様に猛烈と足を掻いて前進してくる。

結果、泥だらけの山羊に体当たりを喰らわされ続け、全員泥まみれになった。

「山羊に似た魔獣だなこれ」

ソゴゥはヨルが角を押さえて膠着している山羊の背後に回り込み、その毛質を確かめる。

「毛は滑らかだけど、魔法はきかないし、角は痛いし、やたら突進してくるし、こんな山羊からは安心して山羊毛が取れない、毛刈りが命がけすぎる」

「見た目は完全に山羊だが、イセトゥアンが言うようにまるで魔獣だな」

「首枷を爆発させます、上空に注意してください」

ソゴゥは言うなり首輪を全て山羊の上空に投げ、魔法を当てて爆発させた。

山羊が物音に驚き動きを止めている間に、飛行竜の元まで自分と三人を瞬間移動させ、この山羊の島をなんとか離脱した。

泥だらけでホテルに戻ると、フロントにいたスタッフに、部屋には戻らずそのまま風呂へ行くことを勧められた。

大浴場では館内着を借りられるため、泥だらけの服を脱いで風呂に入り、館内着に着替えて、汚れた服は施設のクリーニングサービスへ出すといいとのことだ。

「確かに、この泥まみれで廊下や部屋を歩いたら迷惑だな」

「そうだね」

「どこで燥いできたのかと尋ねられた」

「テンション上がりまくりの観光客と思われたんだね」

「あながち間違いではない」

周囲からのクスクス笑いに、男四人は若干うつむき加減で、宿泊施設から渡り廊下を通り大浴場に向かった。

「おや、お客さんたち真っ黒じゃないですか。何処へ行ってらしたんですか?」

館内着のサイズを聞いて渡している係りの竜人が、四人の様子を見て尋ねる。

「なんか、山羊みたいなのがいっぱいいる島です」

ソゴゥが答える。

「え?冒険者施設で、夜擬避け貰わなかったんですか?」

「は?山羊避け?」

「え?まさか、夜擬避け無しで島に降りたんですか?よく無事でしたね。あそこは、ランカ島から逃げて来た方たちの避難所なんですよ。ランカ島からの追っ手が来た際に、ああいった夜擬だらけの浮島に逃げ込むんです。夜擬は、夜擬避けのない侵入者に突進し続けてきます。昼間はまだその姿が見えるので、避けることが出来るかもしれませんが、夜になると、夜擬は姿が見えなくなるので、避けることも難しくなり、夜擬避けが無ければ、とても島にはいられないのです」

「なるほど、山羊避けのないランカ島からの追っ手は、ランカ島の人を捕まえるのを、諦めざるをえなくなるのですね」

ソゴゥ達はそれぞれに感心の声を上げる。

「数ある夜擬島は全て、警邏が巡回していますので、そこにランカ島の避難民を見つけた際は、安全な場所へ送り届けるんです」

「あの山羊は、避難所の護衛役だったのか」

ロブスタスが、突進された脇腹を擦りながら言う。

「毛織物も大人気ですよ」

「もしかして、その毛織物も夜になると見えなくなったりするのか?」

イセトゥアンの問いに、竜人の男が笑いながら首を振る。

「アハハ、夜になって夜擬の姿が見えなくなるのは、夜擬本体の魔法特性で、その体毛の性質には関係ないんですよ」

「イセ兄、残念だったね」

「気を落とすな、世の中には探せばお前の望む何かがまだあるかもしれないのである」

ソゴゥとヨルがイセトゥアンの肩を叩く。

「いや、違うよ?違うからな?そう言うエロ目線で尋ねたわけじゃないからな?山羊毛の服だけが、夜になると見えなくなって、服の中の体が透けるとかを想像したんじゃないからな?俺は、山羊毛を身に纏うと、背景と同化して透明人間みたいになれるんじゃないかと思ったんだよ」

「透明人間になってどうするつもりなのだ、イセトゥアン隊長。まさか、女子風呂に突入する気ではあるまい?」

「殿下、いや、ロブスタスまで!違いますから!」

竜人の男が、笑いながら館内着を渡してくれる。

四人は館内着の入った手提げ袋を受け取ると、男子湯のゲートをくぐった。

脱衣所にあるロッカーで服や部屋のカギの入ったリュックなどを入れ、海パンのような入浴着だけを身に着けて、浴室へと向かう。

人が近づくと捲り上がるドアの向こうに、部屋にあったソファーベッドのような白いフワフワが一面敷き詰められている。湿っていても足が滑ることがない上に、転んだとしても絶対に痛くないだろう優しい床で、竜人の三助が、老竜人の背中を流したり、湯船の段差で転ばないように手助けをしているのが目立つ。

広い空間に、リムストーンプールのように堤防状に重なる湯船がいくつもあり、大きな湯船には、小さな子供やお年寄りの安全に配慮したスロープが備え付けらえている。

「なんというか、竜神族の福祉精神というか、安全への意識の高さは我が国も大いに見習うべきところがあるな」

「竜人はもっと荒々しくて、ワイルドな性質をしているかと思っていましたけれど、他人を思いやる気持ちがとても高くて、気配りが行き届いていますね」

「取り敢えず、これからは自由行動ね」と、ソゴゥは個室になった洗い場に一人向かって行って、早速泥を落とす。個室では、海パンを脱いでもよく、公共の場ではまた着用が必要になっている。そこがちょっと面倒だと思ったが、どうやら、この浴室の奥に絶叫系温泉があり、そのための装備でもあるようだった。

ソゴゥはまず、一人一つを占領できる棚田のような温泉の上方で、人が周囲にいない場所に行き、その一つに足をつけてみた。

思いのほかトロみがすごい。葛湯くらいのトロみがある。

思い切って全身をつけると、空気が浮かび上がって水面にドームができ、ボコボコと音を発てて破裂した。

湯加減は丁度良く、じんわりと手先、足先に魔力が伝わる。

魔力回復系の温泉のようだ。

肩まで浸かって、ほっと息を吐く。

ロブスタス殿下がいくら世間知らずでも、イグドラムにも大浴場はあるから大丈夫だろう。

目を閉じ、ゆったりとした時間を過ごす。

汚れも落ち、気分もリフレッシュ出来たところで、ソゴゥは次に絶叫系温泉がある、外の露天風呂へと向かった。

建物の外へ出ると、目の前の透き通った湯船が空に繋がっているように、インフィニティプールのようになっている。

湯船の端まで行くと、その先は足が竦むような数百メートルの切り立った崖で、眼下にはカルデラのような円形に窪んだ大地を覆う森林地帯が一望できる。

「ワーッ、すごい!チョーいい眺め!」

ソゴゥは高い声に、驚いて振り返る。

どうやら露天風呂は男女共用のようで、いつの間にか、周囲は女子に囲まれていた。

プールの様に彼女たちの装備はしっかりしているが、迫って来られると、なんとも気まずい。ソゴゥは今だ思春期のような感性のため、他人から見られる自分が、女子を目の前に鼻の下を伸ばしているなどと思われたくないので、そそくさとその場を後にする。

まだ奥に浴場が続いていて、岩が林立した通路の先に、高い岩に囲まれた湯船を見つけた。

「あ、殿下、じゃなかった、ロブスタス、この温泉にはもう入ったんですか?」

「いや、これから入ろうと思っていたところだ」

目の前の岩の中の温泉は、湯が赤色をしており、更にカモのような形の、小さくて赤い鳥が何羽も浮かんでいる。

そして何故かこの温泉に浸かっている者達は一様に、何かを我慢しているような顔をしている。

ソゴゥは水面の鳥が、時折水の中に潜っていくのを見て、人間の垢を啄むドクターフィッシュならぬ、ドクターダック的な何かなのだろうかと思った。

ロブスタスが温泉に浸かっている竜人に、この温泉はどんな効能があるのかを尋ねた。

「この温泉は、赤藻が身体に纏わりついて、体の悪い所を直してくれるんですよ。竜人なら羽ダニを除去してくれますし、皮膚病にも効果があると言われています」

ソゴゥは湯船を覗き込み、岩肌にびっしりと生えた赤い藻を見た。この藻のせいで、温泉が赤色に見えているのだ。さらに藻は、入浴者の体に、糸のような繊毛を出して撫でている。それで、皆、くすぐったいのを我慢していたのだと分かった。

「ソゴゥ、ロブスタス、ここに居たのか。もう絶叫温泉に入った?」

イセトゥアンとヨルが合流する。

「ここは絶叫って言うより、くすぐったいのを我慢する温泉みたいだよ」

「この温泉は、あのアカモという鳥が、身体に纏わりついて、体の悪いとことを直しくれるらしいぞ」

「え?」

ソゴゥはロブスタスが指す、赤い鳥を見る。

「へえ、そうなんですか、あの鳥が」

納得するイセトゥアン。

ソゴゥはヨルに「赤藻って、岩に生えている藻のことなんだけどね」とこっそり意思で知らせておく。

四人はこの赤い温泉に入り、やがてロブスタスとイセトゥアンが「アカモ」は鳥ではなく、岩に生えた赤い藻のことだと気づき「藻だった」「藻ですね」と囁くのを、ソゴゥは藻のくすぐったさが分からないくらい、必死に笑いを堪えていた。

赤藻温泉を出ると、更に岩の通路の奥にまっ平らな場所があり、まん丸の温泉がいくつもある場所に出た。ここでは竜人のスタッフが仕切っていて、入浴客は順番に並んで、指示に従っていた。

「なんか、湯船に浸かった客が消えているんだけど」

「おう、どうゆう事だ?」

ソゴゥとイセトゥアンが不安げに、前の客を見て言う。

「悲鳴も聞こえるが、いったい何処からだ?」

ロブスタスも、若干青い顔をしている。

ヨルは何かを察した様子で「ああ」と呟いたきりだ。

ソゴゥ達は、四人同じグループと告げると、同じ湯船に入るよう案内されて、恐る恐る透明度のやたら高い湯船に浸かる。水面に足を付けると、押し返すような反発を一瞬感じ、次の瞬間には逆に引き込まれ、気が付くと一気に体が全て水の中に入り、更に底の方に引き込まれて行った。

足元を見ると、そもそも底が存在していないようで、藻掻く間もなく、底の穴から空中へと貫通して放り出された。

水から出た瞬間、ヨルを除く悲鳴が響き、十メートル近く落下して、透明なゲル状のクッションに突き刺さった。

ソゴゥ達はしばらく放心し、やがて自分たちが落ちてきた上方を見上げた。

「いや、温泉っていうか、紐なしバンジーじゃん」

ソゴゥはいち早く、巨大なゼリーの中から脱したヨルに続き、手を掻くだけで、あっさりと浮上できる透明なゼリーから脱して、白いフワフワの地面に転がり出た。

「俺、キャーって言ってた?」

「いや、それは私だな、イセトゥアンは狼の遠吠えのような声を上げていたぞ」

イセトゥアンとロブスタスも抜け出してきて、ソゴゥとヨルに続いて上の階に戻る浮遊石に乗った。浮遊石の上で、ソゴゥはロブスタスの悲鳴がツボり、またしても笑いを堪え、小刻みに震えているのをヨルに心配された。

その後、魔力量で色が変わる温泉や、塩の結晶が浮かぶ幻想的な温泉を巡って、四人は大浴場を堪能すると部屋へと戻ったのだった。


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