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(6)


 俺は神社への坂道をひとりで登っていた。

 軽トラックでも悪路だと感じたが、歩くとそれ以上だった。山肌に沿って造られた道路は見事なまでに迂曲している。整備されていない地面はところどころ隆起していて真っ直ぐ歩くことは難しい。

 港に一晩いた所為で肌寒く感じていたのに、汗が滲んできた。その度に袖で拭う。やがて息も切れはじめた。

 山肌に背中をもたれかけて、空を仰いだ。

 曇天の町は名に恥じぬくらいに曇っている。


 この前向きな投げやりさは、どこから湧いてくるのだろうか。考えてみたけれど、若女将に襲われたことが引き金となっているのは確かだった。

 あの瞬間から説明のできない不快感が全身を血液のように巡りつづけている。


 生物の根本は、遺伝子を残すことだ。

 だが俺は自分の遺伝子を残したいだなんて思ったことがないし、そんな行為で勝手に生を受けてしまった己のことを憎んでいる。記憶にない両親のことを恨んでいる。

 だから俺には、やはり生きている価値などないのだ。

 生きていることが気持ち悪くてしかたないのだ。


 3時間ほどかけて、なんとか神社の入り口まで辿り着いた。

 疲弊した両足を鼓舞しながら拝殿の後ろへと回り込む。本殿の扉の鍵を探るとそれは簡単に見つかり、躊躇なく俺は扉を引いた。

 罰当たりな行為でもかまわない。どうせもうすぐ死ぬのだから。それでもしっかりと頭を下げて、靴を脱いでから本殿へ足を踏み入れた。


 一見すると炭の塊のような御神体に近づいて目を凝らす。人魚のように……見えなくは、ない。

 目を見開いたままの顔は少女のようだったし、上半身は裸のようだったし、下半身は魚だった。ただ、下半身は半分くらいのところで喪われていた。

 たしかに人魚のミイラだと確認すると、鳥肌が立った。

 御蔵妻の言っていたことが正しいとすれば江戸時代に人間に殺された人魚。人間に愛されて、憎まれて、殺され、最後には喰われた人魚だ。


 ひとつ引っかかることがある。

 半魚人は、人魚が死んだと聞いて驚いているように見えた。

 御蔵妻の推理は間違っていたのだろうか。

 それでもこの姿を見れば人間への復讐心も生まれるだろう。

 俺はカメラを構えて、数枚写真を撮った。きちんと写っていることを確認して、再び頭を下げ、扉を閉める。鍵も元の場所に戻した。


 再び山道を下って港へ着く頃には夕方になっているだろう。死ぬ時間としては最適だ。自然と笑みが零れ落ちた。

 ところが、歩き出してすぐに腹の虫が鳴った。

 普段運動しないくせにたくさん歩いたから当然だ。しかも昨日たらふく食べたのに今日は水すら口にしていない。

 胃の辺りを軽く叩きながら、ごまかすように俺は歩いた。しかし空腹に気づいてしまった所為で喉も渇いてくる。何度も唾を飲んで渇きをごまかす。一方で、汗によって水分は流出していくばかり。

 これくらいでは死にはしないだろうが、餓死という選択肢もあったか。もしくは熱中症。脱水症状。山道からの転落死。


 思考回路が死へと向かう。

 もういい。

 もういいんだ。……。



「おはよう」


 次に視界が明るくなったとき、俺は、古くさい臭いのするやわらかな布団のなかに寝かされていた。

 傍らで半纏を着た御蔵妻が新聞広告を丁寧に箱の形に折っていた。作業を止めると、立ちあがって冷蔵庫から飲み物を持ってくる。


「顔色、少しは戻ってきたわね。はい、これ飲んで」


 硝子のコップを押しつけられる。ゆっくりと起き上がって液体を口にするとスポーツドリンクを薄めたような変な味がした。

 再び御蔵妻は台所に向かい、背中で尋ねてきた。


「お粥くらいなら食べられるかしら?」


 室内を見回すと昨日昼飯を食わされた御蔵家の居間のようだった。壁には新聞社からもらったであろうカレンダーが貼られている。古びた掛け時計の振り子が規則的に揺れている。柱には、誰かの成長を刻んだ跡が残っていた。テレビではなくラジオがついていて、よく知らない曲が静かに流れている。


「主人は漁船を定期点検に出して、寄り合いに顔を出してから帰ってくると思うから、それまでゆっくり休んでいるといいわ。家にいると、ずっと喋っているから」


 助けられてしまったということか。やはりあれくらいでは死ねなかったかと、小さく溜息を吐き出す。


「はい。ちょっとずつ食べてね。」


 一人前の土鍋には湯気の立つ粥が入っていた。中央には大きな梅干しが乗っている。やわらかな粥を口にすると、まるで全身に染み渡るようだった。

 精神は死を求めているのに肉体は生を求めている。情けなさに涙が出そうになって、唇を噛んだ。誤魔化すように必死に粥を食べる。俺は泣いているのではなく、梅干しの酸味にやられているのだと顔をしかめてみせた。

 御蔵妻はそんな俺のことをじっと眺めてから、両手で湯呑みを持ってお茶を飲んだ。視線をお茶に落とすと、少し躊躇してから俺をまっすぐ見つめてくる。


「お守り、役に立ってしまったみたいね。探し回っていたわよ」


 背筋が粟立つ。御蔵妻の言いたいことは充分に理解できた。つまり、意図的に助けてくれたということなのか。


「こわかったでしょう。同胞として心からお詫びするわ……。かつて不老不死になったと信じていたわたしたちは、今や、不老不死ではなくゆっくりと老いていくことが分かった。だからこそ少しでも子孫を残そうと躍起になっている人間も一定の割合でいるの。あ、わたしは『あちら側』ではないから、安心してちょうだい。……信じてっていう方が難しいでしょうけど」


 思わず首を横に振った。

 胸ポケットから鱗を取り出す。これがなければ酷い目に遭っていたことは紛れもない事実だ。


「わたしはもう緩やかに終わりたい。最期は、今の主人と迎えたいの」


 俺は音の出し方をゆっくりと確認しながら、声を出す。


「……さい、ご」


 御蔵妻は微笑みを浮かべた。


「永遠に生きたいと願っていたのは、江戸と呼ばれていた頃の話だったかしら。だけど、あまりにも永く生きすぎたわ。たくさんの人間を愛して、別れを経た。もうすぐ数百年ぶりの奇祭が行われる。それを主人と観ることができたら、わたしはもう充分」

「奇祭……」

「正しくは気象現象なんだけどね。唯一、この町が晴れる日なの。……曇り空は藍色に澄みわたり、それを映した海は宇宙のように深く輝く。無数の星が流れて、海へと還っていく」


 そういえば若女将も言っていたような気がする。

 この町が晴れるだなんて想像もつかないし、海が宇宙のようになるなんてありえないだろう。

 しかし御蔵妻の回想をかんたんには否定できなかった。


「とても美しい光景だったわ。そのときは、明朝に人魚が打ち上げられていたの。もうすぐ、数百年ぶりに星が降ると占いが告げている。今回は人魚の干し肉を振る舞うだなんて宮司が言っているけれど、わたしはもう食べたいとは思わない。このまま老いて、死にたい」


 御蔵妻は笑った。

 同じ『死にたい』という気持ちを持っていても、俺と御蔵妻は違う。だからどうして笑ったのか、俺には分からなかった。

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