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卵焼きの味は夢の味  【☆】

 惣菜屋のおばちゃんが死んでから、十年。

 私は毎日同じ電車に乗って、同じ駅で降りる。そして、気持ちを確かめる。それでもホームから見える景色は毎日少しずつ変わっていた。


 おばちゃんに出会ったのはもうだいぶ前のことになる。二十年以上か。私はまだ高校生で、荒れていて、学校にも行かず、家に帰らない日もあった。カラオケのオール、友達の家、あの頃はネットカフェなんてもの一般的ではなかったから、その辺の公園。

 きっと、母に知られれば女の子がそんな所で、危ないでしょう、な場所。

 そんな所で寝泊まりする。今思えば、確かに。母の心配はもちろんだ。

 しかし、そんな所の一つ。梅ケ谷駅のほど近くにある、東山公園。公園は何かと便利だった。トイレはあるし、水飲み場もあるし、鏡もあるし、ベンチもある。そんな全てを取り揃えている東山公園でおばちゃんに出会った。おばちゃんは近くの商店街で惣菜屋をしていた。

「景気悪くてね。たくさん残っちゃうんだわ」

タッパーに醤油ベースのお惣菜が詰め込まれていた。

 こんにゃくの炊きもの。きんぴらごぼう、肉のしぐれ煮。人参と大根の煮物。ひじき煮。

「食べてくれるとありがたいんだけど、どう?」

私と同じ金髪に染めた髪が、本当に『プリン』のようになっていた。その髪を一つにまとめて、つややかな頬にほうれい線をくっきりと表しながら、にこやかに。おばちゃんは私に微笑みかけた。

 お腹は減っていた。昨日からろくに食べていない。

「いらねぇよ」

と口では言っていたが、お腹がきゅるると正直な声を出す。

 おばちゃんは微笑みを崩さない。

「成長盛りだから、仕方ないね」

 おばちゃんの残り物の中で、一番好きだったのが、卵焼きだ。出し巻きではなく、甘くなくしょっぱくなくの、ほんのり出汁の効いた卵焼きがタッパーにひときわ綺麗に目立っていた。

 思わずそれに箸を伸ばしたくなるくらいに。

 手渡された割り箸を引っ張ると、相変わらずうまく割れない。箸としては問題なく、みっともない形の箸で、私はその卵焼きを一番に摘み上げた。

 一口食べると、食欲が止まらなくなった。

『成長盛り』というか、一番の過食期。太らなかったのが不思議なくらい。あっという間にタッパーの中身は空っぽになってしまっていた。

「こんなところで寝るんじゃなくて、困ったらうちにおいで」

おばちゃんは、それだけ言うと立ち上がって、「ありがとう」と立ち去っていった。

 うちにおいで、と言っておいて、どこか分からないじゃないか、と手に残され、元通り袋に片付けられている割り箸をみる。

 あぁ、そういうことね。

 行かねぇよ

毒づく相手もいないから、心の中で呟いた。


 行かねぇよ。そう心に決めた誓いが守られたのはたった五日。家に帰って風呂に入り、小使いをせびり、それでも出してくれなければ、勝手に財布から抜き取る。資金を手に入れて、同じようにあちこちを転々とする。気が向けば、学校の机で睡眠を取ることにするが、教師に何か対策を取られる前に再び逃走する。

 家から持ってきた三〇〇〇円はすぐに底をつく。かといって、家に金がある訳でもないし。

 セーラー服のポケットに手を突っ込んで歩き出す。何かが指先にあたる。ごみだ。時々忘れたごみがポケットから出て来る。よくあることだ。

 つまみ出すと、縮こまった割り箸の袋だった。

 電話番号に住所。店の名前。

 気が付けば、小銭を調べている。気が付けば、駅へ向かっている。気が付けば、梅ケ谷駅だった。

「あら、いらっしゃい」

つややかな頬が優しく盛り上がる。頭は、相変わらずプリンだ。

「来てやったよ」

「ありがとう」

穏やかに言われると、気恥ずかしい。だけど、悪いものじゃない。

 おばちゃんは嬉しそうに私を招き入れると、「残り物だけどね」と小皿に惣菜を盛り付けはじめる。腹が減っているなんて言った覚えはないが、どれだけ食いしん坊だと思われているのだろう、という疑念が深まる。しかし、それすら悪い気がしなかった。たった二度会っただけの人にどれだけ信頼しているのか、と自分でもほとほと呆れるくらいに、おばちゃんのことを信頼していた。

 通されたのは上り框すぐにある和室だった。店の部分に大きくスペースを取っているようで、居住空間はここだけのようだった。そこに小さなこげ茶色の丸いちゃぶ台。おばちゃんは店を放っておいて、私の前に小皿を並べ、急須を用意し、湯呑をおいた。お箸は、あの割り箸だった。

「お構いできないけど、ゆっくりと食べててね」

私の前には、家でもそんなに食べないだろうと思えるほどの惣菜と白いごはんが並べてあった。私は無言でそれと向き合った。相変わらず、不揃いでみっともない割り箸で。

 私が食べている間におばちゃんは惣菜の準備でもするようで、台所に向かい、いい匂いをさせていた。私はそれに構わず、黙々と食べる。美味しかった。

「これ、気に入ってたでしょう?」

再び私の前にお皿を持ってやって来たおばちゃんの手には、まだ湯気の立つひまわり色の卵焼きがあった。


 この日を境に、暇になれば店に来る、を繰り返した私。今に思えば、あんな私が、同じ店でもかなり健全な『店』に懐いたものだ、と自分を褒めてやりたい。おばちゃんの店は居心地がよく、ご飯にありつけるだけでなく、昼寝、お泊りも。もういっそここに住んだ方がいいかもしれない、と思うくらいによく店に現れてはくつろぐようになっていたのだ。

 そんな私を見ても、おばちゃんは何も言わずに店番をしながら、残り物消費を私に任せていた。

「おばちゃんも一緒に食べれば?」

そんなおばちゃんに少し申し訳なく思い始めたのもあり、確実に信頼していたのもありで、私はずうずうしくものを申していた。

「あら、お誘い? じゃあ、一緒に食べようかな」

おばちゃんはいそいそと上がり框を上り、和室にもう一枚座布団を嬉しそうに敷いた。

「なぁ、おばちゃんは、どうして私にご飯くれるの?」

向き合いながら疑問に思っていたことを、ポロリと告げると、おばちゃんはにこりと笑い、「そうね」と続けた。

「お惣菜の残り物もったいないでしょう?」

うん、前にも聞いた。それは、そうだ。もちろん、私だってずっとそう思っていたんだけど。

「でもさ、何にも言わないで、ずっと置いてくれるなんてさ、私、こんなだし」

自分の金髪を一つまみ、おばちゃんを見つめた。

「あら、私だってこんなよ」

「ま、まぁ、そうだけど」

年齢には珍しい金髪。確かに、うちの母親なんて白髪は染めているが、ちゃんと地毛色。要するに黒に染めている。

「そうだ、お礼に今度その髪きれいに染めてあげるよ」

「ありがとう」

おばちゃんは嬉しそうに、はにかんだ。きっと、プリンが恥ずかしかったのだろう。

 おばちゃんと出会ってから、何となく毎日ちゃんとご飯を食べて、風呂に入って、寝る、を繰り返していると、何となく、学校へも行くようになっていた。まぁ、高校くらいはちゃんと出ておかなければならない、という母のお小言がどこかで気になっていたのは確かだ。大学へ行く気はなかったが、将来を考えれば、中卒高校中退よりも、せめて高卒、と書きたい。そして、そんな私を見て、母が久し振りに進路について話を振ってきた。高校3年生夏。確かに遅いが、最終決断の時期かもしれない。

「かずこ、あんた進学はどうするんだ?」

母が少し男勝りなのは、私が母子家庭に育ったから。

「ちゃんと卒業はするから」

家にお金がないことも知っているし、進学は元々眼中になかった。

「お金の心配はいいんだよ。なんとでもなるさ」

なるのなら、今までのこの質素な生活を何とかして欲しかった。その頃の私は本気でそう思っていた。

「もし、興味のあることとかがあって、我慢しているのならちゃんと言いなさいよ」

「……わかった」

この頃の母はあまり詰めて言いよると良くない方向に転がるということを、学習していたようで、それ以上は何も言わずに仕事へと出かけて行ってしまった。

 しかし、お弁当が置いてあった。約一年ぶりに用意された私のお弁当箱。きっと、学校へ行き始めていることを担任からか、単なる憶測からか分からないが、知った結果なのだろうと思った。


 その頃の所持金は360円で事足りた。梅ケ谷駅までの往復料金。今はそれでは足りず、400円かかるところだが、あの頃は片道180円の一区間だった。

 自動改札に切符を通す。東山方面へと歩き出す。そこにある商店街、東山商店街にある惣菜屋。ずっと買い手待ちだった不動産。

 私はあの時の決断が間違っていなかったと思っている。

「お母さん、私、調理師になりたいかも」

母は何となく諦めたように微笑んだ。

「何となく、そう思ってた」

不思議な縁だった。母とおばちゃんが姉妹だったなんて。

「縁は切ってたの」

おばちゃんが私を身籠って、母が赤ちゃんを流産した。母は結婚していたが、おばちゃんは結婚していなかった。結果、母は私が原因で父と別れる。

「まさか、あんたの居場所をあの人から聞くなんて思ってなかったし、変に反対してあんたがもっと変な場所に行くのも怖かったし」

母がとても小さく見える。怒鳴ればいいのか、悲しめばいいのか、何だか分からない感情が私の中に巡った。あの時巡ったのは、多分、騙されていたという感情に近い。母に裏切られたというような。しかし、それをぶつけてはいけないような。

「もしかしたら、って思ってた」

私の口から出たのはそんな言葉だった。いや、おばちゃんの子どもであるなんて、露も思っていなかった。しかし、母の卵焼きとおばちゃんの卵焼きの味が同じだった。何か不思議に思ったのは確かだった。


 専門学校へ行き、調理師の免許を取って、何年か仕出し屋で働いた。おばちゃんの死を告げられた。

「どうする?」

母はあの不動産のことを言っている。髪を染めるという約束を果たした後、忙しいを理由に近づかなかった惣菜屋。

「あんたに相続」

「いいよ。それはお母さんが決めて。お母さんがいらないのなら売ればいいし。欲しかったらそれを私がちゃんと買うから」

私は母の言葉を遮った。だって、そのくらい、あの時迷惑かけてたと思うし。老後の蓄えだって必要だろうし。

「心配しなくてもね……」

母はそこで言葉を止めた。

「じゃあ、賃貸として貸してあげるわ」

はっきりと言おう。

「お母さん、私お母さんのこと好きだよ。お母さんはお母さんだし、おばちゃんは、やっぱりおばちゃんだから。あの店を引き継ぎたいけど、それだけの意志が持てなければ、きっと無理な話だったんだと思うし」

 あの時、おばちゃんに全く警戒心がなかった理由も、おばちゃんが私をすんなり家にあげた理由もよく分かった。そして、ちゃんと染め直してあげた時におばちゃんが泣いていた理由も。


 大きな文字で書かれてある『売物件』という文字の下の電話番号。携帯電話でその番号を慎重に押す。

「はい、こちら東山不動産、森脇です」

「あのぅ」

溌剌とした男性の声の後に続く、もじもじとした私の声。緊張するな、もう決めたことなんだろう?

 私は私を鼓舞する。

「東山商店街内にある、物件のことでお話があるんです」

大丈夫。だって。この後ちゃんとお墓に報告しに行くって決めたんだから。




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