(3)
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目覚めは日の出前。
アラームに頼らなくても起きられるのは習慣によるものだ。
仄暗い室内でのっそりと起き上がる。重たくうねった髪の毛を掻きむしる。
枕元に置いた黒縁眼鏡を手探りで捕まえてかけると、照明をつける前にスマートフォンを見た。
昨晩の晒しがどこまで拡散されたかを確認するのは、朝の日課だ。そこそこに拡散されていた。昨日のものはそこまで大きな犯罪ではなかったからしかたない。
ようやく明かりをつけて眩しさに目を細めた。顎に手をやると少し髭が伸びている。しかし、剃るほどのことではない。ゆっくりと起き上がると、持ってきた着替えに袖を通した。
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外は少し肌寒く、薄手のジャケットだと身に堪える。
日の出の時間が近いようで、雲は分厚いながらも僅かに橙色の強い光が滲んでいた。
頭部の失われた死体が発見された三件目の殺人現場は、前の二件の起きた場所からは離れている。
上司に渡されたメモ入りの地図を広げながら防波堤沿いに歩くこと20分。
町の外れ、港の端の端に到着する。小さな離島へ渡る為に建設されたらしい自動車用の橋のたもとに到着した。青い塗装は潮風でところどころ剥げていて錆が浮かんでいる。長い間修理されていないようだった。
ここには会議机の献花台が設置されていた。新しいものから枯れているものまで、無造作に積まれている。犠牲者について個人的なことは興味がないが、いずれも20代の男性だったという。一緒に置かれている缶コーヒーと煙草は恐らく故人の好みだろう。
献花台の前で両手を合わせて頭を下げる。
目を閉じると、不意に生臭さが鼻についた。異常な臭いに顔を上げて辺りを見渡す。
今度は、びた、びた、という濡れた足音が耳に届く。人間のものにしては水気が多すぎた。
嗅覚と聴覚に届く違和感。
次は、視覚だった。自分の目を疑うしかなかった。眉を顰めて、左の方を見遣る。
50mほど左に、人間ではありえないシルエットを確認したのだ。それは何回瞬きしても消えない。やがて、『なにか』を視認した途端に背筋が粟立つ。
——立っていたのは、俺と同じくらいの背丈をした、半魚人。
的確に表現するとしたら上半身が丸みを帯びた魚で、下半身には人間の足が2本伸びて地面に接している。
鱗の色は薄い金色。体の右側は僅かな日の出の光を受けてぎらぎらと輝いていた。
ぎょろりと丸くて黒い目が俺を捕らえる。
口がぱっくりと開く。人間を丸呑みできそうなくらい大きな口のなかに、小さなぎざぎざの歯が並んでいた。
そのとき直感が告げた。
——喰われる。
何が人魚伝説だ。何が連続殺人事件だ。
半魚人がその正体だったと、犯人だったということか?
妖怪が人間を喰らっていたなんて誰が信じる?
今この場にいる俺だってこの目を疑っているというのに。
違う。
今はそんなことを悠長に考えている場合じゃない。
震える両足を拳で強打する。
ありったけの大声を振り絞って叫ぶと、奴が次の行動を起こす前に、全力で逃げだした。
どこまでどんな速さで追いかけてくるかは分からない。しかし海から離れればなんとかなるかもしれない。
必死に走った。気づけば涙が頬を伝っていた。ひたすら恐怖でしかなかった。
「おい、どうした?」
明らかに俺へ向けた声に、全身が針で刺されたように震えた。いつの間にか傍らで軽トラックが並走していた。昨日の男が窓から顔を出して話しかけてきていた。
……人間だ。俺は息切れしながらもようやく立ち止まることができた。
「昨日の兄ちゃんじゃないか。泣きながら走るだなんて何かあったのか?」
*
「あらあらまぁまぁ。昨日の観光客さんじゃないの」
無理やり軽トラックに乗せられて、俺は男の家まで連れてこられた。
背の低い生け垣に囲まれた、庭のやたら広い長屋だ。庭には屋根つきの駐車スペースと洗濯の干し竿と、手入れされた低木が並んでいる。
縁側で女が果実を拭いては笊の上に干していた。
「泣きながら走っていたから連れてきた。茶でも出してやれ」
「はいはーい」
「座れ」
女は立ちあがると軽やかに室内へ入ってく。
俺は促されるままに縁側に腰かけた。涙の跡はすっかり乾いていたが、気力は戻ってこない。男の強引さになすがままにされていた。
「はい、どうぞ」
女が盆に載せてぬるめの煎茶を出してくれたので一気に飲み干す。染み渡るとはまさにこのことか。ようやく生きている心地がした。
すると女が俺に顔を近づけてきて、臭いを嗅ぐような仕草を見せた。穏やかな表情だったのが一変して眉間に皺が寄る。思わず俺は仰け反った。
「お兄さん、今日、この町で用事がありますか?」
突然尋ねられて反射的に首を横に振る。
「ちょっとお清めが必要かもしれません。主人に車を出してもらうので、お連れしたい場所があります」
お清めだと?
一瞬何を言われたか理解できなかった上に、理解すると再び背筋が粟立った。物々しい提案だ。普段なら馬鹿馬鹿しいと吐き捨てるところだが、今の俺にとって、お清め、という言葉は是非とも縋ってみたいものだった。
「どうした」
男が女の様子に気づいて問いかける。
「お兄さんを神社へお連れしたいんだけど、いいかしら?」




