第一匹:蚊ですやん。
寝入り端の蚊ほど、鬱陶しいものはない。
特に明日も朝が早いというのに、耳元であの甲高い羽音を聞かされると、反射的に眠気を押しのけて飛び起きてしまう。
「うぎいいいいい!!? 耳元を飛んでんじゃねぇ! わざとやってんだろ! デメエ、そっちがその気なら、こっちだってやってやろうじゃねぇか――ッ!?」
足下のシーツがずれる。
あっ、と思った時には遅かった。
立て直し困難なほどバランスを崩し、俺はベッドから床へと放り出された。
ゴキャッ。
くぐもった嫌な音が、身体を貫くように響いたのを覚えている。
そして気付いたら。
――目の前に巨大幼女がいた。
幼女とは何かを哲学的に考察したくなるそのサイズ。
そんな巨大幼女がソファーに座り、お菓子を買って貰えなかった子供のような、ふてぶてしい態度で座っていた。
俺に気付いているのかいないのか、その視線は別の方向に向けられている。
「……例えば」
ひとり言のようにポツリとそれは言う。
俺はさっきまでの状況と、目の前にいる巨大幼女を照らし合わせ、今の状況を推察し。
夢だな。
と結論付けた。
「俺に話してるのかい? 巨大なお嬢ちゃん。人と話す時はちゃんと目を見て話しなさい。あと足を組まない!」
今のご時勢色々とややこしいが、夢なら幼女を叱っても問題にはなるまい。
大人として、年上として、例え夢の中でもキチッと言ってやるべきなのだ。
「……フンッ」
巨大幼女は翡翠色の瞳をちらりとこちらに向けて、あどけない巨大な顔に嘲りの笑みを一瞬浮かべる。
その拍子で肩にかかった真っ白な髪がパサッと胸元に垂れ落ち、その髪をどこか大人びた仕草で肩にかけながら、巨大幼女は気だるげに続ける。
「神様が、……お前に力を授けてやると言ったら、どんな力を選ぶ」
「お前ってお前」
一向に態度が改善しない。
視線も明後日の方向に向けたままだ。
おしりぺんぺんでもしてやろうかと思ったが、大人げない上に夢ならばこそそう躍起になる必要もない。
仕方ないから話に乗ってあげよう。
これはきっとあれだ、異世界転生ごっこみたいなものだ。
大人な俺は、渋々ではあるが遊びに付き合ってあげることにした。
「俺吸血鬼が好きなんだよ!! ほら漫画とかで出てくる格好いい吸血鬼っているじゃん? 一回で良いから美女の血を吸ってみたかったんだよ! 血を吸ってパワーアップして、蝙蝠とか犬とか霧に変身できて、そんで不死身なやつな!!」
フッ、とまた鼻で笑われた。
きっと他人を上から見たいお年頃なんだろう。
女の子はませてるからね、仕方ないね、クソ幼女が。
やれやれと思いつつも、優しい俺はそのまま付き合ってあげる。これも大人の務めというものだろう。
だから俺は、寝る前に読んでいた吸血鬼の漫画を参考に、思いついた吸血鬼の力を熱弁した。
「――あぁ、でも弱点はいらないかなぁ。一個ぐらいあってもいいけど十字架とか出されてもうち仏教徒だし、ニンニクも好きだし、流水が苦手とか海水浴もできないし」
続いていらないものを巨大幼女に伝えてみる。
なにせ吸血鬼の弱点は多すぎるのだ。しかもどう考えても普通に生活できないレベルばかり。
どうせ選べるならないにこした事はない。
「……一個ぐらいって?」
「そうだな、やっぱり心臓に杭かな。血液を循環する臓器だから、吸血鬼には特に重要そうで弱点としてそれっぽいじゃん? さすがに心臓を貫かれたら終わりで良いんじゃないかなあ」
「そう、……わかった」
巨大幼女が足を組みかえながらやっと向き直り、わざとらしく細めた目でこちらを真っ直ぐと見つめてきた。
その目が眠そうにしか見えないのと、二度三度トライしてなんとか成功するという、あまりにも下手くそな足の組みかえ方だったので、我慢できずに言ってみる。
「ところでさ、大人っぽさを演出してるんだろうけど、足が地面に足届いてないよね?」
床に届いていない裸足の足は、終始空中でぶらぶらしていた。
それを指摘された巨大幼女は、表情をそのまま維持しつつも、無言でズリズリと尻をずらして床へと足を伸ばし……椅子から転げ落ちた。
ひうっ、と尻餅をついた痛みと驚きで声を上げ、
「――ッ!」
キッと少し涙の滲んだ瞳で俺を睨む。
八つ当たりもいいとこだ。
「いやいや、お嬢ちゃん。自分で勝手に大人っぽさを演出して、勝手に失敗して勝手に尻餅ついただけだよね。それを、人のせいにしちゃいけないよ?」
「うっさい虫けら!!」
「誰が虫けらだッ!? 人が寛容な態度で仕方なく付き合ってやってたら調子に乗りやがって!! 親を連れてこい! どうせ巨大なんだろうがよおおおッ!!」
「うっさいっ! うっさいっ! うっさぁぁぁいッ!! お前は勇者を手伝って魔王を倒すの! それが仕事なの!」
化けの皮が剥がれた巨大幼女が、駄々をこねるように床の上でじたばたと暴れる。
まったく親御さんはどういう教育をしてるんだか。
こうも癇癪を起こされては話が進まない。やはり一旦話しに乗ってやって、それから少しずつ教えてやるのがいいだろう。
「はいはい。わかったわかった。わかったから、ひとまず落ちつ――いぃッ!?」
視界がぐにゃりと歪む。
巨大幼女も顔を歪めて笑っている。
「合意したな? フフッ、全て私の計算通り。大人の女はちゃんと計算して動くのよ!」
「嘘つけよ、泣いてたじゃねぇか」
「う、嘘泣きだしッ!! 涙を武器として使うのも大人の女の特権だしッ!」
お前絶対ろくな大人にならねぇよ。
しかも泣いて駄々をこねるのは完全に子供の特権だよ。
そんな言葉を投げる前に、もはや幼女の姿すらわからないほどに視界が歪みきり、やがて別の像を結び出す。
「これは……」
ぼんやりと暗くなった視界の中で見えたのは、茶色い荒涼とした大地と、その向こうに立つ淡い白の輪郭。それは巨大な建造物のようにも見えるが、入り口や窓らしきものは見当たらない。
「なんだ、ここは」
先ほどまではどこかふわふわと漂うような感覚があったが、今は肌で空気を感じ、はっきりと大地に立っている実感がある。
一歩、また一歩と歩くと意識がよりハッキリとしていき、これが夢だとは思えなくなってくる。
しかし夢じゃなければなんなのか。
ようやくたどり着いた建造物を前にしてそう思う。
「これは、……違う。これは……コップ?」
白い建造物の側面に太いパイプのようなものが生えており、その形はまるでコップの取っ手のようである。
巨大幼女の次は巨大なコップ。
巨大なコップがあるというなら、妙に凹凸の少ないこの茶色い地面は……。
「もしかして、机か」
コップに気を取られていて気付かなかったが、しっかりと木の木目やささくれがある。
つまり、この状況は――。
「ぅ……ん……」
囁くような声が漏れ、その元を辿ってみれば毛布に包まった人の姿があった。
横たわる巨大なそれが寝返りを打ち、巨大少女の長い赤毛が身体の上を流れる。
瞬間、俺の意識が再度朦朧とし始め、唐突に甘い空気で胸が満たされていく。
巨大少女の大きくて小さな唇から漏れる息が、離れているにも関わらずたまらなく甘く、それが俺の脳を痺れさせているのだと直感的に理解した。
さらには、その首筋で水蒸気が立ち昇っているのが見え、それが蒸発する汗なのだとわかる。
どうなっているのか、という疑問はあったがあまりに弱く、甘い吐息と汗に掴まれ引っぱられるように、俺は空中を漂い巨大少女の許へと吸い寄せられた。
思考がまとまらない。ただただ、身体が求めている。
でも、何を?
それは。
「……血だ」
かろうじて残った理性が巨大幼女との会話を思い出す。
そう、血だ。俺がそれを求めたのだ。
つまり、俺は吸血鬼になったのだ。
だから美少女の首筋に噛み付き、その甘美な血を口いっぱいに含み、芳しい香りを楽しみ渇いた喉を潤したい。
そんな衝動が、身体の中心から突き上げ溢れ出す。
疑問も理性もただそれに押し流され、衝動のままに身体は動く。
「あぁ、あああああ、ダメだ。堪えられない!」
長い下唇をずらしながら、内包された針を露出させ、さあどこに刺そうと思ったところで彼女の耳近くでサーッと水の流れのような音がする。
朦朧とした意識のまま数歩歩み寄り、ふわりと身体を浮かせる。
プーンッ。
どこかで耳障りなあの羽音がした。
だがもう羽音なんて気にしている場合ではない。
俺は早くこの太い針を巨大少女の首筋に立て、甘美なるその味を全身で堪能するのだ。
ほどなく最高の場所にたどり着き、再び針を露出させ、さぁ挿入るぞと思ったところで異常を探知した。
空気の流れが変わっ――。
ぺちんっ。
その音が爆発するみたいに広がる。
身体が潰れ、四肢が折れ落ち、頭部が転がり落ちていく。
その時、俺はようやく自分の姿を目にした。
これ、蚊ですやん。
こうして俺の異世界での蚊生が幕を開け、そして下りたのだった。