松賀騒動異聞 第四章
第四章
小泉さんの話は続いた。
「松賀族之助概純に関しては、父方の祖父が荒木重堅、母方の祖父が大野治長であると云われています。重堅は、織田信長の家臣で摂津の国の大名となった荒木村重の一族とも云われており、村重が信長に謀反を起こして討伐された後、羽柴秀吉に仕え、軍功を上げて、木下という姓を賜り、木下重堅とも名乗ったらしいのです。後に、二万石の大名となり、秀吉亡き後の関ヶ原では石田三成の西軍に属し、伏見城の攻撃にも加わったが、利あらず、西軍は敗れ去り、重堅は自害して果てたと云います。ただ、重堅の何番目かの息子は関ヶ原の後、母方の大野という姓を名乗り、大野市左衛門として、伏見城では守将として討ち死にをした内藤家長の孫の忠興に三百石で召し抱えられました。攻撃方の武将の息子が守備方の武将の孫に仕官をしたということになり、勝敗は時の運という歴史の皮肉を感じさせますね」
小泉さんのこの話を聞いて、私は内藤藩の藩政史料を確認してみた。
大野市左衛門という名前は二代・忠興の史料には無く、初代・政長の百石以上の家臣団の中に見出すことが出来た。
家臣団の筆頭には、二千石・家老・組頭の安藤志摩という名前があり、以下、千二百石、八百石、と続く中で、三百石・大野市左衛門という名があった。
しかし、忠興の家臣団の名簿には、大野市左衛門という名は見当たらず、二百五十石・松賀大学という名が目新しく出現するばかりである。
松賀族之助は大野市左衛門の三男であり、市左衛門が死去していたとしても、長男或いは次男が大野家を相続している筈であるが、何故か大野という名前が欠落している。
松賀族之助が全盛を極めた義概の時の家臣団にも大野という姓を持つ武士は見当たらない。
大野家は族之助が松賀という姓を名乗った時点で断絶したのであろうか。
どうも、判らない、と私は思った。
しかし、この件は後日判明した。
大野市左衛門は改姓し、二代・忠興治世では荒木市左衛門となっており、三代・義概治
世では息子の荒木弾右衛門という名前を見出すことが出来た。
「大野市左衛門の三男が族之助で、一説に依れば、幼少時から若殿であった義概に小姓として仕え、義概付きの家老として三百五十石を賜り、忠興が隠居して、五十二歳で義概が三代目藩主を相続した時に、族之助は組頭・家老に抜擢され、家臣では最高の禄、二千石を賜ったと云われています。いわゆる、三河以来の譜代の家臣でも無く、磐城平藩で新規に召し抱えられた新参者としては、本当に異例な出世を遂げ、小姓上がりの出頭人として、古参の譜代家臣からは嫉みと羨望、双方が入り混じった視線で見られたことでしょう」
そして、小泉さんは少し笑いながら言った。
「木幡さんも長い会社勤めの中で経験していることでしょうが、女の嫉妬も恐いけど、男の嫉妬も性質が悪いものですよ。特に、正論らしく、言葉を飾って人の悪口、欠点を言う人には注意しなければなりませんな。その言葉の裏には、正論めいた言葉の裏には案外、けちな嫉妬、嫉み、羨望が隠されているものですからね」
小泉さんは更に、続けて言った。
「しかし、族之助は義概の意向かどうかまでは知りませんが、結構神社仏閣への奉納寄進は熱心に行ったようです。有名なところでは、延宝七年(一六七九年)には飯野八幡宮に双鷹図という絵馬、貞享五年(一六八八年)には忠教寺の石森観音堂に鰐口を奉納寄進しています。これらの寄進も、松賀族之助悪者の立場に立つ史書に依れば、彼の野望とか大望のために寄進したとされるが、実際のところはどうでしょうか」
小泉老人の話の中に出てきた、飯野八幡宮の双鷹図絵馬は、私は実際に見ていた。
数週間ほど前となるが、国学院大学主催の飯野八幡宮宝物見学会があり、私も良い暇潰しとばかり、見学会に参加したのだ。
その時、会場で確かにこの絵馬を観た。
奉納者の名前は藤原概純であったが、これは実は松賀族之助概純であった。
実に見事なレリーフであったように記憶している。
小泉老人の話にこの絵馬が出てこようとは思わなかった。
「私はね、木幡さん。松賀族之助が本当に悪者だったとは思ってはいないんですよ。むしろ、逆で、義概に対して非常に忠実な家臣で、磐城平藩のために身を粉にして働いた忠臣ではないか、と思っているんですよ。族之助が義概と男色の関係にあったとか無かったとかは別にして、主君と小姓の関係は現代の人間には判らないほど、昔は非常に濃密な関係にあったのではないかと想像しています。まして、族之助は幼少時から小姓として義概の側に居たのですから、その主従関係は想像を遥かに越えて濃密なものであったと私は考えているのです。小さな少年の族之助が一心不乱に奉公する様子は、まるで、子犬が飼い主に戯れるように、主君の義概には見えていたのかも知れませんね。まさに、時代劇でよく言われるセリフ、族之助、愛いやつめ、といった様子だったかも知れません。それで、五十二歳で漸く藩主になれた義概は、最高権力者からのプレゼントとして、族之助を組頭・家老に抜擢し、家臣としては最高の禄高、二千石を与えたのでしょう。また、族之助も主君の恩顧に報いるべく、忠勤に努め、政務に励んだことでしょう。それは、いみじくも、内藤藩の藩政史料にも記載されています」
こう言いながら、小泉は私に藩政史料のコピーを渡した。
それは、詳細に整理された種々の藩令史料であり、族之助の名前は常に末尾にあり、藩の筆頭家老であったことが判る史料であった。
「木幡さん、あなた、専称寺を知っていますか?」
それは、聞いたことの無い寺の名前であった。
「平の人間ならば、知っている有名な寺ですよ。特に、二月末の早咲きの梅で有名なお寺です。ここに、松賀族之助夫婦の像と伝えられる一対の木像があります。実は、二年ほど前、そのお寺に行きまして、その木像を見せて貰いました。小さな古びた木像ですが、何とも言えない味がありましたね。穏やかで、人をほのぼのとさせるような感じを抱かせる木彫りの像でした。私は、その松賀族之助夫婦の木像を見ている内に、松賀族之助は多くの史書で悪しざまに描かれているような悪人では無い、という印象を持ちました。むしろ、立派な政治家ではなかったろうか、という確信にも近い印象を持ちましたね。そして、その木像が私に向って、稀代の悪者にされた恨みを晴らして欲しいと語り掛けてくるのも感じました。それ以来、私は、まあ暇に任せて、松賀族之助に関する研究調査を行っているのです」
「実を申しますと、松賀族之助に対する私の好意的な思いは、あなたもご存知の志賀伝吉さんの著書によるものなのです。あなたは、志賀さんの『元文義民傳』を読まれたとのことですが、志賀さんには『平藩小姓騒動誌』という著書もあり、その本の中に松賀族之助の功績に対する好意的見解も披露されているのです。また、福山大学の人間科学研究センター紀要の中の論文、『磐城平藩松賀騒動の研究』にも従来とは異なる立場での見解が記載されています。木幡さん、あなたも一度、お読みになられたら如何ですか」