【17】 江戸
昼、小太郎は泣き声をあげていた。夜中に屋敷を出たせいで、お腹が異常に空いていた。
朝餉は握り飯二つで済ませたが、足りなかったらしく腹の虫が鳴いた。
「…殿。ここどこです? 江戸はまだですか?」
街道に出て江戸まで出るのが筋だったが、誰にも知られたくない旅。
ところどころ影に教えられ、道なき道を江戸のある方向に向かっていた。
なぜか政信は、方向音痴の喜一朗に地図を預けていた。
「わからん。地図係りの喜一朗に聞け。」
「喜一朗殿、ここどこですか?」
「ちょっと待ってろ。」
小太郎は気を紛らわすために、自分の乗っている馬のたてがみをなでていたが、その馬も小太郎同様お腹が空いたらしく、道に生えている草を食べ始めた。
その様子を目にした小太郎は羨ましくなった。人間のように作ったり買ったりせずとも、その辺にあるものでお腹を満たせる。その便利さに憧れた。
気付けば、小太郎の馬だけではなく政信と喜一朗の馬も、一心不乱に草を食べていた。
「お腹減った…。」
そう小太郎がつぶやくと政信も同じような意見だった。
「俺も減った。喜一朗は?」
「もちろんです。ですが、あと一里も行けば江戸。少しの辛抱です。」
「あと一里か。なら、行くぞ。」
「はい…。」
小太郎は空腹のまま、馬を再び走らせた。
しばらくすると、喜一朗の言葉通り、とうとう江戸の外れについた。
開けた高台に佇むと、遠くには賑やかそうな町並みが広がっていた。
「…あれが江戸か。俺たちの国とはやっぱり違うな。」
「そうですね。」
三人で感心して眺めていると、影が一人どこからともなく現れた。
「失礼ながら、ここよりは徒歩にてお願いいたします。馬はこちらで丁重に預かるので、ご心配なさらず。」
三人が馬から降りると、違う影が現れて馬を引き連れて行った。
馬が去ると、三人の前には小柄な男が一人、強そうな荷物持ちの男を従えて立っていた。
「では、ご案内いたします。」
その一言だけを発し、ずっと黙ったまま歩く男が小太郎には気になった。
今まで見た影はたいてい黒ずくめ。顔も見えない男や女だった。
しかし、道案内をする男、荷物を持ってくれている男は顔をさらしている。
そこで小太郎はそっと小さな声で聞いてみた。
「…あの、貴方も影なんですか?」
「…はい。」
口数が少ない男二人は、それから一度もしゃべらなかった。
まだ聞きたいことが残っていた小太郎は少しつまらなく感じたが、珍しい江戸の町並みはそんな気分を吹き飛ばしてしまった。
人々が物を売り買いする様子。
国元では見かけない海の魚を運ぶ魚売り、通りを行く人々に水を売る男。見たこともない職業を見かけ、小太郎は興味津々だった。
おいしそうな匂いもあちらこちらから漂い、お腹のお腹の虫を活発にさせた。
あまりに大きな音がしたので、隣で歩いていた荷物持ちの影にフッと笑われた。
「瀬川殿、屋敷にお食事を用意してございますのでご安心を。」
「え? 食べられるの?」
「はい。」
嬉しくなった小太郎の足取りはさっきよりもずっと軽くなった。
やがて一行は街から離れ、大名屋敷が多く並ぶ地区へ足を踏み入れていた。
大きな門がそびえたち、門番が厳めしい顔つきで立っている側を通りながら、政信は感心していた。
「さすが江戸の藩邸だ。俺らの屋敷なんか比べ物にならないな。」
「はい。」
真面目に答えた喜一朗を政信はからかった。
「…まぁ、お前が迷子になるからあっちの小さい方がいいか。」
「殿! 私はもう方向音痴ではございません!」
面食らった様子の喜一朗だったがすぐさま主に反論した。
その様子を、政信と小太郎は余計おもしろがってしまった。
「強がるな。さっき地図読めなくて、影に聞いたんだろ?」
「ですよね。地図さかさまにして読んでたから。」
「そうなのか?」
「はい。その後くるくる回してたから、何やってるんだろうなって。」
「……。」
二人の男の戯言に、喜一朗は黙り込んでしまった。
方向音痴は彼自身一番嫌いな欠点だった。
うつむいて話さなくなった彼に、政信は謝った。
「悪い。そんなに気にするな。地図なんか読めなくても生きていける。」
「…そうでしょうか?」
「あぁ。戦国の世だったら大変だがな。今は泰平の世だ。そろばんと学問の知識の方が大事だ。」
「そうですか…。」
政信の言うとおり、もしも戦国の世であったのなら喜一朗は使い物にならない。
指示を出す上層部の者が地図が読めない、方向音痴ときたら陣は張れないわ出陣は出来んわで大変なことになる。
平和な世に、喜一朗は感謝した。
それから少しすると、前を歩いていた影が歩みを止めた。
前方には、そこに至るまでに何回も見た大きな門構えの屋敷があった。
「ここか?」
「はい。こちらがわが藩の藩邸にございます。」
初めて見る父が江戸で暮らす時の家を前に、政信は率直な感想を述べた。
「へぇ。大きいが、御三家や譜代の屋敷よりは小さいな。それで俺らの泊まる所は?」
藩邸には政信の父、藩主が居る。そこへのこのこ向かうようなことはできない。
江戸に来た目的を達成させるためには、こそこそしなければいけない。
政信の言葉に、影は再び道案内を開始した。
「どうぞこちらへ。」
主従三人は、影に連れられ屋敷の裏手に回った。
そこは竹林になっており、奥に進むと一軒の小屋が建っていた。
外から見るとあばら家で到底人が住めそうな感じではなかった。しかし、家の中は土間も畳が敷いてある部屋も、さらには風呂まであった。
外見と中身との大きな差に三人はあっけにとられていると、今まで先導してきた影が女を連れて来ていた。
「この者に本日より炊事洗濯諸々をお頼み下さい。あちらに食事をすでに用意してございますので、どうぞ召し上がってくださいませ。」
「御苦労。」
政信が労うと、影は皆居なくなった。おそらく見えないところで安全の為に絶えず見張りをしているのだろうが。
家の中には、政信、小太郎、喜一朗の三人だけになった。
「良鷹、良かったな飯だぞ!」
「はい!」
男三人は空腹を満たすため、食事をとった。
三人だけの楽しい食事。国の屋敷では政信が浮船に三人で食事を取れるよう直談判の末、受け入れられた。しかし、常に傍には女中が控え、何かあればうるさい浮船に報告が行く。
互いに苦手な食べ物を交換しただけで、お叱りを受けたことさえあった。
しかし、今は誰も彼らを邪魔しなかった。互いのおかずを盗みあって騒いだり、嫌いなものをこっそり紛れ込ませて文句の言い合いをしても、なにも言われない。
大変楽しい食事の時間を過ごした三人は、これからしばらくのこの生活に大きな希望を抱いていた。
その頃藩邸では政信の父、信行は部屋から庭を眺めていた。その背後には黒ずくめの男が控え何やら報告をしていた。
「国はどうであった?」
信行は振り向くことはせずに、庭を眺めたまま男に聞いた。
「はい。豊作の兆し、領民もすこやかにて。」
その言葉に安心した信行は穏やかな表情になると、私情を聞いた。
「そうか。息子たちは?」
「はっ。文武に励んでおられます。ただし…。」
言葉を濁らせた男の真意を信行は察していた。
「あれであろう?」
「はっ。政信様に突っかかるそうでございます。浮船殿から、御処分をとの嘆願が。」
信行はニヤリとすると、気分よくこう告げた。
「やはりな。ちょうどいい。返事を明日出そう。」
「…ご決断なさるのですか?」
「あぁ。あれを臣下に下せば害になる。西国の大名がわしの息子を婿に欲しておるからな。あれをくれてやろう。西の果てに飛ばして結構な石高の大名にさせれば、政信に害は及ばない。至急城代に言伝てを。」
「心得ました。」
その時、部屋の外から来訪者を知らせる声が聞こえた。
すぐさま黒ずくめの男は姿を消した。
「…誰だ?」
突然の訪れに、少しばかり不快感を示しながら聞くと、感情を抑えた声で答えが返ってきた。
「瀬川にございます。」
小太郎の父、瀬川良武だった。国を留守にし、藩主である信行からの密命に従事していた。
この日はそれに関する報告をしに参上していた。
「なんだ、源太か。早く入れ。」
さっきまでの不快感は嘘のように消え軽い口調で信行は良武を呼んだ。
「殿、源太は…」
良武の字は『源左衛門』だっただが、かつての幼名は『源太郎』だった。
信行は、仲の良かった良武を未だに二人だけの時は幼名で呼んでいた。
それだけ信頼されていることに良武は誇りを感じていたが、あまり『源太』は好きではなかった。
「良いだろう。誰も居ない。で、どうした?」
「例のお方、寝込んで仕舞われました。」
良武の密命は、政信の嫁取りだった。
極秘で進められてはいたが、信行は家督を政信に継がせるつもりだった。
それ故、それ相応の身分の正室を息子に迎えるべく、腹心の部下の良武に命を下した。
そして京の都から、公家の娘を正室として屋敷の奥に連れてきた。
身分、気位の高い公家だったが、今では武家の世の中。生活も苦しかったようで最初は渋ったが、金を積むと親はすんなりと受け入れた。
しかし、当の娘は泣いて嫌がった。非情だと思った良武だったが、心を鬼にして娘をさらうように江戸まで連れ出した。
道中も、江戸に来てからも毎日泣きはらす娘が気の毒だったが、慰めようと思っても傍に近寄ることはできなかった。
京から連れてきた幼い侍女だけに心を開き、他を一切拒絶する娘に良武は頭を抱えていた。
良武の報告を聞いた信行きは娘が気がかりになった。
「…もしや、病か?」
「…いえ、気分がすぐれないとの一点張りだそうで。」
娘は部屋の奥に閉じこもったまま、侍女に会話を任せていた。
そのせいで、良武はもう長い間娘に会ってはいなかった。
「そうか、何か気の晴れる物を持って行ってやれんか?」
「…はて、おなごの喜ぶ物をでございますか?」
「何か思いつかんか?」
「…そちらは殿の方がお詳しいのでは?」
信行は結構な女好きで名が知られていた。男前なおかげで、大抵の女はなびく。
それで苦労もしたが…。
「からかうな。女はもういい。あんなことはもう御免だからな。」
信行が一番愛した政信の母を、他の側室に嫉妬で殺められたことだった。
「…そうでございますか。」
しばらく沈黙が二人の間を流れたが、信行は気分を改め良武に命を下した。
「とにかく娘の気分を晴らし、武家の生活になじむよう指導してくれ。頼んだぞ。」
「はっ。心得ました。」