(2)
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曇り空を完璧に写しとった灰色の海は、水平線を曖昧にさせている。
波は穏やかで時折砕ける音が聞こえる。
煉瓦色をした係船柱の脇に花束が積まれていた。すっかり萎れてしまったものから、瑞々しく鮮やかなものまでさまざまだ。間違いなく犠牲者を悼むものだろう。
俺は目を閉じて、両手を合わせた。
そして膝をつくと写真を撮影する。撮れるものは何でも撮っておく。
第二の殺人はそこから5分ほど歩いた場所で起きたという。潮風で傷んだ掘っ立て小屋にも、同じように献花がされていた。同じように、俺は手を合わせて犠牲者の冥福を祈る。
「あんた、観光客かい?」
すると背後から声がした。振り向くと、50代ぐらいの髭を生やした、恰幅のいい男が立っていた。薄汚れたクリーム色の作業着に身を包んでいる。
「人間が死んだ場所を撮るなんて趣味が悪い」
少し訛った口調で不快感を露わにしてくる。
正義というジャーナリズムは、一般的に知らしめられるまではなかなか大衆には理解されにくいものだ。
男の言葉を肯定も否定もせずに、背を向ける。
「今にも罰が当たるぞ。おい、聞いてんのか?」
しかし男は近づいてきて、右肩を掴んで無理やり振り向かせようとしてくる。
反射的に男の手を払う。他人には触れられるだけで吐き気がする。
きつく睨みつけたのが予想外だったようで、男の表情に惑いが滲んだ。
「な、なんだ。お前さんが犠牲者にならないように、こっちは気を遣って忠告してやっているのに。そんな態度はないだろう」
たじろぐ男の後ろからさらに声が響いた。
「お父さん、なになに。どうしたの?」
町には似つかわしくない明るい声だった。
紺色の半纏を着た、男よりもかなり若い女だった。烏の濡羽色をした長い髪の毛を後ろでひとつに束ねている。民宿の若女将と違って化粧っ気はないが瞳がやけに大きい。瞬きをする度に睫毛が大きく上下する。
男と俺の間に流れる空気に何かを感じ取ったようで、俺に向かって微笑みかける。
「ごめんなさいね。うちの主人が、嫌な思いをさせましたかね」
「違うぞ。こいつが変な写真を撮ろうとしてるから心配して」
「見てないのにそんなこと言っちゃだめよ。気遣えるのはいいことだけど、お節介になりすぎないようにね。さぁ、帰りましょう」
男は反論したそうにも見えたが、唾を飲みこむとしぶしぶと踵を返した。
小さく頭を下げて、女は付き添うように去って行った。
ちぐはぐな夫婦だ。
しかし、闖入者たちにすっかりと気を削がれてしまった。三つ目の現場へ行くのは明日の日の出に合わせよう。
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民宿で用意された夕食はやたらと豪華だった。
数種類の刺身、脂の乗った焼き魚。山菜らしき和え物と根菜の煮物。固形燃料の炎一合ぶんの釜飯が炊かれている。
ビールを勧められたが美味さを理解できないので断った。
若女将は宿泊客がよほど嬉しいらしく、こちらの返答はおかまいなしに饒舌をふるってくる。
「少し町を散策されたみたいですが、いかがでしたか? 寂れていてびっくりされましたでしょう。おまけに雲は分厚いくて太陽がちっとも見えなくて。この町はなかなか晴れることがないので、かつては曇天町と揶揄されることもありました。晴れるのは、数百年に一度行われる奇祭の夜くらいです」
俺が眉を顰めると、若女将は口元に手を当てて驚いた仕草をしながら微笑んだ。
「あら。その取材に来られたのではないのですか? この町が、かつて、人魚伝説で一躍有名になったのはご存知でしょう」
知識としてはあるので頷く。
「残念なことに銅像は戦争で失われてしまいました。金属はすべてお国に持って行かれてしまったからです。しかし、かつて、この町では不老不死を求めて人魚の血肉を食べていたのです。そして、次の奇祭では振る舞われるんです……」
若女将は微笑んでいたが、瞳の奥は暗く底がないようだった。
「人魚の肉を、干したものが」
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内風呂はシャワーで済ませた。きちんと折りたたまれて糊のついている浴衣を適当に着る。木のような不思議な香りがしたが、洗剤由来だろうか。
鞄の中に入れたままだったペットボトル入りのミネラルウォーターはぬるくてまずかった。備えつけの冷蔵庫へ乱暴に突っ込む。代わりに小さな缶の緑茶が入っていたのでそれを一気に飲み干した。
スマートフォンを開く。
SNSでの、夜の日課。
未成年の飲酒や喫煙画像を探す。違法な自動車運転の動画を探す。他にも痴漢、動物虐待、薬物、……。とにかく求めているのは犯罪を馬鹿丸出しで主張している奴らだ。そして俺は、SNSの治安を維持するさながら警察官。奴らを晒し、俺と同じように正義を欲している奴らの元に放り込む。さらには、自ら複数の捨てアカウントから攻撃を行う。
この一連の行為がなによりも至福であり快感だ。
今日も10件ほど晒すと、自然に口元が綻んでいた。
満足したので丁寧に敷かれた布団に仰向けになる。天井を見上げると古くさい四角い照明から、明度調節用の白い紐が伸びていた。
段階的に引っ張って室内を適度な暗さにする。
それにしても馬鹿げた話だ。
人魚なんてものが実在するなど、オカルトの与太話にも程がある。
そんなものに興味はない。俺が求めているのは現実世界の、人間の悪だ。
やがて睡魔が全身を包み込んでくる。
ひとり分の布団で、しかもやわらかなもので寝られるなんて、俺にとっては人生で一度あるかどうかのことだった。
指先まで痺れているような、どろりとした沼に浸かっているような感覚に襲われる。長旅の疲れもあったのだろう。意識はあっという間に睡眠の世界に吸い込まれていった。




