スピカの僕と、アークトゥルスの君の距離
新入社員歓迎コンパを一次会終わりで抜け出して、先輩に連れてこられたのは、星がよく見える閑静な高台だった。
「私は九月上旬生まれなんで、えっと……、あの白っぽいのがスピカ、あれは覚えてますね。後は……反対側の、三つのヤツ、オリオンですよね。他には、北斗七星とか北極星とか、分かるのはそのくらいっすかね」
「あらら。本当に不勉強な天文部だったみたいだね」
「まあ、私はただ夜に家にいなくてもいい理由が欲しかっただけなんで」
会社で私の面倒を見てくれている先輩は飲み会の席でも私の隣に陣取り、コミュニケーション能力にやや難のある私の世話を焼いていた。
高校時代の部活動の話になったとき、天文部だったと話したときには大したリアクションを見せずに、周りの人達との会話の潤滑油を担っていた先輩だったが、次の店に向かうぞ、という段になって、「星が好きなら良い場所を教えてあげる」なんて言って、私だけをそこから連れ出したのだった。
ここに来るまでに、会話らしい会話はしていない。ただパンプスのヒールがアスファルトを叩く音だけが響く中でも、この人の隣だと気まずい思いをしないで済む事だけは良かったと思う。
一応、私は星に詳しいわけじゃないと言う話だけはしておいたが、先輩は別段気にしていない様子だった。
ここに到着して、先輩は道中のコンビニで買ったチューハイで私に乾杯を強要し、そして、「詳しくないって言っても、天文部だったならいくつかは知ってる星もあるでしょう? 教えてくれないかな?」と、そんな事を宣った。
私が答える事が出来たのは……、前述の通りだ。
「スピカより上の方、スピカに比べると赤っぽい、あの明るい星が、うしかい座のアークトゥルス。スピカがあなたの星なら、アークトゥルスは私の星。……まあ、母の旧姓が牛飼だったってだけの事なんだけど」
「そうっすか」
私の淡泊なリアクションには、流石の先輩も一瞬動揺を見せるが、その程度ではへこたれないのが、この先輩の良いところであり、たまにめんどくさいところでもある。
「因みに、北斗七星の取っ手の方からアークトゥルス、スピカと繋いだ曲線を、春の大曲線。アークトゥルスとスピカ、そして右の方、しし座のデネボラを頂点にした三角を、春の大三角って言います」
「ふーん」
先輩は、へこたれない。
「……そして! 一番大事な事は! アークトゥルスとスピカは、夫婦星とも呼ばれているという事です!」
なぜそれが大事なのか。それを聞いたら、めんどくさい事になるだろうか? ――私が内心でそんな事を考えていると、先輩は私の反応を待たずに続ける。
「ところで。あなたは今、恋人はいますか?」
「えぇ……? いきなり、なんです?」
思いがけない転換に、思わず反応してしまった。
「もちろん、言いたくなければ言わなくても結構。わたくし、セクハラ上司になるつもりはありませんから!」
「はぁ、別に良いですけど。……いないっすけど」
「うん、それは重畳。よろしくってよ!」
何だ? この先輩のテンションは。
「先輩、酔ってます? 大丈夫ですか?」
「……ううん。酔ってない。私強いから」
突然いつも通りに、いや、いつもより真剣な様子になった先輩に、私は緊張してしまう。
それは、高校時代、あの後輩が見せた様子に、とても似ていたから。
そして先輩は、真剣な眼差しを真っ直ぐ私に向けて、真っ直ぐな言葉を放つ。
「あの。……私は、あなたのことを好きになってしまったみたいです。私と恋人としてお付き合いして下さい」
――ああ、やっぱり。
その先輩の言葉は、やっぱりあの後輩の言葉に似ていた。
「先輩も、おとめ座なんですね。私もなんです」
梅雨の切れ間、夜、学校の屋上。私と、その後輩。二人だけの、観望会。
星座が同じというだけで無邪気に喜ぶその子は、「あの星が、おとめ座の目印です」と、スピカの事を、そしてその見つけ方を教えてくれた。
その後は、無言で星空を見上げる時間が流れる。
今思い返せば、あの子と二人きりの時も、私はリラックスしていられたような気がする。
だけど、そんな穏やかな時間を終わりにしたのは、その子の言葉だった。
「……あの!」
何かを決意したような様子、真っ直ぐで真剣な眼差し。
「私、やっぱり先輩の事が好きです。私と、付き合って下さい」
私は、その言葉の意味を心の中で吟味する。
この場合の“付き合う”はやっぱり、それは、つまり、愛の告白か。
どうしてこの子は、そんな事を言葉にしてしまえるのだろう?
女同士の恋愛なんて、普通の恋愛よりもずっと多くの障害が待ち受けているだろうことくらいは、この子も分かるだろうに。
それでも、というのは、それだけ彼女の想いが強いのか、あるいは、彼女自身の強さか。
それを、どこか羨ましいと思いつつ、美しい、とも思った。
そう思ってしまった所為か、私はそこから何も考えられないまま、彼女の頬に手を当てて、首を傾げて、顔を近づける。
唇と唇が触れ合った瞬間、自分の心が跳ねたのを感じた。
同時に、言いようのない恐ろしさに襲われた。
私は母の事が大好きで、中学生になっても母にべったりだった私を、その時の母はまだ「甘えん坊ね」と笑ってくれていた。
その母は、父の浮気が原因で私を置いて離れていった。――周りから見た事実は、そうだろう。
でもきっと、母は私からこそ離れたかったのだと思う。
父の浮気相手は、男だった。
父は元々から男色家で、母と結婚したのも、私を産んだのも、世間体を気にしての事だったと、浮気を母に問い詰められたときに語った。
母が私から距離を取るようになったのは、それからだった。
母がそうしたのは、私が母に過剰に懐くのは、私もまた同性愛者であるからだと考えたからかも知れない。もしかしたら、そうやって疑う事が、とても辛かったのかも知れない。
少なくとも、私にそのつもりは無かった。実際、後から振り返れば、母に対する気持ちが恋愛感情や劣情ではなかったとハッキリ分かる。
だけど、それから程なくして母が出て行った事は事実だし、そうなってしまったのは父が同性愛者であったからだというのが、その時の私にとっては揺るがない真実だった。
私があのとき感じた恐ろしさは、きっとそのせいだ。
同時に、いつか失うものが大切になるほど、痛みもまた大きくなるだろうことを恐れていたようにも思う。
だから私は――。
「あの、出来れば、返事をして欲しいんだけど……」
その、先輩が私に控えめに掛けた言葉に、私は我に返る。
「あぁ、すいません、ちょっと、高校時代に女の子に告白されたときの事を思い出してしまいまして」
「えっ? ……えっとぉ、ちなみにその時は、どうしたのかな……?」
「キスしましたね」
「えっ!? じゃあ、付き合ったの!?」
「いえ、ピンとこないからゴメン、って言って」
「……えぇ~? 超上げてから突き落とすとか、鬼畜の所業かよ……。で? その子は? 号泣?」
「なんでっすか……。まあ、その子は、思い出にします、って言って、帰っちゃいました」
「え!? 何その子? 天使?」
その例えは、なんだか私の中でしっくりきて、思わず笑ってしまう。
「ふふっ。ん、……確かにそうだったのかも知れないっすね」
先輩はそんな私を見て、何かを考えていたようだったけれど。
「……それで、私への返事は?」
「嫌っすね」
「……えぇ~? 即答? キスは?」
「突き落とされたいんすか?」
「それは……嫌だけど……」
そう言って落ち込んでしまう先輩の姿を見て、私は、“悪くない”と思えた。
二十歳を超えて、大学を卒業して。かつて思い悩んでいた色々な事を、少しずつ、認めて、受け入れて。
受け入れたそれは自分の中でちゃんと“過去”になって、今はちょっとずつ、そこから遠ざかる事が出来ている気がする。
だから――。
「いきなり恋人は重いので、友達からで良いっすか? まあ、その先は、先輩次第ってことで」
そう言って、先輩の手の上に、私の手をそっと添える。
先輩は目を見開いてこっちを見て、だけどすぐにニヤニヤと、それはもう嬉しそうな顔をして。
「良いよ、良いよ。受けて立とうじゃん。惚れさせてやろうじゃん!」
それはそれは嬉しそうに、宣った。
私は、私の指と指の間にねじ込もうとされる先輩の指を、指をぴったりと閉じてブロックしながら、空を見上げる。
そこに輝く夫婦星は、さっきよりちょっとだけ近付いて見えた気がした。