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猫は風に吹かれる


 柔らかな太陽の光が体を温める。春の光だ。カーディガン一枚でも十分に温まることのできる季節。河川敷の土手に寝そべって読んでいた文庫を胸に伏せる。風に耳をそばめると、遥か遠い音がした。


 かつては身近に感じていた音。かつては遥か遠くに感じていた音。その音に包まれながら、微睡をもたらす温かい光。生まれたての柔らかい草の上は気持ちがいい。


 日曜日の朝。パンにバターを塗って、牛乳をたっぷり入れた紅茶を淹れた。電子レンジが私を呼ぶと、甘い香りが漂う。一昨日(おとつい)『半額』と赤字で書かれた幸運の黄色いシールを見つけて買ってしまった苺のパック。金曜日はそのまま摘み、土曜日はミルク苺に蜂蜜をたらし、今朝、最後の三つを砂糖とともにレンジでチンした。


 ごろっとした簡単ジャムをバターパンの上に転がし、フォークで潰すと、一丁前に上等なジャム風に変わってしまう。


 ゆったりとしたスペシャルタイム。


 そんな朝を迎えた。


 パンを齧っていて、ふと過去を思い出した。あのまま、あの家で、あの生活を続けていたら。彼とともに何かを変える行動をとっていたとしたら。遅まきながらも子どもが持てたのだろうか。遅まきながらも幸せな結婚生活が続けられていたのだろうか。


 いやいや。それはないな。


 やっぱり同じように嫌なところは嫌で、許そうと思えば許せる。そんな関係が続いていたのだろう。そして、それをいつか絆だとか、夫婦愛だとか盟友だとかいう言葉に変えて納得させていたのだろうな。


 だけど、それも良かったのかもしれない。だって、私だって完璧じゃない。許してくれる人がいるということが力になることも大いにあるのだから。


 電車の走る音がした。規則正しく線路を刻む音。あれは梅ケ谷へ向かう私鉄電車の方だ。以前私が使っていたJRの方ではなく。JRの方にも川があった。あの川はなんて名前だったのだろう。何年もその上を通っていたというのに、覚えていない。大きな川だったのだけれど。


 こちらの河川の名前は姫川だった。河川敷には公営テニスコートがあり、子ども用遊具のアスレチック、昔ながらの滑り台がある。私の真下にはちょうど、ボール使用可の看板が立ってある金網付きの広場が広がる。


 二人サッカーをする兄弟に、キャッチボールの親子。それから、ボール投げをしている女の子たち。みんな小学生くらいに見える。


 近くに高校が二つもあるせいで平日は学生さんの声で賑やかな町。おかげで、意外と可愛らしいカフェや雑貨店なんかもある。しかし、そもそも寄り道を奨励している学校などあるものだろうか。そんな場所にはたまにのお昼くらいしか行けない私にはよく分からない。


 最近は成人年齢も引き下げられたから、意外と甘いのかな? 時々平日に休みをもらう私の耳にある学生さんの声を思い出しながら考えてみる。


 今度、大会があるんだよねぇ。

 え、そうなのっ。頑張れー

 何その他人事。

 にへへ。あ、知ってる? あいつさ……


 内緒話をしていたかと思えば大きな声できゃっきゃ言いながら歩く女の子。声変りを終えて低い声でもそもそ喋っていたと思えば、急に叫んでみる男子学生。私の頃とそんなに変わらない気もするのだけれど。


 実は、昔よりも大人だったりするのかしら?


 やっぱりよく分からない。


 しかし、日曜日はそんな学生さんの声も聞かれない。今も河川敷下にある広場でボール遊びをしている幼い兄弟の声、親の声。それから、頭の上の方からは自転車の音が聞こえてくる。


 電車が通り過ぎた後はそれらの音がまた私を包み始める。風が気持ちいい。まだ高くない青い空には千切れたような雲が流れていく。私の周りの風は心地よいのだけれど、上空の風は結構速いようだ。


 目を瞑ってしばしの微睡タイムを送ろうとした私の耳に遥か遠く遠く、救急車がサイレンを鳴らしていくのが聞こえた。現実っぽく聞こえてこない。遠くから響く音に乗せられて、耳に届く音全てが一つの物語を歌い出しているような。それぞれの生活を物語として伝えてくるような……。


 甘い音。静かな音。辛い音に大きな音。歓声や怒声。靴音に自動車の音。子どもの声に大人の声。


 すべて異界の音のように耳に届いてくる。もしかしたら、すべてが私の頭の中だけで解釈されているだけの音で、本当はなんの名前も付いていない音なのかもしれないなんて思ってしまう。


 うっとりしながら、ゆっくりと目蓋を開ける。私のお昼寝パートナーがいた。彼か彼女は、いつも私の隣で瞑想している。まだ声は聞いたことがない。この子も、もしかしたら、私が認識している以外の生き物なのかもしれない。こんな小さな体に収まっているのだけれど、実はもっと自由で崇高な。だけど、きっと私と同じように自分とは違う世界に流れる音を聞きながら、流れる物語を楽しんでいるに違いない。


「今日も平和ね」


何の気配も立てずにやってきて、私に一瞥をくれた白猫は、私の声に僅か目を細め、また真っ直ぐ先に視線を戻した。


 まっすぐ。それはとても凛々しくて、気高い瞳の色をしていた。



ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。

本日3月22日は大安です。それぞれの日常がそれぞれにとってかけがえのないお話。どうか皆さまの日常が平穏無事であり、未来が健やかでありますように。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後の一文にぐっと来ました。素敵です……丹念におだやかに日常をつむいでいって、最後に行きつく気高い瞳。平凡だったりうまくいかなかったりする日常にも、尊いものが必ず内包されているんだというこ…
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