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トロンボーン吹きの暑い夏

「つぎは、うめがや、梅ケ谷です。JR線、地下鉄線へお乗り換えのお客さまは、ここでお降り下さい」


車内放送はまだ肉声のままだった。地下鉄は肉声ではなく音声に変わった。外国語も英語と中国語を流す。本来なら私はここで地下鉄に乗り換えて家路に着く。


 電車が完全に止まると機械的に立ち上がる。そして、扉が開き、人の流れの最後に付く。右手に持つ大きなケースが人にあたらないように気を付けないと、と人がいなくなるのを待ってから、歩き出す。電車を降りたほぼ全員が階段の中腹辺りに来た頃に、ゆっくりと階段へと差し掛かる。改札を出ると、JR『東山』のある、右手階段を下りて、さらに東山駅を横目に歩き続ける。ここまで来ただけで、既に汗だくだ。


 私が向かうのは東山公園だ。べっとりとくっつくTシャツに麦わら帽子。唯一身に付けている学校指定のプリーツスカートの下に穿いている赤色のジャージを膝丈までまくり上げている。


 必要装備だけど、暑いんだもん。


ショルダーバックにはタオルを数枚。電子メトロノームに小さく畳んだ楽譜立て。念のため洗濯ばさみも入れてある。一見、虫かご、虫取り網が似合う格好だが、その手にはそれよりもずっと重量のあるケースが握られている。ケースの中には今や戦友ともいえるトロンボーンが納まっているのだ。


 吹奏楽部に所属するまでトロンボーンという名前すら知らなかった私だったが、その楽器を見た時には、あ、あれね、という結構分かりやすい形をしたものだ。管を伸び縮みさせて音を変化させる楽器。たぶん、金管楽器においては音の出る仕組みが外見から分かるという、分かりやすい楽器。


 本当はクラリネット希望だったのだが、経験者優先ということで、未経験者の私は、去年に限り誰も希望者のいなかったトロンボーンになった。一年生の今頃は確か、こいつの掃除の仕方を教えてもらっていた。専用の長い洗濯ロープのような先にブラシ、専用の洗剤、マウスピース用の専用ブラシ。どこまでも専用の金食い虫。100均であればいいのだけど、楽器店しか売ってないし。しかし、一度買ってしまえば、三年間ちゃんと使えるのだから、今にしてはそんなに高価な物でもなかったのかもしれない。それに憎っくき金食い虫は今や可愛い相棒になってしまっている。


 楽譜の読み方は変ロ長調で。ハニホヘトイロハではなく、ロハニホヘトイロ。要するにフラットが二つの音階。Bとも呼ばれるのだけれど、とりあえず、楽譜を読む時は一つ下げる。ピアノを習っていたのもあり、慣れてくると簡単だった。1のポジションから、8のポジションまで。正確に言えば、だいたい5パターン。しかし、切り替えの付いている私のボーンの場合、2のポジションはほぼ使わない。というか、私のレベルでは使わない、だけなのかもしれない。先輩の中には切り替えなし楽器の人もいたので、ポジションの位置だけは教えてもらった。


 信号待ちをしながら、鳴き喚くセミの声が空から降ってくる。それが暑さに輪をかける。わんわんわんわん、そんな感じ。セミがこのたとえを聞いていたら、シャーシャーシャーだ、と怒りそうだが、そのセミの叫びは東山公園が近づいた証拠でもある。


 カッコウの電子音が聞こえると、私は勇んで歩み出した。


 私の学校は梅ケ谷駅よりも三つ向こうの『姫谷』になる。公立高校の姫谷と私立姫谷がある不思議な場所だ。通称『姫様』と呼ばれるのは私立の方で、姫様は夏のコンクール金賞の常連なのだ。一方公立高校姫谷はというと銀賞にやっと掴まっているという状況。あと一歩。というよりもあと数歩足りない。


 その中の私の位置は、そのあと数歩足りない吹奏楽部の接戦にも加われないかもしれない状態だった。先輩が出るのは仕方がない。しかし、今年は頭角を現してきた後輩にも抜かれるかもしれない勢いだった。今のところ、彼は補欠なのだけれど。二年生というのは世知辛いものだ。


 彼は中学の時も吹奏楽部だったらしい。だから、私が一年生の時に教わったことなど、全く必要なく、マウスピースでの音出しから始まった私と違い、彼は楽器で音を出していた。去年の五月、私はマウスピースで八段階の音を出す練習をしていた。震わせた唇をマウスピースに当てて息を吹き込む。ぶーっという音が聞こえる。そのぶーっと言う音が出た時でさえ、「でたっ! 先輩、聞きました?!」と大興奮だった。先輩だって、すごい、成長はやい!と驚いてくれたのだ。


 その後は、マウスピースでのロングトーン。少しずつ唇の形を変えて、息の限界に挑み続けた。


 しかし、彼は入部したその日から音階をベルから出していた。楽器でロングトーンをしていた。あの時の私の感動と興奮は一体なんだったのだろう。しかも、「これ出来る?」と尋ねられると、二つ返事で一緒に合奏に参加する。もし同じように「これ出来る?」と新しい楽譜を渡された私だったら、きっとこう答える。


「はい、練習します」


これが普通のはずだ。私と彼との差は結構大きい。


 だから、彼は私が苦労する高い方のドの音以降のレ、ミを軽く出している。きっと、三年生での私はセカンド止まりだけど、あの子はファーストに行くんだろう。そう思うと何だか物悲しい。楽器というものは、才能の次に練習量の差が大きいのだから。もちろん、天才という奴もいるのだろうけど、残念ながら、私はそういう者ではなかった。


 全く残念だ。


 しかし、彼も天才ではないということは分かっている。「僕も中学の時はそれによく躓きました」と言うのは皮肉なのだろうか、と首は傾げるものの、彼にもできない時期があったのだ。ということは、勝算はある。だから、練習場所を探したのだ。だから、この暑い中、歩くのだ。彼には聞かれることのない、思いっきり音の出せる場所。


 東山公園に白羽の矢を立てたのには理由があった。音楽室が使えないということともう一つ。信号を渡り切り、アーケード付きの商店街に潜る。その角にコンビニがあって、そこで冷たいお茶を買うことにしている。朝持ってきたお茶は午前の部活で既に空っぽになってしまうのだ。


「こんにちは」


ちょっとした顔見知りになったおじさんはにこりと笑うと、袋に購入したお茶と飴をしのばせてくれる。


「ありがとうございます」


いつも入れてくれるので、私ももう遠慮はせずに頂くことにしている。もちろん、飴玉のためにここでお茶を買っている訳では断じてない。


「頑張ってね」


「はいっ」


おじさんは私がメンバー落ちしないように頑張っていることを知っている。そして、教えてくれた。しかし、それは、おじさんから聞かなくても、元より知っていたことだ。だから、こうして毎日部活帰りに東山公園へと向かっているのだから。


 秘密だと思う。何と言っても姫様のことなのだ。夏休みだって寄り道は規則違反だろう。しかし、金賞常連校の姫様なんだから、私と違ってもっと競争率も高いんだろう。


 公園入口。セミの声は暑さを倍増させた。正面には定時噴水の噴水があるが、全く涼しさを感じさせない状態だった。あそこから吹き出ているのも、お湯になってるんじゃないかな、と思わせる程。なんだか、それが哀れにも思われる巨像と化した噴水。西日になろうともまだ太陽は容赦なく照りつけている。しかし、親子連れがいたり、カップルがいたり、おじいちゃん、おばあちゃんがいたり。


 人数はまばらだ。しかし、聴衆と考えればありがたい。


 そうだよね。姫様。


 後輩の彼のお姉さま。トランぺッターらしい。将来は音大に進みたいらしい。そんな奴らがいる姫谷女子高等学校、吹奏楽部二年。彼女が普通科なのか、音楽科なのかは知らない。何となく思うのは、きっと授業料の安い普通科なんだろうと。ただ、彼女の通う高等学校の上には、音楽家を育てるための大学が存在している。そんな奴の弟。睨む相手は少し違うが、きっと構わない。


 公園入口から、奥へと進むと池がある。池の周りには桜の木が植えられていて、水場と木蔭のお陰でだいぶ涼しい。しかも、結構大きい。犬の散歩をしている人が戻って来るのにも二十分はかかるくらいの大きな池だ。池の中にはフナやカメがいて、時々、カルガモが泳いでいるような池。白鳥ボートはないから、デートスポットにはなっていないが、私が帰る頃には、ウォーキングの人達が歩き出す。歩くにしても、向こう側を気にしなくてすむ距離がある。誰がいるのか認識できないくらいの大きさが私にもちょうどいい。


 だけど、私はあそこにいる奴を知っているんだ。


 私は木蔭に楽譜立てを立て、楽譜を立て掛ける。楽譜には普段使わないポジション番号が振られていて、強く吹くところには赤丸、優しく吹くところには青丸が付けられている。私の虎の巻が風で飛ばされないよう、念のため、洗濯ばさみで固定する。電子メトロノームをセットして、タオルを首に巻く。トロンボーンを組み立てると、ため息のような太い息で、管内に息を通す。私なりの準備体操の様な、癖だ。こうすると何となく、楽器と一体になった気がするのだ。セミの声が休みに入った時に、相棒のトロンボーンを肩に担ぎあげ、ロングトーンを始めた。八拍伸ばして二拍休み。ドの音からドの音まで。顎を伝う汗がぽたりと地面に落ちた。


 甲高い音が同調してくる。同じようにロングトーンだ。息を吹き込みながら、目を凝らすと、ベルの部分に反射する光を確認できた。その先を睨んだまま私はロングトーンを続けた。これが終われば、課題曲。


 よろしくお願いします。そんな言葉を心に込めて、そして、あなたの弟には負けませんからと、私はその先にある目標を睨み続ける。




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