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(5)


 夢も希望もない俺は、施設を追い出されて、20歳になったら死のうと思っていた。安い時給で働かされる毎日。唯一の楽しみは、SNSで炎上しているなにかを見つけては糾弾することだった。俺が正義だと、主張することだった。

 20歳になる前日のこと。

 俺は鞄にスマートフォンとホームセンターで買ったばかりの、店で最も刃渡りの長かった包丁だけを入れて、家を出た。預金は当然のようになかったし、所持金はもう3桁を切っていた。

 とにかく人間がたくさんいる場所へ行こうと思った。そして日付の変わった瞬間に、20歳になった瞬間に、その場にいる人間を巻き添えにして死のうと思った。最期に世の中の理不尽を糾弾することが俺の使命だと信じて疑わなかった。

 そして、5分前。

 最後にスマートフォンを確認して、SNSに遺書を残そうとしたときだった。一通のメッセージが届いていた。


『あなたの文章に興味があります。当出版社で、まずはアルバイトとして働いてみませんか』


 驚きのあまりスマートフォンを落としそうになった。思わず、その場に両膝をついた。

 生まれて初めて誰かに必要としてもらえたと思ったのだ。

 両親に棄てられ、社会に罵られ、見放され、居場所なんてどこにもなかったこの俺のことを。

 血液が沸騰したかのように全身が熱くなった。震える手で返信を打ち、送信ボタンを押すと同時に、俺は20歳を迎えた。


 しかし現実は容赦なかった。

 出版社でも、碌に結果を残せず、罵倒される日々。

 結局のところ俺は社会にとって不要な存在なのだと再認識させられるばかりだった。


 今回が最後のチャンスなのは間違いない。

 一方で結果を残せないのだとしたら、人魚に殺されるのも悪くはないだろう。

 誰にも祝福されずに生まれて、意味を持たずに生きてきたのだから、最期くらいは惜しまれたいのだ。それくらいの願いは許されるだろう。


 そんなことばかりを考えていたが、半魚人は現れなかった。



 民宿に戻ったのはすっかり日の暮れた頃だった。

 受付にいた若女将に会釈して部屋に戻ると、木を蒸したような、独特な臭いの蚊取り線香が焚かれていた。昨日の浴衣の香りをもっと強くしたようなものなので、虫除けなのだろう。

 既に布団も敷かれていたので、着替えるのも面倒だし、風呂に入る気力もないし、そのまま横になる。部屋の電気を消すと今日一日でたくさんのことがあったから疲れていたのだろう。緩やかに手足の先が痺れてくる。


 不意に痺れに違和感を覚えた。

 これは、なんだ?

 いつの間にか金縛りのように全身が動かない。脂汗が滲む。


 すっ、と障子が開いた。


「香がしっかりと効いているようですね」


 暗闇の中で話しかけてきた声は、若女将のものだった。俺の脇に正座すると、滑らかな手の甲で頬を撫でてきた。

 触れられたことで悪寒が走る。なんだ、これは。何が起きているんだ。


「久方ぶりの男性の、しかも、お若いお客さま。お代は要りません。わたくしがいただきたいのは、種でございます」


 鈍感な俺にも理解ができた。

 布がするりと床に落ちる音が聞こえて、上に覆い被さられる。不快感でいっぱいになるが、体が動かない。動かせない。助けてくれ。闇のなか、女の顔が近づいてくる、


 ——そのときだった。


 稲妻が落ちたかのように白い閃光が弾けた。


 若女将が飛び退いたのと同時に金縛りが解けて、俺は急いで飛び起きると部屋の明かりをつける。

 一糸まとわぬ姿の若女将が、俺のことを睨みつけていた。

 視線の先は俺のシャツの胸ポケットだ。光が漏れている。つまみ出すと、人魚の鱗といわれた欠片が入っていた。まだ鱗からは微かな光が放たれている。


「どうやってそれを手に入れたのです……!」


 答える必要はない。

 俺は部屋の脇に置いていた鞄を手に取ると、動揺している若女将を見ないようにして部屋から飛び出た。

 民宿から逃げるように走り出す。

 だんだん状況が飲み込めてくる。物心ついてから泣いたことなんてなかったのに、またもや涙が頬を伝う。必死に拭いながら走る。走る。俺は、この町へ来てから全速力で走ってばかりだ。

 気がつくと真っ暗な港へ辿り着いていた。消えかけの街路灯がかろうじて視界を助けてくれる。

 胃から不快感がせり上がってきて、立ち止まると俺は昼間に食べたものを海へすべて吐き出していた。


 俺を狙っていた人魚の欠片を体内に有する者、というのは、若女将だったということか。

 もし鱗がなかったらどうなっていたか分からないと考えると、肌が粟立つ。寒気がする。再び吐いたが、もう胃酸しか出てこなかった。

 民宿へはもう戻れない。

 今晩は、野宿で夜を明かすしかなかった。

 曇天の町は相変わらず、水平線を曖昧にしている。夜なので闇はいっそう濃くなっていて、引きずり込まれてもおかしくなかった。

 波の打つ音が時々聞こえてくるくらいで、夜の海は、ほんとうに静かだ。

 ちくしょう。どうして俺ばかりがこんな目に遭わなければならないんだ。


「半魚人、いるなら出てこいよ!」


 声さえも海に吸いこまれていくようだ。それで届くなら、上等だ。


「人間を殺して復讐したいなら、ここに恰好の奴がいるぞ!」


 ざぱ、……ん。


 呼応したのかは分からないが、何かが水面に浮き上がってきた。

 半魚人が、魚の部分だけを水面から出して、こちらを見ているのが分かった。

 感情の乏しそうな丸い目だ。

 足が見えなければ巨大な魚だ。大きさにはおののくが最初に比べれば恐怖心は少ない。


「なぁ、四人目の犠牲者にどうだ? 町の人間に話を聞いた。何百年も前にこの町に打ち上げられた人魚は、地主と結婚したのに無残にも殺されて、喰らわれたと。ミイラのようになって祀られている姿を見た。お前は、人間に不当な扱いをされた人魚のことを嘆いているんだろう。そして人間に復讐することを決めた」


 俺は鱗を取り出して翳してみせた。先ほどと違って光ってはいないので、もしかしたら半魚人には見えないかもしれない。


「これがその人魚の鱗だ。どうだ、悔しいか」


 反応はなかった。しばらくすると半魚人はそのまま沈んでいった。黒い海の表面に無数の白い泡が残像のように浮かんで、やがて弾けて消えていくのを、体育座りでずっと眺めていた。


 眠れないまま、夜が明けた。

 スマートフォンの充電はいつの間にか切れていた。日課はすっかり忘れていたし、どうせ連絡をしてくるのは出版社くらいだ。困ることはない。


 不意に、右肩に雫が落ちてきた。生臭い臭いが鼻をつく。顔をあげるといつの間にか半魚人が俺の右側に立っていた。

 不思議と恐怖心は薄れていた。


「俺を喰ってくれるのか」


 投げやりに問いかける。

 すると喉の奥から、ぎりぎりと、金属どうしをこすり合わせるような音がした。やがてそれはまとまっていき、なんとか言葉として聴き取れる音になる。


『にんぎょが、ころされたと、いうのは、ほんとう、なのか』


「……? 本当だろう。そうやって説明されたし、ミイラのようなものも見たし、なによりこれが人魚から剥がした鱗だと言われた」


 自分でもおかしなことだとは思ったが、半魚人に対してまるで人間と話すかのように答えていた。一睡もしていないから思考回路が働いていないのだろう。

 再び御蔵妻から渡された鱗を提示すると半魚人はじっと鱗を見つめてきた。


『しがいは、まだ、そんざいしているのか』

「あぁ。なんなら、写真を撮ってこようか。その代わりに、ひとつ頼みを聞いてほしい」


 立ちあがると、半魚人と目線が合う。

 もう畏れは抱かなかった。


「俺を喰ってほしい。俺のことを、殺してくれないか」

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