(9)
*
「あ」
自分の声で目の覚める真夜中。
頭が割れるように痛い。たった少しのアルコールでこうなるとは恥ずかしい。
そして、自分が何を口走ったのかまったく覚えていなかった。なにか余計なことを言わなかっただろうか。それが心配で、不安だった。
歯を食いしばりながらなんとか上体を起こす。
薄めの毛布をかけられていた。丁寧に畳んで脇に置く。
卓袱台は片づけられて、御蔵夫妻も隣で雑魚寝していた。御蔵夫はいびきをかいている。ふたりを起こさないように静かに立ちあがると水道でグラスを洗い、水を注いで一気に飲み干した。
夜の町は静寂に包まれていた。
港ではなく町中を歩いてみる。商店街は、夜というのもあってすべてシャッターが閉まっている。昼間もどれくらいの店が営業しているか定かではないが。
自動車が通ることもなければ人の気配もない。
眠っているのか死んでいるのか曖昧な世界。少し心地がよかった。
東京と違って街灯はまばらで、点滅しているものもあった。いずれも羽虫がたかっている。
あの灯りが生きる意味だとしたら、人間は羽虫だ。
意味を持たない俺は光に向かえない。なのに、どうしてまだ生きているんだろう。そして世界はどうしてこんな俺を殺してくれないのだろう。
*
次の日も、その次の日も、朝は御蔵夫と野菜を収穫して、昼過ぎに港の外れへ行った。
半魚人はどちらの日にも姿を現した。もはや生臭ささえ気にならなくなっていた。両日とも、会話はせずにひたすら並んでぼやけた水平線を眺めた。
曇っていて太陽の光が遮られているとはいえ、時間帯によって灰色の明度が異なることを知った。耳を澄ませば天候によって波の音が変わることに気づいた。
悪くはない時間だった。
陽の沈む前に半魚人は海へ帰り、俺は御蔵家へ戻った。
勘のいい御蔵妻は俺が何をしているのか、きっと気づいているだろう。だけど何も言ってこなかった。俺にはそれがありがたかった。
御蔵家にいる間は、御蔵妻の家事を手伝った。
料理はできないけれど、皿や鍋を洗ったり、洗濯物を干したり、風呂を掃除したり、床を雑巾で拭いたりした。東京では風呂なしの狭いアパートに住んでいたので、そういうことは施設での生活以来だった。
御蔵夫からのアルコールの勧めは昼夜問わず丁重に断った。
だけど、ご飯は全力で食べた。こんなに食べ物を美味しいと感じたのは生まれて初めてだったから。
「手伝ってくれるだけでもありがたいのに、丁寧にしてくれて助かるわ。ほんとうにありがとう」
「いえ」
すると晩ご飯の片づけをしているときに、御蔵妻が神妙な面持ちで告げた。
「占いによって、奇祭は明後日行われることになったと回覧が回ってきたわ」
「明後日……」
「流星群が最もよく見える夜になるんだそうよ。連れていくことはできないけれど、どこかで眺めるといいわ」
「連れていく?」
食器を拭く手が止まる。
「町の住人は夜、神社へ集まるの。数百年ぶりの神事だからね。夜通し流星群を眺めながら、人魚の干し肉が祝い酒と共に振る舞われるみたい」
干し肉というのはやはりあの人魚のミイラなのだろうか。生ハムのように削り取りでもするのだろうか。
想像してみたが気持ちが悪くなるだけだった。
そして明言しなかったものの、御蔵夫妻は人魚の干し肉を食べないのだろう。
「耳を澄ますと、きっと鯨の歌が聴こえるわ。貴方の耳にも届きますように」
*
御蔵妻の言っていた『鯨の歌』という言葉が引っかかり、俺は布団のなかで調べることにした。
ここ数日はSNSでの日課もしなくなっていたし、そもそもスマートフォンを開きすらしていなかった。
鯨の歌というのは、コミュニケーションの手段として発せられるただの音だという。求愛行動だといわれて研究が進められているらしい、と読み進めていくうちに、ひとつの項目が目にとまった。
——52Hzの鯨。
正体は不明。その周波数は他の鯨には見られないといい、どの鯨とも交流できないことから、『世界一孤独な鯨』と呼ばれている。
妙に言葉が印象的だった。
人魚伝説といい、こういうオカルトの類を毛嫌いしてきたのに積極的に調べてしまう。この町へ来て、俺はいろいろと変わったのだと思う。
死にたい気持ちは消えていない。だからこそ、ずっとこの町にいる訳にもいかない。
*
「明日、流星群が見られるらしいな」
時間を共有していたものの、半魚人に向かって話しかけるのは、海に飛びこんで以来だった。
「俺はそれを見たら東京へ帰ろうと思う。いつまでもここにいるわけにはいかないから。まぁ、帰ってどうにかなるものじゃないが」
『とうきょう』
「俺の元々住んでいる場所だ。お前の海みたいなもんだ」
足元の石を拾って海へ投げる。全然飛ばずに、かんたんに落ちた。波紋も少ししか広がらなかった。
「職は失うだろうな。どう生活していけばいいのか分からない。生きていたくもないが、死ねないからどうしようもないな。お前に言われたとおり苦しんで生きるしかない」
昨晩布団のなかで出した結論だった。
「お前もせいぜい苦しめ」
『いかないで』
「はぁ?」
成り立たなかった会話に大声をあげてしまった。
「ふざけるな。俺を喰いもせず、死のうとしたのに助けやがって。ここにいたって俺には稼ぎがないし生活の手段がないんだ」
口をついて出た言葉に自分自身で驚いた。
待ってくれ。稼ぎがあれば、生活の手立てがあれば、俺はここにいたいのか?
「……帰る」
苛々する。
あんな人外生物から引き止められて動揺するなんて馬鹿げている。
一方で自発的に調べたのも、会話をせず時間を共有したのも、半魚人が初めてだった。明らかに、俺は奴に興味を持っている。あんな気味の悪い生物に。
否。
見た目は気味が悪いけれど、哀れさは俺に似ていた。
苛立ちの原因は己を見ているようだから。ただの同情心だ。何度も言い聞かせる。
「くそったれが」
「あら、こんなところにいらしたの?」
はっと顔を上げる。不快感と嫌悪感が肌をなぞっていく。
目の前に笑みを貼りつけた若女将が立っていた。
俺は踵を返すと一目散に走りだした。地理はだいたい把握している。
「お待ちなさい」
しかし若女将の方が圧倒的に土地勘があるのも事実だ。そして、人魚の血肉の所為か、体力も向こうの方が上回っている。
俺はひたすらに走った。
ついにスニーカーの底が破れる。かまわずに走る。走る。
息が切れる。捕まってしまえば一巻の終わりだ。それだけはなんとしても避けなければならない。
「くそっ、化け物か」
「そんなこと言わないでくださいな」
声にならない悲鳴が漏れた。
道筋を考えて走っていた筈なのに、いつの間にか俺は船着き場へと追いやられていた。視線の先には見慣れた水平線。立っているのは地上ではなくて海上に一本伸びたコンクリートの上。海へ飛びこんだとしても捕まってしまうように思えて行動に移せない。
ゆっくりと振り返る。
若女将が妖艶に口元を歪ませ、懐から香を取り出した。
野外とはいえ匂いを嗅いではいけない。鼻を手で覆い隠す。
シャツの胸ポケットを探るが人魚の鱗はどこにもなかった。一体どこで落としてきたというのか。焦りが募る。
「誰でもいいなら俺以外を当たってくれ。そういうことに興味はないんだ」
努めて平静を装ってみるものの若女将には効かないようだった。
「若くて元気な男性がほしいのよ」
距離を取ろうとして、俺はどんどん海へと下がっていた。このままだと海へ落ちてしまう。
一歩一歩若女将が近づいてくる。歌うように、囁くように、手招きをしてくる。
「こわいことなんてありません。わたしが手取り足取り優しく教えてあげるから、こちらへ……こちら側へいらっしゃい」
香が僅かに効きはじめているのか、視界が悪くなり、体が動かなくなってくる。
万事休す、か。
目を瞑り歯を食いしばる。
白くて長い指先が俺に触れそうになった瞬間だった。
——激しい水飛沫が上がって若女将が海に落ちた。
一瞬にして灰色の海が真っ赤に染まる。
真っ赤? そう、絵の具をぶちまけたかのような、赤色だ。意味を理解して、途端に、腰が抜けてへたりこんでしまった。
浮かんできたのは半魚人だった。魚の部分だけを水面に出している。
口元が鮮やかな朱色に染まっている。
「お前、若女将を」
震えて掠れて、それ以上、口にすることはできなかった。
死とはこういうものなのだ。いかに自分が理解していなかったか圧倒的に思い知らされる。奥歯ががたがたがと震えていた。
『おまえがいきているのをみるとくるしい』
半魚人が、真っ赤な口で。いかないで、とのたまった同じ口で言う。
『だけど、うれしい』
感情の読み取れない丸い目が、俺を見ていた。
『これは、なんだ』
「知るか……」
気を奮い立たせるので精一杯だった。
半魚人が姿を消した後も、脱力したまましばらく動けなかった。