秋桜の約束…1 【☆】
4話で完結します。
朝起きて、顔を洗う。お下げを作って、セーラー服の赤いネクタイを締める。
「行ってきます」
玄関の引き戸を開けると、箒でアスファルトを切る音がする。隣の坂田さんの音だ。
「おはようございます」
丁寧にお辞儀をすると、坂田さんは軽く会釈をしながら、微笑む。
「あら、おはよう。早いのね、美咲ちゃん」
木造長屋通り。玄関先のアスファルトが湿っているのは水撒きが終わっているからだろう。
美咲さんの頬が涙に濡れていた。今でも時々夢を見るのだ。それは遠い昔の話。まだ、ティアラがJRの操車場跡で、広大な空き地だった頃の。あの日、約束通りコスモスの咲き乱れるあの季節に美咲さんは一人で立っていた。
奇跡のコスモスを見ようと訪れた見物客の中。たった一人で。
かわいらしい子どもの声で「こんにちは」という呼び声が聞こえてきた。ひかりちゃんだ。
「みさきおばあちゃん、こんにちは」
ひかりちゃんは美咲さんの姿を見るともう一度頭を下げて挨拶をした。美咲さんも微笑んで軽くお辞儀をする。
「いらっしゃい。おはぎがあるけど、食べるかい?」
「ううん。ちょっと寄っただけ」
ひかりちゃんは小学生の女の子だ。学校帰りにいつもここに寄り、縁側に座って5時過ぎまで時間を潰すのが日課らしい。最近やっと会話が出来るようになってきて、意志疎通が出来るようになってきている。しかし、まだ、彼女の気持ちは硬いままだった。美咲さんは一度、学校の友達も連れておいで、と声を掛けたことがあるが、首を横に振られてしまった。
「そうかい。じゃあ、遅くならないように帰るんだよ」
美咲さんはいつものように声を掛けて、夕飯の支度にとりかかった。ひかりちゃんは納得するまで縁側に座り、小さな庭の様子を見つめ、帰っていく。
ひかりちゃんがここに来るようになったのは、夏休み明けくらいの頃だった。彼女は突然やってきたのだ。まだあの頃は半そで姿だったのに、今は長袖を着ていた。そんな彼女は何を訊いても答えなかった。名前も学校も、友達も、家の場所も。迷子ではないことだけ、ぽそりと呟いたということだけがとても印象的で、それが美咲さんの記憶に残っている。
黄色と白のボーダーのTシャツにベージュのスカート。薄桃色のランドセルがまだ新しく、太陽の光を綺麗に反射させていた。胸に付けるエンジ色の名札には『二年一組、おうさわ ひかり』と書かれていた。
近所の子どもではない。美咲さんは、『おうさわさん』たる人物に心当たりが全くないのだ。昨年までの間毎年町会長をしていた美咲さんは、隣の町会くらいまでなら自信を持って答えられるにも係わらず。
いったいどこの子なんだろう
美咲さんは夕飯の大根を切りながら考えて、自分の過去を思い出していた。ひかりちゃんのことを考えると、思い出す男の子がいるのだ。
あの日は、夏休みに入る前だった。
「じゃあ、やりたいことがあるんですけど、手伝ってください」
セーラー服の美咲は彼をすくっと見つめて言っていた。
夕飯の支度を終えて、五時過ぎ。ひかりちゃんはいつも通りいなくなっていた。美咲さんは『さようなら』の挨拶くらいして帰ればいいのに、と思いながら、縁側のガラス戸を閉めた。外にはつぼみの大きくなってきているコスモスが風に揺れていた。
ひかりちゃんを見ると思い出す男の子は大人しい子だった。あの頃はまだ携帯電話すらなかった。カラーテレビがやっと全家庭に普及されたかな、と思えるくらい。まだ黒電話が各家庭にあった時代。
あの時はどうしてあんなことしたのだろう。できたのだろう。
あの男の子はどうしたのだろう? どうして来なかったのだろう。来たくなかっただけだったのならいいのだけど。
美咲さんは遠い過去を見つめるように、そのままカーテンを引いた。
彼は、美咲さんと別の学校に通っていて、反対の電車に乗っていた。部活動もしていなかった美咲さんは彼と同じ時刻のホームに立っていることが多かったので、嫌でも目に入る存在だった。
そして、いつのまにか、美咲さんはそんな彼のことが気になって、反対ホームで彼のことを待っているようになった。
今から思えば、あれが初恋だったのかもしれない。甘酸っぱい記憶とともに思い出す淡い青春の一ページ。それなのに、封印したくて、苦しくて、もやもやする気持ちが絶えない記憶。
彼はクラスに馴染めないことを悩んでいた。あの日の夕暮れもそうだった。なかなかホームから降りてこなかった彼を心配して、もう一度改札を潜ったのだ。
そして、名前も知らない彼に呼びかけた。
「何してるんですか」
今にも飛び降りてしまいそうなほど線路をただずっと眺めていた彼は、驚きをその顔に残したまま、美咲さんに視線を移し、「なにも……」とぼそりと呟いた。
次の日もひかりちゃんはいつものようにやってきた。美咲さんもそれをいつものように迎え入れる。
「何してるの?」
今夜は炊き込みご飯にお味噌汁。準備は整えており、炊飯器のタイマーをセットさせた美咲さんは、お盆に急須、湯呑を乗せてひかりちゃんのよこにつとと座った。
ひかりちゃんは目を合わせようとはしなかったが、別段拒絶されたわけでもなさそうだった。
「今日は秋晴れのいい天気ね」
空は高く、澄んでいる。もうすぐ花開くコスモスが綺麗に映えそうな青い空だ。美咲さんは湯呑を両手で包みながら呟いた。なんだか話したい気分だった。だから、夕飯の準備も整えていたのだ。
「今日はおばあちゃんの話を聞いてもらおうかしら」
美咲さんは不器用に片目を閉じて、微笑んだ。
「これはね、おばあちゃんの内緒の話なのよ」
ひかりちゃんはこくりと頷いた。
きっと、同じ毎日に起きた変化に美咲さんは喜んでいたのだろう。
このお話は文字数を変えてエブリスタと重複投稿しています。