(8)
*
3件の死亡現場に俺は花を手向けた。
……叶わぬことだが、俺が代わりに喰われればよかったのだ。
この町に来て、すっかり忘れていた『死にたい』という気持ちが蘇ってしまっていた。
連続殺人事件の犯人も半魚人というオカルト的結末だった。東京へ戻ってもくびにされるだけだろう。
どうして俺はのうのうと生き延びてしまっているのか。
飯を食って、眠る。それしかしていないし、できない。忌み嫌われ、疎まれている。そんなもの、姿形が違うだけで俺と半魚人のどこに違いがあるのだろうか。
半魚人がいつの間にか隣にいた。視認せずとも生臭いのですぐに分かる。視線を向けずに問いかけた。
「俺を喰らう気になったのか?」
『もう、やめた。にんげんは、たべない』
「お前、人魚の双子の姉なのか」
半魚人は答えなかった。
「憎しみは的外れだった、と言ったな。お前は、幸福になった人魚を憎んでいたのか」
俺だって、幸せを手にした者を憎む感情なら、誰よりも強く持っている。
「俺は俺以外の人類すべてを憎んで生きてきた。どうして俺ばかりが不幸な目に遭うんだと思い続けてきた。お前より俺の方が、烈しい憎しみを持っている。だけど、もう、どうでもいい」
俺は躊躇うことなく足から海へ飛びこんだ。
*
海水を吸ってどんどん重たくなっていく服は錘のようだ。口から空気が漏れて大きな泡が出ると同時に、目が勝手に開いた。
光が射さない海は色を持たない。
視界も、ない筈だった。
——金色の光が胸元から溢れる。人魚の鱗が、作用している。
目の前に同じ光の色をした長い髪の少女がいた。
大きくて蒼い瞳で俺を見つめている。
美しい少女だと、思った。
下着すら纏っておらず裸のようだったが、僅かに輪郭が光ってぼやけている。足は見えない。つまり、鱗が造りあげた幻覚だ。
人魚の幻を、俺は見ているのだ。
……徐々に意識が遠のいていく。半魚人に喰われなくても、なにかの餌くらいにはなってくれるだろうか……。
*
視界が見慣れた灰色だった所為で、俺はまたもや死ねなかったのだと気づく。腕を空へ伸ばして、手を握ったり開いたりした。感覚が全身に伝わってくる。
やはり、生きている。
仰向きに寝かされているようだった。傍らに立つ半魚人から水滴が滴り落ちている。こいつの仕業だということは一目瞭然だ。
「……どうして助けた」
『おまえもくるしめばいい。くるしんでいきろ』
「酷な話だ。お前から強制される謂われはない」
ゆっくりと半魚人が言葉を絞り出す。
『あのこばかりがあいされていた。わたしはいらないこどもだった。
ほめられるのも、もとめられるのも、あのこ。
あるひ、ちじょうへいくといいだした。
みんながはんたいした。だけどあのこはでていってしまった。
わたしはのこされて、ますますせめたてられるようになった。
あのこはきっとちじょうでもあいされるんだろうとおもうと、わたしは、わたしは』
徐々に金属音ではなく、人間の少女のような囁き声に聴こえるようになっていく。透明感のある滑らかな音。
金属音とは違っていつまでも聞いていられるような心地よい音だった。
その所為かは分からないが、他人なんて慮ったこともなかったのに、気づくと半魚人の気持ちを想像してしまって、その先の言葉が容易に理解できてしまって、何故だか息苦しくなってきて言葉を遮る。
「お前のことなんて知らない。それなら、お前のいないところで死んでやるだけだ」
半魚人は反論せず、海に飛びこんだ。
飛沫が顔に当たる。
海水がしょっぱいということを、初めて体感した。起き上がって頬を乱暴に拭う。
胸が張り裂けそうに痛かった。
こんなことも初めてだ。きっと、海に飛びこんだ所為だ。ちくしょう、と独りごちる。
*
結局、行く当てもなく、御蔵家へと戻ってきてしまった。
すると御蔵妻と誰かが軒先で話していた。反射的に生け垣へ身を隠す。物陰から聞き耳を立てて、その選択肢は正解だと感じた。
相手は民宿の若女将だった。
「ごめんなさいね。もしかしたらいるかなと思っただけなんです」
「東京からのお客さまのこと? 一度それらしき青年は見かけたけれど、貴女から連絡が来る前だったから分からないわ」
俺を捜しているのだとすぐに察する。
体が硬直する。ここにいることを決して気づかれてはいけない。
「もう何日も経っているし、東京へ戻ったんじゃない? 諦めなさいな」
「彼、人魚の鱗を持っていたんですの」
「……」
「絶えず伴侶に恵まれてきた貴女はいいでしょうね。わたしのようにすべての子が亡くなってしまっていないんですもの。えぇ、この辛さは貴女なんかには分からないでしょうね。わたしはこの血を絶やすわけにはいきませんの。奇祭までに必ず見つけ出して虜にさせますから。人魚の血肉も口にさせれば、永遠の繁栄も夢じゃありません……。今度こそ手に入れてみせる、永遠を」
粘度の高い毒だ。
言葉だけじゃなくて、その態度が、纏う空気が、毒であり棘だ。傷つける為に絡みついてくる
嫌悪感が蘇り、吐きそうになる。
絶対に見つかってはならないと決意を固くする。
去って行く足音に耳をそばだてて完全に気配が消えたのを確認すると、俺は御蔵家の扉をノックした。
先ほどの会話などなかったかのように御蔵妻は相変わらず気立てのよさを全面に滲ませている。しかし俺の衣服がずぶ濡れになってしまっていることには驚いて、口元に手を当てた。
「あら、海水に浸かってしまったの? そのままだとよくないから、水でも浴びたらどうかしら」
「すみません」
「謝らなくていいのよ。ほらほら、お風呂場へ行ってらっしゃいな」
俺は素直に従った。
洗濯してもらっている間には御蔵夫が若い頃に着ていたという深緑色の甚兵衛を借りた。ゆったりとしていて着心地がいい。
麦茶まで入れてしまってもらい、大人しく居間でちびちびと飲む。
俺ごときの所為であんな毒を振りまかれた御蔵妻に対して申し訳なかった。
「お? 懐かしいものを着ているな! 俺の方が男前だけどな!」
がははと豪快に笑いながら御蔵夫が帰ってくる。既に飲んでいるようで赤ら顔になっていた。
茹でたての枝豆をつまみに、御蔵夫は焼酎を開けた。
「たまには飲むか? 飲むだろう?」
空いたグラスに焼酎を注がれてしまう。嗅いだことのない強烈なアルコールの匂いがして眉を顰める。
大きな氷が涼しげな音を立てながら白熱灯を受けて瞬いている。
一気に飲み干すと喉の奥に火がついたように熱くなった。全身が、ゆっくりと弛緩していく。
「おい? だ、大丈夫か?」
大丈夫では、ない。
俺はグラスを卓袱台に置くと、座っていることもできなくなって畳の上に仰向けになった。畳の冷たさが丁度いい。とにかく体が熱いのだ。
世界が歪んでいく。動いていないのに回っている。
「大丈夫じゃ、ない。俺には、どこにも行く場所なんて、ない」
勝手に言葉が出てくる。出てきて、しまう。
「物心ついたときからどんな場所にいても居心地が悪かったんだ。どこにいても自分の居場所がなかった。周りがどんなに優しくしてくれても信じることができなかった。施設のひとたちだって大事にしてくれていたのは分かっていたんだ。なのに、自分はここにいてはいけない、早く出て行かなきゃという気持ちに責め立てられて生きてきた。だから、20歳になったら死のうと思っていた……。俺はただの死に損ないなんだ。生きていていい場所なんてどこにもない」
異変を察した御蔵妻が駆け寄ってきて、俺の頭を膝の上に載せた。コップを傾けながら少しずつ水を飲ませてくれる。喉を冷たい感触が通っていく。
「この町もそうだ。居心地が悪い。なのに、どうしてあんたたちは、こんな生きる価値のない俺に、優しくしてくれるんだ」
「おい、タオルを濡らして絞ってきたぞ」
御蔵夫が冷たいタオルを額に当ててくる。そんなに慌てるならどうして飲ませたのだと文句を言ってやりたいのに、言葉はもう出てこなかった。
ふたりに対して、偽善者と罵ることができない。今まではずっとそうしてきたのに。踏みつけて受け取らないようにしてきたのに。優しさを受け取る価値なんてない人間だから。
そんな心の奥底にある気持ちを、酒が入ったことで簡単に白状してしまうなんて、誰にも話したことのない感情を吐露してしまうなんて。きっと御蔵夫妻も困惑しているにちがいない。
最終的には見捨てられてしまうだろう。いつだってそうだった。
ふわりと、御蔵妻が俺の髪の毛を撫でてきた。
母親がいたらこんな感じだったのだろうか、という思考が自動的に浮かび、また、そんなことを考えてしまった自分を責めたくなる。
「そうね。生きる価値が貴方にあるかどうか、わたしは知らないわ。だって、価値があるかどうか決めるのは、わたしじゃないから。わたしに言えることは、ただひとつ、……」
肝心な部分を聴きたかったのに、俺の意識はまたもや遠のいていくのだった。