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梅ケ谷駅物語  作者: 瑞月風花


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6/16

桜を思う日々

季節外れとなりますが……。

 春は花弁、夏は毛虫、秋は落ち葉。冬になるとやっとなにもない。


 加寿子は高い空を見上げながら、その紅葉を見上げた。樹齢でいえば、六十七年。夏よりも高らかな青を背景に、オレンジや赤、黄色に染まる葉と、ちょうどいいくらいに太った枝は、写真で切り取ればよい絵になることだろう。そして、地面に落ち続ける落葉は、味気ないアスファルトに彩りを添え、これもまた大変よい趣を醸し出す。しかし、箒を片手にそれを追い回せば、一体いつ終わるのだろうという落胆意外の何物にもならなかった。


 全く手のかかること。


 加寿子は大きなため息をつく。舅が息子の誕生を祝して植えた前庭の桜は、いつまで経っても加寿子の手を煩わせているのだ。


 向こう三軒両隣。姑が口うるさく言っていた言葉だった。確かに黒いアスファルトの上飛び散る彩り豊かな染みは風に飛ばされ、その辺りまで広がっている。


 プラスチック箒よりも竹箒。

 七時前までに終わらせておくこと。


 とにかく、嫁いだ先は口うるさかった。それが未だに染みついているのだろう。朝五時に目を覚まし、仏壇に一番のご飯、お水を供える。手を合わせた後は、洗濯機を回す。洗濯機が回っている間に新聞を取りに玄関へ一度出て、朝食の準備をするのだ。六時には目を覚ます夫である一郎のために。


 本日はお豆腐のお味噌汁。薄目に味噌を溶かし、一人分を掬って、もう一度、味噌を溶かす。そうしている間に二階から顔を洗う水飛沫の音、階段をギシギシ言わせる音が聞こえてきて、身支度を整えた一郎が顔を覗かせ、食卓へと着く。整えられた朝食を夫が食べている間に洗濯物を干しに上がる。


 加寿子の手には竹箒、今の時間はちゃんと六時半過ぎ。アスファルトを切るような音をたてながら、竹箒は加寿子の手によって動かされている。


 一郎は濃い味の味噌汁に白いごはん、そして、納豆を食べる。お見合い結婚だったのもあるのか、加寿子の性格なのかはよく分からないのだが、加寿子はそれを嫌だとは感じなかった。加寿子の夫である一郎はそれさえ出しておけば文句も言わずに、会社へと出かけていくのだから。素材の味が、コクが、旨みがと言われるよりもずっといい。そして、定年した今でも六時には起きだしてきて、まず朝ご飯なのだ。そして、やはり整えられている新聞を読み始める。茶碗などを下げるのももちろん加寿子の仕事だった。さらに、新聞を読み終えると、暇をつぶすようにして東山公園へと散歩へと出かける。


 この習性は定年を経験してからのものだった。どこから仕入れた情報なのか、急に健康志向に変わったのだ。だったら、お味噌汁の味だって薄味にすればいいものを。


 「全くいいご身分で」とは口には出さずに、毎朝散歩に出かける一郎を見送る。紅葉した赤や黄色の小さな山を作る手は止めずに。夫の一郎は何にも気付かずに、ただ加寿子のことを口数の少ない女だと思って、裏起毛のズボンをシャカシャカいわせて歩いて行くだけだ。きっとこの桜のように彼は加寿子の気持ちを全く知らず、薄桃で空を濁らせ、紅葉で空を賑わせるだけのものなのだ。


 後始末は全部加寿子に押し付けて。


 朝食の後片付けの後、表へ出ると、必ず落ち葉が散らかっているのだ。二か月ほどの辛抱。そう思っても、毎年うんざりしてしまう。


「加寿子さん、いいこと。玄関はその人となりを表すものなの。落ち葉が茶色くなって放置されているということは、そういう家だと思われてしまうわ」


落ち葉の張本人を植えさせておきながら、姑はそんなことをじくじく言う人だった。ならば、あなたがすればいい。何度そう思ったことか。


 掃いたそばからひらりと黄色の葉が落ちてきた。自然と溜息も零れる。


「おはようございます」


腰を伸ばしたら、隣の片岡さんの息子さんに挨拶された。


「あら、おはようございます」


慌てて取り繕い、微笑みを作る加寿子は軽く頭を下げ「行ってらっしゃい」と続け、彼を見送る。彼は人好きのしそうな笑顔をみせて、「行ってきまーす」と答えた。そして、あれはあれで……と我が息子を思い出すのだ。


 一馬は嫁に取られたが、孫を見せてくれた。健二は家族を疎ましがってわざわざ遠い場所へと就職を決めてしまったが、今や加寿子の手を煩わせることはない。もちろん、寂しさはある。しかし、社会人五年目とはいえ、光君は実家の虫だ。要するに親のそばにいる。昔は健二とよく遊んでいたが、全く違う人生である。何が親孝行なのかは甚だ疑問に思われるところだ。


 加寿子は集めた落ち葉を一度塵取りへとまとめる。


 その傍をスカートを弾くようにして女子学生二人が歩いて行った。彼女達は毎朝ここを通る二人組だった。二人の制服が違うから、きっと中学時代の友達なのだろう。毎朝同じようにおしゃべりしながら、通り過ぎる二人だ。加寿子はその二人の仲良しさに目を細め、かわいらしく思う。男ばかりを育てたため、加寿子はつい女の子に憧れて、見とれてしまうのだ。女の子が生まれていたら、自分の振袖を着せてあげられたのかしら。女の子が生まれていれば、一緒にランチなんかもできていたのかしら。そして、我が青春時代を思い返すのだ。


 あの時代は毎日何故か話題に事欠かなかった。箸が転げても、とはよく言ったものだ。それは今も昔も変わらない。


「今日の天気予報の橋詰さん見た? あれ、やばいよねぇ」「水玉ってね」「しかもシャツ、薄紫」


 姦しいとも例えられる笑い声。それは、早朝の雀の囀り合いによく似ていた。


 この通りを抜けると、梅ケ谷通りへと出る。きっとそこから電車に乗るのだ。そこで別れるのだろうか。思い巡らせても、想像に確実性は出て来なかった。そして、たまには学生時代の友達に手紙でも書こうか、といつも思い、未だずっと書けていない。


「渡辺さん、いつも精が出ますね。はい、回覧板。町内会のクリスマス会の会議があるから、是非参加してくださいね」


新聞を取りに出て来た片岡さんが、ついでとばかりに回覧板を寄越してきた。朝が弱いらしいとは以前に訊いたことだ。しかし、彼女の自宅玄関先の掃除までしてやっているのに、感謝の気持ちを返されたことはない。あれでいて、ちゃんと社会で働いている。今から三〇分も経たないくらいには家の前を走っていくのだ。もちろん、帰宅だって七時前だ。専業主婦をしている加寿子にどうこう言えるものでもない。言えば、角が立つに決まっているのだ。


「ありがとう」


会議に出る気はさらさらないが、そう答えておくのが、加寿子の処世術だった。そして、感謝の意を述べられないということに腹を立てないのも、姑のおかげである。


「加寿子さん、人に感謝されるためにするのではないのですよ」


はい、確かに。あの桜を植えたのは片岡さんではありませんものね。


お陰様で、憂さは舅姑へと向けられる。だから、毎朝仏壇に手を合わせておこう、という気持ちにさえなる。


 大あくびをしながら扉の向こうへと消えて行った片岡さんを見送ると、加寿子は最後の仕上げとばかりに、落ちている落ち葉に近付き、一枚ずつ塵取りに収めていった。


「ただいま」


「あら、おかえりなさい」


シャカシャカ音に気付かなかった加寿子は、不意を突かれたように声を出したが、その表情はいつもと変わらず穏やかなものだった。


「公園前の商店街に新しい総菜屋が出来ててな」


「あら」


何かを発見すると一郎はいつもよりも少し饒舌になることを加寿子は知っていた。だから、加寿子は聞き手に回った。


「東山公園の桜がすっかり色づいているんだ。その惣菜屋のおかずでも買って、いっしょにお昼でも食べないか?」


一郎の弾んだ声から、彼が今どんな表情をしているのか、見なくても加寿子には分かっていた。


「えらく急なはなしですね」


加寿子はそう言いながら塵取りを持ち上げ、零さないように箒で入り口を押さえる。桜の紅葉が始まっていることは、ここでも十分に知ることができる。花見客でにぎわうらしい公園の桜の紅葉が思い浮かばないこともない。加寿子は視線を高い空に向けた。まだまだ葉を落としそうな枝葉が加寿子の見上げる空を遮っている。


「じゃあ、おにぎりでも作りましょうか」



 桜の葉がぎっしり詰まっているポリバケツの蓋を開けると、甘い匂いが立ち上った。


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