異世界ですが、救急車はある。
切実に転生特典が欲しい。
押し入れに閉じこもり、泣き叫ぶ弟の口をふさぐ左手は噛まれてぼろぼろだ。まだ3歳の弟が母を求めて泣くが、男と一緒にいる母は押し入れから出ると怒るし、相手の男次第では殴られてしまう。
右手でしっかりと弟を抱き込み、眠りに落ちるのを待つ。かわいそうだとは思うけど、転生記憶があるだけの5歳児の身体では大人と争えない。
まっとうな大人でも近くにいればいいのだけれど、安アパート住人は誰もが自分のことで精一杯のその日暮らしだ。幼い子が泣いているからと手を差し伸べる余裕はない。
赤子や子どもの声を不快に思うよな人ばかりで、助けを求めるより近づかないことで自衛しなくてはいけない住人が多かった。
そんな余裕のない人ばかりが集まるボロアパートの住人に、近所の人たちは関わりたがらない。逆だったらシャーリーだって関わりたくなかった。
残念ながら当事者で、もはや詰んでいるこの家には外部からの助けを必要としている。このままなんの助けもなければ、姉弟のどちらかか両方が死にそうだと嬉しくない予想がちらつく。
転生チートとまではいわないから、もうちょっと暮らしやすい家に生まれたかった。大学生になり、奨学金なしで1人暮らしできるような家で生まれ育った前世が、今世の家のありようを嘆く。
今世よりいい家を、家族を知っているせいで弟のように母を求められない。
あなたが頑張っているのは知っているし、父である旦那がいなくなるまでは拙いながらも我が子を大事にしていた。
愛されていた記憶が全くないわけではないけれど、今のあなたは母てあることより女であることを優先している。
駆け落ちして一緒になった相手に出て行かれ、母の幸せは終わったのだろう。
貧困と寂しさから男を求める母。それを前世の記憶は仕方ないで終わらせる。子育ては大変だし、こっちの世界の成人が15歳で早いとはいえ、20代前半で子どもを2人も抱え、女1人では生活が成り立たない。
世界が変わったとしても、貧困からのよくある不幸だ。めずらしくもない。
けれど、今世を生きるシャーリーは大変だね。で、終わらせてはあげられない。
お腹すいたし、眠いし、お風呂にも入りたかった。穴のあいた服なんて嫌だし、暴れる弟の世話なんてしたくない。けれど、ほっとけなくて、一緒に押し入れに閉じこもる事でしか守れなかった。
大きな音がして目が覚める。いつの間にか寝てしまっていたらしい。いつも感じている重みがなくて手を伸ばすが、暖かな温もりはなかった。
弟の姿がない。姿がないとわかるだけ明るいのが異常だ。いつもと違う。押し入れのドアが少し開いており、光が差し込んできている。
慌ててドアを開けると部屋の照明をまぶしく感じた。
眩しさにすがめた目に飛び込んできたのは倒れて動かない弟の姿で、母はベッドからシャーリーを睨みつけてくる。
動かない母の代わりに男が立ち上がって近寄ってくるから、引きずりながら弟を抱き寄せて玄関に向かう。
「昼まで帰ってこないで」
玄関を飛び出るシャーリーの背に母がかけた言葉に返事なんてしなかった。
どこの家も寝静まっているような時間に家を出た3歳児と5歳児に昼まで帰ってくるななんて、正気を疑いたくなる。けれど、今はそれよりも、意識を取り戻さないまま青白い顔をしている弟だ。
呼吸はしているけれど、口から血が出ているし、意識がない。寝てるだけならいいけど、シャーリーが目覚める時に聞いた音はおそらく弟が床にぶつかる音だ。
このまま起きるのを待っていれば、ちゃんと目覚めてくれるだろうか。寝ているだけにしては顔色も悪いし、血の色が不安をあおる。
不安に押しつぶされそうになりながら歩いていると、明かりのついている家を見つけた。シャーリーは灯に向かって突進する。
勝手に門扉を開け、カーテンの隙間からこぼれる光に弟を当てた。気のせいではなく顔色がおかしい。弟を横にして、シャーリーは窓ガラスを叩く。
気づいてくれるまで何度何度も繰り返していると、カーテンが開いた。窓の向こうに男がいて、見下ろしてくる。
その視線に怯えながらも叫ぶ。
「助けて!」
もう起きている人の少ない時間だ。明かりのついた家なんてほかに見ていない。嫌そうに窓を開けた男に再び叫ぶ。
「お願い、救急車呼んで」
男は通信端末を取り出して、どこかへ連絡してくれる。男に問われるまま名前と年齢を答え、しばらくすると救急車が来た。
弟と知らない男の人と一緒に救急車に乗せられ、いろいろ質問されるけど答えられることはあんまりない。
どこ殴られたかなんて見てないし、倒れる時にどこをぶつけたがなんて見ていなかった。シャーリーにわかるのは弟が倒れてから動かないことだけだ。
病院に到着すると、待合室に案内される。病院の人と知らない男が少し離れた所で何か話しており、男は苛立ち声を荒げた。
「だから、払うと言っているだろ」
男はサイフから金貨を出た。
この世界、救急車はあるけど皆保険制度なんてない。医者にかかるにはお金がかかる。パニックって前世の記憶頼りにやらかした。
お金なんて持っていない。
1人になった男の側に歩みよる。
「ごめんなさい。お金持ってません」
「そんなの見ればわかる。裸足でやってきた姉弟に金があると思うヤツはいない」
それはそうですね。
うつむいたシャーリーに男の手が頭に置かれる。
「いいか。これから警察が来る。警察がきたら、君の弟のケガに私が無関係である事をしっかりと主張しろ。加害者にされたくないからな。君は弟の治療費の為に正しい情報を伝えなさい」
そんなことでは治療費には全く足りない。だからこそ、そのくらいはちゃんとしよう。
警察がきたら、一生懸命伝える。弟が倒れたのは家の中で、ここにいるのは善意で病院に連れてきてくれた人だ。
そんな話をしている間に弟の入院が決まり、警察官に家まで送ると言われて拒否する。
「家に帰らないなら、1人で知らない場所に泊まることになるよ」
何度も確認されたが、家に帰るのは嫌だと突っぱね続けたら保護施設に連れて行ってくれた。
ベッドだけでいっぱいになるような狭い部屋は押し入れよりずっと広い。静かな部屋で横になるとシャーリーは眠りに落ちた。
3日、その保護施設と呼ばれる施設にいて、母の兄と名乗る人に連れ出される。三十路前後の男で、優しくて笑っている人じゃなくて、作り物の笑みで笑っていることに慣れていそうな人だ。
淡い金髪も紫の瞳も赤い髪に緑の瞳の母とは似ていない。最近では怒るばかりで笑わない母とは共通点を見出せなかった。
それでも、伯父というなら伯父なのだろう。
「君はこれから私の家に住むことになる」
「弟は?」
「入院中だ」
「救急車を呼んでくれた人がお金を出してくれたんですが」
どうなったのだろうか。お礼も言えていない。
「すでに金は返している。心配いらない。それにしてもよく救急車を呼んでくれる相手を見つけたな」
「家に灯りがついてるのがそこしかなかったの」
「そうか」
車の後部座席に並んで座り、ぽつりぽつりと話すが会話は弾まなかった。