梅ケ谷駅物語
昔、駅員さんをモデルにした映画を見たな。
空を覆う湿った綿のように重い雲を見上げて、そんなことを吾妻は思い出していた。死ぬまで駅員のしぶい役者さんが駅のホームに立っている。スクリーンの中は雪だった。
吾妻の場合、スクリーンの中は雨か曇天だろう。あの役者さんとは程遠い顔立ちではあるが、自分に置き換えることくらい許されるだろう。そんな風に考える吾妻も今月定年退職を迎えることになった。そして、この傘立てをこの東出口に出す仕事もお終いになることを心寂しく感じていたのだ。思えば、いつからこのどっちでもよい仕事をし始めていたのだろう。
この梅ケ谷駅への赴任は吾妻自ら望んでいたことだった。5年前から希望していたのだが、その希望が通ったのはつい3年前だ。理由は駅員人生初の赴任先がここだったから。
あの頃の改札口はまだ自動改札ではなくて、駅員が改札に立って、ハサミをカチカチ言わせているところもあった。あの技術が失われてしまったという現実に寂しいものを感じてしまうのは、やはり吾妻が年寄りと言われる年齢に達してしまったからだろうか。そう思うと、やはり物悲しい。傘立てを置いて、出口の外まで出ると再び曇天を見上げる。降るのだろうか。それとも、冷やかしか?
そんな言葉を何となく胸の内で呟いて腰に手をやる。
厚い雲に覆われた空はまだ水を蓄えたまま動いていない。あの頃は降るという空模様を見れば、確実に降っていたのだが、雨もこの暑さで蒸発してしまうのだろうか。吾妻はそんなことを思いながら苦笑する。
こんなことを言えば、また若い連中に笑われるのだろうな。傘立てに傘を入れて東出口に出しはじめた時も「吾妻さん、何やってるんですかぁ」と苦笑いされていたのを思い出したのだ。
だが、退職と思えば、そんなことも懐かしく思えて仕方がない。色々なことがあったな、年齢と共に緩んできている涙腺がさらに緩んでしまうのを堪える。
意外と使ってくれている人がいるんだぞ。
そう思う。
あの時の夫婦は傘一本貸しただけで何度も頭を下げてくれたんだから。
あの時のサラリーマンは次の日から挨拶してくれるようになったんだから。
それから、あのお婆ちゃんにお爺ちゃん。
わざわざお天気の日に傘を返しに来てくれたんだから。駅に用事もないのにさ。
返ってこなかった傘もあるし、寄付しますと持って来てくれた傘もある。
梅ケ谷口、中央口に比べれば、人通りの少ない東口だが、梅ケ谷口、中央口よりもここに住む人たちが通ることが多い。ここはこの辺りに住む住民にとって大切な駅の入り口なのだ。
そんなことを教えてくれたのは五年前に他界された吾妻の先輩だった。先輩はこの駅が出来た時に高卒でここの駅員の仕事を始めた。その頃、地下鉄はまだ走っておらず、出来立ての私鉄と国鉄が走る駅として、人々が溢れていたそうだ。
その時に番傘をご婦人に貸してあげたら、ものすごく喜ばれてね。その思い出がそうさせるのかもしれないのだけれどね。
そう言いながらコウモリ傘の入った傘立てを吾妻と同じここに置いた。
先輩にとっては初めて誰かから感謝された特別な日だったらしい。それから、彼は給料を貯めて、貸し出し用の番傘を一本、また一本と増やしたそうだ。それが、吾妻が入社する頃にはナイロン製のコウモリ傘に変わっていた。時代はどんどん流れ、今やコウモリ傘はなくカラフルな傘とビニールの傘だ。
その話を聞いたのは今の吾妻と同じ、彼が退職する直前だったのだ。おそらく引き継いでほしいという思いもあったのだろうが、その時の吾妻はやはり今の若い子たちと同じように笑っていただけだった。しかし、その先輩が亡くなったと聞いて、居ても立ってもいられなくなった。
それから吾妻は何度も異動願いを出した。何度も人事に掛け合った。退職までにもう一度、梅ケ谷に戻して欲しいと切に願った。上手く転ぶはずはないと思っていたが、神さまが最後に吾妻に3年という思い出に浸る時間をくれたようだ。
雨はまだ降らない。しかし、さっきから熱風が吹き始めている。どこかでは雨粒が落ち始めているのかもしれない。風向きによっては数分のちに雨。
カッコウの信号音が鳴り始めるとキャリーバックを転がす音が聞こえてきた。雨の日に通る子だ。相手は吾妻のことは知らないのだろうけど、いつも雨の日に顔を合わせる一人である。いつもは声もかけない。しかし、その手に傘を持っていないことに気付き、ふと声を掛けてしまった。
「帰り、雨だったら使ってくださいね」
俯き加減だった彼女が吾妻の声に顔を上げる。急に声を掛けられて驚いたようだ。
「あぁ、ごめんなさい。傘、返すのは何時でもいいんでね」
吾妻が微笑むと彼女は慌てて顔を下げる。「あ、ありがとうございます」
声はくぐもって聞こえにくかった。そして、そのままキャリーバックを引き摺って、おそらく『ティアラ』へ向かうのだろう。出来れば、うちの鉄道会社が経営している『丸梅』で買い物をして欲しいものなんだけどね。一介の駅員の癖に吾妻はそんなことを考える。これも年のせいか。人混みに消えていく彼女の背中を見つめながら、空を見上げた。
でも、きっと人見知りの強い子なんだろうな。
そう思っていると、雨がぽつんと吾妻の頬に落ちてきた。
「おぉ、降ってきたな」
吾妻はそう呟いて慌てて駅員室へと帰って行った。




