下
また体が浮かぶ。どうやって車を出たのかはわからない。今度は、ビルの片隅に立っていた。
少年がエアコンの室外機を指さす。
その下に丸くなっている黒猫がいた。
オレが覗き込もうとすると、猫は這い出てきて背伸びした。
「良かった。無事みたいだな。」
オレは胸をなでおろした。
「…お前のせいで死んじまうとはな。」
彼女との待ち合わせ場所に向かうオレ。
オレのバイクの前を走る車の下から出てきたのは、道路のど真ん中で固まる黒猫。
慌ててハンドルを切った。
バイクは反対車線に飛び出し、そこへ走り込むダンプ。
「いや、お前のせいじゃないな。オレの運転ミスだ。」
オレがそう言うと、黒猫はにゃあと鳴いた。謝っているように聞こえた。
でもまあ、死んだオレが見えてはいないだろうが。
「お前、野良だな。」
そうだ、この猫。このままにしておくわけにもいかない。
「触れるってことは、運ぶこともできるのか?」
「はい、できます。あなたが望む所へ。」
そう言いながら少年はあの本を出した。
今度はオレから本に触れる。手が熱くなってきた。
「さぁ、一緒に来いよ。」
オレは黒猫を抱き上げた。
「どこへ向かいますか?」
オレはにやりと笑った。
「さっきの車。」
***
車は完全に渋滞にはまっていた。
オレ達はさっきみたいに後部座席に座る。が、さっきと違って1匹増えている。
黒猫は何があったのかよくわからず、おびえて丸くなっていた。
オレはその背中を優しくなでてやる。
猫は少し落ち着いて、おとなしくなった。
少年はオレに問いかける。
「これが最期で良いんですか?」
「ああ。たぶん間違えてないと思う。」
なぜかオレには、この選択に自信があった。
彼女たちは、さっきの話の続きをしているようだ。
「みんな、彼のこと怖いって誤解だよ。ホントは気が弱くて優しくてイイ奴だよ。」
「マジで?」
彼女は運転席の男にオレの魅力を説明し始めた。
聞いてるこっちが恥ずかしくなってきた。
「ちょっとビビりだし、猫大好きだし、私のこと大事にしてくれるし。」
「なんだよそれ。のろけてんの?」
「そうよ。」
やっぱり、彼女はオレのことを想ってくれていたんだ。とても嬉しかった。
じゃあ、この男は何なんだ?
「だって、ねーちゃんがあいつと結婚でもしたら、僕の兄貴になるんだぜ。」
え?…あ、弟さんでしたか。
失礼しました。いつもお姉さんにはお世話になっております。
「いいから!急いでよ。」
「先のほうで事故でもあったみたいだ。1ミリも動かないよ。」
「タクミのバイクなら、こんなの関係ないのに。」
彼女は不満そうに外を見た。
気が付くと、オレの体が消え始めている。
「オレ消えそうじゃん!」
「はい。現世に影響を与えた後は、魂はあるべき場所へ。」
そうか、これで終わりか。
彼女を抱きしめる奇跡にしたらよかったかな。
いや、それだと一瞬だ。それだけで終わり。
この猫なら、オレの代わりに彼女のそばに居てやれる。絆になってくれる。
「にゃー」
突然、猫が鳴いた。
彼女と弟さんが後部座席を見る。
「うわ、猫!?どこから入ってきたんだ。」
「ほんと黒猫だ。いつから居たの?おいでおいで。」
彼女は満面の笑みで猫を抱き上げた。猫はまた、にゃあと鳴く。
「この子、可愛いじゃん。」
「ねーちゃん、その猫どうすんの?」
「今日はタクミと猫を選びに行くはずだったんだ。
でも、この子にしよう。この子に決めたわ。」
気に入ってもらえて良かった。
「名前どうしよっかな。後で相談して決めよ。
そうだ。タクミ…待たせちゃうな。」
彼女は、オレ宛に遅刻のお詫びメールを打ち始めた。
「ごめんな。オレ待てない。先にいくわ。」
もう、オレの体はほとんど消えていた。
少年はあのぼろい本を取り出た。
「その本すげえな。」
「これは鬼籍帳。人が死ぬことを鬼籍に入ると言います。」
「なんだ、キセキって奇跡じゃなかったのか。」
少年は彼女を指さした。
「いいえ、ちゃんと奇跡は起きましたよ。」
そうだ。そうだった。これは奇跡だろ。
「お前のおかげでオレは間違えずにすんだ。最高の彼女の笑顔が見れたよ。
ありがとう。」
そしてオレは消えた。
しまった。少年の名前を聞いておくべきだったな。
「宮河内タクミ 享年24歳」
少年は鬼籍帳に書き込むと、本を閉じて黙祷する。
そして、すっと消えた。
もし良ければ、前作「キセキのキセキ」も読んでください。