秋桜の約束・・・4
あの時、彼は行かなかったのではなくて、行けなかったのだ。急な父親の転勤に付き合わされる形で引っ越しすることになったのだ。梅ケ谷までは到底子ども一人で帰って来れる距離ではなかったのだし、クラスに馴染めなかった彼にとっては良い転機となったに違いない。しかし、あの約束が果たせなかったという事実も変わらない。
その上、彼はそれをすっかり忘れていたのだ。新しい学校で新しい友人を得ることができたし、クラブ活動などもした。思えば、あの経験が自分自身を強くさせていたのかもしれないが、それも思い出すこともなかった。きっと充実していたのだろうし、突然の引っ越しと新しい環境に馴染もうと必死だったことも関係している。
そんな彼が梅ケ谷へ戻って来たのは、やはり自分の意志ではなく、既に家庭を持っている息子夫婦に呼ばれたからだった。
まさか、嫁に出したものと思っていた一人息子に呼び寄せられるとは、彼も思っていなかったが、早期退職までして、こちらに戻ってきてしまったのだ。それももしかしたら、どこかで何か引っかかっていたのかもしれない。彼はまた引き寄せられるようにして、梅ケ谷駅の沿線に戻ってきてしまった。
コスモスのことを意識して思い出したのは、一歳になる孫のクリスマスプレゼントを買いに息子夫婦と丸梅までやって来た時だった。
久し振りに梅ケ谷駅に立った時は、随分景色も変わったものだと感心してしまったものだ。そして、つい、息子夫婦に昔話をしてしまったのだ。
「ここら辺りは昔操車場があってね、随分と空き地の期間が長かったんだけれどね」
そこで、初めて思い出したのだ。引っ込み思案だった彼が唯一と言っていいほど大胆な行動をしていたことを。そして、あの時、彼の腕を掴んでくれた彼女に人生を助けてもらっていたことを。
「そう、この場所だった。ここはコスモスが咲き乱れたことはあったんだろうか……」
久し振りの盛り場は老体には辛く、カフェというものに入ることになった。そして、ちょうど今は『ティアラ』と呼ばれているその場所にいた。彼は「冷コー」と言っても通じなかった店員のいるカフェで、ふと言葉を漏らしていたのだ。そして、その言葉を拾ったのが嫁の美知子さんだった。
「うちのお母さんが言ってました。ティアラが建つ前の二年間ここがコスモス畑に変わったって。それはもうみんな奇跡だなんて言ってよく見に行ってたって。だから、ティアラのマークは王冠にコスモスなんですって」
彼は声には出さなかったが、二年間、という言葉を復唱してしまった。もしかしたら、その後、彼女がもう一度……。僕を待ってくれていたのだろうか。
否定はしてみたが、その否定も根拠のないものだ。考えれば考えるほど、後悔が襲い掛かってきた。名前も知らない彼女がずっと待っていてくれたなんて、馬鹿げていると思いながらも自分の後悔が深く彼を襲うのだ。その後、引っ込み思案だった彼が取った行動はティアラのインフォメーションだった。そこで、頼み込んだのだ。本来ならそんな権限なんてないだろう案内係の子に。それなのに、彼女は事情を聞くと責任者へと繋いでくれたのだ。そして、責任者……いやティアラの創業者が連絡をくれた。
「あなただったんですね。いやぁ、これはもう奇跡ですよ」
創業者は随分と年齢が高いはずなのに、その電話口の声は彼よりもずっと溌剌としていた。そして、既に退いてしまった彼から一区画を提供されたのだ。「すみません、私の用意できる場所なんてもう知れてまして」からからと笑う声には全く嫌みがなく、彼は彼の懐の深さを知ったのだ。
それから、彼はコスモスの咲く季節になるとティアラに足を運ぶのだ。今年で十二年。罪滅ぼしのためにコスモスを植え続けている。長い間、続けたものだ。あの案内係の子ももういない。
「こんにちは。もうお帰りですか」
聞き慣れている女性の声に彼が振り返った。僅かに息を切らしているその胸の名札には『成田』と書かれてある。彼女はあの案内係の女性から彼の詳細を聞いた一人だった。
「あぁ、あなたですか。こんにちは。そろそろ帰らないと叱られるんですよ。同居のじじぃは肩身が狭いです」
空笑いの彼に彼女は「大変ですね」と微笑む。
「あと少しだけ待ってはいただけませんか?」
彼は時計を見つめて、夕日を眺める。五時だ。まぁ、帰っても暇なことには変わりない。帰ってすることと言えば、孫の宿題を見てあげるくらい。もう、ジィと遊ぼうと言ってもテレビゲームにしか興味がない。
「そうですね、もう少し夕日を見つめていてもいい季節ですからね」
成田さんは優しい微笑みを彼に向ける。
「コスモス、今年も綺麗に咲きましたね」
「えぇ、待ち人来たらずには変わりありませんけどね」
それは彼自身に対する皮肉でもある。来るとは思っていないのだ。だけど、そうしていないと彼の気が納まらない。成田さんはふと視線を遠くに投げた。
「そうでもないかもしれませんよ」
夕日の向こうを眺めた成田さんに彼は首を傾げ、視線を同じにした。
「本当に?」
視線の先に映るものを彼は信じられず、呟いた。
空を染める赤い球体。あのコスモス作戦を企てた時間と同じ太陽の向こうに、手を引かれてやって来る影がある。当然姿形は変わっている。それなのに、お互い年は取ったものだ、なんて感想を持ってしまう。その歩く仕草はあの日と変わらないように思えるのはどうしてだろう。思いも出さなかった記憶が鮮明に蘇ってくる。そして、彼女だ、なんて確信する。彼女になんて言えばいいのだろう。「ありがとう」だろうか、「ごめんなさい」だろうか。それよりも、名前を聞いた方がいいのだろうか。自己紹介だろうか。
彼は久し振りに頭をフル回転させていた。そして、自分の目が信じられないままに、その手をあげて大きく横に振っていた。
引用 「初恋」島崎藤村
冷コー 冷やし珈琲 昭和時代、主に関西地方で使われていたアイスコーヒのこと。




