アンの祝日
聞き馴れたBGMは、硝子戸の向こう側に入るとすぐに耳に届く。季節感のある鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。そこを素通りして、20円の麺と、ソース1本を籠に入れる。
普段よりいくらか賑やかしい店内には、広告商品を呼び込む声の反復も無い。時々入れ替わる店長代理が機械でせっせと肉の見切り作業をしている。
彼の通り過ぎた所を追いかけるようにして、豚バラ肉を手に取った。
「3割引きか……」
今日の帰りは少し早い。普段ならば半額になるバラ肉が、今日は残念ながら3割引きだ。
脳裏を過る差額が、まだ到来してもいないのに尻のポケットに冷気を伝える。それでも冷蔵庫は空っぽだから、今日は買わずにはいられない。そっと肉を入れると、柄付きのマスクをした子供連れとすれ違った。
踵を返し、青果コーナーに至る。入り口の裏側から見ると殺風景な色だが、その裏側はパプリカやブロッコリーで化粧をしている。両脇に控える椎茸と葱に気を取られつつ、一先ずはもやしを籠に放り込む。今日は束ねた見切り品はない。
一頻り散策し、イチゴが隅に追いやられて、丁度サクランボなどを陳列している人の丸まった腰の後ろを通り過ぎる。白髪交じりの老人は、僕からしたら普段はカットフルーツを半額にしている人だ。
慣れ親しんだ光景に何の感動も無く、レジへと向かう途中、ふと、花屋の前で立ち止まった。
真っ赤なカーネーションが並べられている。既に役割を終えたのか、彼らの群れは疎らだった。
カーネーションの花束、一束299円。僕の夕食より少し高いだろうか。
花屋の女性が陳列用の木箱を隅に寄せている。カーネーションはもうじき片付けられるらしい。
一度天井を仰ぎ見る。尻に寒波が迫る予感がした。
「ただいまぁー……」
「お帰り。早か゛った゛ね゛ー」
母は兄にプレゼントされたマッサージ器で声を震わせながら言った。
マイバッグを机の上に置き、ポケットの財布を横に添える。彼女は今日も警察の特番と共に、チョコレートを嗜んでいる。
「あ、はい。お母さん」
「ん?」
僕はそっとカーネーションをリビングの机に乗せた。何となく、離す手が速くなる。母は間の抜けた声で「おぉー、珍しい」と呟いた。振り向かずに、階段を昇って着替えを済ませる。
縞柄のネクタイは、大学の卒業祝いの品だ。紺のスーツは就活に合わせて、同居人と共に購入した品だ。白のワイシャツは大学院の時に卒業審問を受けた時に着ていた、3着で1000円の品だ。
そして、その全てに金額があると分かるようになったのは、それらすべてを合わせて着るようになってからだ。
振り返ると、あの時熱中していた参考書がある。開いたままの租税法のコンメンタールと、完全に閉じられた会社法のコンメンタールが書見台にぴたりと身を寄せている。平成で時が止まったままのポケット六法が積み上げられている。
自ら身に纏った鎧を解く傍らで、自分の臆病の為に捨ててきた夢の跡に出くわす。それはとても胸が苦しくなる光景だったが、いつも、僕の前にある光景でもある。
二匹のオコジョの縫いぐるみの一方は、確か大学の時に出会った子だ。今では髭もひん曲がってしまって、20年の付き合いの子に少しずつ近づいている。もう一人の子は腰を曲げ、粗末に縫い合わせた兄との思い出を見せつけながら、傷のついた瞳を煌めかせてこちらを見ている。色の削ぎ落ちた鼻が体毛と同化している。
ネクタイとスーツを吊るし、寝間着に着替える。片手にワイシャツを持ち、オコジョの鼻を二、三度構った後で、二匹をワイシャツで包むようにして持ち上げた。
ワイシャツを洗面所の洗濯籠に放り、オコジョだけをリビングに連れていく。
微かに鼻歌が聞こえてくる。スーツを脱ぎ、ゆったりとした寝間着に着替えた僕を出迎えたのは、じゅう、というバラ肉の焼ける音だった。
「今日は作るって言ったのに」
「んー?お前の作る料理はまずいからねぇ」
ご機嫌な様子の母が言う。花束は、既に綺麗に生けられていた。
「そうかい。貴女の好意に対する対応には、遺憾だと言わざるを得ないがね」
一つ溜息を吐き、椅子に腰掛ける。椅子に腰掛けたまま、手近のスマートフォンを手に取ると、ふと、画面の向こう側に、大事に飾られたドライフラワーが映った。
麺を焼く時の痛快な音と、ソースの煮える芳ばしい香り。踊るような菜箸の捌きは、未だに僕には真似できない。
鈍くさいと嘯くご機嫌な手が、手際よく一手一手を進める。もやしも、肉も、麺も、薄目にはったソースが絡み始めた。
そろそろかと思い、両の手を机の下で組み、少々乱雑に盛られた、斑のような色付きの焼きそばが前に置かれるのを待つ。
「お待たせしました、王子様」
「苦しゅうない」
鼻で笑い合い、母は手早くマッサージ機に戻っていった。僕は緑色の箸を掴み、手を合わせる。
「いただきます」
その様子を、オコジョは不思議そうに見上げている。オオウミガラスは母の胸で一緒にぶるぶる震えている。テレビでは、酔っぱらいの怒号が響く。
テレビの向こう側に憧れているわけではない。僕はもっと動かなくていい方が楽しかったからだ。六法の角でなく、インクの方で人を殴ってみたかった。あの会議室の席に着き、教壇で学生達に何かを教えて見たかった。僕の夢は法廷にはないけれど、それにとても近い場所にあったから。それも、自分の臆病の為に、今は叶わないけれど。
食事を終えて、ケトルで湯を沸かす。僕の秘蔵の缶詰を手に取り、男のような声であーと鳴く母の目の前に近づけた。
「お嬢さん、いい紅茶など、如何かな?」
お嬢さんはニヤリと笑った。
「冷蔵庫にチョコがありますよ、旦那様」
コップを二人分と、チョコレートを四つ用意すると、丁度ケトルの湯が沸く音がした。それを持ち上げ、ティーポットに湯を注ぐ。
暫く茶が出るのを待つ間、スマートフォンを手に取った。後ろマッサージ器から覗くつむじを画面越しに見つめる。
「もういいんじゃない?」
母が振り向く。目尻に皺が寄っていて、笑っているのがすぐに分かった。
「あー、うん」
コップに紅茶を注ぎ、母のリビングの机に持っていく。チョコ二つを添えて、代金としてオオウミガラスを頂いた。
あと何回、この顔を見られるんだろうか。