【23】 帰国
主従三人は夕方帰国し、彼らに変装していた影と入れ替わった。
影の扮装は見事で、浮船にすこし怪しまれてはいたが、バレてはいなかった。
夕餉の席で、政信は小姓二人以外全ての者を遠ざけ、影の頭領を呼び出した。
「留守中、変わったことは?」
「以前殿が捕まえられた通り魔を、覚えてらっしゃいますか?」
「あぁ、あれか? 良鷹、覚えてるか?」
「はい。殿と初めてお会いしたときに。」
通り魔に立ち向かった小太郎を政信が助太刀した縁で、今の主従関係に発展した。
二人の良い思い出になりつつあった。
「で、それがどうかしたのか?」
「脱獄したと知らせがありました。」
この意外な知らせに政信は驚いた。もちろん小太郎も。
「なに!? 即刻打ち首じゃなかったのか?」
「はい。どうやら役人が業務を怠っており、取り調べもせず投獄していたようでございます。」
政信は呆れかえった様子で溜息をついた後、すぐに命を下した。
「その役人の名を調べてくれ。事の次第で処分する。」
「はっ。」
「それで、通り魔はどうやって逃げた? 今はどうしてる?」
「食事用に使っていた箸で牢屋番の脛を突き刺し、怯んだすきに逃げたそうでございます。」
「それで?」
「大刀を門番から奪った後、町で衣服を奪い、女を探して徘徊しているとの情報が入りました。」
「…女?」
「はい。武家の女が斬りたいと、うわごとを言っている姿が目撃されております。」
小太郎は主と影のやり取りから、母と姉の身を案じた。
家には、政信がつかわした屈強な男が見張りに立ってくれている。
若い腕っ節に自信のある下男もいる。
しかし、あの日通り魔に姉の絢女は顔を見られている。
脱獄者はいまだにあの日の無念を覚えていて、絢女を斬りたいと言っている可能性も捨てきれなかった。
胸騒ぎがする小太郎は、箸を止め主の動向をうかがった。
「…どうだ? すぐ捕まりそうか?」
「獄中と違い、普通の身なりをしておりますのでなかなか厄介かと。」
「そうだ、手掛かりの人相書きは?」
「これまた役人の不手際で覚えておらんと。」
この報告に、政信は眉間に皺をよせ不快感を露わにした。
「その役人、問答無用で即刻首だ!」
「はっ。」
茶を飲み、少し気を落ち着かせると、政信は新たな策をすでに考えていた。
「…俺はあまり奴の顔を覚えてない。良鷹は?」
「大体は覚えています。身内を狙われたので。」
小太郎の不安はますます大きくなった。
留守中に一家惨殺などという悲劇はあってはならない。
早く、一刻も早くと父の帰宅を願った。
一方、小太郎の言葉を聞くや否や政信は影に命を下した。
「至急人相書きができる者を遣わしてくれ。良鷹に聞いて書いてもらう。」
「はっ。」
影は去り部屋には主従三人だけになった。
あまりに暗い小太郎を主と先輩は心配していた。
「良鷹、心配するな。すぐに捕まえさせる。お前の叔母上もあの娘も怪我一つさせないから。」
「はい…。」
「そうだ、殿の言う通りだ。さぁ、夕餉が冷める。食べるぞ。」
「はい…。」
食事を終え、いまだ晴れない気持で小姓部屋に戻る途中、女中から声がかけられた。
「瀬川さま、文にございます。」
「あ、御苦労さま。」
そう言って手渡された物は、母からの文だった。
部屋で読もうと、明りをつけ中を見渡すと机の上に同じようなものが四つも乗っていた。
全部で五通、すべて母からの文。
ひとまず、一番古い物から順に読んでいった。
『…休みは何してるの?』
『一度帰宅を…』
『絢女は心配なく…』
『家中心配しております…』
四通の文には皆同じようなことが、書き連ねてあった。
「そうは言っても帰りませんよ…。」
そして最後に一番新しい、先ほど手渡された文を開くとこう書いてあった。
『…父上の帰宅の目処が立ちました。至急職を退き家に戻ってきてください。』
「…父上が?」
さっき感じた寂しさ、不安は消え、家に帰れる喜びが小太郎に中に湧き上がった。
江戸で会った父が、家に帰ってくる。
待ち望んだ、その日がやってくる。子どもの姿に戻れる。母に会える。みんなに会える。
嬉しさで飛び上りたくなったが、その代償に失う物を思い出し、一気に熱が冷めた。
『職を退き…』
この言葉が意味するのは辛く厳しい仕事もあった小姓生活の終わり。
そして何より人との別れだった。
敬愛する主政信との別れ。憧れの先輩喜一朗との別れ。そして仲良くなった江戸の彰子との別れ。
改めて『別れ』を意識した。
ほんの数か月と思っていた小姓生活は思った以上に長かった。
その中では辛さ、厳しさが多かったが、楽しい思い出も負けないぐらいたくさんあった。
そんな思い出、人との繋がり、生活をすべて捨て、元の子どもに戻る。
頭ではわかっていたが、いざ刻限が迫るとこうも辛くなるとは思ってもみなかった。
どうやって二人の前から去るか、精一杯一人で考え始めた。
文が来てから三日が経った。
退職願を小太郎は言い出せずにいた。
一方、政信は通り魔確保に燃え、一度自分で仕留めた悪人を再び捕まえるのだと張り切っていた。喜一朗はそれの手伝い。
そして小太郎は、人相書きのためにあの日の記憶を掘り起こしていた。
しかし、不安が心の底に滞っている状態ではなかなか仕事が進まない。
政信が呼んだことに気付いていなかった。
「おい、良鷹?」
「えっ。あ、はい何でございますか?」
「お前、元気ないな。どうした?」
「…いえ、なんでもございません。」
「そうか、何かあったら言えよ。喜一朗でもいいからさ。」
「はい…。」
小太郎に、主の優しさが身に染みた。
できるならば離れず、ずっとそばにいたい。
しかし、無理なものは無理。
溜息をついた後、小太郎は記憶の整理に集中した。
その頃江戸では、男三人の訪問が絶えた奥の部屋で蛍子と彰子は同時に溜息をついていた。
「彰子、なんじゃ? 溜息などついて?」
「姫さまこそ…。」
そういうと、二人で笑った。
「…お互い様か。あの騒がしい輩が居らんとこうも静かなの?」
「はい。」
蛍子は庭を眺め、しみじみと言った。
「…今日も来そうもない。明日も無理化の?」
「用事があるのでは? またいらっしゃるはずです。」
「自身あるそぶりじゃな?」
少し蛍子がからかうと、彰子は頬を赤らめた。
「…良鷹さまと約束したので。」
「…そうか。仲が良いの。」
この言葉で、彰子の顔は一層赤くなった。
「姫さまこそ、藤次郎さまと仲がよろしいご様子ではありませんか!」
すると、蛍子の顔が赤くなった。
「これ! おかしなことを言うでない! 妾はあの男となんでもない!」
彰子はこの言葉から、怒られたと受け止めた。
そして深々と頭を下げ謝った。
「…申し訳ございません。姫さまには夫となられる方がいらっしゃいました。」
「…わかっておるならよい。」
蛍子は日に日に不安になって行った。
『磐城政信』という名前ぐらいしか分からない年下の男。
身分を隠した『家来の藤次郎』政信が語るだけでは人物像が掴めない。
不安を残したまま、『藤次郎』と付き合い『政信』の事を聞き出そうとしたが、
いつしか、目の前に座る『藤次郎』本人の話に聞き入ってばかりだった。
藩の領地の話。江戸の町の話。彼の昔話、失敗談、おもしろ話。
何もかもが、公家では聞いたことのない物ばかりだった。
そして、知らないうちに将来の夫『磐城政信』が『藤次郎』と重なっていた。蛍子は、その考えを何度も考えを改めようとした。
しかし、夢に出てくる『磐城政信』は『藤次郎』そのものだった。
夢の中では蛍子は『藤次郎』に笑いかけ、『藤次郎』もそれに答える。
『政信殿』と呼んだはずが『藤次郎』になり、相手は『姫さま』ではなく『蛍子』と呼ぶ。
その夢を見て起きた時は幸せな気分になったが、後ろめたさも感じた。
気付かないうちに、蛍子は『藤次郎』が好きになっていた。
初めて好きになった男と、まだ見ぬ夫への不安との間で苦しみ始めた。
その日の夕暮時、離れに訪問者があった。
小太郎の父、瀬川良武だった。人を連れ、蛍子に面会を申し入れた。
蛍子は拒むことはしなかったが、御簾を下ろし、良武を部屋に入れた。
「何用じゃ?」
「姫さまに、お引き合わせしたき者がございます。」
「妾に?」
「はい。侍女を一人。」
「…侍女?」
「彰子一人では、何かと不便かと思います。どうかこの者を傍に置いて頂きたく。」
蛍子は、良武の背後に眼をやった。
そこには女が一人座っていた。
江戸のこの屋敷に来て初めて見る若い女だった。
少し興味が湧いた蛍子は、その女に声をかけた。
政信との出会いで、ただ一方的に拒むだけでは得られない物がたくさんあることを学んでいた。
「名はなんと申す?」
「真菜と申します。」
「歳は?」
「二十一にございます。」
「そうか。瀬川、下がって良い。真菜と話がしたい。」
この言葉に、良武は驚いた。
「…侍女の話、受けてくださいますか?」
「受ける。彰子には、妾から言っておく。」
良武が下がると、蛍子は真菜を近くへと呼び寄せた。
「そなたの話が聞きたい。良いか?」
「はい。では、手短に。」
真菜は蛍子に自身の身の上を話し始めた。
「生まれも育ちもこの江戸でございます。父はこの藩の藩士でございます。
今は隠居し、弟が継いでおります。私は、同じ藩の藩士に一度嫁しました。」
「…一度?」
蛍子は彼女の言葉が気になった。
「はい。去年、夫に先立たれた故、今は一人でございます。」
「子どもは?」
「…息子が一人。しかし、今年の初めに病で亡くしました。」
穏やかな口調で、悲しい過去をさらっと言った真菜に蛍子は胸が痛くなった。
「……。」
「御心配なさらず。すべて乗り越えました。」
笑顔を浮かべる真菜が蛍子には不思議に思えてしょうがなかった。
「…しかし、なぜ妾のところへ?」
「父経由で、侍女のお話が参りました。それで。」
「理由は?」
「お歳が近いこともありました。しかし、一番の理由は、お役に立ちたかったからです。
一度死んだようなこの身、姫さまのお役に立てればこれほどうれしいことはございません。」
穏やかな真菜の言葉に、蛍子は打たれた。
「妾の傍で、話し相手になってくれるか?」
「はい。喜んで。」
寂しい蛍子に、新たな味方が増えた。
それから三日後、国元では、小太郎の記憶を頼りに人相書きが出来上がった。
準備が整ったので、政信は屋敷から抜け出して通り魔征伐に向かおうと一人計画を練っていた。
一方、小太郎は退職願いを申し出る決心をついに固めていた。
喜一朗はその日、休みで帰宅していたが、主に言うのが先決と覚悟を決め申し出た。
「…殿、折り入って話がございます。」
「ん? そうか、わかった。離れに行こう。」
「はい。」
日があと少しで落ちる時刻、二人は庭が見える離れにいた。
空は燃えるような夕焼けだった。
「よし、明日は晴れだ。抜け出すのにいい日和だな。」
主の楽しそうな顔に、『はい』と小太郎は返事ができなかった。
暗い様子に政信は気付き、声をかけた。
「やっぱり、なんか悩み事があるな。いつものお前らしくない。」
「……。」
「いいから、言ってみろ。」
しばらく沈黙が続いたのち、小太郎は意を決して口を開いた。
「…小姓の職を、退かせてください。」
突然の退職願に、さすがの政信も驚いた。
「どうしてだ。理由は?」
小太郎はあらかじめしっかりした理由を考えていた。
賢い主を、作った嘘で騙すことは不可能。
嘘偽りない本当の話をするつもりだった。
「…今から申し上げる事を信じて下さいますか?」
「あぁ。約束する。」
その言葉を信じ、主を信じ小太郎は真実を打ち明け始めた。
「…実は歳を偽っていました。」
「幾つなんだ本当は?」
「今年十になりました。」
言った途端、政信は笑った。
「…からかってるのか?」
「いいえ。からかってなど…。私は本当はやっと十になったばかりの子どもです。」
政信は相変わらず、顔に笑いを浮かべていた。
「そんなでかい図体で、どこが子どもだ? 本当の事を言え。」
「…はい。あと少しで、父瀬川良武の帰国次第、元の姿に戻ります。」
「お前の親父は良武だったか。…それで、親父が帰ってきたら、お前は俺の側に居られないと?」
「はい。私は子どもなので。」
「そうか。やっぱりガキだったか。で、本当の名前は?」
「諱は良鷹。字は小太郎と。」
「小さい太郎か?」
「はい。…わかって頂けましたか?」
政信はまた笑い始めていた。
「…わかるわけないだろう。そんなわけのわからん話。ほんとは十だが、姿が十八。親父が良武。じきにお子様に戻るなんて。」
「そうかも知れませんが…。」
すると、ぴたっと笑うのをやめ、政信は怒鳴った。
「もういい! 下がれ! 戯言は聞きたくない! 俺にウンザリしたなら、嫌いなら、はっきりそう言って退職すればいいだろう!? なんで作り話なんかするんだ!?」
「作り話などではありません。」
「誰が信じるか!? そんなお伽噺みたいなこと! 本当のことを言え!」
小太郎は、これ以上の弁解は無理と見て下がることに決めた。
しかし、政信は荒れたままだった。
「おい、なんか言えよ! 逃げるなよ!」
その言葉に、小太郎はこう返した。
「…私は、殿が好きです。尊敬しています。許されるのなら、ずっとお傍にいたかった。
でも、無理。できないから…。俺、子供だから…。役立たずだから…。」
「えっ?」
「…申し訳ありません。失礼致します。」
暗くなった離れには、政信が一人取り残された。