小説におけるゲーム的なレベル・ステータスの意味
まず最初に、これは小説におけるゲーム的なステータス表現が嫌いな、あまり学のない奴が学のないなりに考えたことを書き連ねているだけです。なので間違ったことを書いている可能性も大いにあるのでその点はご容赦ください。感想なので指摘をいただいた場合は基本的には本編は弄らずにそちらにて返答することになると思います。
また、この文章はあくまでゲームを題材にした作品以外においての話をしています。ゲーム世界を題材にした作品ならばゲーム的表現が使われるのは当然なので言うまでもないことかもしれませんが。
昨今、小説家になろうという場所ではゲーム世界を舞台としているわけでもないファンタジー作品なのに当然の顔をしてゲーム的なレベルやステータスといったものが出てくるようになった。しかし、そのゲーム的ステータス表現を用いている多くの作者がその意味を全く考察していないように思われる。果たして小説という媒体、ファンタジー世界においてそれぞれゲーム的ステータス表現という物はどういう意味を持つのか。それを少し考えて行きたい。
始めにゲーム的なステータス表現がなぜゲームにおいて用いられるのかからをざっくりと考えて行きたい。
といってもそんなものは一言で言ってしまえば「現実の能力や成長をゲームという媒体で表現するため」ということに尽きると思う。当たり前の話だが、ゲームという数字を設定してそれを比べることで強弱をはかり戦闘を動かす媒体においては、キャラクターの能力を数値化してその増減によって現実の成長などを表現するしかない。つまるところゲームにおいてステータスとは最初に述べた通りあくまで「ゲームという媒体における表現方法」なのである。
さて、ではそれを小説という媒体に持ち込むことにはどういう意味があるのだろうか。ここではまずは世界観などとは切り離して小説においてのステータス表現はどういう意味かを考える。
当然の話だが、小説において重要なことの一つに「読者に作者の書きたいことを分かりやすく理解させる文章」という要素がある。小説はゲームとは違い言葉で表現し理解を促す媒体であるのだから、基本的にその方法はやはり言葉を使うことになるだろう。そこにゲーム的なステータス表現を持ちこむ意味を考えるなら、当然読者の理解を促す手法という意図で用いられるはずだ。
だが実際に小説で突然レベルやステータスが出てきて読者はそれを十全に理解できるのだろうか。作者によってそれぞれのステータスの内容や意味は違うし、現実的に考えるなら人間の能力をステータスとして描く場合とてつもない情報量になるだろうそれを簡略化してしまったらむしろわかりづらくなる可能性すらある。
例えば、速さと攻撃という項目があったとしよう。ゲーム的に考えるならばこれらは独立したステータスになるし、それをならって書かれる小説でもやはり別の物として書かれるだろう。だが実際には勢いをつけて攻撃したら、そうでない時よりも攻撃力は上がるはずだ。それを突進というスキル名に固定したとしても、今度は沢山のスキルの山の説明が加わる。どちらにしても説明がややこしくなる一方で分かりやすさとは程遠いだろう。
逆に簡略化せずに厳密なステータス表記などしようものならそれだけで凄まじい情報量になり、もはや読めたものにはならないのは容易に想像が付く。
ステータスの数値化も、大雑把に桁違いの強さだということを表現するためのツールとして使うならもっと簡単なランク付けなどで事足りるし、細かい数値の違いなど読者からしたら比較が面倒でやはり分かりづらい物になるだろう。
そもそもとして、現実の人間のステータスなどという物は日々、その時々で刻々と変化している物だ。好調な日や不調な日、細かな体調の状態など、身体能力に関するステータスが変化する要素などいくらでもある。それに対してそう言った細かな変化をステータスに出す作品は見受けられない。そういう所にも作品としてのリアリティの無さがうかがえてしまうのではないだろうか。
また、レベルという概念に至ってはそもそもこれを用いる作者の多くはその意味を理解していないのではないかとすら思う。これもまた当然の話だが、レベルが上がってステータスが上昇するというのは極めてゲームならではの表現だ。先に述べた通りこれは現実をゲームという表現媒体に落とし込むうえで発生した表現なのだが、現実では「何らかの評価が上がったからレベルアップしたと評価される」ということに対して、ゲームでそれを表すために「レベルアップしたからステータスが上がった」という風なプロセスの逆転現象が発生しているのだ。これは本当にゲームだから仕方なくこうなっているだけで、現実的な現象を基本に描かれるべき小説という媒体では現実に則した表現で用いられるべきはずなのだが、なぜかゲーム的用法が当たり前のように使われている事には頭を抱えざるを得ない。
さらに付け加えるならば、そもそも小説においてそこまで詳しいキャラクターの能力説明など必要なのかも疑問だ。それぞれの得意不得意とそれがどれくらいの評価を作品内でされるか、それ以上の情報が必要だとはあまり思えない。特別得意な、あるいは苦手なこと以外は人間の能力など大体似たり寄ったりだからだ。
この項の最後に、ゲームとは違いステータスの壁がない小説の世界ではどんなに弱いキャラクターも策を弄せば強者を倒しうるかもしれないし、油断すれば強者だって弱者に敗れる。それが現実であり、また小説で描かれるべき世界のはずだ。そんな世界で数値化されたステータスに何の意味があるのか、今一度よく考え直してほしいと思う。
次は、実際に人の生きるファンタジー世界に本当にステータスがあったらどういうことが起きるかにも触れて行きたい。
恐らくだがそんな世界は酷いディストピアだろう。世界は成長することをやめ停滞を余儀なくされ滅びに向かうしか道が残されていない、そんな世界となることは容易に想像が付く。なぜならば、人は結果が分からないからこそ努力をできるからである。当たり前だが結果が分かっている事象に対して人は必要以上の努力などしない。ステータスとはこの結果をある程度具体的に予見させる指標になるものである。つまり、得意不得意がはっきりと数値としてあらわれ、物心ついた時からすでに人生は決まってしまい、それぞれの分野でみんなが同じような教育を受け同じように育ち、求められる結果以上の努力はしない。こんな世界で多様性など生まれるはずもなく、全く違う視点から起こるはずのイノベーションが起きないから世界は致命的に停滞すると思われる。
ここまでは世界規模の話だが、では個人規模ではどうなるだろうか。気が付いたときにはすでに自分の生業は決められていて自由な思想という物を持つのは非常に困難な世界になるように思われる。これは当然得意分野に則した職業を与えられ、それ以外の事を何も教わらず、その狭い世界の中で出会った人と結ばれ子を残し一生を終える、そんな人生が普通と言われる世界になると想像されるからである。この想像を聞いてそれで十分幸せだと感じる人もいるかもしれないが、恐らくこれはかなり恵まれたケースで、実際にはもっと過酷な事情になる可能性も十分にある。それはステータスがわかるが故の必然だが絶対的な実力主義世界になるということだ。同じ得意分野を持つ者同士を比べた時には絶対に優劣は付く。そして、劣等とされた者には差別が待っているかもしれないし、さらにその差別から逃れる術は完全にないのだ。他の分野に逃げることはできず、努力をして見返すというのも、そもそも同じ教育を受け同じ様な人生を辿ってきた人が自分より優れたステータスを持っているという事実を前に努力できる人間などいないだろう。なぜなら、自分が努力をして見返したとしても相手も同じ努力をすれば抜き返されることは自明の理だからだ。
ここま読んで日本で普通に学校に行き教育を受けた身からすると違和感のある話かもしれないが、日本には職業選択の自由という物があるからこその教育形態であるということを念頭に置かねばならない。その自由があるからこそ幅の広い教育を受け、広い視野を持ち、様々な視点から物事を見ることができるようになるのだから。
この項の最後には、実際に自分の人生において自分や周りの全ての人の能力が厳密に数値化された世界を想像して、それがどんな悲劇を生むかを考えてから、小説を書く作者にはこのステータス表記という手法を取っていただきたい。その考察をした後でも本当にステータスという物が見える世界が人の社会形成を阻害せず人々の幸福につながると信じることができるならばだが。
おまけとして、逆に人生を決めるほどの情報量のないステータス表記ならばどうだろうかという話をするが、恐らくこれは見向きもされず淘汰され消えて行くだろうと思う。これもまた当たり前だが、人の能力を量るのは人生における何かしらの決定の一助とするためである。それなのにその決定に関わることのできない情報など捨ておかれて当然という話である。
最後にまとめとして、小説におけるゲーム的なレベル・ステータスの意味と題してこの文章を書きましたが、全ては多くの作者が自分の使っている手法の意味を考察していないのではないかという疑問からきています。ステータスという物が作品世界に出てくる意味を理解してそれを物語に利用する人など早々見受けられません。ただ無意味に使い、その結果多くの矛盾を産み落とし結果として作品そのものをリアリティのない無意味なものにしているのではないかということを考えざるを得ません。
この場で改めて多くのなろうの作者様、そして読者様には、今では当たり前に出てくるステータスという概念の意味を考え直してほしいと願います。