【22】 逢瀬
それから五日ほど経った昼前、藩主磐城信行は服心である小太郎の父、瀬川良武を呼び出していた。
信行は庭を眺めながら後ろに控える良武に言った。
「瀬川、娘はどうなった?」
「はっ、相変わらずこちらの女中を近づけはしませんが、話は聞くようになったそうです。
また、健康そのものだそうで。」
この報告で、藩主の顔は明るくなった。
「それは良かった。なにをしたんだ?」
しかし、家臣は言いにくそうに下を向いたまま返事をした。
「いえ、恥ずかしながら何も…。手だてが見つかりませんでしたので…。」
信行は怒りはしなかったが、不思議そうに呟いた。
「女は謎だ…。」
「はぁ…。」
女好きの藩主でさえも持て余す女心の不可思議さに、良武も困ったが彼はこの日、ある提案を持ってきていた。
すぐ姿勢を正すとその旨を信行に告げた。
「殿、この際もう一人、姫の見方になる侍女をつけてはどうでしょう?」
「どうする気だ? 京から連れてくる気か?」
「いいえ、藩士の子女の中から募ります。姫と同じくらいの歳の者から。」
奥には年増の女中しか残ってはいなかった。
頭が固く、面白みのなくなった女ばかり。そんな者を姫の傍に付けたら再び姫は心を閉ざすに違いないと良武は考えた。
この提案を、信行は快諾した。
「やってみろ。ただし、お前の娘はダメだからな。」
冗談半分でそういう主に良武は余裕で返した。
「わかっております。うちの者は、既に嫁ぎ先が決まっておりますので。」
「そうだった。いつ祝言だ?」
「この仕事が終わりましたら…。」
少し疲れた様子の家来が気の毒になった信行は、こう言葉をかけた。
「すまんな。もうすぐで終わる。そうしたら、すぐ国に戻れ。」
良武は家来思いの主に感謝した。
「ありがとうございます。」
しんみりしていたが、その空気は信行の言葉でかき消されてしまった。
「そうだ、源太、お前に聞きたいことがあったんだ!」
せっかく大人らしく『瀬川』と呼ばれたのに、『源太』に戻っていたので良武はがっかりした。
子どものころからの縁はこういうものなのかと嬉しくも悲しくもあった。
「何でございましょう?」
すると信行は良武にクシャクシャの紙を差し出した。
そこには何やら走り書きが。
それを読んだ良武は驚いた。
「『政信見参』? いったいこれは…」
「久しぶりに藤次郎に文でも書こうと硯箱を開けたら入っておった。なんだろうな?」
「…もしや、若君の名を騙る不届き者では?」
「まさか、あれの名を騙って何ができる? まだ無名の一子息だ。」
「そうでした…。」
次期藩主に内定はしたが、正式な決定と届け出をまだしてはいなかった。
政信の兄を西国の大名に養子に送り出してからということにはなっていた。
くしゃくしゃの紙を眺めていると、信行はまたも不思議そうに口を開いた。
「そういえば、おかしいことが他にもあったな。」
「何でございますか?」
「今日お前と饅頭を食べようと思ってとっておいたんだがな。全部消えてしまった。
この前も羊羹が消えた。ネズミでも居るかな?」
この言葉で、買い食いしながら城下で遊んでいた記憶が良武によみがえった。
楽しい思い出。再び主と他愛もない話をする時間を持てることに、嬉しさを感じていた。
しかし、主の言葉にしっかり意見を返した。
「そういえば、台所でも料理が減る変事がこの前から度々起きております。」
「やっぱりネズミじゃないか?」
「はい。至急退治をいたしましょう。」
「頼んだぞ。おっと、せっかくだ、干菓子はあるからそれで茶でも一服どうだ?」
「はい、頂戴いたします。」
「だが、本当は町で買い食いしたいよな。焼き魚とか。」
「殿、さすがに無理でございます。」
「そこをなんとか、抜け出して…。」
主従は喋りながら茶室へと連れだって行った。
二人の腹に収まらなかった饅頭はネズミの巣ではなく、屋敷の奥の奥、蛍子が住む離れにあった。
政信が父の見ていない間に盗み出し、皆で食べるために持ってきたのだった。
「この饅頭、みんなで食おう。」
見事な器に入った饅頭に、小太郎はもしやと思い尋ねた。
「…どこからかっぱらってきたのです?」
「…父上の部屋だ。こんなたくさん一人で食ったら身体に悪い。若い俺らで美味しく頂くのが筋だ。」
政信はよく可愛い盗みを働いた。
お腹が減ったからと台所で下女の目を盗み、おかずを一つまみかすめ取った。
はたまた、そのまま食べられそうな食材を少し失敬。
おやつは父親の部屋からかすめ取る。
そうやって得た物を小太郎と分けて食べていた。絶対に喜一朗には分配しなかった。
「…殿、またまた悪ですね。」
「…喜一朗には絶対言うなよ。うるさいからな。」
理由はそれだった。
真面目な喜一朗には、つまみ食いするときの緊張感や危うさの面白さが理解できなかった。
その喜一朗はその日珍しく見張りに立ってはいなかった。
蛍子自ら、離れの一帯を昼まで人払いにしたのが理由だった。
これで、気を張らずに逢瀬を楽しめる。
政信と蛍子の関係は劇的に進歩していた。
もう顔や姿を隠したりはしなかった。
会える時間が伸びたにもかかわらず楽しい時間があっという間に過ぎていく。
会話が弾み、また明日と口で約束するまでになった。
しかし、残念だったのは蛍子が笑顔を見せないこと。
表情は穏やかだったが、何かに怯えたようすで、笑ってはくれなかった。
なにが怖いのかと聞くと、『将来の夫』と言った。
蛍子は不安を自分から除こうと、政信に『磐城政信』のことをよく聞くようになってはいたが、不安は消えてはいなかった。
そんな蛍子を前に、いつか自分が『磐城政信』として現れたとき、彼女はどんな顔をするのかとふと政信は思った。
その時に、笑顔が見られるかわからなかったが、今は『藤次郎』として蛍子との逢瀬を楽しんだ。
安心しきった男たちが饅頭を食べようとしたとたん、蛍子から止められた。
「これ、甘いものだけではなんじゃ。茶を点てようではないか。」
「それもそうだ。では、姫さまお願い致します。」
「わかった。」
自ら茶を点てる姫の一挙一動を政信はずっと見ていた。
隣で同じように姫のお手前を拝見する喜一朗にこそっと言った。
「…さすがだ。上品で寸分の隙もない。」
「はい。」
すでに姫の虜になった主を喜一朗は微笑ましく眺めていた。
一方、障害が多すぎる後輩の恋路には不安を抱いた。
その小太郎は、彰子に頼みごとをしていた。
「…彰子さま。お茶の飲み方教えてくれますか?」
「御存じ無いのですか?」
「恥ずかしながら、中途半端にしか教わらなかったので。」
「そうですか。ではお教えいたしましょう。」
「ありがとうございます。」
二人は歳の差があり過ぎる。相手が女になる頃、男がいい歳になってしまう。
そこまで待てる男は滅多にいない。しかも、相手は侍女。結婚は難しい。
本当は十歳と八歳の子ども同士、友達同士の関係だった。
小太郎にこの時はまだ、恋愛感情は生まれていなかった。
しかし、そうとは知らない喜一朗は余計な心配をしてしまっていた。
皆で美味しい饅頭を美味しい茶でいただいた後、主従は藩邸を後にして江戸の町へ物見遊山に出かけた。
何か面白い物はないかとぶらぶら歩き、買い食いしている最中、小太郎は視線を感じた。
しかし、なにもなかったので気にせず主と先輩にくっついて歩いて行った。
夕方、そぞろ歩きを終えてそろそろ隠れ家に戻ろうとした矢先、突然声をかけられた。
「これ、待たれい!」
「何用ですか? …あっ。」
喜一朗が驚いて固まった。
それに気付き、声をかけてきた人物を見た小太郎も、驚きのあまり同じように固まった。
おかしな二人の小姓を目にした政信は笑ったが、すぐに止めた。
「…げっ。」
男は、小太郎の父の良武だった。
「やはり若様! ここで何をされているのですか!?」
小太郎の父良武は、政信の後見役だった。顔もよく見知っている。
それ故、小太郎が小姓になる際苗字を教えたら、驚いた。良武と同じ苗字だったからだ。
焦った様子の良武が男三人の元に走ってきた。
すぐさま、喜一朗は逃げる態勢に入った。
「喜一朗、良鷹、後は頼む!」
すばしっこい主は逃げてしまった。
「え!?」
驚きで立ち尽くす二人の前に、怒った様子の良武が近寄って来た。
すぐさま喜一朗に向い叱り始めた。
「おい、喜一朗。何をしてるんだ! お前は小姓だろう? なぜ若様が国ではなくてここにいるんだ!?」
「それは…。その…。おい、良鷹、お前も何か言えよ。」
しかし、小太郎は立ち尽くすばかりだった。
初めて見る父親の仕事の顔。家では決して見られないその珍しさに見入っていた。
また、いつも見上げていた大きな父が小さく見えたことに驚いていた。
「誰だお前は。お前も小姓か?」
「え? あ、はい。」
突然父に声をかけられ小太郎は再び驚いた。
「名は?」
「え?」
「名は何だと聞いておる!」
話がかみ合わない二人を隣で見ていた喜一朗だったが、はっと我に返り小太郎の腕をつかんだ。
「…今だ逃げるぞ。」
「え? はい。では、また!」
小太郎は父に別れを告げ、喜一朗に引っ張られながら走って逃げた。
逃亡した小姓二人を、良武は必死になって追いかけた。
「おい、逃げるんじゃない! 説明がまだだ!」
鍛えている良武でも、二十歳前の若い男には敵わなかった。
追うのを諦めて、呼吸を整えた。するとみるみる相手の姿は小さくなり、消えてしまった。
「まったく…。何でここにいるんだ…。しかし、あの男どこかで見たような…。誰だったかな?」
良武は十八歳の姿をした息子が誰かわからなかった。
逃げ遂せた小太郎は久しぶりに父の顔を見ることができてうれしく思っていた。
向こうは全く自分に気付かなかったが、それはそれで仕方のないこと。ただ元気だとわかっただけでよかった。
しかし、先輩の言葉に驚いた。
「やっぱり、瀬川様と親戚なんだな。」
「え?」
「比べたらよく似てた。悪かったな、この前疑って。」
「いえ…。」
家出した日、喜一朗に素性を疑われたことを思い出した。
そのせいで姉の機嫌が悪くなり、棄てられた。
嫌な思い出がよみがえった小太郎は、黙りこんだ。
食事の間もあまり話さず、早めに風呂に入って寝ることにした。
気付くと、風呂場でふと桶に映る自身の顔を見ていた。水に映る十八歳の顔は、確かに父良武によく似ていた。
「父上…。」
そうつぶやく声も、似ていると改めて気付いた。さらに、身体つきも毎日のように鍛えているせいか父に近づいてきていた。
普段のひょろひょろが嫌いで、いつかはこうなりたいと願ってはいた。しかし、嫌われるとは思わなかった。
姉のイヤなものを見る顔が再び脳裏に浮かんだ。苦しくなったので、振り切ろうとすると今度はなぜか女の子の笑顔が浮かんで来た。
姉にいやがられた姿でも、彰子はいやがらなかった。いつも変わらない優しい眼で自分を見てくれる。
たまに手と手が触れても、身体が触れても、顔を少し赤らめるくらいで逃げたり叫んだり泣いたりはしない。
『良鷹さま…。』
自分の名を笑顔で呼ぶ彼女を思い出した小太郎は心があったかくなり、笑みがこぼれた。
「彰子ちゃん…」
彼女が心の支えになっていたことに、この時気がついた。
名を呼んでもらえると嬉しい、といった主と先輩の言葉の意味がわかった気がした。
また逢いたいと、心の底から思った。
その夜、影が政信を訪ねて来た。
国元からの報告だった。
「なに? 浮船が?」
「はい。疑っております。一度お戻りになった方が得策かと。」
「…だな。瀬川にもバレたことだし。一度帰国する。」
「では、明日。」
「わかった。」
三人は急遽帰国することになった。