ピアス
「どうしよう」
イヤリングを落としてしまった。彼氏に買ってもらったたった一つのプレゼントなのに。
エリナは慌てていた。
彼と付き合い始めたのはちょうど二年前。友達に言えば、その期間でプレゼントがたった一つだなんて信じられないということだったが、エリナはそれでも彼が好きだった。
「ごめん、もう一回歩いたとこ探してくる」
「オッケー。じゃあ、あそこで待ってるよ」
苦笑いの友達は、一杯六百円程もするコーヒーショップを指していた。
「うん、ごめん」
ここに来た時にはついていたのだ。だって、ちゃんと耳たぶを触り確認したんだもの。
今日は春物を買おう、と息巻いて、一駅向こうまで足を延ばした。エリナとアキ、サヤカは仲良し三人組で『ティアラ』にやって来た。ティアラの横にはデパート丸梅があって、最後にちょっとひやかしに行こうと思っていたのだ。それなのに、……。
雑貨屋さんを回り、それぞれが好きなお店を回り、試着して、買ったり買わなかったり。楽しかったのに、最悪だ。こんなに可愛いものをプレゼントしてくれたんだよ、とみんなに教えたかっただけなのに、最悪だ。
ピアスは学校で禁止されていると知って、イヤリングに変えてくれた彼。
エリナはそれが嬉しかったのだ。
彼は、自分の渡すピアスのためにエリナの耳に穴を開けることを強要しなかった人なのだ。
「大丈夫、変えてもらってくるから」
だから、誕生日のプレゼントは、その日に渡されなかった。年上で、何でも知っていて、どこへでも連れて行ってくれる、大人な彼。みんなは知らない、彼の優しさを。みんなは知らない、彼のカッコよさを。
彼は大学生で十六歳だったエリナにはとても大人に見えていた。年齢にすればたった四つ。だけど、大人だった。
だって、今日は楽しもうと言って、頑張ってはいるお店に簡単に入っていくんだもの。
六百円程の珈琲だって簡単に買ってきてくれる。
去年の誕生日プレゼントがなかったのは、きっと、エリナが言った言葉を覚えていたから。
「わたしね、十七って響きよりも、十八って響きの方が好きなんだ」
「ふーん、じゃあ、その十八歳は盛大にお祝いしなくちゃね」
とても優しい笑顔だった。エリナの頬も自然にほころぶような。
だから、去年の誕生日は無視されたわけではなく、カウントされなかっただけなのだ。それなのに、エリナは大切なイヤリングを落としてしまった。
彼と繋がることの出来る、大切なアイテムなのに。
大学生の彼は、とても忙しかった。大学が市外どころか県外にあるのと同時に、塾のバイトや、家庭教師までやっていた。だから、エリナが彼に会える日は限られていた。今日一緒にいる仲良しのアキは「えーっ遠距離みたい」と明らかに嫌な顔をする。もう一人のサヤカは「それぞれだしねぇ。私もそんなにしょっちゅう会いたくない派」と一応同意をしてくれる。
しかし、エリナはサヤカ派ではないのだ。どちらかといえば、アキ派。
週に一度は会いたいし、ラインだって毎日したい。既読スルーも嫌だし、未読のまま放っておかれるのはもっときつい。
「おーい。きづいてるかーっ」
本当は大きな声で叫びたい。
だけど、今はその叫び声を上げる権利すらないような気がして、心が塞ぐ。
どこにもなかった。
雑貨屋さんの食器売り場、ハンカチ売り場、それから、スマホアクセサリー売り場に手帳売り場。棚の下、床の上。
お気に入りの服屋さん。無理言って試着室。可哀そうな表情をくれる店員さんが「見つけたらおいておきますね」と励ましてくれる。
友達と一緒に入ったお店の全部。通ったところ全部。
もう、彼に合わせる顔がない。沈んだ心は氷河の下に落ち込んで、凍りついている。どうしよう……。
エリナはとぼとぼ歩くってこういうことを言うんだ、とどこか他人事でコーヒーショップへ向かう。三十分以上だ。そろそろ友達を待たせておける時間でもない。そして、先に帰ってと言えるほど、今日を悲劇にもしたくなかった。
とぼとぼとぼ。
「どうなされました?」
「えっと……」
声を掛けたわけじゃない。だけど、エリナの足はインフォメーションの前で止まっていた。綺麗にお化粧をした大人の女の人がいる。綺麗な人だ。名札には『成田』と書かれてある。
「さっきから、ずっと何か探してるでしょう?」
少し砕けた口調で彼女は声を掛け直してくれる。それがエリナの緊張なのか、なんなのか分からないぎこちなさを溶かした。彼女は、優しく微笑んでくれている。それは、エリナの凍ってしまった心を自然に溶かしてしまうような温かさがある。
「あのぅ……」
エリナの心は自然と暖かなお日さまの下へと動き出す。寒いのは、もう嫌だ。
「その……。イヤリングを片方落としてしまって、通ったところ全部探したんですけど、なくて……。それで、でも、友だちも待たせてるので……。でも」
エリナの目から思わぬ涙が溢れ出る。それでも彼女は慌てることなく、暖かい微笑みを浮かべている。まるで陽だまりのように。
「大切な物なんですね」
優しい響きがエリナの心をさらに溶かしだす。
「どうしよう」
「わかりました。清掃係に伝えておきますね。見つかったらご連絡差し上げます。だから、ね、泣かないで」
淡い黄色いハンカチ。タオル地ではなくて、ちゃんとしたハンカチがエリナに差し出される。白い花の刺繍があって、淡いオレンジの蝶がその花の傍で飛んでいる。
「そのハンカチは、連絡出来たら返してくれたらいいわ」
「あ……り・が」
言葉が喉に痞えて出てこないエリナに彼女はもう一度優しく微笑む。
「嫌な思い出にならないように、頑張って探してみるから。また遊びに来てね」
エリナはがくがくと頷いた。
*****
「おっ、やっと来た」
アキが大きく手を振っている。サヤカも微笑む。駅舎には桜が咲いていて、風に吹かれた花びらが彼女達に彩りを与える。今日は卒業式なのだ。
「卒業式に遅れたらやばいよな」
「そう? 案外面白いかもよ」
アキは心配性でサヤカはいい意味でおっとりしている。
遅れてきたエリナはその二人にいつも支えられている。そして、今は歩いていくためのお守りもある。
「ごめん。ちょっと探し物してて」
「いいよ。エリナは物を大切にするタイプだもん」
サヤカが言う。「ほら、電車」
「やばー」
三人は急いで改札をくぐる。そして、扉を開いた電車が三人を迎え入れ、過ぎ去っていく。
十八歳になった。三人とも別々の大学へ進学することになった。
祝辞を述べる校長先生の話を聞き、エリナは黄色いハンカチを手にして、涙を拭いていた。色々なことが走馬灯のように巡るのだ。そこには彼はいない。
どうしてだろう。巡るのは、アキとサヤカ。そして、あのお姉さん。
「ねぇねぇ、帰りにティアラに行かない?」
囁くエリナの声に、涙目のアキと人差し指を口に当ててにやりと笑うサヤカが頷く。エリナもにこりと頷き前を見る。在校生の歌がエリナ達の後ろから響いてくる。
あの日飲めなかった珈琲を飲みながら、たくさんおしゃべりするんだ。
そして、いつか、背伸びをしなくてもあんな珈琲くらい飲めるようになる。エリナだってちゃんと大人になるんだ。
ボブにした髪から覗くそのエリナの耳にはピアスの穴が開けられていた。