【12】 嫉妬
珍しく小太郎と喜一朗は二人揃って五日間の休みをもらった。
何しよう、どうしようと小太郎が思いを馳せていると喜一朗が言った。
「良鷹、明後日瀬川家にうかがってもいいか?」
「家に?」
「あぁ。ちょっと用事がある。」
今まで、小太郎が今の姿になる前までは、遊びにちょくちょく来てお土産などもくれたが、
近頃は忙しすぎて一度も来てはいなかった。
やっと暇が取れたので、遊びに来るようだ。
小太郎は深く考えず、了承した。
「では、家の者に言っておきますね。」
「じゃあ、またな!」
家に帰ると、母はいつもどおり出迎えてくれたが、またも姉は、居なかった。
「お休みは、いつまで?」
「明日から五日間。それと明後日、喜一朗殿が来るそうです。」
「あら、久しぶりね。お迎えの用意しておかないとね。」
「はい。」
「お腹減ったでしょ?ご飯にしましょう。」
言われて、改めて空腹を感じた。
もう日が暮れて、夕餉の時刻。
小太郎は出仕中食べたくてたまらなくなった母の手作りの一品を所望した。
「母上、煮物ある?」
「あるわよ。いっぱい食べなさい。」
「やった!」
その夜は、母と二人の夕餉の席だったが、互いの近況報告などで盛り上がり、楽しい時間を過ごした。
久しぶりの自室で、布団の上で寝転がりながら、姿を一度も現さなかった姉の絢女を思い浮かべていた。
明日は、居るかな?
ちょっとは顔を見せてくれてもいいのに…。
明日はダメでも、明後日喜一朗殿来るから、姉上もたぶん出てくるよね。
会えるかな…。
小太郎は静かに眠りに落ちた。
約束した日の昼過ぎ、喜一朗がやってきた。
母、初音と小太郎が出迎え、客間に通した。
「御無沙汰しております。挨拶にも伺わず、失礼いたしました。」
「いえいえ、お仕事でお忙しいのにわざわざお越しくださってありがとうございます。家の、『甥』がご迷惑をおかけしておりませんか?」
「いえ、良鷹殿は殿のお気に入り。仲良く仕事をさせていただいております。な?」
「はい。喜一朗殿。」
そこへ、姉の絢女が出てきた。
「あ、絢女殿、お久しぶりにございます。」
「喜一郎さま。ご機嫌。」
やっと姿を見せた絢女だったが、弟の小太郎には一度も目をくれず、喜一朗の方を向いていた。しかも、眼を輝かせているので、小太郎はなぜかムッとした。
「喜一朗殿、ごゆっくりどうぞ。…良鷹殿、ちょっと来て。」
母が呼び寄せたが、小太郎は聞いてはいなかった。
姉が今まで見たことない表情をしているので気がかりでそれどころではなかった。
しかし、目の前の先輩に頼まれた。
「良鷹、外してくれるか?」
「外す?」
「お願い、良鷹どの。母上があっちで呼んでますよ。」
姉の声は普段通り、というよりかは気取った声だった。
しかし、喜一朗に見えていないのをいいことに、シッシと手で邪魔なものを払うかのように小太郎を追いやろうとしていた。
しかも、その顔に今までの優しい姉の面影は無かった。
少し悲しくなった小太郎だったが、精一杯姉に返した。
「はいはい、邪魔な俺は消えますよ。喜一郎殿は他にお好きな方がいるはずなのになぁ。良くわからない。絢女さんは俺より喜一朗殿がお好きか、あぁ残念。」
イヤミたっぷりに、言い捨てて小太郎は部屋を後にした。
残された二人は、彼の言葉にギクッとなった。
すぐさま喜一朗は絢女に弁解した。
「あれは、なんでもありません。本当ですので。」
「わかりました。あの者の言うことは信じません。それで良いでしょう?」
「はい。…あ、そうだ。小太郎に土産があった。小太郎は?」
絢女は、その言葉に焦った。
さっき追い払った『従兄弟』を呼び戻すわけにはいかない。
仕方なく、思い付きを言ってはぐらかすことにした。
「今、出かけております。渡しておきましょうか?」
「では、お願いします。」
絢女は弟宛のお土産を受取り、懐にしまった。
その様子を見届けた喜一朗は、絢女を誘うことにした。
「…あの、天気がよろしいので、お庭に行きませんか?」
「…はい。」
その日、夕時まで喜一朗は絢女と過ごしていた。
おもしろくない小太郎は、彼らがいない場所で一人槍の素振りをして汗を流していた。
母はそれを眺めながら繕いものをしていた。
どうにもこうにも虫が好かないので、小太郎は喜一朗が帰る時も、木刀の素振りをしたまま、見送りには行かなかった。
結局、絢女と初音が見送り、喜一朗は帰って行った。
帰り道、喜一朗は道場帰りの男の子二人を見つけた。
出仕で家に帰れる時も、時間が遅くて道場や学問所の仲間とはなかなか会えない。
久しぶりに見る後輩に、喜一朗は笑みがこぼれた。
一方、後輩の男の子二人組、勝五郎、総治郎も彼の姿を見つけ走り寄ってきた。
「あ、喜一朗殿!お久しぶりです!」
「お仕事の帰りですか?」
「今日は休みだったんだ。お前たちは?」
「道場の帰りです。近々試合があるので、忙しくって。」
「そうか、がんばれよ。」
「はい!」
声には元気があるが、二人ともうっすらとさびしげな表情をしていることに喜一朗は気が付いた。
それと、重大な異変にも気が付いた。
「あれ?お前たち、いつも三人なのに、今日は二人か。小太郎は?」
「……。」
「…浮かない顔だな。」
総治郎が決心したように、口を開いた。
「…ずっと来てないんです。学問所にも道場にも。」
意外な言葉に、喜一朗は驚いた。
「…どういう事だ?」
「一月、もう二月近くになるんです。小太郎、全然来なくって。」
「全くか?」
「…はい。心配になって、家で消息を聞こうと思ったんだけど…。」
「どうした?」
「いつも怖そうなお侍が立ってて…。入れなくて。侵入しようとしたら、つかまりました。」
「他に、変わりは?」
「たまに、知らない男の人が出入りしています。」
勝五郎が言う怖そうなお侍は『護衛』だった。
小太郎が出仕の時は必ず、留守の家を守るために政信が遣わした。
その侍は瀬川家の面々には感謝されていたが、子どもの眼には怖く映っていた。
それに、知らない男の人は、小太郎本人だった。
しばらく後輩二人の話を聞き、自分の今日したこと、今までしたことを考え、喜一朗なりの考えを彼らに告げた。
「俺はさっき屋敷に入ったが、姉から外出中と言われた。どこかに行ってるんじゃないか?親戚の家とか、遠い所に。」
「そうだといいんですが。こいつ変な事前言ってたんですよ。」
勝五郎が隣の総治郎をつついてそう言った。
「…なんだ?なんでもいいから、言ってみろ。」
総治郎はびくびくしながら話し始めた。
「小太郎ん家に侵入したとき、変な会話が聞こえたんです。」
「なんて言ってた?」
「『小太郎のことが知られたら厄介、内緒に』って言葉は覚えています。」
不可解な言葉に、喜一朗はもやもやし始めた。
「おかしいな、何か隠しているのか?」
頼みの先輩までも巻き添えにしてしまって、二人組は不安になってきた。
一つ考えていたことを、総治郎は言い始めた。
「あの、喜一朗殿、私の考えなんですが、小太郎は悪い病気で隔離されてるんじゃ?」
「はしかや労咳かってことか?」
「はい。あいつ身体小さいからなってもおかしくないし…。」
「そんなこと言い始めたら、かなり不安になってきた。いっそ直に聞いてくるか?」
「え?今からですか?」
「俺は明日も休みだが、お前たちは朝から忙しいだろ?今から聞きに行って、すっきりさせた方がいい。」
「でも…。」
「心配するな。怖くなんかない。俺がついてる。」
喜一朗は後輩二人を引き連れて、瀬川家に逆戻りした。
家の門をたたくと、若い下男が出てきた。
「あれ、瀧川さま。どうなされました?奥様は今お取り込み中でして…。」
「いや、そなたでも構わない。すこしばかりお聞きしたい。小太郎殿は、どうしたのか。」
「え?それは一体…。」
「小太郎殿が、長期間学問所、道場を休んでいると聞いた。どういうわけかお聞きしたい。」
「…では、ひとまずお上がりください。」
若い下男は、三人を客間に通した後、走るようにどこかへ消えた。
「やっぱり、おかしいな。見たな?あの慌てっぷり。」
「はい…。」
少しすると、年配の下男が現れた。
喜一朗を見るとうれしそうな様子になった。
「これはこれは瀧川様の若。立派になられて。」
「え?」
「吉右衛門と申します。貴方様のお父上はわが主と幼馴染、よく貴方様のお父上がこの家に遊びに来られました。」
「そうですか…。あの…。」
「小太郎様のことで御伺いだそうで。」
「はい。そのことで聞きたいことがいささか…。」
「小太郎様は、他藩の親戚の家に行っております、風邪を少しこじらせまして、もっと田舎の地で療養させようと奥様がお決めになられて。」
「そうですか。どれくらいで戻れるので?」
「旦那様が帰宅する際、一緒に連れ帰ることになっております。それ故、今のところはっきりとは申し上げられません。」
「…そうでございますか。どうだ?納得したか?」
「はい。生きてるんなら平気です。」
少し疑問が残ったがこの場はこれで引き下がることに決めた。
子どもの二人の頭では納得いったようだが、喜一朗は何か納得がいかなかった。
帰り際、絢女の後を追いかけようとする良鷹の姿が喜一朗の眼に入った。
喜一朗の疑問の一つは、同い年の男の存在だった。
良鷹は突然現れ、同僚になった。
自分より殿に好かれて、お気に入りになっている。
努力も人格も認めるが、精神年齢がどう考えても自分より低い。
それより疑問なのは、こう言う男がいるとは自分の父からも、絢女の父瀬川良武からも聞いたことがない。
改めて同僚の身の上にわずかな不審を抱いた。
立ち尽くす喜一朗に絢女は気づき、早速近寄って来た。
「あら、喜一朗殿、またいらっしゃったのですか?」
「ちょっと小太郎のことで。」
「え…。」
彼女のすぐ後ろに小太郎がいたが、喜一朗は『良鷹』と信じて疑わない。
重大な話をしたい喜一朗はまたも小太郎を遠ざけようとした。
「良鷹、ちょっと絢女殿に用事だ。いいか?」
「…はい。」
一瞬表情が固まった絢女が気になった喜一朗は子供二人を先に門の外で待たせ、
小太郎に聞かれない場所で、彼女に面と向って聞いた。
「…絢女どの、あの良鷹は本当に貴女の従兄弟ですか?」
「どういうことですか?」
「その、本当に血のつながった従兄なのかなと…。」
その言葉が意味することをうっすらと察した絢女は、衝撃を受けたが
気丈に反論した。
「…わたくしを疑うのですか?」
「いえ、そういう意味ではありません。そうでは…。」
しかし、喜一朗の言葉に耐えられなくなった絢女は喜一朗の前から立ち去った。
「…失礼します。」
「絢女殿!私は…」
弁明する暇もなく、絢女は喜一朗を見ることなく、屋敷の中へ駆け込んで行ってしまった。
何も知らない小太郎は、素直に思ったことを口にした。
「あれ?怒っちゃった。喜一朗殿、なに言ったの?」
「なんでもない…。じゃあ、職場でな。」
そう言った喜一朗だったが、今まで見たことない冷たい眼で一瞥された小太郎はドキリとした。しかし、姿が見えなくなると、姉の様子の方に気が移っていた。
彼女を探し、声をかけた。
「姉上、喜一朗殿なんだって?」
「ふん!」
小太郎の方を見もしなかった。
「ねぇ、なんで最近いつでも怒ってるの?」
「ふん!」
「姉上。なんか言ってよ。」
「うるさい。静かにして!」
やっと口を聞いてくれたと思いきや、姉に睨まれ邪険にされた。
小太郎は落胆したと同時に、怒ってばかりの姉に悲しくなった。
なんで近頃優しかった姉がこんなに怖く、他人行儀なのかわからず、頭がごちゃごちゃしてきた。
しかたなく、さっき素振りでかいた汗を流すため風呂へ向かった。
一人になった絢女は台所で食事の支度をする自分と同年代の下女に相談し、さっき喜一朗に言われたことを話し、自分の不満をぶちまけていた。
「はぁ。もうイヤ!」
「どうしたのですか?まだイライラが溜まってますか?」
「父上が留守になってろくなことがない。もうイヤ!」
眉間にしわを寄せるので、下女は心配になった。
上手い手を使って、やめさせることにした。
「お嬢様、あまり怒られますと、綺麗なお顔が台無しですよ。」
「そう?綺麗?」
あっけなく普通の顔に戻ったお嬢様に、下女はほっとした。
「はい。近頃ますます。うらやましい。」
「もう。あなたの肌の方が綺麗じゃない。ウソ言わないの!フフフ。」
「やっと笑った。そっちの方がいいですよ。」
滅多に怒らない主の良武、優しい初音、友達のように接してくれる絢女、
素直で真面目な小太郎。働き者の下男下女。
このような環境で暮らしていると、自然と怒ることは少ない。
幸せな生活で、皆満足している瀬川家だった。
ここに、主が戻ってきて小太郎が元の姿に戻れば完璧になる。
そう思う下女だった。
「ありがと、そうだ、気分転換にお風呂入ってくるね。」
「あっ、お嬢様、今は…。」
絢女の耳に下女の言葉は届いていなかった。
暖かい湯にでも入れば、もっと気が和らぐかもしれない。
怒ってばかりで肩が凝った。
着替えを手に、風呂場へ向かった。
「お風呂、お風…。」
引き戸を開けると、彼女の眼の前には、裸の男がいた。
「あ…。」
「えっ?」
姉は運悪く風呂上がりの弟と鉢合わせしてしまった。
驚いて持っていた着替えを取り落とし立ち尽くす姉を見た小太郎は、とっさに身を隠した。
以前、自分の素肌を見た姉が取り乱し、泣いたことが記憶に残っていた。
「……。」
「姉上、大丈夫?」
泣き声は聞こえないので大丈夫と思い、おそるおそる姉に声をかけた。
しかし、とたんに絢女は大声で叫び出した。
「変態!!!」
絢女は戸を思いっきり閉め、走り去ってしまった。
「ごめんなさい!」
逃げた絢女は、居間で母に泣きついていた。
「…もうお嫁に行けない。もうダメ。」
「どうしたの?」
「イヤ、イヤ…。」
下女が血相を変えて追いかけてきたが、すでに絢女はおお泣きしていた。
泣きじゃくる絢女の代わりに下女が説明をした。
「奥様、良鷹様が先に入っておられたので、お嬢様をお止めしたんですが…。間に合わなかったようで。申しわけありません。」
「貴女は悪くないわ。この娘がいけないの。で、見ちゃったの?」
「…はい。」
母は、いまだ心配した様子でそばに佇む女中に目配せして、仕事に戻らせた。
二人きりになると、初音は娘にこう言った。
「またそんなことで騒いでるの?」
「だって、全裸だったんですよ!最悪…。」
「お風呂だから仕方ないでしょう?小太郎とついこの間まで一緒に入っててなに言ってるの?」
「違います!イヤです!あんな男っぽい弟!」
「あの子は男の子よ、すぐに男になるの。当たり前でしょ?」
「……。」
「いつまでも子どもじゃないの。あなたもそう。もうじきに女の子では居られなくなるのよ。」
「……。」
「もう…。」
いくら言っても不満げな表情の絢女に、初音は困り果てた。
しばらくすると、しっかり身仕度した小太郎がやってきた。
礼儀正しく二人の前に座り、手を付き謝った。
「姉上、申し訳ありませんでした。」
「…フン。」
「姉上、なんで何時もずっと怒ってるの?最近おかしいよ…。」
「……。」
「ねぇ、姉上…。」
「絢女、何か言いなさい。」
母にたしなめられた絢女はとんでもないことを言い始めた。
「…良鷹どの。姉と呼ばないでくださる?」
「え?」
「貴方はわたしの弟などではありません!母上の子でもありません!」
「ちょっと、絢女、何言ってるの!?」
「あなたみたいな人が弟のわけがない!私の本物の弟はもっと小さいの!」
「…だって。」
「なによ、貴方ずっとお屋敷で過ごせばいいでしょ!?帰ってこなくても良いじゃない!
どうせこの家でやることなんかないんだから!居るだけで迷惑なの!」
姉の冷たい表情と、言葉に小太郎は打ちひしがれた。
…本気で、姉上に嫌われた。
もう、俺は弟じゃない。赤の他人だ。
こんな姿になったせいで、捨てられた。
泣きたくなったがぐっとこらえ、姉だった人にあいさつをして、部屋を後にした。
「…わかりました。絢女さん。以後気をつけます。では…。」
すぐさま初音は娘に向かって叱責し始めたが、まったく効果はなかった。
「絢女、あの子に謝りなさい。いい加減にしなさい!」
「フン!」
「せっかくのお休みで帰ってきたのに、疲れてるのに何を言うの!?」
「知りません。」
初音は反抗する娘を残し、息子の部屋に向かった。
しかし、小太郎は開けてはくれなかった。
「…小太郎?気にしなくていいからね。絢女があんなこと言ったけど、ちょっとあの子気が立ってるだけだから。ね?」
しかし、一切返事は返って来なかった。
しかたなく、その場は引き下がることに決めた。
「…夕餉が出来たら呼ぶわね。」
しかし、その晩小太郎は夕餉の席に出てこなかった。
下女に部屋まで食事を運ばせたが、部屋には入れてもらえず引き下がってきた。
初音や下男下女が心配する中、絢女はまだイライラしていた。
初音も今度は一方的に怒るのは止めた。
「絢女、どうするの?あの子、出てこないじゃない。」
「良いんです。おなかが減ればそのうちでてきます。」
しかし、絢女の考えは外れた。
その次の早朝、小太郎は家の誰にも告げずに出仕した。
必要な物品を持てるだけ持ち出したせいで、部屋はもぬけの殻になっていた。
父、良武が戻るまで、自分が元の子どもに戻るまで決して帰らないと決めた。
家出だった。