(10)
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「上達したな!」
御蔵夫が満足そうに頷いた。
朝の野菜収穫は日課となっていた。プチトマト、きゅうり、ピーマン。なす。大葉。
水やり、雑草抜きもやるようになっていた。
「ほんとうに明日帰っちまうのか? いつまでもいてくれたっていいんだぞ」
「収入がないと暮らしていけないので」
「ちぇっ。せっかく会話もしてくれるようになったっていうのによ」
今度は心底残念そうに口を尖らせる。
この男のある意味での純粋さが、御蔵妻にとってはいいのだろう。今となってはなんとなく理解できる。……共感はしないが。
「なぁ、お前さんは、流れ星にどんな願い事をする?」
不意の質問だった。作業の手を止めて御蔵夫を見る。
御蔵夫は子どものように瞳を輝かせていた。
「今晩数えきれない流れ星が見られるんだろう? ひとつだけじゃなくてもいいと思うと、わくわくするな」
「……願い事なんて思いつかない」
「なんとなーく分かってたけどつまらない回答だな」
「御蔵さんは、奥さんのことをどう想っているんだ」
逆に質問を返すと、御蔵夫はきょとんと目を丸くした。
「野菜以外で質問をしてくれたのは初めてだな。大事な女房だよ、器量もいいし、気立てもいい。あいつは最高の女だ」
「そうじゃなくて、人魚の」
「あぁ」
質問の主旨を一周遅れで理解した御蔵夫は、顎髭に手をやった。真剣な表情を見たのは初めてだった。
自分よりも長く生きているのに老いていかない妻と結婚しようと思った理由を知りたかった。御蔵妻はああ言っていたが、御蔵夫の方が先に亡くなるだろうから。
老いて。置いて、いってしまうだろうから。
「俺もン十年前よそから来たとき、にわかには信じられなかったけれど。不老不死がなんだ。あいつはあいつだ、はなは、俺の愛する女だ」
しかし辿り着く結論は同じらしい。
尋ねた俺が愚かだった。御蔵夫はまっすぐに考えて行動する男だ。
「改めて言うとなんだかこっぱずかしいな。お前も晩までにちゃんと願い事を考えておくんだぞ! 後から訊くからな」
「話したら叶わないのでは」
「いちいちつっこむな」
後頭部を軽く小突かれる。いつの間にか、それもいやではなくなっていた。
*
御蔵家での最後の食事はこれまで以上に、卓袱台に並びきらないほどの量だった。巨大な海老の塩焼きや、分厚い肉のステーキまであった。煮物も、味噌汁も、すべてがとても美味しかった。
そして、俺は着物に着替えたふたりを玄関先で見送る。
御蔵夫は灰色。御蔵妻は群青色の、きちんと仕立てられた着物だ。御蔵妻は化粧をしていたし、御蔵夫は気乗りしないようだったが髭も剃って、つばのある帽子を被っている。
それだけ奇祭というのは神事として町の住人にとってたいせつな行事らしい。
「晩ご飯はお昼の残りを適当に食べてね。鍵は植木鉢の下に入れておいてちょうだい」
「はい。分かりました」
「おい、行くぞ」
俺は今晩御蔵家に泊まっていいと言われていた。
御蔵夫は既に生け垣の外で、正装に慣れないのかぎこちなくしている。
「次は主人の船も定期点検から戻ってきてると思うから、一緒に海釣りをしましょう。いつでも待ってるからね」
御蔵妻が俺の体を両腕で抱きしめてきた。
不意のことに涙腺が緩みそうになって、下唇を噛む。泣きそうになっているのを知られたくなかった。平静を装って答える。
「……考えておきます」
「貴方を見ていると、若い頃の自分のよう。だからわたしは、貴方の幸せも祈ってるわ。東京へ戻っても元気でやるのよ」
「おーい、はなー!」
御蔵夫が御蔵妻を急かす。
体を離すと、行ってきますと笑ってくれた。思わず手を振ってしまう。家主である夫妻を見送ることも、自ずと手を振ってしまったことも、違和感があって少し可笑しかった。
布団を丁寧に畳み、客間をきれいに片づけた。
夜を明かしたらそのまま始発で東京へ戻るつもりでいる。立つ鳥跡を濁さず。あいにく、飛べる翼なんてないが。
カメラに収まっていた人魚の写真を消すと、俺は身一つで港へ向かった。
*
空を見上げると、あんなに分厚くて重たかった雲が徐々に消えていく。
憂鬱な灰色から澄んだ藍色へと移り変わる。満月が光を溢れさせ、それに伴って海の色も空を写しとるように変化していく。
色が、光があるだけで、世界はこんなにも違って見えるのか。
俺はひときわ見晴らしのいい防波堤を見つけて座り、海に向かって足を伸ばす。
月の光に見覚えがあると思ったが、人魚の鱗が光ったときとよく似ていた。
そもそも月を見たのはいつ以来だろうか。東京にいたって月を自発的に見た記憶はない。視線はいつもスマートフォンに向けていた。常に、下を向いて歩いていた。
気づくと生臭さが漂っていた。半魚人が、黙って俺の隣に座っていた。
半魚人も空を見上げる。
藍色に澄みわたる空。海は、宇宙のような深淵を完璧に映していた。
ひとすじの星が流れたのをきっかけに、無数の流星が空を流れていく。やがてその光景はありえないものとなる。
星は光となって、次々と海へ吸いこまれていく。飛沫が上がらないのを見るとどうやら隕石ではないらしい。気象現象の一種なのだろうか。最初のうちは分析を試みたがすぐに諦めた。
この町はいつだって不思議なことばかり起きてきたじゃないか。
たくさんの光が海という宇宙へ消えていく様は、心を震わせるには充分すぎた。
ただ見とれていた。その美しさに。
「願い事、か……」
光が無数に降ってくる。
「誰かに言ってもらいたかったな。生きてていいよ、って」
それすらも叶わない人生だから。
そのとき、左手の甲になにかが触れた。
左側を向くと、海の中で目にした少女が、裸で座っていた。
金色と銀色を混ぜたような色の長い髪が、雫を垂らしながらゆるやかにコンクリートの地面についていた。肌は透きとおるような白さ。晴れた日の海のように、澄んだ蒼い瞳をしていた。
少女の手が、ふんわりと俺の手に重なっていた。
思わず息を呑む。驚きのあまり瞬きを繰り返すが少女の姿はそのままだった。
「まさか、お前」
——人間に、なれたのか?
願いが叶ったのか?
尋ねることはできなかった。
少女は遠くを見つめたまま、無表情のまま、ほんの少しだけ首を傾げてみせた。透明感がありながらも、唇と頬は僅かに紅を差したような色をしている。
やがて星の降り方は激しさを増す。
まるで雨のように。雪のように。
水面には色とりどりの傘が開いて、光を受けていた。目を凝らすと、それらは海の生き物たちのものだった。それらもまた、流星群を見に現れていた。
不思議な光景だった。
いつしか少女の左手にも金色と銀色を混ぜた色の傘があって、彼女と俺を守ってくれている。
『うたっている、くじらが。ひとりぼっちのくじらが、だれにもきづかれないまま』
鯨の歌? 52Hzで鳴くという鯨のことが脳裏によぎる。
突として少女が俺のことを見た。射貫くような蒼い双眸には俺の姿がくっきりと映っている。
『あなたをあいしたいと、うたっている』
俺への言葉ではないことくらい理解している。
それなのに、気づくと、次から次へと涙が頬を伝っていた。
どうして泣いているのか自分でもわからない。だけど止める方法もわからない。挙げ句の果てに鼻水まで出てくる。嗚咽も漏れる。
胸が張り裂けそうだ。
苦しくてたまらない。子どものように泣きじゃくり、右手で頬を何度も拭った。
……一晩中、星は降り続けた。
やがて夜が明けるのと同じタイミングで空は再び分厚い雲に覆われた。
気づけば少女も半魚人に戻っていた。まるい目がなんとなく寂しさを漂わせているように見えた。人間を喰ったことで人間にはならなかったようだ。
否。
もしかしたら、半魚人の願いを、流れ星が一瞬だけ叶えてくれただけなのかもしれない。
つくづく、都合よくはいかないものだ。
『また、あえる?』
「きっと」
『まってる』
俺は答えないまま半魚人に背を向けて歩き出す。
東京に戻っても不安しかないが、またこの町へ来られるように、なんとかしようという想いでいっぱいだった。
御蔵夫妻へ礼をしなければならないし、気持ちを整理できたら若女将のことも弔いたい。
それに、半魚人に、生きていることの苦しさを報告しなければいけない。
待ってろよ。
駅で切符を買う。
窓口の横に鏡があった。久しぶりに自分の顔を見たら、いくらかふっくらしていた。目の下の隈も消えていた。
しっかりと、ご飯を食べさせてもらったからだろう。
「ありがとう」
呟くと口元が綻んだ。俺にもぎこちないながら笑顔という表情はあったらしい。




