高森教授と小暮さんの他愛ない日々について
「小暮くん、ちょっと良いかな」
「何ですか教授」
真面目で善良な学生に研究室の書類整理をさせて自分はのんびりパソコンに向かっているという横暴なことを平気でするのが我らが高森教授だ。
そんな教授に呼ばれ、思わず持っていたファイルでバリアを作って答えると、教授は不満げに眉を寄せた。何だねそのバリアはと眼鏡の奥の瞳が語っている。しかしバリアは解きません。
私が頑なにバリアを解こうとしないことを感じ取ったのか、教授は諦めたように溜め息を吐いた。アンニュイな感じもダンディで素敵です。
「僕はこれでも臨床医学の第一人者なんだよ。少しは尊敬したまえ」
「隙あらば教え子に変な薬を飲ませようとするような教授を尊敬するほど、素直ないい子じゃないんですよね」
いつだったかに風邪を引いた時、万能薬だとか何とか言われて訳のわからない薬を飲まされ酷い目に遭った。ただでさえ熱で弱っていたのに、身体の内側がやたらと熱くなって、ああ私このまま内蔵が破裂して死ぬのかなとさえ思った。
「変な薬とは心外だね。あれは歴とした医療薬だよ。まだ試作段階ではあるけどね」
「その試作段階の薬をおいそれと教え子に飲ませないでくださいよ……」
もし私の身体に何かあったらどうしてくれるんだ。責任とってくれるのか。お金じゃなくて結婚ですよ。KEKKON。
「でも、おかげで早く良くなっただろう?」
「……医学って結果論じゃないと思うんですよね」
確かに良くはなった。あの内蔵の破裂せんばかりの熱さに一時間程耐えたら、あっという間に熱も咳も喉の痛みも治まった。
だがしかし、だ。その一時間の苦しみと風邪の完治は果たして釣り合っているのか。私見を言わせてもらうならば否だ。あの熱は耐熱加工された人間じゃないと耐えられないぞ。
高森教授はやたらと自慢気だけれど、実際のところ実用化は夢のまた夢だろう。今のまま商品になっても私は絶対に買わない。
「――まあ良い。それより、頼んでおいた珈琲は買ってきてくれたかい?」
気を取り直したように吐息を漏らして、教授はパソコンから目を離してようやく私を見た。その目許には僅かに疲れが滲んでいる。今度の学会の準備大変そうだもんなあ。
お疲れ様ですの念を込めて買っておいたブラックの缶コーヒーを手渡すと、教授は何故か残念そうな顔をした。何だ、今度は何が不満なんだ。
「ああブラックか……微糖のはなかったの?」
「ええ、この前はブラックが良いって仰ってたじゃないですか」
「今日は糖分を摂りたい気分なんだよ。ゼミ生ならそれくらい感じ取ってくれたまえよ」
「残念ながら、私はその日の教授の気分を察知するようなセンサーは搭載しておりません」
「はは、何それ」
つんと顔をそらして告げた言葉に教授が笑った。くそ、その笑顔は反則だ。滅多に見られない教授の笑顔に嬉しくなる。休日を返上して手伝いに応じた甲斐があったというものだ。
だって、高森教授が私の言葉で笑ってくれる。そんな些細なことが愛しい程に嬉しい。
だから、こんな日々で良い。こんな日々が良い。
他愛ない毎日が、あなたにとっては記憶にすら残らないような日常が、私にとっては幸せなんです。
いつかこの恋が思い出になるとき、この日常は私にとってキラキラした宝物になると思うから。
教授が私をただの学生だとしか思っていないことは痛いくらい分かっている。だから絶対に言ってやらないけど、本当は好きですよ。高森教授。
【Fin】